ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2014年10月

2014年10月24日
於:NHKホール(1階18列中央ブロック)

NHK交響楽団・第1791回定期演奏会Cプログラム
指揮:ロジャー・ノリントン

シューベルト:交響曲第七番・未完成
シューベルト:交響曲第八番・ザ・グレート

ノリントンとN響のコンビの成熟を感じさせる公演だった。これほど透明で重厚なN響と云うのはこのホールで体験したことがない。楽器配置はいつものように最高列・高い段の上にコントラバスがならぶが、その背面には光背のように巨大な反射板が5枚吊り下げられている。おそらくこの効果だろうが、低音の分厚さはN響らしからぬものだ。未完成とグレートでは弦部の楽器の数が倍ほど違うので、曲の違いもさることながら、編成による差が大きい。未完成は弦の透明度がとても高く、ノリントンの指向するピュア・サウンドを体験できる。部分的にはまるで室内楽を聴いているように聴こえる。グレートでは最高列にトロンボーンを3本挟んで、コントラバスが8台並ぶ。ここでは未完成と異なり透明さと重厚さという相反するような、音の要素の両面を体験することができる。従って透明で重厚という矛盾する表現より思い浮かばない。音のミックスと云う面でも今夜の演奏は秀逸である。このホールはどうしても残響が少ないためか、音が混ざらない。特に金管などはそのまま生の音ですっ飛んで来るので、曲によってはうるさく感じるのであるが、今夜は全くそういうことがなく、音はマスとして聴こえるのである。これは反射板の威力で低音が強化されていることもあると思うが、ノリントンの指示もあるのではなかろうか?これだけ音が分散せず、凝縮されて、なおかつ透明で、美しい演奏は今年のオーケストラ演奏会の中でも3本の指に入るものだと思った。

 まず未完成。ノリントンによる演奏は初めてだ。1楽章は静かに始まる。まず澄明な高弦が耳に入る。木管と弦との透明感がたまらなく良い。聴いた印象はクールだがまるで青白い炎が燃え盛るような熱気も感じる。2楽章はちょっと意表を突かれた。1楽章の延長かと思いきや、ステップを踏むような浮き浮きしたように音楽が入ってくる。この楽章は崇高な印象の音楽だと思うのだが、そういうものはみじんも感じさせない。そのまま速いテンポで最後まで押し切ってしまう。中間のコラール風の主題も一陣の風のようだ。これは今まで聴いたことのない音楽だった。ただ好みとしては1楽章のスタイルのほうが好きだが!

 ザ・グレートはもうCDで何度も聴いている。このノリントン/シュトットガルトの演奏は昔からの愛聴盤のベーム/ベルリンや最近聴きだしたフルトヴェングラー/ベルリンの演奏とは対極のものだ。ベームで聴くと滔々と流れる大河のごとく、音楽が一本の流れのようにつながって聴こえるが、ノリントンだと極端に云えばプツプツ切れて聴こえる。音楽は静かに流れなくて、暴れたり、とび跳ねたりする。例えば1楽章の冒頭のホルンは、テンポも速く、まるでスタッカートのように歯切れがよい。ただ今夜の演奏はCDで聴いた印象とは少々違う。CDは2001年だからもう13年も経っているのでその間のノリントンの変化だと思う。簡単に云えばCDほど音楽は過激にとび跳ねたり、テンポも速くない。それでも演奏時間は46分強だからベーム(50分)よりも随分早い。CDの演奏時間は50分だが、これは反復を行っているためだろう。聴いた印象は今夜の演奏よりものすごく速く感じる。一方今夜の演奏の、特に1楽章と4楽章はCDよりも気分的に切迫感がなく、ゆったりと聴こえる。音楽はプツプツと切れなくて、ベームなどのように素直に流れる。これは誠にモダンオーケストラによるピリオド奏法の模範の様な演奏である。
 
 しかし一筋縄ではゆかないのがノリントン。2楽章は未完成で感じたような演奏になっている。この楽章はベームやフルトヴェングラーは音楽がゆったりと流れるが、ノリントンはまるで舞曲のように、ステップを踏んで入ってくる。テンポはかなり速くまるで違う音楽のようだ。フルトヴェングラーとは6分近くも違うのだ。アンダンテ・コン・モートという表記は未完成の2楽章と同じだが、同じような印象を与えると云うのも興味深いことだ。
 3楽章も2楽章と同じである。スケルツォは表記通りアレグロ・ヴィヴァーチェに聴こえる。この快速ぶりは心地よい。しかも中間のトリオになっても全然テンポを緩めない。しかしそうなってもこのトリオの美しさや、何とも云えない懐かしさ、せつなさを十分感じさせる。
 すでに記したように4楽章はテンポも2-3楽章ほど速くなく、堂々たるもので、この名曲の終曲に相応しい。感動的なものだった。

 

2014年10月23日
於:オーチャードホール(1階19列中央ブロック)

スロヴェニア・マリボール国立歌劇場来日公演
ヴェルディ:アイーダ

指揮:フランチェスコ・ローザ
演出:ピエール=フランチェスコ・マエストリーニ

アイ―ダ:フィオレンツァ・チェドリンス
ラダメス:レンツォ・ズーリアン
アムネリス:イレーナ・ペトコヴァ
アモナスロ:ダヴィド・マルコンデス
ランフィス:ヴァレンティン・ピヴォヴァロワ
エジプト国王:アルフォンス・コドリッチ
巫女の長:ヴァレンティナ・チュデン
使者:マルティン・スシュニク

マリボール国立歌劇場管弦楽団・合唱団・バレエ団

久しぶりのアイ―ダだ。昔は1-2幕のスペクタクルな場面が好きで、3-4幕を軽視していたが今はその逆だ。3-4幕のアイ―ダ、ラダメス、アムネリスの心情が手に取るようにわかる演奏が好きだ。特にアムネリスへの共感は大きい。
 CDではカラヤンの新旧両盤しか聴かないが、これらのCDでのアムネリスはそれぞれ素晴らしいもので、この二人の異なるスタイルでのアムネリスを聴いてしまったら後はもう聴けないほどだ。新盤はアグネス・バルツァ、旧盤はジュリエッタ・シミオナートが歌っている。前者は王女と云うより女の気持が赤裸々にでているし、後者は王女の気品を失わず、ラダメスを思う気持ちを深く歌唱につなげて、両者とも特に4幕の歌唱は胸に迫る。

 そういう観点で本公演を聴くと、がっかりだが、全体としてはそうがっかりしたものではない。決して超一流の演奏とは云えまいが、それでも聴衆を惹きつけるものはもっている。しかし、云い方は変だが、この公演を聴いていると、新国立劇場の公演の水準が相当高いということがよくわかる。最も先日のパルジファル級の公演がそう年中あるわけではないのだが!

 演出や装置は引っ越し公演だけに豪華にと云う訳にはいかない。新国立の公演に比べると質素だが、まあ原作の味は出ている。基本的に演出はト書きに近いので、まず安心して見ることができ、音楽に浸ることができる。前奏ではアイ―ダとラダメスが死んだ、地下室の遺跡を発掘する現代の人間が登場するので、読み替えと思ったが、初めだけで後はまともである。おかしかったのは、2幕のラダメスが捕虜を引き連れて出てくるところ。捕虜がアモナスロを含めて4人しかいないというのはちょっと人出不足とは云え寂しい。その他細かいところでは、ト書きと異なりオーチャードの狭い舞台をうまく使う工夫はしてある。もともとマリボール歌劇場は収容人員は1000人に満たないので、そういう意味ではうまく引っ越しできたのではなかったろうか?まあこれは推測。

 歌手だが、もともとこの公演はチェドリンスを聴きたいがために、チケットを求めたもの。彼女はもう何年前か忘れたがトロヴァトーレのレオノーラを歌った歌唱がとても印象に残っている。ムーティの録音したCDのフリットリと並んで最高のレオノーラだった。その後新国立でボエームなどを歌ったきり、ご無沙汰だった。彼女は歌も素晴らしいが、歌を含めた劇的表現が素晴らしい。だからヴェルディにはうってつけの歌手だと思う。今夜の彼女はそういう意味では傑出していた。今年いくつになったかは不明だが、やはり年齢は感じさせ、幾分苦しげなところも散見されたが、そう云う事を気にさせないほどのアイ―ダだった。やはり3幕の「私の祖国よ~」から幕切れまで息もつけないほどの歌が続く。本日最良の場面だった。チェドリンスの健在ぶりが聴けてうれしかった。

 ラダメスは輝かしい声があるわけでも、澄明な声があるわけでもないが、なぜか聴かせてしまう。「清きアイ―ダ」の後半ではちょっと息切れがしてこれは大変だなあと思っていたら、その後は不安がなく、安定した歌唱で安心して聴けた。決して超一流とは云えないが、一流の歌手だと思った。3幕のアイ―ダとの2重唱や、アモナスロが加わった終幕までの歌唱、4幕のアムネリスとのやり取りも素晴らしい。アモナスロも3幕での歌唱が耳を惹く。父として、王としての立場を歌唱に託していた。

 問題はアムネリスだろう。1-2幕では声が部分的には聴こえないところが散見された。低音がでない。高音は押し出すようで聞き苦しい。声も伸びきらないので、聴いている方が重苦しい気分にになる。まあそれがアムネリスの気分だと言われてしまえばおしまいだが、オペラとはそういうものではなかろう。アイ―ダやラダメスとの重唱になると埋没してしまい、口はぱくぱくしているが何を歌っているか聴きとれない。4幕のラダメスとのやりとりはアムネリスの最高の場面なのだが、声にむらがあり、急に大きな声を出して脅したり、かと思ったら弱音では聴きとれないような声になったりで、ちょっと残念だった。座付きの歌手らしいが、もう少し何とかならなかったろうか?

 その他、国王はふがふが声で冴えない。老人役だからか?ランフィスはまずまず。良かったのは巫女長で声量はないが、巫女にしては妙になまめかしく、エジプトの妖しげな雰囲気がでていた。

 指揮はイタリア人らしいが、あまり心地がよくない。緩急自在に付けていると云えば聞こえが良いが、何か全体に統一がとれていないように思った。おそらく、基本姿勢は、歌手たちに合わせると云うことに専念したためだと思われる。例えば1幕の「勝ちて帰れ~」など、チェドリンスに勝手に歌わせたのか、超スローで、音楽が止まっているように感じた。オーケストラは編成が小さいからか、ホールのせいか、弦などはずいぶんすっきりと聴こえた。2幕の凱旋行進曲も大人しく、盛り上がりに欠けた。繊細な部分の表現はそういう観点からすると良かったとおもう。悪口を書いたが「勝ちて帰れ~」などは美しかった。なお演奏時間は148分。

 今回のマリボールの引っ越し公演は、このアイ―ダ1曲で全国を回るという試みのようだ。大体引っ越し公演だと2つくらいの演目を用意しているのだが、そういう意味では珍しい。10/17から11/5にかけて18公演をするという。東京都以外では10都市をまわるという精力的なもの。ほぼ毎日の公演だから歌手は何セットも用意している。例えばアイ―ダは4人、ラダメスも4人と云う具合だ。

 しかしオーチャードホールはどうもオペラには合わないような気がする。ピットからの音が上に抜けるが、天井がめちゃくちゃ高いため、音が拡散してしまい、ばらばらに聴こえる。私の席はそう悪い席ではないのだがそれでもそうだ。まあ某放送局のホールよりましだ。ホールのスタッフも音楽が始まっているのにお客を誘導したりして、ちょっとどうかと思う。〆

2014年10月19日
於:新国立劇場(1階12列中央ブロック)

新国立劇場公演・モーツァルト「ドンジョバンニ」

指揮:ラルフ・ヴァイケルト
演出:グリシャ・アサガロフ

ドン・ジョバンニ:アドリアン・エレート
騎士長:妻屋秀和
レポレッロ:マルコ・ヴィンコ
ドンナ・アンナ:カルメラ・レミージョ
ドン・オッターヴィオ:パオロ・ファナーレ
ドンナ・エルヴィーラ:アガ・ミコライ
マゼット:町 英和
ツェルリーナ:鷲尾麻衣
合唱:新国立劇場合唱団
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団
チェンバロ:石野真穂

アサガロフ演出のこの作品は、今回で3度目の公演となる。3度とも聴いているが、前回の2012/22の公演のほうが印象が強い。その前の2008年となると少々印象が薄れうろ覚えで、云々云う自信がないが。前回の公演はドン・ジョバンニのクヴィエチェンとドンナ・アンナのアガ・ミコライが一級品の名唱を聴かせてくれて、やはりオペラは歌が良くなくっちゃと改めて感じた公演だった。それに比べると今回は何かしっくりこない公演だった。
 みんなそこそこ歌っているが前回の様な心にずしりと来る歌唱ではなかったように感じた。1幕では少々眠気が襲ってきたくらいだ。まずドン・ジョバンニ役だが、ドン・ジョバンニの一面しか歌えてないような気がした。つまり女たらしのいわゆるドンファンという側面だ。そういう面では立派に歌えていると思う。しかし彼はドンナアンナをレイプししかも殺人まで行う相当な悪だ。しかも貴族なのだ。そういう複雑な人間と云う面での表現が物足りない。だからなにかチンピラヤクザの様な印象で、単調である。レポレッロは立派すぎるくらいだ。演技がうまく面白かったが、ドン・ジョバンニをやった方が良いと思うくらい押し出しが強かった。ドン・オッターヴィオ役はサイトウキネン音楽祭でフェントンを歌っていた。テレビで放映されたので聴いたがなかなか立派な歌唱で、今日のオッターヴィオの持ち歌2曲も丁寧に歌っていて良かった。ちょっと丁寧過ぎてしつこく感じたけれど! それは指揮者の責任かもしれない。話はそれるがサイトウキネンのファルスタッフはファヴィオ・ルイジの指揮が素晴らしく、特に1,2幕の生き生きとした音楽は今まで聴いたファルスタッフで最高の演奏だった。これは余談。
 話を戻す。ドンナ・アンナとドンナ・エルヴィーラはミスキャストだと思う。私はドンナ・アンナはアガ・ミコライが歌うべきだったと思う。レミージョは声が細みで繊細、こんなお嬢様にはドンナ・アンナの父親の仇を討てるようにはとても思えない。ここはアガ・ミコライの声のほうが、ドンナ・アンナのキャラクターにぴったりの様な気がする。逆にドンナ・エルヴィーラは捨てられても未練が断てない、可哀想な女性だ。この役こそレミージョの声にぴったりではなかったろうか?今日の公演はキャスティングに最後まで納得がいかない、公演だった。2012年の公演のアガ・ミコライのドンナ・アンナが忘れられない。あの時のドンナ・エルヴィーラはニコル・キャンベルが歌ったが、彼女はレミージョの様な声で、その時の組み合わせは実にぴったりだった。なぜ今回ミコライに歌わせなかったのか、不思議でならない。参考までに2008年はミコライはドンナ・エルヴィーラを歌っていた。日本勢は皆優秀。特にツェルリーナの鷲尾はコケットさには欠けるものの、生硬な歌いっぷりが、おぼこい娘を表現しているようでとても良かった。妻屋は先日の東京芸術劇場のドン・カルロでの宗教審問官役が素晴らしく、今日も期待したが、ちょっといつものようにまともな歌唱で面白くなかった。

 指揮はオーストリア出身のワイケルト。堅実な指揮ぶりは安心して聴けるという良さはあるけれども、昨今の刺激的なモーツァルトの演奏に比べると終始安全運転で面白くなかった。こういう演奏が良いという人もおられるだろうが、私はもう少し冒険してもらいたいなと思う。テンポも遅く、序曲からしてドラマを感じさせない。また歌でもオッターヴィオの2曲のアリア(特にアリア21番)のように停滞感を感じさせるような部分もあった。ドンナ・アンナやドンナ・エルヴィーラのアリア(21-bや23番など)でも大人しく歌手に音楽を付け、自分が主導するというようには聴こえなかった。演奏時間は180分。東フィルもいつもどおりだがライブならではのミスも散見された。

 演出は前回も少しふれたが、舞台をヴェネチアに移したという点がト書きと異なる。しかし新国立の「コジファントゥッテ」のミキエレットのようなどぎつい読み替えは全くなかった。わずかに1幕のエルヴィーラの登場シーンで大きな女性の操り人形が登場、それが最後の地獄落ちの後の大団円では破壊されて横たわるといった趣向が、おやっと云うくらいであとは納得。安心して見ていられる舞台だ。それだけに歌手たちの腕の見せ所の公演であるべきだったろう。

2014年10月17日
於:サントリーホール(1階20列中央ブロック)

読売日本交響楽団・第575回サントリーホール名曲シリーズ
指揮:ペトル・ヴロンスキー

スーク:弦楽のためのセレナード
マーラー:交響曲第一番「巨人」

ヴロンスキーは最近読響の常連になっているが、国際的にはあまり知られていないのではないかと思われる。、経歴を見るとブザンソンやカラヤンコンクールで優勝しているので、ちょっと意外な気がする。おそらくチェコが活躍の中心になっているからだろう。演奏ぶりは何回か聴いているが決して凡庸ではなくオリジナリティのあるものである。今夜はマーラーでそれを感じた。

 スークは初めて聴く曲だ。18歳の時の作品でドヴォルザークのすすめで書いたそうである。マーラーの編成から金管、木管、打楽器を除いた、フルの弦楽合奏で、壮麗である。音楽は民謡風の1楽章、舞曲風の2楽章、憂愁を感じさせる3楽章、壮麗な4楽章である。チェコの素朴な雰囲気がでた作品だと思う。ヴロンスキーのご当地ソングだけあって、手慣れたもの、ところどころ陰影が濃いところが彼らしく、特に3楽章」のアダージョは心にしみる美しさ。

 マーラーは一言で云うとボヘミアと云うか、洗練の対極にあるような、田舎臭い演奏である。誠にユニークなもので、ああこういうやり方もあるんだなあ、マーラーのこの曲の懐の深さを感じる。1楽章の序奏からなにか木管や金管がモゴモゴ云っている。金管がわざとやっているのだろうか、田舎のオーケストラみたいに野暮ったい。楽譜通り吹いているのだろうけれども、何時も聴いている音ではないように聴こえる。舞台裏のトランペットも外しているんじゃないかと思わせる音。ホルンも何かふがふがと冴えないというよりちょっと良く云えばのんびりとした演奏だ。主部に入って元気がでてくるが、今度はぶんちゃかぶんちゃかといった、田舎の楽団のように聴こえる。ホーネック/ピッツバーグの懐かしさを更にぐっと土臭くしたように思った。ただ聴いていて決して嫌な演奏ではなく、次はどうなるのかと楽しみになる。
 2楽章も同じでスケルツオと中間の民謡風の主題との対比がわざとらしく、これも野暮ったいが、これだけ徹底してやれば云うことはない。オーケストラも楽しそうにやっている(?)
 3楽章は冒頭から幻想的で、木管のちょっとおどけたような行進曲は、印象的。レントラーは勢いが良くまさにボヘミアの土臭さが一杯である。中間の歌曲の引用はすこぶる美しく入念である。深刻さは皆無の演奏である。
 4楽章はちょっと印象が違う。案外と端正なのである。金管もスマート。今年聴いたフィラデルフィア/セガンのような若さの爆発と嵐の様な音楽とは少々違って、無暗にオーケストラを煽らない。例えばコーダの部分は大体はテンポをあげ大伽藍の様な音楽になるが、ヴロンスキーはそこでぐっとギアを落とすのである。印象としては一般受けはしないが、堂々たる終わり方だ。意表突かれた4楽章である。もっとどんちゃかどんちゃかやると思ったのだが!
確かマーラーの五番の4楽章もこんな印象だったように思う。聴き手もちょっとすかされたのか拍手のタイミングを失ったようで、ぱらぱらと拍手があって、一呼吸の後、盛大な拍手といった終わり方になった。とても面白いマーラーだった。

 読響も熱演ではあったが、好みからするともう少し低弦に分厚さがあるとこの演奏スタイルにあったのではないだろうか?例えば先日聴いたマリインスキーの大げさなくらいごりごりくるような低音が欲しい。まあ日本のオーケストラは大体この低弦の重厚感と云うか、分厚さの部分が淡白なものが多い。ここらへんが一流から超一流への境目だろう。

2014年10月15日
於:東京オペラシティコンサートホール(1階11列中央ブロック)

ラ・ヴェネクシアーナ来日公演
クラウディオ・モンテヴェルディ「ポッペーアの戴冠」
演奏会形式、ナポリ稿(カヴィーナ監修)

指揮・音楽監督:クラウディオ・カヴィーナ
ポッペーア:ロベルタ・マメリ
ネローネ:マルゲリータ・ロトンディ(メゾ・ソプラノ)
オットーネ/セネカの友人:ラファエレ・ピ(カウンター・テナー)
オッターヴィア:セニア・マイアー
セーネカ:ソルヴォ・ヴィターレ
アルナルタ:アルベルト・アレグレッツァ(テノール)
ドルシッラ/美徳:フランチェスカ・カッシナーリ
ヴァレット/幸運:アレッサンドラ・ガルディーニ
愛/侍女:フランチェスカ・ボンコバーニ
兵士1/ルカーノ/解放奴隷/セネカの友人:ラファエル・ジョルダーノ
メルクーリオ/警吏/セーネカの友人:マウロ・ボルジョーニ

ポッペーアの戴冠はライブでは初めてである。というよりこのようなバロック・オペラを聴いたのが初体験である。当然のことながら事前にCDで何度か聴いてみた。(カヴィーナ指揮、ラヴェクシアーナ、2009年セッティング録音)なかなか骨であり、面白さはよくわからないまま会場に臨んだ。しかしこの公演の素晴らしさ、それはおそらく今年私が聴いたいろいろな音楽体験で、5本の指に入るものだ。CDでは何か遺物を聴いているような妙な違和感を感じたが、今夜の公演では出演者全員がまさに生身の人間であることを感じさせる歌唱で、まさに現代に生きるモンテヴェルディだと思った。

 もう一つ付け加えるとCDと本公演では同じラ・ヴェクシアーナの演奏だけれでも、演奏者や楽器編成、そして歌手が大幅に異なっていて、別物と思ってよい。歌手で変わらないのはマメリだが彼女はCDではネローネを歌っている。その他ではオッターヴィアとドルシッラがCDと同じである。楽器編成だが、まずヴァイオリンがCDでは3丁から2丁へ、ヴィオラは変わらず1丁、演奏者はCDと同じ演奏者。チェロは1丁で日本人の懸田が弾いている、CDと同じ。コントラバス(1丁)もCDと同じ演奏者。アーチリュートもCDと同じ演奏者。ハープは1台。大きく違うのはチェンバロがCDでは2台だが本公演では1台で、カヴィーナが弾いている。カヴィーナは中央、聴衆に背中を向けて弾いている。またCDではテオルボというバロックギターが3台加わっている。こういう全体の編成だから聴いた印象はライブとCDとの違いをさっぴいてもかなり違うと思う。本公演のほうが編成が小さいせいか、音楽が全て敏捷できびきびしている。テンポの動きも激しいが、それがこの演奏の隠し味になっていて小気味が良い。カヴィーナの指揮するラ・ヴェクシアーナと歌手たちの作りだす音楽の生き生きしたさまがCDとの最も違うところだろう。

 8人の演奏者たちは舞台前面に立ち、後方には歌手たちが待機して、自分の出番の時に演奏者の前に出て、譜面台を前にして歌う。演奏会形式だが、衣裳はまちまち、ドレスを着ている歌手(マメリ)もいれば、普段着のような(アルナルタ)服や背広を着てネクタイを締めているピの様な歌手もいる。演奏会の前には大体ホール側から地震の時の注意やらなんやら放送があるが、本公演では開演時間がすぎて間もなく、急に舞台がうす暗くなったと思ったら、演奏者が登場し、演奏を始める。バイロイトでもこうだったが、こういうのは聴衆を大人扱いしているなあと感心してしまった。もちろん休憩後も同じである。実にスマートでかっこいい。

 1幕のシンフォニアが鳴った瞬間、もうホールは別世界である。オペラシティは残響が比較的大きいホールで、この小編成の楽団でも全く問題がなく、実にふんわりした音で誠に素晴らしい。カヴィーナのチェンバロが全体をコントロールするが、各楽器がそれぞれ生き生きしており、自由に飛翔する感じだ。特にチェンバロの左右に位置するハープとアーチリュートの響きが素晴らしい。シンフォニアや歌の前後のリトルネルロがすべて生き生きとして、全て心地が良い。

 歌手たちもすべて素晴らしいが、なかでもマメリのポッペーアとロトンディのネローネが印象深い。この女性が男女の役を歌うと云うのは、何とも艶めかしいというか、一種独特の官能的な雰囲気を醸し出す。特に3幕の第五場の「もう煩わしいことに邪魔されて~」の2重唱や最終場の「ずっとあなたを見つめ~」の2重唱のマメリの声の艶めかしさは今日一番の聴きものである。またロトンディの歌唱は終始安定しており、全くの曇りのない声も同様に魅力的である。オットーネのピはカウンター・テナー。軍人にしては女々しいが、事実女々しいのだがら仕方がない。1幕13場の最後でドルシッラに愛していると言いながら、心の中で嫉妬が渦巻き、ポッペーアのことを忘れられない心情を歌うが、現代人にも共感を呼ぶ歌唱ではないだろうか?オッターヴィアはポッペーアを殺すようにオットーネに命ずる悪女に突然なってしまうが、この変わり身もうまく歌いあげていた。アタナルタはCDではイアン・ハニーマンと云う人が歌っていて、独特の歌い回しというか演技過剰と云うか、しっくりこなかったが、本公演のアレグレッツァはそのようなことがなく、コミカル、軽妙な歌唱で聴かせた。参考までに、プログラムに書いてあったのだがこのハニーマン氏はあまりにも勝手に歌うのでレコーディングの最中にカヴィーナが怒って帰っていしまったという逸話のある方の様だ。セーネカも堂々とした風格を感じた。ついでながら、セーネカが自死する場面での友人たちの3重唱は実に気持ちが良いものであった。ヴァレット役のガルディーニのコケットな歌いぶりも印象的で、モーツァルトが創造したケルビーノを彷彿とするような歌唱(2幕第4場)だった。

 ポッペーアの戴冠は歴史上有名な話だが、このモンテヴェルディの作品ではそれを随分と脚色している。ポッペーアは悪女のはずがなぜか可愛い女になっているし、オッターヴィアは貞淑な皇后なのに、ポッペーアの暗殺を指示する悪女になっている。セーネカも高潔な哲学者というよりも、兵士たちに云わせれば(1幕2場)強欲爺だそうで、随分とイメージが違う。最初、この曲をCDで聴いた時に、変な台本だなあと思ったが、台本をよく読むと、なかなか確信犯的な脚色をしていることが分かってくる。

 この公演は日本では今夜を含めて3公演のみだが広く多くの方に聴いていただきたいものだ。会場内で販売しているプログラムには丁寧にも対訳がついていて誠に親切である。すべてにわたって気持ちの良い公演だった。
なお、演奏時間は152分。本公演ではドルシッラがオットーネに衣裳を貸す場面などがCDからカットされている。CDは204分である。

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