ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2014年04月

2014年4月27日
於:東京オペラシティコンサートホール

東京交響楽団、東京オペラシティシリーズ
指揮:ジョナサン・ノット
ピアノ:佐藤卓史

ウェーベルン:管弦楽のための小品
シューベルト:交響曲第四番「悲劇的」
ブラームス:ピアノ協奏曲第一番

好きなプログラムなのに今日は今一つ居心地が悪かった。聴き手の問題だろうが!

 最初のウエーベルンは論外、この曲を聴いていいなあと思う人っているのかな、と思うくらいつまらない。

 シューベルトは東響/スダーンのコンビで「二番」を聴いたばかり。印象はかなり違う。スダーンの演奏はシューベルトの青臭さをそのまま出している感じで、聴いていて若さの噴出を感じる。ノットの演奏はまあその対極の様だ。上品で端正で、とんがったところが全くないのはよいのだが、だんだんつまらなくなってくるのは聴き手の天の邪鬼さのせいだろうか。例えば二番も四番も3楽章はアレグロヴィヴァーチェのメヌエットだが、スダーンはまるでスケルツオ、剛直な勢いは後のグレイトにつながるような気がする。しかしノットは指示通りメヌエットである。滑らかな音楽の流れは気持ち良いが、それだけの様な気がする。しかしノットのほうが、シューベルトが一般に思われているお手本のような演奏だろうが、私はスダーンの演奏が好きだ。CDでこの曲を聴くときもスダーンのCDを聴いているくらいだ。なお演奏時間は31分強

 ブラームスの協奏曲も私の期待通りには鳴ってくれない。1楽章の序奏からして、なにか元気がない。ここも端正・上品に音楽は進むが、むせかえるようなロマンの香り、男性的な凄みに欠けるから、なよなよしたブラームスのように聴こえる。若きブラームスの覇気が感じられない。ピアノまで上品に聴こえてしまうから不思議だ。わずかに1楽章の展開部に若さがひらめいたように聴こえたがそれも一瞬だけで、元に戻ってしまう。こういう老成したブラームスも良いだろうが、私はもう少し違ったブラームスを聴きたい。
ただ演奏後盛大なブラボーで盛り上がったことは付記しておく。演奏は48分強。

2014年4月24日
於:東京文化会館(1階13列中央ブロック)

東京二期会オペラ劇場
プッチーニ:歌劇「蝶々夫人}

指揮:ダニエーレ・ルスティオーニ
演出:栗山昌良

蝶々夫人:木下美穂子
スズキ:小林由佳
ピンカートン:樋口達哉
シャープレス:泉 良平
ゴロー:栗原 剛

合唱:二期会合唱団
管弦楽:東京都交響楽団

二期会の純血主義が結実した公演だ。不満がないわけではないが、日本人による、日本人のための「蝶々夫人」に全てのオペラの要素(指揮、歌手、演出、装置など)が収斂しているということが、この公演の、この作品に対する集中を示している。つまり何が良かったのか?と云われて、何とはすぐ出ない、しかし聴き終った後のこの充実した気持ちはどこからきているのか?目的に向かった集中力としか答えられない。

 演出は日本人によるもので、まず奇妙なところは皆無。日本人にとってはすべて自然である。しかもそれは決してナショナリズムではなく、そこにはグローバルに通用する美学が存在する。わずかに2幕以降でシャープレスが土足で蝶々さんの部屋に入るところは日本人にとっては違和感があるだろう。西洋の人は何も感じないだろう。でもこれは重箱の隅だ。
 素晴らしいのは舞台美術(石黒紀夫)だ。1幕は正面から左側に長くピンカートンの新居が続く、障子の白さが印象的。右手は坂から下る短い階段がある、階段の左右には美しいしだれ桜。こういう装置は日本人にしかできないだろう。新国立でもこれだけ写実的でなく、なにか象徴的なものを装置に組み込んでいる。今日の公演ではそういうものはあまりない。敢えて云えば2幕で鳥かごを並べてコマドリを想像させるくらいで後は全てリアルさを感じさせる装置である。こう云う舞台は1975年の初め、メトロポリタンで見た蝶々さん以来である。いつもこうあって欲しいとは云わないが、一つのデファクトとしてこういうスタイルを残すことは大切なことだろう。2幕の舞台は正面が蝶々さんの部屋、奥は障子で外部と遮断されている。右手は庭でしだれ桜が満開だ。誠に美しい舞台だ。2幕の最後の花の2重唱やハミングコーラスの背景の装置と照明(沢田祐二)はため息がでるくらい美しい

 指揮者だけが日本人ではない。若いイタリア人。イタリアの若手と云えばバッティストーニが思い浮かぶが、ルスティオーニも素晴らしい。彼の作る音楽は泣かせる。1幕の愛の二重唱、2幕のシャープレスからの、ヤマドリの求愛に答えたらというアドバイスに対して、子供を連れてきて歌う「母さんがお前を抱いて」、その前の「ある晴れた日に」、3幕切れの自決シーン、3幕の間奏曲などどれをとっても、涙を誘う。心を揺さぶるすべを知っているようだ。めりはりも利いている。例えば1幕の前半はテンポよく音楽を動かす、しかし蝶々さんとピンカートンと二人になったとたんに音楽はしっとりと落ち着き、歌う。この構図が素晴らしく私には、効果的だった。都響の演奏も安定して、輝かしく良かった。演奏時間は126分。

 歌手では主役の二人が素晴らしい。今日のキャストはいわゆるBキャストだが、全然そんなことを感じさせない。木下は声に輝きと云うよりきらきら感があって、表場が豊かである。特に通常の声域ではそうだ。ただ最強音になると幾分一本調子になる。1幕の登場シーンや愛の2重唱ではそこがちょっと気になったが、2幕の「ある晴れた日に」、「母さんがお前を抱いて」や3幕の幕切れなどはそのようなことはほとんど気にならず涙なしには聴けなかった。
 樋口も最初は硬いのか、イタリア語が聴き取れないくらい滑らかさに欠けたのが気になったが、すぐ修正して愛の2重唱など素晴らしかった。3幕の3重唱や「さらば愛の巣よ」や1幕の自堕落な歌などどれも一級品だ。輝かしく伸びやかな声には魅了された。
 ただ脇役が全体に低調。スズキはその中ではまずまず。花の2重唱は美しい。シャープレスはまるで「トゥーランドット」の皇帝アルトゥムのようで元気がない。ゴローも少々余裕がない。1幕冒頭では何語で歌っているのかわからなかった。

 字幕について一言、今持っている私の対訳と少々異なっている翻訳なので、驚いた部分があった。例えば1幕の蝶々さんが15歳と云った時に、ピンカートンは「食べごろ」だと歌う。私の対訳では「お菓子の食べたい年なのに」という訳だ。どっちが正しいかは分からないが「食べごろ」というのはちょっと品がないのではないだろうか?もう一つ1幕で「この可愛い子が私の妻だなんて」~今日の訳では「この玩具が私の妻だなんて」となっている。ちょっとムードがない訳ではないだろうか?

 二期会の公演は何か足りないという印象がいつもあるが、今日は私にはほとんど不満がなかった。尾籠な話だが、これが10000円で聴けるのだ。なんとコストパフォーマンスの高い公演だろう。

2014年4月20日
於:サントリーホール(1階17列中央ブロック)

東京交響楽団、第619回定期演奏会
指揮:ジョナサン・ノット
笙:宮田まゆみ

武満 徹:セレモニアルー秋の歌
マーラー:交響曲第九番

ジョナサン・ノットの東響音楽監督、就任披露演奏会である。まずはつつがなく終えたことを喜びたい。彼の演奏は何度か聴いている。何度も書いていることであるが、今まで聴いた中では、ドビュッシーの「海」が実にユニークな演奏で強く印象に残っている指揮者ある。スダーンの後継者として大いに期待したい。メッツマッハーが新日本フィルを鍛え上げたように、東響を更なるたかみに引き上げて欲しい。

 今日のマーラーを聴くと先日のヴォツェックを思い出す。わずか100年前の曲なのだが同時代感と云うより、普遍性により、もう古典になっているということを強く感じる。ノットはマーラーの録音をバンベルクと行っており、マーラーは彼の得意のレパートリーであり、今日はなんと暗譜で指揮をしていた。
 印象としては標題性はないにしても、この曲のもつ、死の影や世紀末の不安の様なものは極力排除された演奏のように聴こえた。正しい表現かどうかはわからないがシンフォニックな演奏だ。
 1楽章は死の影の濃い楽章だが今日の演奏では、例えば3分40秒あたりの主題が大きく盛り上がったり、盛り上がったと思ったら、急に沈み込む、まるで体が揺さぶられているような音楽は、決してそのようには聴こえない。もちろん音の上下はあるが、悪く云えばさらっと処理しているように思うのである。だから死の恐怖などは感じられないのである。先日のインバルのライブやバーンスタインやバルビローリの演奏とは随分印象が違うのである。よしあしではなく印象が違うということを強調したい。
 2楽章のレントラーは素朴な音楽のように聴こえるが、私にはグロテスクで不気味としか聴こえない。ノットは決して素朴でもグロテスクでもなく、実にスマートである。音楽の楽想の切り替えが素早く小気味よく、聴いていて痛快なくらいである。
 3楽章もスポーティなくらい痛快な演奏である。しかし手に汗握るほどの興奮は呼びこまない。中間の4楽章の主題の提示はいつも印象的だ。おそるおそるの救済を暗示しているかのごとき音楽であるが、ノットはあまりそういうことを意識していないように感じた。トランペットの技巧的な問題もあったのかもしれない。
 4楽章は今日の演奏ではもっとも美しく感動的である。しかし前の3楽章で死の暗示が明示的でないので、この楽章の持つ救済的な音楽の感興が薄れてしまうのは残念なことだが、おそらくノットはそういうことをあまり強調したくないのかもしれない。
全体の印象としては今まで聴いたことのないようなマーラーの九番だった。こういう演奏があったって決しておかしくない時代だと思うが、マーラーの音楽を聴いてはらはらしたりどきどきしたり、涙を流したりしたいものにとっては、対極的の演奏のように私は思った。ハーディングやティルソン・トーマスなどもその系統であり、一つの流れかもしれない。決して嫌いな演奏でなくCDでは、たまにはこういう系統のものを聴きたくなる時はあるのだ。演奏時間は85分。

武満の曲を最初に演奏した狙いはよくわからない。ノットの発案だとは思うが、私はこの大曲一曲で勝負すべきだと思う。以前アルミンクもこんなことをしていたがあまり成功していなかった。あの時はアルマ・マーラーの歌曲を冒頭にやっていたけれど!
 今日感じたが金管の精度は都響に比べるとわずかではあるが差があるように感じられた。ノットの手腕に期待したい。なお弦の編成はスダーンとは違って、コントラバスを左奥に並べていた。チェロとヴィオラは中央に並んで配置、第二ヴァイオリンは第一と対面で演奏されていた。
                                     〆

2014年4月19日
於:トリフォニーホール(1階20列左ブロック)

新日本フィルハーモニー交響楽団、第524回定期演奏会トリフォニーシリーズ
指揮:上岡敏之

シベリウス:交響曲第四番
ベートーベン:交響曲第六番「田園」

珍しい組み合わせのプログラムだ。両曲とも、肌触りが違うにしても自然を感じさせるという意味で共通点があるのだろう。

 シベリウスはライブでは初めて。いつもはCDで聴いているが起伏に乏しく、大体途中で眠ってしまう。しかし今日の演奏ではその様なことはなく、この曲は本来、起伏がおおきいということがよくわかる。この曲がこれだけ面白い曲だということにも驚かされる。おそらく上岡の音楽作りによるもの大であろうが、新日本フィルの演奏も素晴らしい。
 後半の2楽章が特に素晴らしいと思った。3楽章は良く聴いていないと全く単調な曲に聴こえるが、今日の演奏では決してそのようなことがない。弦を中心にした前半から、美しく、月並みないい方だが北欧の自然のひんやり感が伝わる。そして最後では、ぱーっと拡がるような開放感が素晴らしい。
 4楽章はそのムードを引っ張って、晴れやかな音楽が気持ちよく響く。さざ波の様な弦の刻む音も印象的である。まだまだこの曲を楽しむ段階にはないが、そのトバクチまで来ていることは、この演奏で感じられた。なおチューブ・ベルはオルガンの左前で演奏された。演奏時間は36分弱。

 田園は更に素晴らしい。これほど満ち足りた気持ちにさせてくれた田園を聴いたのは何年ぶりだろう。
 1楽章からして喜ばしい気分が充溢して、実に楽しい演奏だ。高弦はさらさらと美しく、低弦は音楽をしっかり支えた素晴らしいバランスだ。2楽章も美しいが少々モノトーンに聴こえた。もう少し色彩感があれば更に素晴らしいだろう。3楽章~4楽章、農民の踊りはスマートだが、木管群の響きが気持ちが良い。嵐も過度にオーケストラをあおらないのが良い。これでホルンがもう少し滑らかならいうことはない。
 でも最も素晴らしいのは5楽章だろう。ここでは音楽を演奏するのが喜ばしくて仕方がないという上岡の気持ちが洪水のようにあふれ出てくる。実に感動的である。この演奏を聴いて心が動かない人はいないだろう。ベートーベンの素晴らしさを改めて強く感じた演奏だった。それ以上書く術が私には思いつかない。演奏時間は39分弱。

 両曲とも新日本フィルの演奏は素晴らしい。シベリウスのひんやりとした寒色系の音の質感から、ベートーベンの緑の匂いがするような暖色系の音の質感まで感じさせてくれた。田園の3楽章の木管の掛け合いなどぞくぞくするくらい美しいが、5楽章の弦の美しさはホールの響きと相まって聴き惚れてしまう。昨夜のN響は席が9列目なので同列には云えないが、このようには響かなくてもう少しきりっとしていると思う。どちらが好きかと云えば新日本フィルの弦だが、まあこれは好みだろう。明日は東響によるマーラーだが、ジョナサン・ノットがどういう響きにするか、楽しみである。

2014年4月18日
於:NHKホール(1階9列右ブロック)

NHK交響楽団定期演奏会Cプロ
指揮:ネーメ・ヤルヴィ

グリーグ:ペールギュント組曲第一番
 1.朝
 2.オーセの死
 3.アニトラの踊り
 4.山の上の宮殿で

スヴェンセン:交響曲第二番
シベリウス:交響曲第二番

ヤルヴィ家の総帥ネーメはエストニア出身。今では長男のパーヴォのほうが有名?かもしれないが、今日のプログラムを聴いて立派な演奏でとても感動した。
 グリーグのペールギュントの朝が聴こえてくると、これはまあなんと素晴らしい音の連続だろう。さざ波の様な弦の響き、木管の織物の様な肌触り、全て素晴らしい。4曲目の山の上の宮殿ではN響の機能美を堪能した。

 スヴェンソンはノルウエーの作曲家でこの曲はグリーグが絶賛したものらしい。しかし中身はドヴォルザークの亜流のような印象で曲想が全て民謡のようなものの寄せ集めに聴こえる。聴きやすいことは聴きやすいがだからどうよって、趣である。正直少々退屈な曲だった。N響が一生懸命演奏すればするほど、つまらなくなる。お国では、今の評価はどうなのだろう。

 シベリウスは流石に素晴らしい。この古今の名曲中の名曲は聴かせどころがたくさんあって、指揮者としては腕の振るいどころなのであろうが、それゆえ指揮者によっては力こぶが目立つ演奏になる場合もあって、なかなか名演奏にはぶつからない。何年まえか、フィルハーモニア管弦楽団が来日した時もそうで、まるでブルックナーかマーラーを聴いているような錯覚におちいったくらいだった。たしか指揮者はサロネンだったと思う。立派な演奏だが私は好きではない。
 ヤルヴィの指揮は全く自然な流れである。いささかも無駄な力が入っていないような演奏。特に両端楽章は素晴らしい。力みがないのにオーケストラは十分鳴り切っている。決して重々しくもなく、軽くもなく、そう自然としか言いようがない。ところどころある休止は演奏によっては、偉く勿体ぶって音楽を停滞させるしろものもあるが、ヤルヴィの場合は全く停滞感がない。オーケストラの充実ぶりもそれを助けているのだろう。特に終曲はつい大げさになりがちだが、金管は決して突出しないのだ。それはおそらく低弦が充実していたからだろうと推察する。だから金管が思い切り吹いても全体のバランスが狂わない。輝かしさと重厚さのミックスがこのNHKホールで達成できた一例だろう。終曲で一か所傷があったが微細なものだ。
 3楽章のスケルツオ部分も素晴らしいが、なんと云っても聴きものはトリオの部分。ここでの木管の立体的な響きはは形容しようがないくらい美しい。スケルツオとトリオの緩急つけも大げさでなく自然なのも良い。
 2楽章はちょっと問題だ。中間部分でどういうわけだが金管がえらく突っ張って聴こえた。ティンパニも過剰反応気味で、他の3楽章に比べると少々不自然に聴こえた。ただこの楽章の抒情性は流石に聴かせる。
 久しぶりにこの名曲を堪能した夜だった。演奏時間は43分弱。
 明日はシベリウスで最も渋い四番を新日本フィルで聴くのだが、はたしてどうだろう?

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