ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2014年07月

2014年7月28日

名古屋場所も昨日で終わった。後半は満員御礼が続くなど盛況だった。これも最後まで優勝争いが続いたことによるのだろう。
 そういう意味では功労者は琴奨菊、豪栄道、高安だろう。特に琴奨菊はカド番からの復活だから、だれもこんな大勝ちをするということは予想できなかったと言ってよい。大関昇進した時のあの馬力が復活したのだ。怪我で悩まされたこの数場所だが、少しは良くなったのだろう。
 豪栄道も前半戦を見た限りでは、先場所並みかと思っていたら、なんと後半追い上げて大関のかかった一番でも、実力を出し琴奨菊に圧勝してしまった。こういうところは人の持つ運命の様なものを感じる。万年横綱候補の稀勢里などはなんどもこれで勝てば横綱という相撲に遭遇しながら、それをつかみ損なっている。今場所はそういうプレッシャーがないにもかかわらず、前半で取りこぼしてしまった。強い時と弱い時との差が大きすぎる。白鵬には滅法強いが他の上位力士には刃が立たない。今場所はそれと立ち腰がきになった。多くの解説者も指摘しているとおり。ちょっと話題はそれたが、高安はここまでさがったのだから当然と云えば当然だ。今場所を面白くしたのは弱い2横綱というのも皮肉な話だ。最年長金星が話題になること自体が、横綱のレベルの低下を物語っている。

 私の御贔屓の妙義龍も今場所はやっと実力を発揮した。来場所は上位に上がるだろうから、大関・横綱戦が楽しみだ。勢は残念ながら上位の壁に跳ね返されてしまった。横綱・大関戦では見るべきものがあったが、同じ格の相撲には合わせていったためか脆かった。しかし最終盤での2番は来場所の期待を抱かせる安定感のある相撲だった。右からの当たり一辺倒をとやかく云う解説者もいるが、やはり私はこの戦法で固めた方が良いと思う。解説者もいい加減なもので、いろいろな引き出しをもつべきだというものもいれば、型を作らなくてはいけないとか、いろいろである。やはり稽古で、自分で良く考えて得意の取り口を編み出すしかないだろう。

 さて、今場所前半を盛り上げたのは大砂嵐だろう。残念ながら負け越してしまった。彼もかちあげ一辺倒では勝ちきれないとわかったろう。来場所はどう戦うか興味深い。というのは彼のかちあげは少々危険技ではないかと思われるからである。立ち会いの初めから腕を相手の首などにぶち当てるのは本来のかちあげではないらしい。一度がつんと当たってから腕を跳ね上げるのを云うそうだ。ある解説者の弁であるからどうだかは分からない。ただ私の印象ではあれはプロレスである。そしてあれ一発に賭けているから、上位でちょっと動きの良い人は簡単にずらして対抗していた。逆にあれをまともに食らう相撲のほうがとろいというべきだろう。遠藤も大人気だ。しかし人気先行になり、どうもプレッシャーを感じて、相撲が遅く、小さくなってしまっていたのが気になった。その良い例が照ノ富士戦である。右まわしの良い位置をとったのにずるずると相手の術中にはまってしまった。以前ならとった瞬間に右を引きつけて、相手を起こして左おっつけで寄り切っていたろう。このまま小さく固まる人ではないだろうが、もっと大きい、上位の人、それと苦手の押し相撲の人と稽古をして、速く、スケールの大きなお相撲さんになって欲しいものだ。

 遠藤のライバルになるのは、大砂嵐だけではない。照ノ富士、逸ノ城の2人のモンゴル勢だろう。体の大きなことも凄いがバランスが良い。照ノ富士はどんな苦しい形になっても盛り返してくる、何とも不気味なお相撲さんだ。

 今場所異例のことながら、中日前に汗ふき励行の指示が相撲協会から出た。以前から指摘していたように、白鵬の汗は目に余るものがあったが、やっと協会も動き出したようだ。日経では白鵬と大砂嵐を名指しで指摘していた。しかし大砂嵐はきちんと拭くようになったが、白鵬は相変わらず、時間一杯になってタオルをもらっても腹をちょっと祓う仕草をするだけで、胸前はびしょびしょだ。あれでは押し相撲はとりにくいだろう。驚いたことに通達がでてから数日、NHKのテレビ放送では白鵬の時間一杯の場面を正面から映さなくなった。これは故意だろうか?故意だとしたらそこまでおもねる必要はあるのだろうか?
勝負審判も解説者も白鵬の汗についてはまったく触れていないのも面妖な話だ。協会のいっぺんの通知はまったく横綱には無視された格好になってしまっている。勝負審判はきちんと横綱に汗を拭きなさいと指示をすべきである。〆

2014年7月20日
於:サントリーホール(1階17列中央ブロック)

都響スペシャル
指揮:エリアフ・インバル

マーラー「交響曲第十番」(デリック・クック補筆による、草稿に基づく演奏用ヴァージョン。

十番の交響曲は未完ではあったが、略式総譜という形で5楽章が残されたという。一部総譜草稿も完成していたという。それをクックがまとめて1964年初演された。それが第1稿である。その後1976年に第2稿が出版された。今日の演奏はこの2稿だと思われる。ということであるからおなじ未完成とは云えシューベルトの七番やブルックナーの九番、モーツァルトのレクイエムとは少々異なる。

 インバルのマーラーチクルスはこれで完結した。しかし最後を飾るに相応しい実に圧倒的な感動をもたらす演奏だった。特に最終楽章の素晴らしさは筆舌尽くしがたい。
 1楽章のヴィオラのモノローグ~すこぶる美しい第1主題を聴いた限りでは美音が支配した演奏のように感じられたが、後半の金管のつんざくような不協和音はそのような夢を破り、絶望をもたらす。そう、決して耽美的な演奏ではなくむしろマーラーの心の旅路のような演奏だ。2楽章は心の闘争の様で特に終結部では都響/インバルの演奏は一瞬、絶望を忘れさせるくらい痛快だ。
 2楽章が終わった時点でインバルは数分指揮台を降り、ステージ裏へ。3~5楽章は休みなく演奏される。3楽章はブルガトリオと名づけられている。これは煉獄という意味だ。わずか5分程度の曲だがインバルはさらっと演奏している。しかしこの音楽のもつ不気味さは十分だ。4楽章は過去を振り返る音楽だ。この音楽は七番の交響曲のように私にはなかなかなじめないが、わずかに五番の交響曲の一部が現れるとほっとする。

 そして最終楽章。冒頭の大太鼓の連打は前楽章の最後を引きずっている。この大太鼓と金管の音は聴き手に絶望感を与える。しかしその後のフルートによる素晴らしい主題の演奏、さらにそれを弦が受ける。この部分は心の救済のように聴こえるが、私には憧憬の音楽の様に聴こえる。切望してやまないが決して手に入らないものを欲する気持ちだ。この張り裂けるような気持をフルートが見事に奏する。ここは聴いていて涙を禁じえない。誠に素晴らしい演奏。何度も云うが胸が張り裂けるようだ。その後を受けた弦の美しさも見事なもの。その後アレグロ・モデラートの部分の後、1楽章の美しい主題が弦に帰ってきて、最後に「アルムシ(アルマの愛称)、お前の為に生き、お前の為に死ぬ」と楽譜に記した部分は弦のグリッサンド上昇~下降でこれはマーラーの悲痛な叫びだろう。
 都響の演奏は素晴らしい。特にどれと云えないくらいレベルが高い。5楽章のフルート他の木管の素晴らしさ。2楽章の終結部の金管の機敏な運動量。それと全体に弦楽部がしっとりとしていて、しなやかさを感じさせた。レコーディングが楽しみだ。
                                     
追記:インバル/都響の演奏時間は約72分。これはインバル/フランクフルト盤とほぼ同じ演奏時間である。今日(21日)そのCDを聴いてみたが最終楽章の感動は都響のほうが大きいように思った。これはライブと言うこともあろうが、あの感動的なフルートは都響のほうがずっと胸に迫るのである。なおフランクフルト盤は録音が実に素晴らしい。楽器の配置は隅々までわかるし、全体のバランスも良好である。クック盤の演奏をすべて聴いたわけではないが、このインバル盤があれば十分以上であろう。〆

2014年7月19日
於:すみだトリフォニーホール(1階20列左ブロック)

新日本フィルハーモニー交響楽団、トリフォニーシリーズ
第529回定期演奏会

指揮:インゴ・メッツマッハー

ベートーベン:バレエ音楽「プロメテウスの創造物」序曲
ツィンマーマン:私は改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た
ー2人の話者、バス独唱、オーケストラのための福音宣教的アクション
(日本初演)
バス:ローマン・トレーケル
語り:松原 友
  :多田羅迪夫

ベートーベン:交響曲第五番・運命

トリフォニーシリーズのシーズン最後の演奏会だ。メッツマッハーが指揮をすると新日本フィルの音が変わる。音は完全に低重心で厚めの低音楽器の威力を感じるが、しかし音に重さがないのが素晴らしい。きりっとしてさわやかなのだ。
 まずプロメテウスの素晴らしい前進力。低音に支えられて高弦が爽やかになり響く様はオーケストラ音楽を聴く醍醐味だろう。

 「運命」を在京の定期で聴くのは2013年/10/26のN響の定期以来だ。その時はノリントンの指揮だった。しかしひもどいてみるとブログをはじめてもう6年近くなるがその間「運命」はノリントン以来2回目なのだ。英雄や合唱、七番は比較的良く聴くが、この運命はいかに演奏回数が少ないかわかるだろう。
 メッツマッハーの指揮するこの曲は実はノリントンの演奏とほぼ演奏時間は同じである(32分)。しかし印象は随分違う。ノリントンは遊び心満載。この曲のもつ重みをあまり感じさせない。要するにあまり伝統と言ったものは意識させないのである。N響はモダン楽器のオーケストラだがピリオド奏法で演奏している。メッツマッハーはそのようなことはない。演奏スタイルは伝統型である。主題の対比を明確に演奏する。しかし聴いた印象は一気呵成である。印象だけでいうとシャイー/ライプチッヒ盤に近いように思う。まあそれはどうでもよい。両端楽章の第1主題の前進力と迫力はこの演奏を象徴しているが、それぞれの楽章の第2主題のしなやかさも特筆したい。音楽の起承転結が明確であり、論理的に音楽が進み完結する、こう云うベートーベンは聴いていて本当に高揚感を感じるし、聴き終った後の聴き手の達成感は充足されるのだ。伝統型と新しい息吹をミックスした名演だと思った。新日本フィルの熱演も特筆したい。このオーケストラの今年一番の充実した響きは指揮者との相乗で演奏のレベルを高めた。ティンパニの躍動感あふれる響き、いつもはうるさい4楽章のピッコロのしなやかさ、金管の充実しているけれど、決して突出しないバランスの良さ、どれも一級品のベートーベンの響き形成に貢献した。

 ツィンマーマンのこの曲は彼の最晩年の曲である。正直云って私には、これは初見でなくても刃が立たない。なぜならこれはキリスト教文化への深い理解がなければ内容が全く理解できないからである。歌詞・台詞は旧約聖書とドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の大審問官からとられている。カラマーゾフの兄弟は2度ほど読んだが、果たして読んだうちに入るかどうか、正直最後まで読みとおすのは苦痛だった。この大審問官の部分は特に難解で読みとばしたくらいだ。そんな自分に本邦初演のこの演奏に云々云えようか?専門家にお任せしよう。歌詞に拘泥したために音楽はほとんど耳に残っていないのは困りものだ。ツィンマーマンがこの音楽?に込めた意味はわからないわけではないが、もう少しなんとかならないものかと、思いながら聴いていた。トリフォニーは親切で、この曲の間は照明を少し明るくして歌詞・台詞を読めるようにしてくれた。まあ私には焼け石に水だった。
                                    〆

2014年7月17日

「ノア」、ラッセル・クロー、ジェニファー・ローレンス他
ノアの箱舟の物語。タイトルからわかるように単なる聖書物語ではなく、神から、堕落した人類の滅亡を啓示された、ノアの苦悩を本線にしている。従って映画の雰囲気は荘厳な歴史物語ではなく人間臭さが漂っている。神は戦争や環境破壊などで地球に破滅をもたらした人類に罰を与えようとしている。これは地球温暖化や戦争で悩む今の地球を示唆しているのだろう。こういう説教臭さはこの作品を素直に楽しめないところ(私の場合)。現代に舞台を移した読み替えオペラを見ているような印象だ。
 この映画の一番の不満は、聖書・歴史物語を払拭したいのか、神の啓示について明確に台詞や映像で見せていないというところだろう。例えばチャールストン・ヘストン主演の「十戒」では十戒の啓示シーンは実に明確だし印象的だ。しかしこの映画では例えば洪水で、人類を溺れさせてやるという神の啓示は、ノアの夢の中で溺れるシーンで代弁している。これでは明確な神の啓示かわからない。また舟を作って番いの動物を乗せよという神の啓示を明示しないで、ノアが自分で語るだけだから啓示が暗示的で旧約聖書に長年親しんでいる西洋人には自明のことだろうが、初めてこの物語に接する人にはちょっと不親切であるし、ノアが神から選ばれたということが明確になっていないような気がした。
 もう一つは雨が上がり陸地が見えるまでの長い時の描写や見つかってから動物たちと陸に上陸する場面などはまったくなく、この映画のメッセージを訴える場面ばかりを強調しているのは興ざめだ。映像も先日見た「ポンペイ」に比べるとスペクタクル性が乏しく印象としてはとても地味な映画でがっかりしてしまった。期待の1作だったが、頭でっかち尻つぼみの印象だ。ラッセル・クローのノアは役柄にフィットするが、敵役のカインの子孫のレイ・ウインストンも同系の人間臭さを出しているので、ノアが神から選ばれた人間と言う印象が希薄になってしまっていた。むしろこの二人を比べたら同じ人間臭いのであるのなら私はカインの子孫により共感をもつと言わざるを得ない。(ひさしぶりに劇場にて)

「きっとうまくゆく」インド映画
歌あり、踊りあり、笑いあり、そして涙ありのいつもながらのインド映画だ。仕立ては青春映画。3人のバカ「原題はthree idiots」学生の友情と成長の物語。170分の長尺もので時々秋が来るが極上のエンターテインメントに出来上がっている。エンターテインメント性を極力排した「ノア」とはえらい違い。しかしこのおちゃらか映画は実は現代のインドの社会の持つ問題を厳しく批判しているという面を、ピリッとした隠し味にしているところが、従来のインド映画とは一味ちがうところだろう。3人の学生の入学したのはインドでも1番の技術系の大学。校長の方針で点取り虫が評価される。しかし3バカトリオはそれに疑問を投げかける。彼らはそれぞれ家族のしがらみを背負っている。しがらみというよりむしろ期待と言うべきか?子供たちに全てをかけた親たちは、優秀な成績で卒業して良い会社に入ってもらうことを夢見ている。しかし子供たちはお仕着せの人生ではなく自ら選んだ人生を生きてゆきたい。しかしインドではそういうことはタブーに近い。結婚しない女性はものすごいプレッシャーをかけられる。この映画を見ていると随所にそういう場面がでてくる。インドの人たちはこの映画にどう接したのかは分からないが、私にはこういうインド社会を批判的な眼で見ている、この作品は非常に興味深かった。

「エグザイル」、ロバート・デニーロ、ポール・ダノ
原題は「being FLYN」、邦題の意味は全く分からない。ジョナサン・フリン(デニーロ)はタクシー運転手だが小説家になることを夢想している。妻とは18年前に離婚。息子はそういう父親の記憶はほとんどないが、100通もの父親からの手紙で小説家になろうとする。18年ぶりに父子は再会するが、なんとそれはホームレスの宿舎であった。息子はそこで働いていたのであった。原題のBEING FLYNはフリンになろうとした息子と言う意味なのだろうか?正直云ってこう云う映画は私の理解の外で、きっといいことを言っているのだろうけど、理性では受け止めても心には届かない。

2014年7月14日

5月場所が終わったと思ったらもう名古屋場所。お相撲さんも大変だと思う。昨日の名古屋場所の初日は満員御礼で誠に結構なお話。
 しかしテレビ解説者も話していたが、印象に残る激しい攻防の相撲が非常に少ない。ラリーのないテニスみたいなもので、先につっかけて引いたりはたいたり、一歩的に押したりの相撲ばかり。もちろん相撲の醍醐味はこの立会一瞬の面白さにあるだろうが、駆け引きの様なものばかり目立つ昨今の立ち会いの味気なさ。勝てばいいんだろうと云わんばかりの相撲では、プロレスなど同じ単なる格闘技になってしまう。
 まあそれはそれとして、横綱のラスト2番の相撲の後味の悪いこと。
日馬富士×碧山の1戦。横綱が一方的に押したのは良い。しかし勝負がついているのに、あの無駄な駄目押しは何だ。こういう品のない横綱がいるから、とにかく勝てばよいんだろうという風潮になってしまうのだ。解説者も流石にこれはひどいと苦言を呈していた。マスコミもこういう横綱に対して甘い。今朝の新聞には全く触れられていない。スポーツ記者はどこを見ているのだろう。
 もっとひどいのは白鵬×安美錦戦だ。立ち会い待ったをした安美錦に対して土俵中央で肘でかちあげるのいかがなものか?あいてが待ったしようが、何しようが泰然自若としているのが横綱だし、今の白鵬の力ならそういう姿勢を容易に貫けるのに、誠に品のないことをする。それと白鵬は全く汗を拭かない。稽古をしているのならわかるが、本番でびしょびしょのままで勝負に向かうのは相手に失礼ではないだろうか?しかし相撲協会もマスコミもこれら横綱には何も言えないのが嘆かわしい。

 今日一番の歓声は遠藤×照富士戦。なんと平幕同士に懸賞が16本と言うのは驚きだ。まあ他の相撲が如何に面白くないかの証明だ。しかしこの期待の一番の遠藤の相撲の消極さが気に入らない。以前なら右の前みつをもっと引きつけて相手を浮かしてから、寄るか、上手投げを寸時に打っていたろう。照富士はいかに大きくて、腰が重いといってもそれは言い訳。これから横綱を目指す大器であれば、それくらいスケール大きな相撲を期待したい。遠藤は場所を追うごとに相撲が悪くなっているような気がする。例は悪いがちょうど常幸龍が入幕したばかりの時は何と凄いやつだと思ったが、今では普通のお相撲さんになってしまった。遠藤もそうならないように祈る。〆

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