ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2014年03月

2014年3月30日

「ローン・サバイバー」、マーク・ウォルバーグ主演(少々ネタばれあり)
久しぶりに新宿ミラノで見た。1000人以上入る大劇場で見る映画は格別。音響は飽和せず、戦闘シーンのリアルさは流石と思わせるものがあった。弾丸の飛び交う音、RPGの炸裂、機関銃の一斉射撃、兵士の滑落シーンなどなど音の効果がリアリティを倍加していると思った。これは小さな劇場では味わえないだろう。
 この映画は実話に基づいているという。このごろ実話に基づいているというのが多いが、このbesed on true storyというのが曲者で、この映画もどこまでが本当かはよく分からない。過酷な訓練を経てネーヴィーシールズに入隊した隊員たちのレッドウイング作戦の物語である。2005年6月にタリバン幹部の襲撃作戦をたてる。これがレッドウイング作戦。その偵察に向かう4人が主人公。しかし目的地で活動しているさなかタリバンの村人たちに遭遇してしまう。しかし当然タリバンの仲間だろうから助ければ自分たちが襲われる。しかし民間人を殺す判断がつかない。上司に判断を仰ぐが通信網が途中で途絶えてしまう。しかし彼らは村人を解放する。やがて200人ものタリバンの追跡を受ける。映画の大半がこの逃避行である。サバイバルをかけた逃避行だがそのプロセスがこの映画の見せ場、正直云ってこれでもか、これでもかという銃撃戦には疲れと云うか、飽きを感じたのも事実である。
 まあアメリカ人のご都合主義の映画だから、しらけるのは当然だが、都合良くアフガン人の一派が助けてくれるというのも、ほんまかいな、と疑りたくなる。それとこの作戦そのものの杜撰さにはあきれ果てるばかり。作戦開始しているのに作戦指揮官はベッドでねんねしているなんてありえるか?その指揮官はエリック・バナだ。こんな可哀想な役は可哀想だ。無線も、電話も通信不能なんてハイテクのアメリカらしくない。救出のへりに護衛もないなんて、人命を大切にするアメリカらしくない。これらが真実だったからこの作戦がこれだけ問題視されたのか、それとも本当にアメリカ軍はこんな間抜けな作戦をたてたのか?は良くわからない。こう云う映画は好きなのだが、あっぱれと云う訳にはいかない。まあ逃避行の部分のリアルさはあっぱれだろうが!

「ホワイトハウスダウン」、ジェーミー・フォックス、チャニング・テイタム
この映画はジェラルド・バトラー主演の「エンドオブホワイトハウス」と同工異曲。よくまあ同じような映画をほぼ同時に作るものだと、呆れてしまう。テロリストの性格が違うだけで、後はほぼ同じ。SPのテイタム、バトラーがセガールまっさおの大活躍でめでたしめでたしという映画だ。生意気な子供がでてくるところまで似ているのだから、節操がない。両方の映画を見る人は少ないでしょうが、文句は言いつつも面白く見てしまう自分が情けない。

「ローン・レンジャー」、ジョニー・デップ他
ローン・レンジャー誕生の物語。子供の頃テレビで良く見ていたシリーズだ。あのウイリアムテル序曲が鳴るとかっこいいと思っていた。ハイヨー・シルバーという掛け声も良かったなあ。しかしこの映画は昔の西部劇の素朴さのかけらもない豪華華麗なもので、ひとがばんばん死ぬのに、デップのふざけた演技はちょっと浮いているようだ。話もステレオタイプのグリード白人対虐げられたインディアンの物語。まあデッププロデュースのお遊び映画。
                                     〆

2014年3月29日
於:サントリーホール(1階17列中央ブロック)

東京交響楽団、第618回定期演奏会
指揮:ユベール・スダーン
ピアノ:ゲルハルト・オピッツ

ベートーベン:ピアノ協奏曲第五番「皇帝」
シューベルト:交響曲第二番

おそらく、音楽監督、スダーンの最後の定期公演である。
ベートーベンの皇帝は前にも書いたかもしれないが、最近はとんと御無沙汰である。正直聴いていてすぐ飽きてしまう。特に大げさにやられるともう辟易してしまうのだ。なぜそうなったのか皆目見当もつかないが、事実そうなのだから仕方がない。
 今日のオピッツ/スダーンの演奏は、全体に小ぶりである。オピッツのピアノは華麗さはほとんど感じないがそれが逆に良い。一音一音紡ぐように音を出してくる。地味で渋いベートーベンだが決して嫌ではない。ロンドもきらびやかさがないので、私にとってだが、この音楽を楽しみながら聴くことができた。スダーンも抑制的、金管などもむやみに鳴らさないのである。弦のさらさら感も十分あって、少々禁欲的かもしれないが、さわやかな皇帝だった。演奏時間は39分弱。

 シューベルトの二番はスダーンにその素晴らしさを教えてもらったようなものだ。2008年にサントリーで聴いて、その新鮮さに驚愕したのをいまでも覚えている。その時の録音CDは、その後東響のコンサート会場で1000円で発売されたので、すぐ買って聴いたが、ライブを彷彿とさせる録音でいまもってそれを凌駕する演奏はない。わずかにベーム/ベルリンが対抗馬だろうか?
 スダーンのシューベルトは私の印象では、等身大だということだと思う。わずか17歳の少年の、ただしおそろしく音楽的に早熟の少年の、作品をそのまま演奏している。何も足さない、何も引かないのだ。これと対極的な演奏はカラヤン/ベルリンである。とにかく立派すぎるのである。過ぎたるは及ばざるがごとしで、こう大げさにやられると、曲が少々貧弱に感じてしまう。例えば両端楽章は、後年のシューベルトの名曲たちに比べると、熟成度が少ないように思う。しかし熟成度は少ないが魅力がないわけではない。熟成度が少ないのを熟成度が多いように見せて演奏されると、この曲は本当に退屈なのだ。私にはカラヤンもそうだが、アバドもこの曲では成功していないように思った。
 スダーンは熟成していない音楽をそのまま料理してくれる。音楽は洗練されていなくて、荒削りのままである。ティンパニや金管にそれが現れている。ノンヴィブラートではないがヴィブラートのすくない弦もそれを助長している。とにかくいま出来上がったばかりのようにフレッシュで生き生きしているのが最大の魅力だろう。しかしそれだけではなく、例えば、後年のグレイトのスケルツオを先取りしたような、メヌエットはもうメヌエットではなくスケルツオのようだ。その前進力は凄いが、更に悲愴感すら漂うのにはドキッとさせられる。プレスト ヴィヴァーチェは金管もティンパニもあれ狂わんばかり。とにかく刺激的なシューベルトだった。演奏時間は34分強。

 演奏後スダーンは聴衆に挨拶するかのような仕草をした。ラストなので何かしゃべるのかと思っていたら、なんと楽団員でチェリストの井伊 準さんが数日前に急逝されたという報告であった、それも27歳の若さである。追悼の意をこめて、アンコールはシューベルトのロザムンデの第3幕の間奏曲だった。

2014年3月23日
於:サントリーホール(1階20列中央ブロック)

リッカルド・シャイー/ライプチッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団来日公演

マーラー:交響曲第七番・夜の歌

期待通りの名演と云うべきか、実は言葉が見つからない。このような七番は初めてであるからだ。いまもってその衝撃をどう咀嚼してよいかわからない。この曲は夜の歌と云う副題があるくらいで、幻想的で時には奇っ怪な部分もあって、どうもつかみどころがないのである。先日聴いたインバル/都響の演奏はこの曲のつかみどころのないところをそのまま生かした演奏だったように思う。

 今夜の演奏を象徴しているのは5楽章だろう。シャイーはここを明るく開放的にそして最後は歓呼のファンファーレで終わる。この楽章はロンドというだけあって、音楽がぐるぐる回る。同じような音楽が行ったり来たり、止まったり、走ったりめまぐるしいが、どこへゆくかわからない不安さを感じたり、またかといったような単調な気分になってしまう。しかしシャイーは全く不安な気分にはさせないし、最後のファンファーレのゴールをめざして堂々と進むのである。しかも同じサイクルの繰り返しなどと云う単調な気分には決してさせてくれない。むしろ次はどうくるのかと、楽しみになってしまうくらいだ。最後のファンファーレはサントリーホールが鳴動するような、大変な盛り上がりで実にスリリングだ。これは今まで聴いたことのない音楽だった。

 しかし一方では4楽章の「夜曲」は実に幻想的である。出だしから何か紗がかかったような、もやもやと云った印象で、そこから、ヴァイオリンやオーボエ、ハープ、ギター、マンドリンなどの音が、漂うようにあらわれてくる。このような演奏の後、突如として、5楽章が登場してくるのだ。この対比が何とも、呆気にとられるくらい素晴らしいし、効果的である。
 この楽章ではマンドリンやギターといった、交響曲では珍しい楽器が登場する。小さな音量の楽器なのでオーケストラの中で埋没しがちであるが、今夜はかなり存在感があった。ゲヴァントハウスのオーケストラ配置は左奥にコントラバス、その横に打楽器、更にその横に金管群そして右奥にはハープ、ギター、マンドリンが並ぶ。興味深いのはオーケストラはかなり高い段の上に乗っていることだ。第1ヴァイオリンの3列目までは舞台上、その後は3段の段の上に楽器が乗っているのである。従って最後列のコントラバスやマンドリンは1メートル以上の高さになる。おそらくそのために、マンドリンやギターの音の浸透力が高まっているのだろう。またクラリネットやオーボエなども2段目にあるので観客から良く見えるし、音を強調する時は上を向いて吹くので、木管の存在感も大きい。

 前半の3つの楽章も基本的には、明るく、輝かしくそして開放的な音楽である。しかし
シャイーの場合はそう単純ではない。たとえば1楽章の中間のアダジョの部分、2楽章も中間のpoco meno mossoの表記の部分の木管と金管の掛け合い以降、3楽章のトリオなどは歌また歌であり、音楽は一転落ち着いて、しなやかになる。オーケストラの反応も凄いが、シャイーの棒も冴えわたっている。この緩急の対比の鮮やかさがシャイーのマーラーの独創性を物語っているように思う。いままでこういう七番は聴いたことがない。いままでもそうだが、これからもシャイーから目を離すことはできないだろう。
演奏時間は75分強。                       〆

2014年3月21日
於:新国立劇場(1階10列中央ブロック)

エーリッヒ・ヴォルフガング・コルンゴルト
「死の都」

指揮:ヤロスラフ・キズリング
演出:カスパー・ホルステン
(フィンランド国立歌劇場からのプロダクションレンタル)

パウル:トルステン・ケール
マリエッタ/マリー:ミーガン・ミラー
フランク/フリッツ:アントン・ケレミチェフ
ブリギッタ:山下牧子
ユリエッテ:平井香織
リュシエンヌ:小野美咲
ガストン(声)/ヴィクトラン:小原啓楼
アルバート伯爵:糸賀修平
マリー(黙役):エマ・ハワード
ガストン(ダンサー):白髪真二
合唱:新国立劇場合唱団
児童合唱:世田谷ジュニア合唱団
管弦楽:東京交響楽団

「死の都」は神童と呼ばれたコルンゴルト23歳の時の作品で、初演後ウィーンで、2年間で60回も演じられたそうである。コルンゴルトがユダヤ人であることから演奏禁止になりそのまま忘れ去られた作品となった。戦後復活して今日では主要劇場のレパートリーになっているそうである。新国立では初めての公演。日本では今年、びわ湖ホールで沼尻の指揮で演じられている。日本での演奏史はよくわからないが、珍しい作品であることは間違いない。
 今回の新国立の公演はフィンランド国立歌劇場のプロダクションを移したものである。演出、装置、衣裳など、皆レンタルしたようである。フィンランドの公演はDVD化されて、見ることができる。フォークトとカミラ・ニールンドが主役を歌っており、素晴らしい演奏を聴かせてくれる。実は私はそれを知らないでそのDVDを購入し、聴いて/見てきたので、公演の直近で念のため、新国立劇場のパンフレットを見て、ああそういうことかとわかった次第。そういうことだからこの舞台は何度も見ているので頭におさまっている。

 この演出とト書きの最も大きな違いは、パウルの亡くなった妻、マリーが黙役で登場することである。ト書きでは肖像画を見て芝居が展開するが、この演出では本物のマリーがでてくるのである。演出家のプランは、そうすることによって、パウルの視点ですべてを見ることができるとしている。だからパウルしかマリーを見ることができない。ただし2幕~3幕の中盤までのパウルの夢の中では、3幕でマリエッタもマリーを見ることができる。だからト書きやCDでこの曲を勉強してきた方は、最初はこの演出に面喰うだろう。かくいう私もDVDを見て最初は何じゃいこれはと思った次第。しかし仕掛けがわかってみるとそう違和感があるわけではない。DVDも今日の新国立公演も黙役がうまいから特にそう思う。その他の演出はト書きとそう大きな違いもなく、また妙な読み替えもない。
 フィンランドと新国立の演出の違いはほとんどない。ただし全く同じかと云うとそうでもない。たとえば2幕ではフィンランドでは舞台に水が流れて、マリエッタの仲間たちがボートで登場する様をあらわしているが、新国立ではそういう仕掛けはなく、水は照明のみで表わしている。3幕の大詰めではパウルが感動的にマリエッタの歌を歌うが、フォークトは立って歌うのに、ケールはベッドに腰掛けて歌う。ブリギッテとの別れのシーンは微妙に動作が異なる、黙役の動きも少々異なるなど、気にすればいろいろあるが、些細な点である。

 舞台装置は左右の巨大な壁面に棚があり、マリーの遺品が並んでいる。床にもマリーの遺品だらけ。「在りし日を偲ぶ教会」とパウルがよんでいる部屋のイメージだ。正面には大きな開閉式のブラインドがあり、それが開くと正面には巨大なブルージュの地図があたかも3Dのように展開する。2幕ではこれが開くし、3幕では更に左右の巨大な壁が外側に開き、ブルージュの大聖堂やらなんやらが広く展開する。なお舞台中央には大きなベッドがあり、それは2幕ではボートになる。演出と舞台に関心のある方はこのDVDをご覧いただきたい。完成度の高い舞台を見ることができる。

 このオペラの音楽はR・シュトラウスとプッチーニを合わせたような音楽だというような評価をされる方をみかける。私も同感する部分多々あるということは認めつつも、マリエッタの歌やピエロの歌、1幕の舞台裏からのマリーの歌、3幕のマリエッタの「初めて愛を教えてくれた~」や同じく3幕のパウルの「友よあの人にはもう二度と会わないつもりだ~」から最後まで、などを聴くとほろりとさせられることも事実だ。マリエッタの歌は最近では「25年目の弦楽四重奏」と云う映画で、マリア・フォン・オッターがやはり主人公の亡くなった妻の役で出て、この歌を歌う印象的なシーンがあって、そこでもほろりとさせられてしまった。まあ四の五のと云わずに、甘い音楽に浸ればよいオペラだと割り切れば良いのだろう。しかし2時間半延々とこう云う音楽が続くのも辛いもので、ところどころ飽きがくるのも事実。肩肘を張らずに聴くオペラだ。

 パウルとエリエッタ役は大変な役だ。ほとんど出ずっぱりである。今日の公演は素晴らしいものであるが、その功はこの二人にある。
 パウルはフィンランドのフォークトとどうしても比べてしまう。ケールとフォークトでは声質がかなり違うので、比べること自身に意味がないと思うけれど、ケールの声はフォークトに比べ、美しさは共通だが、より力強く、鋭い。従ってフォークトの持つ透明で繊細な歌とは当然違ってくる。しかしこの悲壮感のただよう、ケールの歌いっぷりは愛する者を失った喪失感の克服というテーマに相応しい歌唱だったような気がする。最後まで美しいが最後の「この身にとどまる幸せよ」は少々重々しくなったのは残念。ここはフォークトの明るく昇華したような歌が素晴らしい。
 ミラーのマリエッタはとてもよかった。特に1幕の舞台裏からのマリーの歌や3幕の「初めて愛を教えてくれたその人が~」からパウルに殺されるまでの歌唱は今日一番、感動的でもある。フィンランドの二ールンドと比べると、ミラーのほうが女らしい優しさの様なものが勝っていたように思った。二ールンドはエロスの権化みたいなイメージでこれも対象的であった。いずれにしろこのパウルとマリエッタの二人の役はフィンランドと新国立では甲乙つけがたく、好みで判断するしかないだろう。
 フランクとフリッツのケレミチェフは代役であるが、立派にこなしていた。ピエロの歌はもっと感情移入して歌っても良いだろう。ちょっとまじめすぎたように思った。しかしこの歌を含む2幕の前半はトゥーランドットの2幕のピン・ポン・パンの歌やナクソス島のアリアドネのツェルビネッタやハルレキンの出る場面のようで、あまり面白くない。またマイヤーベアの「悪魔のロベール」の修道院の場面を再現させたりしているのも超ヒット作品におもねったみたいだ。マリエッタの奔放さを表現するために挿入したのだろうが、私には退屈な場面だった。
 その他の歌い手ではビルギッタの山下の豊かな落ち着いた声は役柄に相応しく、終演後も拍手をたくさんもらっていた。

 キズリングの指揮もこの後期ロマン派の殻を背負った、大規模な曲をうまく捌いてくれた。スケールが大きく聴き映えのする演奏だった。ドラマティックに演奏していたフィンランドのフランクに比べると、もう少しおおらかな演奏に聴こえた。東響の演奏も優秀。初めて接した、この曲を認識させられた立派な演奏だった。演奏時間は147分。〆



 

2014年3月20日

もう古い話だが、アカデミー賞が発表になった。私の本命は「ゼロ・グラヴィティ」だったが、作品賞を逃してしまった。SFはとれないというジンクスは今回も当たった。しかし映像の芸術である映画で、画期的な映像で、ストーリーも十分満足のゆくものなのになぜとれないのか、素人の私にはわからない。正直、今回の作品賞受賞作をわざわざ劇場まで見に行く気にはなれない。まあ部屋でDVDを借りて見ても十分その映画の真髄は感じられるだろう。それに最近はすぐDVDレンタルになるので時間差をあまり感じなくて済むのだ。たとえば見損なったジェニファー・ローレンス主演の「ハンガーゲーム2」などは映画館での上映が終わったと思ったら、もうDVDレンタルの予告がでていた。まあそんなこんなで「ゼロ・グラヴィティ」以来劇場にはいっていない。DVDで何本か見ているがあまりお薦めできるものはない。昨夜はシドニー・ルメットの「評決」をDVDで見たが、何度見ても最後まで惹きつける。こう云う映画は今はなかなか見ることはできないような気がするのだが?

ということで今回は数本のDVD紹介である。

「二流小説家」、上川隆也、武田真治主演
アメリカのデヴィッド・ゴードンの原作「SEARIALIST」の翻案である。エロ本やヴァンパイアものばかり書いている売れない二流小説家、上川はある時連続殺人犯で死刑囚の武田から手紙をもらう。武田は4人の女性を殺し首を切った。その写真を残したことからフォトキラーと呼ばれている。彼は上川に告白したいという。しかし会ってから次々と変事が起こる。上川はもう一度事件を洗おうと決意する。まあそういう話。話はこれ以上書けないが、すこぶる面白い展開。原作の翻案も一部をのぞいてうまくできている。基本的には原作に忠実だ。上川の売れない小説家ぶりはなかなかのものだが、原作では売れないにしても隠れファンがたくさんいるということになっているがそういうところは時間の関係かはしょられている。小説家の自称マネージャーの取り扱いも原作の様な面白さは出ていない。問題は武田の演技だろう。これは相当違和感があった。まあ全体としてはよくできている翻案ものだ。

「2ガンズ」、デンゼル・ワシントン、マーク・ウォールバーグ主演
何とも奇想天外なお話。こんなハチャメチャな話は初めてだ。2人組の怪しげな男たち。相棒のようで相棒でないような、得体が知れない。彼らが銀行強盗を行う。この背景にはメキシコギャングあり、CIAあり、海軍あり、麻薬捜査班ありのてんこもり。呆れてしまうような話だが最後はどうなるのか知りたくて全部見てしまった。暇つぶしにはなる。それにしても演技派?のデンゼル・ワシントン、こんな映画に出ていていいのかい、と云いたくなった。

「逃亡者・ランナウエイ」、ロバート・レッドフォード監督主演
原題は「THE COMPANY YOU KEEP」。とにかく俳優陣が凄い。スーザン・サランドン、クリス・クーパー、シャイア・ラブーフ、ジュリー・クリスティ、ニック・ノルティといった面々。硬派のドラマで、小説の映画化。
 30年前ベトナム反戦の過激派だったサランドンが自首する。そこから過去の仲間たちが焙りだされる。レッドフォードもその一人、ミシガン銀行強奪・殺人事件の犯人として、追われる。それを負うFBI、新聞記者のラブーフなどが入り乱れ真相が暴かれてゆく。ラストが美しすぎるように思うが面白い映画だった。レッドフォードは年はとったが、こう云う役ははまり役。その他多彩なキャストで魅力的な一本だった。

「震える牛」、三上博史、小林 薫
ベストセラーの相場英雄の原作のテレビ映画化。45分×5本の長尺にまとめてある。話は薄まってはいるが、原作の面白さがよく出ている。相変わらずの警察ものワンパターンの組織、組織の一点張りだが、主人公の刑事の三上が好演。ただし原作のイメージとは少々異なる。

「ラストシャンハイ」、チョウ・ユンハ主演
原題は「LAST TYCOON」、中国の田舎で生まれたユンハは成功を夢見て上海へ行く。一方彼には心に誓った恋人がいる。彼女はしかし京劇の役者を夢見て北京へ。1913年~1940年までの上海を舞台に物語は展開する。
 二人は再開するがユンハは上海の裏世界のボスとしてのし上がり、恋人は京劇の女優として成功する、二人は上海で再会する。ドンパチのギャング映画かと思ったら、純愛ドラマで肩すかし。日本を悪者にした国威発揚ドラマの様でもあり、妙に忠義や仁義を振り回す任侠映画でもある。できの悪い香港映画だ。

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