ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2014年08月

2014年8月31日
於:第一生命ホール(1階17列中央ブロック)

矢澤定明&ヴィッラ・ディ・ムジカ室内管弦楽団 オペラプロジェクト
モーツァルト 「フィガロの結婚}

演出:飯塚励生
チェンバロ:小埜寺美樹

アルマヴィーヴァ伯爵:大井哲也
伯爵夫人:並河寿美
フィガロ:須藤慎吾
スザンナ:鵜木絵里
ケルビーノ:松浦 麗
ドン・バルトロ:ジョン・ハオ
ドン・バジーリオ:藤田卓也
マルチェッリーナ:渡辺敦子
バルバリーナ:新宮雅美
ドン・クルーツィオ:大久保 亮
アントニオ:晴 雅彦

ヴィッラ・ディ・ムジカの公演は2回目だ。初めて聴いたのは2012年、「セヴィリアの理髪師」でこれはすこぶる楽しい演奏だった。今回のフィガロはまた少し趣は違うにしても、期待にたがわぬ公演だった。
 舞台奥にオーケストラが並ぶ。左からヴァイオリン16丁、ヴィオラ4丁、コントラバス2丁の小編成。右側にはティンパニと木管が並ぶ。指揮者は第一ヴァイオリンの前に立つ。セヴィリアと同様ピリオド奏法ではなさそうだ。従ってホールのせいもあるかもしれないが、音はふっくらしており尖った所の全くない、至極穏健なモーツァルトだった。ただ小編成だが、私の聴いた「印象」はふくらみが大きいせいか、少々アジリティに欠けたような気がした。若干の傷は致し方ないところだが、モダンオーケストラによるこう云うスタイルもなかなかよろしいのではないかとも思った。舞台の歌い手の動きは十分なアジリティで魅了したのに、若干ギャップを感じた。チェンバロの小埜寺は、もう、こう云うオペラの常連だが、今日も安定していると同時に、羽目を外さぬ程度の当意即妙で音楽作りに貢献していた。カーテンコールでも、指揮者から何度もスタンディングを要求されたり、演出家からも舞台上に呼び出されていた。

 演出は狭い舞台を縦横に使いきった見事なもの。セヴィリアと同様、限られた空間でできるだけト書きに忠実でありたいという演奏家と演出家の意図が感じられた。今回も客席に演奏者が登場したりするシーンもあった。例えば2幕でのケルビーノが2階の窓から花壇に飛び降りるシーンは、舞台から客席に飛び降りそのまま駆けあがって劇場の後部のドアから脱出という按配。その他いろいろと工夫していて飽きさせない。こういう簡易舞台形式でも十分モーツァルトを楽しむことができた。演出家他スタッフをたたえたい。

 歌手達も皆よい。特にスザンナの鵜木はコケットな歌唱と演技のバランスが良い。傑出していたように思った。フィガロは声は非常に立派だったが、これも印象で申し訳ないが歌が少々荒っぽいのではないかと感じられた。例えばジョン・ハオのバルトロのアリア「復讐とは、ああ復讐とは~:1幕第4曲」の非常にきちんとした歌い方に比べると良くわかる。ただバルトロにしては少々面白みはないが、音楽的にはとても魅力的な歌唱だ。
伯爵は召使に手玉に取られる、少々間抜けお殿様を好演。声も魅力的。しかし伯爵のもつ少々残忍な性格は隠れてしまった。だから3幕の第18曲のアリアはまじめだが、凄みはない。問題は伯爵夫人だろう。歌唱的には立派なものだが、私には時々空疎に聴こえるのがとても気になった。全体が均一に音楽が詰まっていないように感じて、感動したと思ったら、すぐしらけてしまうという繰り返しに聴こえてしまった。例えば3幕のアリア「どこなのでしょう、あの美しい時は~:第20曲」も部分的には共感を呼ぶが、時々覚めるのがつまらない。ケルビーノはもう少し声に可憐さが欲しいが、演技を含めて好演だった。その他脇役陣は舞台を締めていた。公演を通して素晴らしかったのは2幕だろう。この幕は伯爵夫人のソロ(カヴァティーナ)から始まって、それにスザンナが加わり~、要は2重唱、3重唱そして最後の7重唱まで延々と続く音楽なのだが、今日の歌手たちのアンサンブルの素晴らしいこと。とても聴きごたえのある幕だった。約50分だがあっという間に終わってしまったほど音楽はスムーズに流れ、自然だった。ここだけでも今日は十分だったろう。まあこういう公演が今日一日のみというのは誠にもったいないと思った。

 今日の矢澤の指揮は少々アジリティに欠けるとすでに書いたが、実はこれは仕方がないことなのである。今、私はこのオペラはクルレンティスという指揮者によるムジカ・エテルナという楽団のCDに嵌まっているからである。これはピリオド奏法に(おそらく楽器もそうだ)よる演奏でとにかくアグレッシブで刺激的なのである。音楽は跳躍したり、急展開したりめまぐるしく変化するのだ。全曲通して聴くとへとへとになる。まあこれと比べたら、どの演奏も丸まっているように聴こえるだろう。一言付け加えておく
 なお今日の演奏時間は174分である。4幕のマルチェッリーナとドン・バジリオのアリアはカットしていた。
                                   〆

2014年8月16日

終戦の月を迎えて、CATVのヒストリー・チャンネルで両世界大戦のドキュメンタリーの放送を集中的に見ている。両大戦とも安易と言うか、あれよあれよ戦争に突入する様は驚きと言うしかない。ということでなかなか映画を見る暇がない。そのなかで見た数本について触れてみよう。

「鑑定人と顔のない依頼人」、ジュゼッペ・トルナーレ監督、ジェフリー・ラッシュ主演
世界的な美術品鑑定家で競売人が主人公(ジェフリー・ラッシュ)。クレアという女性から親の遺産のヴィラに保存されている美術品の鑑定と売却を依頼される。しかもクレアは広場恐怖症ということでヴィラの1室から外に出られない。鑑定人はもう老境に入っているが、女性経験も少なく、いまだ独身。そういう設定である。要するに少し人格的に常人とは異なる二人が美術品を媒介にして接するようになるところがみそ。鑑定人は見ることのできないクレアに徐々に惹かれてゆく。老いた男が初めて女性に心を動かされる。老いらくの恋を描いた映画と思いきや、最後は予想できたとは云え、ちょっと驚き。ただトルナーレの名作、ニューシネマ・パラダイスのような心温まる物語とはちょっと違うので面喰う。でもなかなか面白い映画だった。なお原題はBEST OFFER。

「ブリング・リング」、ソフィア・コッポラ監督、エマ・ワトソン主演
実話に基づく映画。タイトルのBLINGはけばけばしいブランド品、宝石や洋服を指す米語。
10代のごく普通の女の子と男の子がパリス・ヒルトンなどの有名人の不在時に屋敷に侵入して宝石やブランド品を盗むというそれだけの話だ。しかし彼らはいずれも、なに不自由のない中流家庭の子女である。なぜ彼らはこの犯罪に手を染めたのか?最後まで理解できなかった。単なるブランド志向ということでは片づけられない。しかも彼らにはこれが重い犯罪という認識がほとんどない。誠に面妖な話だが、豊かな国アメリカの消費文明の行き着くところなのだろうか?

「大統領の料理人」、フランス映画
フランス大統領のランチの料理人を委嘱された、地方料理のシェフ、マダムオルタンス・ラヴォリの苦闘の物語。夫人は大統領のリクエストに応えて、シンプルで素材を生かした、郷土料理を用意する。しかし大統領をとられた主厨房のシェフやらコスト・カットの小役人らとの政争に巻き込まれる。彼女の戦いは痛快であるが、本人は苦闘だったのだろう。結局辞職してなんと南極の越冬隊の料理人になり、そこでは人気者になり、傷を癒し、新しい世界での再生にに向かってゆく。
フランスも女性差別がなかなか激しいのがよくわかる。男の嫉妬は怖いのだ。

「永遠のゼロ」、岡田准一主演
百田尚樹の感動の原作の映画化。細部の脚色は別にして、骨格は原作に忠実である。俳優たちが皆アイドルっぽいのは致し方ないが、それなりに好演。脇役陣はベテランで固めているのも常套ではあるが、効果的。ただ評判の戦闘シーンは今一つリアリティに欠ける。
まあ見ごたえのある日本映画だ。ただ最大の問題は主役の岡田だ。彼だけはどうしても原作の主人公のイメージとは合わない。特に彼がだんだん壊れてゆく過程が唐突。ここはもう少し演技でカバーしてもらいたかった。

「清須会議」、山谷幸喜監督
超デフォルメの人物像が見どころだろう。一番愉快なのは役所の演じた柴田勝家だろう。これほど勝家の人物像を面白くとらえた作品はまずないだろう。役所が楽しそうに演じていた。2番目は小日向の丹羽長秀、誠実そうな人物イメージを破壊し策士として描いているが、最後で裏切るのがおかしい。女優陣はお市(鈴木)、ねね(中谷)、松姫(剛力)などみなおかしい。ばかばかしいとは思いつつもその徹底さがそのばかばかしさを薄めている。ただ大泉の秀吉役はデフォルメの仕方が月並みで今一つ面白くない。

「スティーブ・ジョブズ」
云わずと知れた、アップル創始者のジョブズの一代記だ。今回6作品を見たのだが、実はこの作品が最も個性に乏しい。ジョブズの個性的な人生が強烈でそれを再現するのは難しかったのだろうか?企業家の信念や理念と企業利益との衝突を主題にしたような趣に感じられたのだが、どうだろう?私には違和感が感じられた。

2014年8月5日
於:ミューザ川崎シンフォニーホール(2階CB-5列左ブロック)

フェスタサマーミューザKAWASAKI
演奏:東京フィルハーモニー管弦楽団
指揮:ダン・エッティンガー
ピアノ:菊池洋子

モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番
マーラー:交響曲第五番

ミューザ川崎シンフォニーホールで7/26~8/10にかけて在京の10オーケストラが競演をするという企画があった。もちろん全部は行けないが、その中で気に入ったプログラムの東フィルの演奏を聴きに行った。このフェスティバルは料金も良心的でS席でも4000円である。またスタッフの体制もすこぶる良くて、初めてミューザで音楽を聴く人にも安心して聴けるように、例えば席への案内もスムースだった。このホールは不定形なので席の配置がなかなか呑みこめないが、しっかりしたサポートで好感が持てる。

 さて今日のプログラムのどちらかと言うと菊池のピアノに惹かれて聴きに来たのだが、両曲とも大変素晴らしい仕上がりで楽しめた演奏会だった。
 菊池はモーツァルトのスペシャリストで以前フォルテピアノと現在のピアノの両方でモーツァルトを演奏したコンサートを聴いたが、とても印象的なピアニストである。特に8番のソナタの演奏が記憶に残っている。今日の20番の協奏曲はモーツァルトの作品のなかでも最高傑作と言われており、私もまったく同感である。CDではもっぱら内田の演奏を聴いている。1枚はジェフリー・テイトとのコンビの80年代の演奏、もう1枚はクリーブランドを弾き振りしたものである。ただ私が好きなのはDVDでザルツブルグでのライブ。カメラータ・ザルツブルグを弾き振りしたものである。この演奏は私にとって唯一無二の演奏。これ以上のものは考えられない。天国的な美しさと、奈落の底とを味わうことができる。これを聴くとクリーブランドの弾き振りはずっと上品に聴こえる。

 菊池とエッティンガーとのコンビはどうか?3楽章が私にはとても印象に残った。前半は音楽は荒れ狂うが、素晴らしく融通無碍のカデンツァの後の天衣無縫な音楽の進行は私の心の中で、この音楽が頂点にたどり着いた様を味あわせてくれた様に思った。1楽章は菊池のピアノはカデンツァをのぞけば借りてきた猫のように大人しい。エッティンガーがすこぶるスケールの大きなサポートをしていたので、違和感を感じたのだろうか?ただしカデンツァは菊池らしく変化が大きく聴きものだ。2楽章はこの音楽の持つ美しさを十分表わしてくれた。中間の心のざわめきのような、不安な音楽は今少し悪魔的ならとも思うが、これでも全く不満はない。最初の美しい部分に戻るさざ波の様な音楽も魅力的に弾いていた。おそらく菊池はいずれ弾き振りをするようになると思うし、私はそのほうが彼女のモーツァルトを再現できると思う。演奏時間は31分でアンコールなし。

 エッティンガーはかつて新国立でワーグナーの「リング」を振った時に、そのテンポののろさに辟易した。遅いのではなくのろいのである。細部にどんどん拘泥してゆくとこう云う演奏になるという見本だが、なにもリングでやらなくてもいいじゃないのと思った。部分的には良いのだが!ということで今日のマーラーは大変不安だった。予想通り1楽章は緩急をかなりつけ、なおかつ緩の部分はすこぶる遅いので、ああ今夜は大変だと思って聴き進んだ。しかし2楽章はそういう細部拘泥型の演奏が全く気にならない。むしろきめ細かい音楽の進め方に感動を覚えたくらい。例えば2楽章の終わりはなんとなくもこもこと終わるが、ここでの各楽器への細やかな指示は、この部分の面白さを再認識させてくれた。不気味というわけではないが、なにか得体のしれない沼の様なものにひきずりこまれるような音楽だった。もちろん4楽章を先取りした部分の盛り上がりなど、管弦楽を思い切り鳴らして痛快の極みだった。
 3楽章も素晴らしい。コーダの前のホルンから始まり奈落の底に落とされるようなオーケストラの叫びなども、心も体もゆさぶる演奏だった。コーダの進行もむやみにテンポを上げるのではなく、バランスの良いもの。中間部の小編成の弦のピチカートも細部まで指示をしており独創的なもの。スケルツォ部分はぴょんぴょん飛び跳ねるような感じでちょっと面白かった。
 4楽章はテンポが素晴らしい。ここでは終始テンポは一定。変に小細工はしない。それだけにこの音楽のもつ感動的な美しさを十分表わしていた。在京のオーケストラの演奏でこれほどのアダージェットは聴いたことがない。誠に感動的な演奏だった。最後に感情に負けたのかちょっと音楽を恣意的にいじるが、これがかえってこの楽章での指揮者の心の動きを語っていたように思った。
 5楽章は凱歌だろうが、少々単純すぎるように思った。今夜の演奏では2~4楽章で私は十分満足だった。演奏時間は70分強。

 それにしてもミューザのホールは素晴らしい音響効果だ。モーツァルトでもマーラーでも金管の浸透力が凄い。また木管は決して埋没せず常にクリアに耳に届く。弦はしなやかにうるさくなく、全体のバランスがとても良い。決して良い席で聴いたわけではないが、極上の響きだった。もっとも東フィルの演奏がよかったからだったかもしれない。マーラーの1楽章のトランペット、3楽章のホルンをはじめとした金管群も在京オーケストラの中でも1,2を争うだろう。それとモーツァルトでもそうだがティンパニが実に存在感があって、音楽全体にアクセントをつけていた。モーツァルトの1楽章など印象的だった。

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