ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2014年11月

2014年11月30日
於:新国立劇場(1階10列中央ブロック)

ヴェルディ「ドン・カルロ」、新国立劇場公演
指揮:ピエトロ・リッツォ
演出:マルコ・アルトゥーロ・マレッリ

フィリッポ2世:ラファウ・シヴェック
ドン・カルロ:セルジオ・エスコバル
ロドリーゴ:マルクス・ヴェルバ
エリザベッタ:セレーナ・ファルノッキア
エボリ姫:ソニア・ガナッシ
宗教裁判長:妻屋秀和
修道士:大塚博章
テバルド:山下牧子
レルマ伯爵:村上敏明
天よりの声:鵜木絵里

新国立劇場合唱団、東京フィルハーモニー交響楽団

今年3回目のドンカルロだ。2月に2期会(5幕版)、9月には演奏会形式で東京芸術劇場にて(5幕版フランス初演版)。今回は4幕版である。何度も書いているがドンカルロは4幕版のほうが好きだ。CDでも4幕版のカラヤンのものを良く聴いている。5幕版の1幕はエリザベッタとドンカルロのなりそめだけなので2幕以降を聴いていればストーリーはよくわかるので5幕版のCDを聴く場合は1幕を飛ばして2幕から聴くことにしている。

 さて、今日の演奏だが飛びぬけて素晴らしいとは云えないが、まずこの曲を聴く上での最低線はクリアしているように思った。特に3-4幕は素晴らしい。1-2幕は少々退屈。歌手たちと指揮に一部不満を感じた。
 まずドン・カルロ役。随分騒々しいドン・カルロだ。大きい声は決して悪いことではないが、過ぎたるは及ばざるがごとしで、時には騒音に近い印象を受けた。また柔らかく歌う部分は猫撫で声で気持ちが悪い。1幕冒頭のロマンツァはまずまずだったが、ロドリーゴとの2重唱、エリザベッタとの2重唱、2幕の3重唱、3幕のロドリーゴの死の場面など聴きどころが全て居心地が悪い。ちょっと残念だった。随分ブラボーがでていたのでこう云う声が好きなのかなあと思ったが、私はちょっと遠慮したい。ベルゴンツィやカレーラス、ラボー、コレルリの声を見習ってほしいものだ。
 フィリッポは立派な声だが、どうも心が今一つこもっていないようで、私はあまり感情移入できなかった。大好きな3幕の冒頭のアリアは今一つ空虚で声で押し切った感がある。ただドン・カルロより不満は少ない。
 エリザベッタは1幕のアレンベルク夫人を慰める歌ではあまり声が出切っていない印象。ドン・カルロとの2重唱も声の魅力をあまり感じなかった。しかし3幕の4重唱や4幕の「世の虚しさを知る神」、そのあとのカルロとの2重唱はここまで出し惜しみしていたように素晴らしい声と感情表現で心を打つ。
 エボリも1幕のベールの歌はエンジンがかかっていないようだったが2幕の「えせ息子さん~」で始まる3重唱、そして圧巻は3幕の「酷い運命よ~」で、今日一番の歌唱だった。たくさんブラボーをもらっていた。ヴェルディ歌いはこうでなくてはいけない。
 ロドリーゴは何か特徴がないような声だが、誠実な性格のロドリーゴを表現して、初めから安心して聴けた。宗教裁判長はもう少し声に灰汁があっても良いのではないか?9月のフランス語版の時にも妻屋が歌っていたが、あの時のほうが印象だけれども凄みがあったように思った。その他テバルドや修道士の邦人たちも安定した声で不安なし。ただ鵜木の天の声はもう少し透明感が欲しい。これではふつうのお姉さんの声だ。

 指揮のリッツォは落ち着きのない演奏で少々不満である。歌手に合わせてゆっくり演奏していると思ったら、突如駆けだすという按配。ヴェルディの劇的表現を表わそうとしているように思ったが、こういう小手先の技では困る。

 この公演は2006年の演出の再演である。舞台はおよそであるが5メートル*8メートル*1メートルの巨大な壁を何枚も組み合わせてこしらえてある。色は基本的に灰色である。それ以外はほとんど装飾と云ったものがない。3幕のフィリッポのベッドぐらいだ。だから少々殺風景で冷たく感じる。衣裳も派手さがなく地味である。基本的にはト書きに準じた演出である。いくつか気がついたところに触れて見る。ドン・カルロの持つ白いハンカチがいたるところに出てくるのが目に付く。1幕や2幕、3幕のフィリッポのアリアの時にも、このハンカチが登場する。オテロのデズデモーナのハンカチの様に嫉妬を暗示しているように思った。2幕の2場の群衆シーンではカルロが抑制された民衆の救世主の様な取扱いを受ける。エボリ姫の3幕の「酷い運命よ~」の場面ではエボリは自らの美貌を呪い顔を傷つけて血だらけになって歌う。そして興味深いのだがこの場面はト書きではエリザベッタは退場しているはずであるが、なんとエボリの横でエボリの心情の吐露を聴いている。面白い演出だと思った。たしかパッパーノ/マイヤーの演奏でも顔を傷つけて歌ったように記憶しているので、こういう演出も違和感はなかった。

2014年11月28日
於:サントリーホール(1階20列中央ブロック)

読売日本交響楽団、第576回サントリーホール名曲シリーズ
指揮:シルヴァン・カンブルラン

モーツァルト:歌劇・魔笛序曲
シューマン:交響曲第三番「ライン」
ベートーベン:交響曲第三番「英雄」

カンブルランが読響の常任指揮者になって何度か聴いているが、その都度素晴らしいとは思うのだが、それを更に突き抜けて、聴き手の(この場合私の)心を名状しがたい、何ものかが突き動かすという、そういう水準までは至っていないというもどかしさをいつも感じていた。しかし今夜の演奏はそういう名状しがたい何ものかをもった演奏だった。特にシューマンがそうだ。この曲はクーベリックやカラヤンで聴いてきたが、最近ラトルのライブ盤を聴いて、ラインとはこういう曲だったのだということを改めて感じた。この曲はドイツの深遠な大森林のなかから聴こえてくるこだまの様な音楽と云うように聞きとめていたのだが、ラトルの演奏はそれを突き破った、ラインという標題に目くらましに会わないような、純粋音楽としての凄みをもった演奏の様に感じた。今夜のカンブルランも
同系のアプローチだが、ラトルに勝るとも劣らない演奏だった。
 それはさておき、今夜の3曲は3という数字が共通らしい。シューマンとベートーベンは3番だからわかるが、モーツァルトはフリーメイソンのキイナンバーが3ということらしい。そういう意味では考えられたプログラムなのだろう。まさに名曲コンサートに相応しいプログラムだが、演奏は環をかけて素晴らしかった。どの3曲もおそらく私が聴いてきた演奏の中でも3本の指に入るのではなかろうか?

 さて、まず魔笛だが弦はビブラートをかけないためか、素晴らしくピュアである。生き生きとした音楽の進め方は当然としても、この響きはモーツァルトのこの名曲中の名曲の序曲に新しい光を当てているように感じた。これを聴いていて、クルレンティス/ムジカエテルナの演奏したフィガロの結婚を思い出した。あれも同曲演奏の手あかを感じさせないピュアな演奏だった。カンブルランでモーツァルトのオペラを聴いてみたい衝動にかられる演奏だった。

 ラインは上記のとおりだ。1楽章から音の奔流で、タイトルの持つ深遠なイメージは皆無である。音楽はすべて剥き身であり、フレッシュだ。金管は割れるように荒々しく、弦は極限までピュアだ(ノンビブラートではないが)。低弦は十分重く、ティンパニも凄みがある。4楽章も同様で、ただこの音の奔流に身を任せるばかり。しかし聴いていて体が熱くなるようなこの衝動は何か?中間の3つの楽章も皆素晴らしいが特にスケルツォの生き生きした音楽は新鮮だ。3,4楽章は宗教的な深さを感じるが、その深さは深遠というほどではない。あくまでも純粋音楽としての素晴らしさを感じさせるものだ。こう云うシューマンは嫌という人もおられるかもしれないが、私は強く共感した。

 英雄も素晴らしい。しかしシューマンと同様こういうベートーベンはお嫌いな方はおられると思う。大体昔からこの曲は1楽章は気宇壮大、2楽章は悲愴感漂う、しめやかさ。3楽章はスケルツオとトリオの対比を明確に!そして4楽章は勝利のラッパを高らかにといった演奏が演奏標準の様な気がする。しかしガーディナーやノリントンなどのピリオド奏法による演奏やシャイーのようなモダンオーケストラでも原点回帰のような演奏がでてくると、昔ながらのパターンは大いに崩れる。崇高な精神的なものよりも、ベートーベンの音楽の持つ生の音が表に出てきているような気がするのだ。私はベートーベンの仕掛けた精神的な高揚感と云うべきものが最近鼻についてきて、そういう世界から1歩離れたシャイーやノリントンの様な演奏を好むようになっている。しかし一方ではフルトヴェングラーやティーレマンのようにその仕掛けを音化した演奏にも大いに感動はするのだが! 要はかくのごとく多様化したベートーベンの演奏を楽しめば良いということである。
 カンブルランの演奏はどちらかというとシャイー型である。1楽章の噴出するような音の奔流は、素晴らしい勢いで聴き手の耳に襲いかかる。人によっては、第1主題が少々速すぎて、せせこましく感じられるかもしれないが、これがカンブルランスタイルなのだろう。私は支持する。ここでも金管の割れるような迫力は素晴らしく、この音楽の持つ根源的なパワーと魅力を掘り起こしている。2楽章は葬送と云うイメージは少し引っこんでいる。わずかに後半の部分で悲しみを感じさせる。こう云う表現はカンブルランのセンスなのだろう。3楽章はまさにスケルツォの音化である。生き生きと力強く、トリオも全くテンポを緩めないでそのまま突っ走る。割れるようなホルンもその疾走感を助長している。4楽章も素晴らしい推進力は持続している。めりはりが十分きいているので、音楽全体が彫りが深く、荘大に聴こえる。今日ほどこの聴いた音楽を文章にする虚しさを感じたことはない。
 読響の演奏も素晴らしい。カンブルランの自在に動くテンポに食らいついてゆく様は気持ちが良い。このコンビの成熟を強く感じた。金管もいつになく力が入っているが、それが決して耳をさすような嫌な音になっていないところが素晴らしい。トランペットやホルンやその他がなまで出る部分があるが、十分迫力がありながら、突出していないのが良いのだ。ただシューマンの2,4楽章やベートーベンの3楽章の一部で少々傷があったのは残念だ。いずれも緩やかな部分である。しかしシューマンの1,5楽章、ベートーベンの1,4楽章などの力感と迫力は何ものにも代えがたいものだった。
 演奏時間はシューマンは31分、ベートーベンは44分だった。


 

2014年11月25日
於:サントリーホール(2階5列中央ブロック)

バイエルン放送交響楽団、来日公演
指揮:マリス・ヤンソンス
ピアノ:クリスチャン・ツィメルマン

ブラームス:ピアノ協奏曲第一番
R・シュトラウス:交響詩・ドン・ファン
R・シュトラウス:歌劇・ばらの騎士・組曲

バイエルン放響の器としての素晴らしさをはじめて味わった演奏会だ。昨年だったかベートーベンチクルスはいま一つ共感できなかった(1,2,5番のみ)のは決してオーケストラのせいではないだろうが、音色的にもあまり本邦のオーケストラとは変わらないんではないかと云う印象だった。しかし今夜は彼我の差を強く感じた。特に静かな部分での透明感、しなやかさは素晴らしい。ブラームスの2楽章やドンファンの恋の遍歴の部分、ばらの騎士のオクタヴィアンの登場の後の静けさ、幕切れの3重唱、どれも1級品の響きである。だからといって決して力強さがないということではない。ブラームスの1楽章の冒頭のオーケストラの序奏、ドンファンの動機、ばらの騎士の冒頭やオクタヴィアンの登場の場面など胸がすくような迫力。決して超ド級重量感を感じさせはしないが、オーケストラが1つの楽器の様に鳴り響く様が素晴らしい。どの楽器も突出せず、オーケストラ全体のワンピースとしての位置を守っている。ただティンパニーが妙に威勢が良いのがちょっと気になった。特にブラームス。

 さて、ブラームスだが、これはまさにブラームスの等身大の青春の音楽である。ツィメルマンもヤンソンスも大巨匠で決して若くはないが、彼らの紡ぎだす音楽はむんむんする若さが充満するものである。最近CDでグリモーの弾くこの曲を聴いた時もそういう印象をもったが、今夜はライブだけにより一層インパクトが強い。特に2楽章は大きな感銘を受けた。前半の何ものかに身もだえするような音楽に共感し、それがやがて後半の夢を見ているような音楽に変わるこの移ろいは何とたとえたらよいだろう。ツィメルマンのピアノの透明感と一つの楽器の様なオーケストラが一体になった素晴らしい瞬間だ。しかし3楽章は若者の爆発だ。特にツィメルマンのピアノの力強さには手に汗握るよう。1楽章も素晴らしい。特に静と動の主題の対比が聴いていて非常にしっくりくる。往々にして動の部分を煽りまくる演奏にぶつかるが、今夜はそういうことがなく実にバランスが良かった。これは近年まれにみる素晴らしい同曲の演奏だった。演奏時間は49分弱。

 後半の2曲のシュトラウスはバイエルンの器を堪能する演奏だろう。ドンファンの冒頭の主題の拡がりはどうだろう。しかし素晴らしいのは恋の遍歴の静かな部分。なんと艶っぽいのだろう。それだからその後のドンファンの動機が生きる。この曲は最近はほとんど聴かなくなったが、今夜の演奏を聴いて久しぶりにCDを取り出してみようかなと云う気にさせる演奏だった。演奏時間は19分弱。
 ばらの騎士の組曲はロジンスキーによるものでシュトラウスは関係がないようだ。終わり方が少々品がないが、さわり集としては大変よくまとまった曲だ。ティーレマンのライブ演奏のCDが愛聴盤だがそれに勝るとも劣らぬ公演。こちらはライブで聴いているからかもしれないが、全体にしなやかさはヤンソンスが勝っており、このオペラの持つゴージャスさの表現ではティーレマンのほうが勝っている。ヤンソンスはオペラというよりも一つの交響組曲の様な扱いの様な印象を受けた。これはあたかもプロコフィエフの「ロメオトジュリエット」の組曲をバレエをあまり意識しないで演奏したもののように感じた。冒頭の華やかさは幾分くすんでいるが迫力満点。オクタヴィアンの登場の前後の静と動の対比は素晴らしいの一言。オックス男爵の小唄は小粋というより少々野暮ったいがオックスの雰囲気がでている。幕切れの3重唱の音楽は歌がなくともこれだけ素晴らしい。ああ歌が聴きたくなった。まあそういう印象だった。

 アンコールはシュトラウスのサロメから7つのベールの踊りを期待したが、残念ながらはずれ。
 同じシュトラウスのピツィカートポルカとリゲティのルーマニア協奏曲から4楽章だった。これは蛇足だ。終演時間は21時半、たっぷりと音楽を楽しんだ夜だった。

2014年11月22日
於:NHKホール(1階18列中央ブロック)

NHK交響楽団、第1794回定期公演
指揮:ネルロ・サンティ

ロッシーニ:どろぼうかささぎ序曲
ベルリオーズ:序曲ローマの謝肉祭
チャイコフスキー:イタリア奇想曲
レスピーギ:交響詩ローマの松

イタリアにちなんだ選曲をサンティが指揮するのだから悪かろうはずはない。特に「ローマの松」は飯森/東響のライブ以来の素晴らしい演奏だった。

 ロッシーニはいささか緩い演奏だ。ロッシーニクレッシェンドも快感を感じさせてくれない。私の後ろの席からは軽いいびきが聴こえた。
 ベルリオーズとチャイコフスキーは至極まっとうな演奏である。高校生のころから聴いている名曲中の名曲を模範的に演奏されると、ふむふむと云う感じで、素晴らしい音響の渦に巻き込まれても、何か興奮の一歩手前で埒のあかないもどかしさを感じる。ベルリオーズの中間の木管の活躍する部分は随分とのどかである。もう少しうきうきした様子が聴いてみたい。後半は幾分元気になるが、それでもとても元気な音楽には聴こえなくて、至極上品である。チャイコフスキーにも同じことが云える。両曲とも高級な演奏だと思うが、この曲はもう少しけれん味があっても良いのではなかったろうか?

 しかしレスピーギはうって変わって素晴らしい。特にカタコンベとアッピア街道は音の
パノラマである。サンティが指揮するからにはこうでなくてはいけない。カタコンベではバックステージのトランペットが寂しさの限りを尽くし、ぞくぞくするくらい美しく、素晴らしい。N響のいつになく充実した響きが、曲想を充実したものにしている。今日のN響は全く弦はうるさくなく、細身だけれどとても気持ちが良い響きであるし、金管が美しく全く刺激的に聴こえないのが良い。サンティは決して急がず、悠揚迫らず。
 アッピア街道も素晴らしい。ただバンダが舞台の左奥にいて騒々しいのは残念。これはバックステージか、2階席などから吹いてもらいたい。そうしないとローマ軍団がアッピア街道を徐々に行進して近づいて来る様が感じられない。従って前半はちょっと物足りないが、後半はまさに音のパノラマで、手に汗握るばかり。カタコンベとアッピアはまさに静と動、この対比を十分味あわせてくれた。もちろん、ボルゲーゼとジャニコロは素晴らしいが、両曲の充実ぶりにはかなわない。演奏時間は愛聴盤の小澤/ボストンや飯森盤より幾分ゆったりしていたが、全く不満のないテンポだった。
 今日のコンサートマスターはゲストで岡崎慶輔だった。かれはチューリッヒ歌劇場のコンサートマスターで、ミュンヘン国際コンクールの優勝者。まだ若い演奏かだが頼もしいことだ。
 終演時間は8時半でこれほど早く終わる定期公演も珍しい。サンティも83歳だから早く寝たかったのではなかろうか(笑い)?

2014年11月20日
於:サントリーホール(1階17列中央ブロック)

東京都交響楽団、第778回定期演奏会Bシリーズ
指揮:ポール・マクリーシュ

コープランド:アパラチアの春ー13楽器のためのバレエ(原典版)
リヒャルト・シュトラウス:13管楽器のためのセレナード
メンデルスゾーン:交響曲第五番「宗教改革」

この演奏会はもともとホグウッドが振る予定だったが、急逝されたため、急遽マクリーシュに交代になったものだ。プログラムはおそらくホグウッドの意向によったものだけに、交代指揮者は大変だったろう。
 実に風変わりな取り合わせののプログラムだ。この3人の作曲家による3作品には共通点がないように思えるが、何か狙いがあるのだろう。おそらく1曲目と3曲目は13が共通。1曲目と3曲目は宗教がらみ程度しか素人にはわかりません。指揮者の交代、プログラムの内容、そして寒い雨と3拍子揃ったせいか都響にしては随分と寂しい入りで、空席が目立った。

 アパラチアの春がバレエ音楽とは知らなかった。管弦楽に編曲したのはレコードで聴いたことはあったが、このような原典版は初体験だ。演奏時間は40分近い大曲だ。ピューリタニズムへの回帰を旨とする信仰復興運動が盛んだった地域が舞台である。舞踏家のマーサ・グラハムの委嘱による作品らしい。曲は郷愁を感じさせるメロディ、西部劇映画音楽の様な趣もあり、1944年に作曲された現代音楽とは思えないが、聴きやすいことは間違えない。都響の演奏はそういう音楽にかかわらず、実に折り目正しく(聴こえた)、あたかも古典音楽の趣の様に聴こえた。ペンシルヴァニア州の農村が舞台のバレエだからもう少し野趣があっても良いかとも思うが、こういう上品なスタイルのコープランドもユニークで良いと思った。

 シュトラウスの13管楽器のセレナードはうって変わってゴージャスな響き。彼がまだ十代の作品だが後年の交響詩を彷彿とさせる小品である。ただ聴いていてコープランドほど面白い曲ではないなあというのが率直な印象である。

 宗教改革はホグウッド校訂版第2稿による演奏である。ホグウッドも自分の校訂版の指揮をしたかっただろうし、私も聴きたかったので大変残念である。ただ日ごろ聴いているアバド/ロンドン盤とはどう違うのかは聴きこみの足りぬせいかよくわからなかった。なおオリジナルでは4楽章にセルパンという管楽器が使われていたそうだが、今夜もホグウッドの指示に従って使用されていた。これは教会で聖歌の伴奏を受け持っていた古楽器だそうだ。ただ4楽章のコントラファゴットに重ねられて吹かれるため、単独ではどう云う音なのか不明。通常はチューバで代用されるらしい。
 それはさておき、随分ときびきびした演奏。編成も大オーケストラの2/3位で、こじんまり。従ってかどうかはわからないが、4楽章のコラール主題が最後に戻ってくるところは、音楽としては大伽藍なのだが、今日聴いた演奏は随分とこじんまりした伽藍の様に聴こえた。1楽章も同様でオーケストラが屹立するようには聴こえなかった。そういう意味では物足りない。パルジファルの聖杯の動機にも使われたドレスデンアーメンの引用も何か全体に溶け込まず、とってつけたように聴こえたのはもったいない。その代わりと云っては何だけれども2楽章のスケルツオや3楽章はメンデルスゾーンの喜ばしい音楽があふれていて、これは楽しかった。この部分は自分が好きなスコットランドを聴いているようだった。ホグウッド校訂版だったがヴァイオリンなどはピリオド奏法ではないように思った。

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