ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2013年10月

2013年10月13日
於:サントリーホール(1階17列中央ブロック)
 
東京交響楽団、第614回定期演奏会
指揮:ジョナサン・ノット
ソプラノ:クリスティーネ・ブリューワー
 
シュトラウス:4つの最後の歌
        :アルプス交響曲
 
次期音楽監督のジョナサン・ノットの実質デビュー戦である。後期ロマン派を得意にしている彼にとっては今日のプログラムは自家薬籠中であろう。
 4つの最後の歌は後半の2曲が実に感動的だった。「眠りにつくとき」は2節の後の間奏が素晴らしく美しく、感動的。大谷ヴァイオリンソロにも引き込まれる。そして3節の「見張るものなき魂も~」の歌唱とオーケストラの一体になった響きの感動的なこと。ただ4行目のtausendfachはもう少し穏やかに歌っても良かったのではないかと思った。少々絶叫気味。4曲目の「夕映えの中で」も歌唱とオーケストラが見事に一体になり、最初から終わりまで胸が締め付けられるような音楽でいっぱいだった。ソプラノは相当な重量級でよたよたと出てきた時はどうなるかと思ったら、こんな素晴らしい歌を聴かせてくれた。ただ前半の2曲は私には強く歌う部分が絶叫調に聴こえ不自然に思われた。もう少し声を抑制させても良かったのではとおしまれる。
 「アルプス交響曲」に限らずこのごろどうしてもシュトラウスの交響詩は退屈でいけない。今日もそうで特に前半がつまらなかった。後半の山の頂上のパノラマの様な音楽は素晴らしいバランスで鳴り、そのあとのエレジー~嵐~日没までも全く過不足ないが聴く耳がもういいと云っているようで、なかなか感情移入ができなかった。
 東響の演奏は相変わらず良い。昨日のブルックナーと比べても音響的には甲乙つけがたい。
4つの歌での弦楽部のしなやかな音色は魅力的だし、アルプスでの金管部の威力も凄まじい。
そしてこれは昨夜もそうであるが、オーケストラ全体の音のバランスが理想的であった。どの楽器も無駄に突出せず、全体のバランスの中で明快に存在する。これは口で言うのは簡単だが、いつもこのようには聴こえないのだ。先日の「惑星」などはそのアンバランスさで耳が壊れそうになったくらいだ。バランスの良い音だといくら音が大きくても決して耳に刺激的にはならないし、各楽器はかき消されることなく明快なのだ。これが指揮者の力量なのだと私は思う。たとえば今日のオルガンだがいつもは全体に埋没するように聴こえるのだが、今日は突出はしないが、その存在はあきらかに聴こえて印象的だった。ジョナサン・ノットの指揮でマーラーやブルックナーを聴いてみたいものだ。                                       〆   

2013年10月12日
於:サントリーホール(1階17列右ブロック)
 
読売日本交響楽団、第530回定期演奏会
指揮:スタニスラフ・スクロヴァチェフスキー
 
スクロヴァチェフスキー:パッサカリア・イマジナリア
ブルックナー:交響曲第四番「ロマンティック」
 
ブルックナーが素晴らしい演奏だった。スクロヴァチェフスキーのブルックナーは過去7,8,9番を聴いてきた。いずれも立派な演奏には違いない。しかし私には今一つ食い足りないところがあった。それはテンポの変動があまりにも極端なことで、たとえば九番の演奏などはあまりに大きくてその落差を受け止められず、今一つ感情移入ができなかった。しかし今夜の四番はそういう不安は払しょくされ、すこぶるスケールの大きな演奏を聴かせてくれた。
 1楽章の提示部からゆったりして、恰幅の良さを感じる。息の長いホルンも実に美しい。2主題もゆったりとして落ち着く。展開部で1主題が帰ってくるところは少々忙しくなるがほんの短い時間であり、コラールの部分のスケールの大きさは今までのスクロヴァチェフスキーとは少々違うように感じられた。コーダも決して急がず、おおぶりな演奏で、心が動く。
 2楽章が今日のベスト。ゆったりしたテンポは変わらない。くすんだような弦の音色が素晴らしく、寂しさの限りを尽くす。これほどこの楽章で心が動いたことはない。特にヴァイオリンのピチカートにのって、ヴィオラが主題を奏する部分から、次第に音楽が沈潜してゆく様は尋常な美しさではない。そして最後のクライマックスでは音楽が立ち上がり、トランペットの一閃、サントリーホールの天井から音が落ちてくるような、素晴らしい輝きが聴く者を圧倒する。
 3楽章のスケルツォ部分はやや駆け足である。トランペットが必死に食らいついてゆく様は、手に汗握る迫力を感じさせる。これだけヴィヴィッドなスケルツォはそうないだろう。しかし2主題はまた落ち着いたテンポに戻り、トリオは更に音楽が深く沈潜する。感動的な演奏だ。
 4楽章の1主題の提示のスケールの大きさはどうだろう。音の変化がうねるようで、音の渦にのみ込まれてしまう。ここはテンポをいじりたくなるが、そういうことはなく、ゆったりとした足並みで押し切るところが凄い。2主題のしなやかさは耳に快い。圧巻はコーダで、ここも一切テンポを動かさないで、最後まで同じテンポで押し切る。音量より何よりその音楽のスケールの大きさに圧倒されてしまった。なお冒頭シンバルが盛大に鳴るし、終結部の入りの部分でも小さくシンバルを鳴らす。後者はあまり聴いたことがない。
 演奏時間は67分。ヴァント/ベルリン盤とほぼ同じだが印象は少し違うように思った。
四番のライブは昔ルツェルン音楽祭で聴いたカラヤン/ベルリンを超えるものはないと思っていたが、今夜の演奏はそれに勝るとも劣らない演奏だと思った。今夜の読響の演奏もベストだろう。まず高弦がこれだけみずみずしい演奏はあまり記憶がない。金管群の素晴らしさは特筆もの。いつもは不安なホルンは1楽章冒頭から安定していたし、トランペットの美しく、透明な音も印象的だ。あれだけ大きな音を出しても全く耳を刺さないのだ。低弦群の分厚い音もしっかりブルックナーサウンドを支えていた。全体のバランスは私の好きなピラミッド型で、生理的にも快感を感じる立派な演奏だった。
 1曲目の指揮者の自作自演は初めて聴く曲なので何とも言えないが、この手の音楽にはあまり関心がないので正直眠かった。
 
 

2013年10月6日
於:新国立劇場(1階8列中央ブロック)
 
ヴェルディ「リゴレット」新国立劇場公演
指揮:ピエトロ・リッツォ
演出:アンドレアス・クリーゲンブルク
 
リゴレット:マルコ・ヴラトーニャ
ジルダ:エレナ・ゴルシュノヴァ
マントヴァ公爵:ウーキュン・キム
スパラフチーレ:妻屋秀和
マッダレーナ:山下牧子
 
新国立新シーズンを飾る新演出のリゴレットだ。正直云って、かなり疲れてこのブログも書く気がしないくらいだ。理由は複合的で一口では言えない。
 まず歌手だ。リゴレットをのぞいて、そこそこ合格点の歌手ばかりで、昨シーズン後半のナブッコやコジファントゥッテのような素晴らしいキャスティングに比べると物足りない。
 リゴレットのヴラトーニャは、声も声による演技も皆素晴らしい。1幕の「おれたちは同じ穴のむじな」、ジルダとの2重唱、2幕の「悪魔め鬼め」、2幕最後のジルダとの2重唱、3幕の幕切れの歌も皆素晴らしい。わずかに1幕最後の「これがのろいか」は少々空振り気味だったが、それ以外は云うことがない。少々明るめの声だが違和感はない。
 ジルダは可憐な少女の趣で、それはそれでよい。その雰囲気できれいな声を聴かせてくれるし、グァルティェーレ・マルデのコロラトゥーラも立派だ。しかしヴェルディのオペラの、感情を声に託した部分になると今一つの力感に欠ける。例えば2幕の幕切れのリゴレットとの2重唱では自分の切ない気持を声に載せきれていないように思った。
 マントヴァ侯爵のキムは2011年2月に新国立で椿姫のアルフレートを聴いてがっかりしたのを覚えている。その時に比べれば格段の出来だと思った。1幕の「あれかこれか」は今一つ元気がなく、アルフレート並みかと思ったが、そのあとのジルダとの2重唱や2幕の「頬にかかる涙」や3幕の「女心の歌」など皆立派。いずれも慣習的な最高音は避けていたが、これは今の風潮だから仕方がない。わずかに物足りないのは、今一つのぴんと張り詰めた声が聴けないことだ。ジルダと同じできれいに歌っているのだが、それを突き抜ける声を聴きたいものだ。しかしマントヴァならこの程度で十分かもしれない。そういう意味ではジルダとの2重唱が、今日一の歌唱だった。
 マッダレーナは難しい役だと思う。ライブで満足ゆく歌唱を聴いたことがない。今日も存在感の薄いマッダレーナだった。スパラフチーレもそつがなく歌われていた。
 リッツォの指揮はなかなか威勢が良い、というかヴェルディの音楽の持つ熱気を十分伝えてくれた。要するに音楽が十分に舞台上の人々の心の動きを伝えてくれているのである。緩急のめりはりつけが極めて印象的。ただ1幕の終わりは少々のめった感じでいただけなかったが、それ以外はヴェルディの緊張感あふれる音楽で一杯だった。。
 演出は本当に見ていて疲れた。相変わらずの読み替えで、まあこれは仕方がない。しかしなんとこの新演出ではホテルが舞台で時代は現代である。1幕、2幕はホテルのロビー、3幕はホテルの屋上で音楽が進む。舞台の7割くらいのスペースは巨大な円筒型の3階建てのホテルがそびえている。各階には部屋があって、そこから廷臣らが出たり入ったりする。その円筒ホテルは1幕では殆どくるくるまわっていて、かたかたとうるさい。1幕はロビーが宴会場。あれかこれかを歌うマントヴァはロビーで廷臣たちに囲まれて歌う。舞台の両サイドにはバーカウンターがあって、すでにスパラフチーレもバーで酒を飲みながら出番を待っている。モンテローネは2階から歌う。モンテローネの呪いの後、舞台はスパラフチーレとリゴレットが残り、2重唱。でもこの歌、ホテルのロビーで聴く歌かあ! 殺し屋が去った後、ジルダがホテルの部屋のどこかからあらわれてリゴレットとの2重唱やマントヴァとの2重唱を歌う。要するにマントヴァ侯爵の屋敷とリゴレットの屋敷とは同じホテル内にあるのだ。まあこの時点でもう戦意喪失してしまった。ジルダが誘拐されるのも、このホテル内である。2幕でマントヴァがジルダがいなくなったと泣く歌は、舞台右手のバーカウンターから歌い始める。リゴレットが登場してジルダを探すのもこのホテルのロビー。まあこういう設定で、このオペラを楽しめる人は相当寛容な人か、こういう珍奇な演出が好きな人だろう。私はどちらでもないので疲れ果ててしまった。ジルダが凌辱されていることを思わせるように、何人かの女が下着姿でホテルの各階で廷臣たちにもて遊ばれているシーンがあるが、こう云うのは音楽の邪魔だし、不快である。マントヴァが「ほほにかかる涙を」歌っている間中、そういう光景が続くのである。
 3幕はホテルの屋上。スプマンテの宣伝広告塔がスパラフチーレの家だ。屋上にはホームレスがたむろしている。マントヴァはエレベーターで上がってきて、マッダレーナを誘惑する。ヴェルディの原作の香りなどあったもんじゃない。ジルダが自己犠牲で死ぬ場面など笑ってしまう。スパラフチーレの店にはドアがないので、一晩泊めてくれと彼女がノックをするのだが、なんと自分が入ってきた屋上の非常口のドアをノックする。殺される場面のスパラフチーレの家の中ではなくその非常階段の前で殺される。演出家も辻褄を合せるのが最後は面倒くさくなったんじゃないのかと思わせるような演出。初めて見る人はジルダはどこ叩いてるのだろうと不思議に思ったに違いない。マントヴァは宣伝広告塔から出てきて女心の歌を歌いながらエレベーターで帰ってゆく。
 演出家に最低限お願いしたいのは音楽の邪魔しないでくださいということと、説明できる合理的な動きを歌手にさせてくださいということです。その他はなにしても良いですから!
 新国立もとうとうこう云う演出が多くになってしまった、時代だから仕方がない。まあなかにはなかなか面白い演出もあるのだから、そいうものを期待しよう。いつまで続くのでしょうかね、こういう流行は!今日の演出がヴェルディのト書き通りの時代設定と動きだったら、きっと私には歌はもっと良く聴こえたでしょう。
 リゴレットは私の初めてのヴェルディ体験だ。学生の頃、ショルティの指揮、メリル、モッフォ、クラウスの組み合わせが初めてのレコードである。この後70年代になって、ジュリーニ、カプッチルリの盤とシノーポリ、ブルゾンの盤にめぐり合い、それ以来この2セットばかり聴いてきた。最近シャイー、ヌッチ盤を買い聴き初めたが、今一番気に入っている。シャイーの直線的な音楽作りは、私の好みだ、歌手も若きヌッチ、パヴァロッティが素晴らしい。
 なお今日の演奏時間は116分(拍手込み)でシャイー盤とほぼ同じである。
                                                       〆                                               

2013年10月4日
 
「許されざる者」、渡辺謙、佐藤浩市、柄本明主演
御存じクリント・イーストウッドの「許されざる者」のリメイク版。結論的に云うと面白かったが、物足りさも残った。
 オリジナルは西部劇だったので、チャンバラ映画になるのかと思っていたが、明治維新後の10年くらいの北海道を舞台にしている、この読み替えが秀逸だ。黒澤の七人の侍のリメイクの荒野の七人は戦国時代→西部劇とオーソドックスな読み替えだったのとは対照的である。それによるオリジナルとの差異は明治政府対幕府軍の生き残りとの対決構図や薩長の反目などをちょっぴり時代背景として生かしているところと北海道という舞台を意識してかアイヌの差別という社会性をも織り込んでいると云う点だろう。こういう織り込みはとてもうまいとおもったが、反面それを強調することが、主人公の十兵衛や警察署長のもつ人物の描写と云う点から云うとそれらは少し薄まっているように思った。もうひとつオリジナルとの差異は十兵衛の立ち回り~エンディングだろう。オリジナルはピストルでの戦いだから一瞬で、マニーの冷酷さを瞬時に感じるが、今回は刀と銃とがミックスで全体にもたもたしていて、十兵衛が覚醒して昔の冷酷無比の男に戻る様が今一つの様に思った。渡辺とイーストウッドの差かもしれない。エンディングの差異は好みの問題だろうが、私はオリジナルのほうが、劇場を出る時の気分が良いように思った。
 それ以外は全くコピーと云うくらい同じ話である。見事なくらいうまく同化させている。牧童が便所で殺されるシーンや、オリジナルのイングリッシュボブ(この映画では長州の剣術使い)が警察署長にぼこぼこにされるシーンなど細かいところまで似ている。まあそれがオリジナル性からすると物足りなさに通じるかもしれない。私のようにオリジナルを数え切れないほど見て隅から隅まで覚えているものにとっては次に来る場面がわかってしまうという問題がでてくるからである。
 俳優たちはみなうまい。十兵衛の渡辺、警察署長の佐藤、十兵衛の仲間の柄本、長州の剣術使いの国村(相変わらず台詞は聴きとりにくい)、女郎の小池栄子は表情が良い、台詞がなければもっと良かった。渡辺とイーストウッドの差は冷酷無比の昔に覚醒する場面であろう。この変化の妙は両役者の見せ場であるがそれぞれ個性的である。私はイーストウッドが好きだ。なぜリメイクしたかよくわからないし知りたいとも思わないが、最近では最も面白い邦画であり、時代劇だった。(劇場にて)
 
「サイドイフェクト」ジュード・ロー、ルーニ・マーラ他
ソダーバーグ監督で俳優陣も豪華。これでつまらないはずはないが、私には少々ダルな印象だった。心理ドラマ風なサスペンスだからか全体に話がもたもたしているし、何よりも話のスケールがみみっちい。あの麻薬を扱った壮大なスケールな「トラフィック」と比べるとよくわかるだろう。原題は副作用という意味だろう、それからして薬物を取り扱ったものだと云うことが分かるが、インサイダー取引をもう一つのキイワードにしているところがこひねりである。期待外れ大の一本。(劇場にて)
 
「悪人に平穏なし」スペイン映画
元特殊部隊の失踪人捜査課の刑事。過去の事件を引きずり、心を病み、アルコール依存症で自堕落に生きている。彼が起こした殺人が麻薬事件、テロ、失踪事件とつながって、なかなか面白い。(レンタル)
 
「クリーンスキン」ショーンビーン、シャーロット・ランプリング
イギリスに住む、ムスリムの学生がテロ組織からの誘いを受けテロリストへ。ロンドンで頻発するテロを追跡するアフガニスタンで戦った退役兵、彼は諜報部から極秘でテロリストの追跡を依頼される。テロリストの追跡劇と一人の人間がテロリストになってゆく過程が、時間空間の中で行き来する。しかしそう単純でない政争劇がそれに潜んでいた。これも面白い映画だった(レンタル)、クリーンスキンとは前科のないやつと云う意味。 (レンタル)
 
「パーフェクト・ヒート」ミッキー・ローク
原題は「JAVA HEAT」、ジャワを舞台にした映画。しかもジャワの王女誘拐、ムスリムのテロなどがからんでなかなかにぎやかな映画だ。インドネシアのロケが興味深く、最後の場面はもしかしたらボロブドゥール遺跡かもしれない。雑なつくりだがは話としては面白い。(レンタル)
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2013年10月2日
於:サントリーホール(1階20列中央ブロック)
 
読売日本交響楽団、第564回サントリーホール名曲シリーズ
指揮:スタニスラフ・スクロヴァチェフスキー
 
ベルリオーズ:劇的交響曲「ロミオとジュリエット」抜粋
         序奏、愛の情景、ロミオひとり、キャピュレット家の大饗宴
ショスタコーヴィチ:交響曲第五番
 
マエストロは今年90歳だそうだ。しかし年は全く感じさせない元気な演奏で驚かされる。
 ベルリオーズの「ロミオ~」はスクロヴァチェフスキとはミスマッチかと思ったが両端の2曲はみずみずしいほど音楽が生き生きしている。しかもきびきびしているので、下品にならないのがなにより。しかし聴きものは中間の2曲だろう。特に愛の情景ではチェロで奏される誰もが一回聴いただけでもう忘れられなくなるあの主題を始め、音楽が陶酔的に鳴る。90歳が生み出す音楽とは信じられない。読響の弦楽セクションも素晴らしい演奏だ。
 ショスタコーヴィチ、前半の3楽章は、危険を恐れずに言えば少々淡白、緩急をあまりつけないせいかもしれない。まあ淡白と云うのは少々言い過ぎかもしれないが、音楽がきりりとしている。1楽章は強弱の対比が大きく、揺るぎがない。2楽章も同じ傾向。3楽章は美しいが耽美的な美しさではなく、凛としたたたずまいが、音楽の厳しさを感じる。
 しかし、4楽章は様相が変わる。最初の主題は幾分遅く入ってくる、スケールが大きい。そして繰り返しでテンポが上がるが、この上げ方は相当激しい。ブルックナーなどでマエストロが時々やるが、この楽章ではどの部分もこのこのテンポの対比と強弱の対比の相乗効果が興奮を呼ぶ。終結部では音楽が止まるのではないかと思われるくらい腰を落として、素晴らしいスケールだ。読響の弦セクションと金管など他の楽器とのバランスも良いので素晴らしい音場が形成される。今夜の読響の良いところは弦セクションが分厚く音楽の土台を支えていたことだ。この楽章のの終結部もへたをすると、高弦がキンキン云ったり、金管が突出したりするが、今夜はそのようなことはないのだ。オーケストラを聴く醍醐味を味あわせてくれる演奏だった。 
10月5日追記:ショスタコーヴィチについて上記の様に書いてみたが、正直云ってまだこの曲への立ち位置がよくわからない。従って自分の軸になる演奏がなかなかつかめないのである。たとえばブルックナーならヴァントやカラヤン、ベートーベンならカラヤン、シャイーやティーレマンなどが一つの標準になりそれと比べてどうという聴き方ができるが、ショスタコーヴィチの五番はいつもフラフラして聴いている。何度聴いてもそうなのだからこれからもつかみどころのない曲になりそうだ。                                                 〆                                                       

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