ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2013年10月

2013年10月26日
於:新国立劇場(1階11列中央ブロック)
 
モーツァルト「フィガロの結婚」、新国立劇場公演
指揮:ウルフ・シルマー
演出:アンドレアス・ホモキ
 
アルマヴィーヴァ伯爵:レヴェンテ・モルナール
伯爵夫人:マンディ・フレドリヒ
フィガロ:マルコ・ヴィンコ
スザンナ:九嶋香奈枝
ケルビーノ:レナ・ベルキナ
バルトロ:松位 浩
マルチェッリーナ:竹本節子
バジリオ:大野光彦
バルバリーナ:吉原圭子
 
昨シーズン最後の「コジファントゥッテ」に引き続き素晴らしいモーツァルトだった。特に3~4幕は深い感動をもって聴いた。ホモキの演出は2010年以来のもので、もう何度めだろう。繰り返してこの舞台に接するとだんだん練れてくるのだろうか、とても歌い手の動きがスムースで音楽を集中して楽しむことができた。ただ4幕の暗闇での人の出入りはどの演出を見てもごちゃごちゃしているがこの演出でもあまりうまくいっているとは思えない。それとこの公演の衣裳は最初は時代を感じるが、4幕になると皆白い衣装を着ているので、余計ごちゃごちゃしてしまう。それをのぞけばハチャメチャな演出が多い中まともと云える。
 歌手たちはコジと同じで皆素晴らしい。このフィガロの2010年もよかったが、今日はそれ以上の素晴らしさ。特に主役級の4人、とりわけ女声の二人は特筆ものである。伯爵夫人の2幕のカヴァティーナはそれほどではなかったが、3幕のアリア「どこへ行ったのでしょう、あの美しい時は~」には心を動かされた。4幕の伯爵に許しを与える場面の立ち姿の美しさ、気品のある声は万人の心を揺さぶるだろう。九嶋は2010年はバルバリーナを歌っていた。今回はスザンナである。コケットさは少々欠けるものの、その歌唱は素晴らしいもので、どれでも良いが、特に伯爵夫人との2重唱「そよ風に寄せる歌」は印象に残った。伯爵夫人の少々落ち着いた声と九嶋のさわやかで、軽やかな声がミックスされて極上の響きだった。
 伯爵のモレナールは柔らかい部分と厳しい部分との使い分けが実にバランスがよく、例えば3幕の18曲レチタティーヴォとアリアの硬軟織り交ぜた歌唱はシルマーの少々速めのテンポに乗って立派だった。フィガロは1曲目の2重唱では少々固めだったが、3曲のカヴァティーナではその様なことがなく、軽妙だけれどもしっかりした声でフィガロに相応しい。
 ケルビーノは姿が美しい。声はもう少し透明だったらもとよかったろう。邦人ではバルトロとバジリオがとても良かった。バルトロは軽妙なだけでなく、見せかけの堂々とした押し出しが声に出て面白かったし、バジリオのコミカルな歌唱は舞台にアクセントを与えていた。その他マルチェッリーナ、バルバリーナ皆良かった。歌だけだったら昨年のウィーン国立歌劇場より良かったかもしれないと云ったらほめすぎだろうか?
 シルマーの音楽は前半はちょっととんがった感じで、違和感があった。序曲なども3分20秒の超快速なのは良いのだが、オーケストラをあおって、なにか重戦車の突進みたいで、モーツァルトの軽妙さには欠けるような気がした。2幕の最後の7重唱も猛スピードで突っ走るのは良いのだが、軽妙さに欠けるのでここも重々しい。指揮姿を見ているとショルティのようだった。しかし3幕から、こちらの耳が順応したためか、がらりと変わって音楽がとてもしなやかに聴こえる。前述の「そよ風に寄せる歌」、伯爵夫人のアリアや伯爵のアリアにつける音楽には重々しさはなく爽やかでしなやかなモーツァルトの音楽に満ち溢れていた。演奏時間は164分だが4幕のマルチェッリーナとバジリオのアリアはカットされていた。                      〆
 
追記(10月28日)
久しぶりにベームの演奏を聴いてみた(3~4幕)。伯爵:ディースカウ、伯爵夫人:ヤノヴィッツ、フィガロ:プライ、スザンナ:マティス、ケルビーノ:トロヤノス、凄いメンバーですね。もうこんなメンバーでは聴くことはできないでしょう。でもこのレコードはとても古い(1968年)録音ですが、全く古さを感じません。今まではアバド盤とショルティ盤を聴いてきましたが、今回聞きなおしてこのベーム盤の素晴らしさを改めて感じました。女声陣の素晴らしさはこれ以上は考えられないほど。昔のアルバムを見ていたら1974年のザルツブルグ音楽祭のプログラムが出てきました。8月24日、座席ナンバー26列の53でした。指揮はカラヤン/ウイーンフィル、演出はポンネルの美しい舞台です。もうこう云う演出も見られないのがとても寂しいですね。伯爵:トム・クラウセ、伯爵夫人:エリザベス・ハーウッド、スザンナ:ミレルラ・フレーニ、フィガロ:ホセ・ファン・ダム、ケルビーノ:フレデリカ・フォン・シュターデ、脇役も凄いですよ。バジリオ:ミシェル・セネシャル、バルトロ:パオロ・モンタルソロ、マレチェッリーナ:ジェーン・ベルビエ、アントニオ:ゾルタン・ケレメンでした。夢の様な舞台でした。とても懐かしいです。懐古趣味に浸っても仕方がありませんね。現代に生きる私たちも素晴らしいモーツァルトに会うことができるはずです。先日のプラハの「魔笛」やこの新国立のプロダクションなどはその一例ですね。今後も期待しましょう。

2013年10月25日
於:NHKホール(1階9列右ブロック)
 
NHK交響楽団、第1765回定期演奏会Cプログラム
指揮:ロジャー・ノリントン
ピアノ:ラルス・フォークト
 
ベートーベン:序曲「レオノーレ」第三番
ベートーベン:ピアノ協奏曲第三番
ベートーベン:交響曲第五番「運命}
 
ノリントン健在なり。来年は80歳になるが、毎年N響で聴けるのがうれしい。彼のベートーベンは基本的にはロンドン・クラシカル・プレーヤーと80年代に録音した交響曲とピアノ協奏曲全曲録音とは大きな差がないように思う。この録音を聴いた時の驚きは大変なものだった。大げさなベートーベンに嫌気がさし、遠ざかっていたが、この録音を聴いてまたベートーベンを聴き始めた。以来全集がたまりにたまっている。シャイー/ゲヴァントハウス、ティーレマン/ウィーンフィル、カラヤン/ベルリンフィル(60年盤、75年盤)、ラトル/ウィーンフィル、クレンペラー/フィルハーモニア、セル/クリーブランドその他単発ではフルトヴェングラー/ウィーン、クライバー/ウィーン、ベーム、ヤルヴィなどなどである。でも今一番良く聴くのはシャイーとティーレマンだ。このまるで対象的な演奏は本当に興味深い。ついでノリントンの旧盤、特に1~2番は圧倒的だ。ついでラトル盤、これはピリオド型と伝統型をうまくミックスしたもので気に入っている。その他は単発で英雄はベーム盤、七番はクライバー盤、第九はフルトヴェングラー盤を聴く。ところが最近タワーレコードの輸入盤でカラヤンの60年盤のSACD盤が発売されているのを知り、早速求めたが、これがまるで見違えるような素晴らしい録音になっていて、今はこれは別格大本山的CDとなっている。
 さて本題に戻ろう。レオノーレは小手調べとして、素晴らしかったのは三番のピアノ協奏曲だ。楽器配置がユニークだ。ピアノは指揮者に直角にならずに、指揮者と向かい合って配置されている。ピアニストはちょうど弾き振りのように聴衆に背を向けている。ピアノの反響板は取り除かれている。ノリントンはピアニストのほぼ正面に座っている。ヴァイオリンは左右対称に配されているが、指揮者の位置がそういうことなので、これも半分くらい聴衆に背を向けている。要はノリントンを中心に全楽器がぐるりと取り囲んでいる状態なのである。編成はレオノーレより縮小されている。いつもながらコントラバスはステージの一番奥に横並び、後ろには反射板がある、ノリントン/N響スタイル。
 こういうかたちでどういう演奏になるか興味深かったが、要は響きとしては壮大なベートーベンではなく、ピリオド型のようにきりりとしまったアジリティの富んだ演奏を狙ったようだ。それは序奏を聴いただけで良くわかった。音は混じりけなくピュアーであり、重々しさは少なく、音楽は軽快に進む。両端楽章が特にそうだ。指揮者とピアニストが対面しているので、まるでオーケストラとピアノが対話しているような趣だった。もちろん弦はノンヴィブラートである。ティンパニもバロックティンパニのように、乾いたはじくような音である。2楽章はこのピュアーさが更に生きた演奏で、内田が演奏した夢見るような音楽(愛聴盤)とは少々違う、もっと実在感のある、つかめるような美しさが印象的だった。ピアニストは豪壮には弾かず、さりとてフォルテピアノのようなか細い音でもなく、その中間を狙ったような印象だった。(演奏時間は34分強)アンコールはブラームスのワルツ作品39-15.
 運命も素晴らしい。これもノリントン節炸裂。オーケストラは協奏曲より増量され迫力満点。1楽章の推進力はこの運命の持つ標題性を置き去りにするような、凄まじいものだが、決してノリントンが云っているようなゲーム感覚の演奏とは思えなかった。要はどう演奏したってベートーベンの音楽の精神的構造は不変だと云うことであると私は思っている。テンポは一定で、強弱の振幅をかなり多くとっている。だから弱音の時の繊細な弦の動きなどは、このホールの2階、3階席に届くだろうかと心配なくらいであった。2楽章は比較的ゆったりとした演奏。3楽章のスケルツォの軽快さはどうだろう、オーケストラの機敏な動きが耳を惹きつける。そして4楽章に突入するが凱歌は決して大げさにならない。この運命はおそらく誰でも受け入れるものではないかもしれないが、私はとても好きである。相変わらずノリントンはお茶目で1楽章が終わったとたんに後ろを向き、どうだとばかりに、見えを切る。お客さんも拍手をするという、運命の演奏には珍しい光景もあった。まあそう肩ひじ張らずに聴きなさいよと云っているようだ。(演奏時間は32分)
 今夜のN響はいつになく素晴らしい。ノンヴィブラート奏法だと、音が薄くなる傾向も無きにしも非ずだが、決してそういうことがなく、十分立派なベートーベンの音である。木管・金管群のめりはりの利いた演奏も印象的。運命の4楽章の終結部などあのスピードだと、木管など大変だなあと思って聴いていたが、全く危なげなかった。なおコンサートマスターはコンセルトヘボウのコンサートマスターのヴェスコ・エシュケナージだった。
 この日は雨でいつもは折りたたみ傘をもってゆくのだが、台風が来ると云うこともあって、長い傘を持参。さて、傘立てはどこ?と聞いたら、ない、という。仕方がないのでクロークへ持っていったら預かれないと云う。要はぬれた傘をホールに持ち込んでくださいといっているのである。こういう音楽ホールはあるだろうか?ただでさえ湿度が高いのに、傘まで持ち込んだら、楽器に影響が出るのではないだろうか?ちょっと繊細さに欠けるのではないかと思った。      〆

2013年10月16日
於:サントリーホール(1階17列中央ブロック)
 
東京都交響楽団、第758回定期演奏会Bシリーズ
指揮:クリスチャン・ヤルヴィ
ピアノ:小山実稚恵
 
ラフマニノフ/ドゥンブラヴェーヌ編:コレッリの主題による変奏曲(管弦楽版)
プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第三番
ストラヴィンスキー:バレエ組曲「火の鳥」
 
指揮者のヤルヴィはジョン・トラボルタ似の一見マッチョ風、ヤルヴィ家の一員なのだろうか、エストニア出身でアメリカ育ちだそうだ。経歴を見ると現代音楽が得意のようだ。今夜はロシアを代表する作曲家から一曲づつ、なかなか意欲的なプログラムだ。
 ラフマニノフはピアノの原曲も聴いたことがないので、編曲の妙はわからないが、1989年の編曲にしては至極まともで聴きやすい。冒頭の主題から美しくおそらく原曲を尊重しているのだろう。なかなか面白い曲だった。
 プロコフィエフのこの協奏曲はもうポピュラーな曲だが、聴いていて超絶技巧がピアノに要求されると云うのがライブで聴いていると一層良くわかる。特に1楽章や3楽章の終結部の凄まじさは人間業とは思えない。小山の演奏は力感と透明感を両立させた素晴らしいもの。オーケストラも一体になって応えていた。アンコールはプロコフィエフの前奏曲12-7.
 火の鳥は何年か前にデュトワ/フィラデルフィアが来日した時に全曲を聴いたが、それはまるで極彩色の絵巻物のようで、その時の印象は忘れられない。今夜の演奏はそういう色彩感はあまり重視していないようで、むしろひんやりとした、鋭い刃物の様な肌触りだ。特に前半の序奏からはじまる静かな部分はそうだ。凶悪な踊りからはダイナミズムが加わるが印象は変わらない、金管や木管は鋭く耳を刺すが、それは拡散ではなく凝集なので、音楽の緊張感を高め凄まじい迫力だった。フィナーレの盛り上がりも凄いが、ここはフィナーレらしく音楽はホール全体に拡散する様が心地良かった。                                    〆
 
 

2013年10月15日
於:東京文化会館(1階17列中央ブロック)
 
プラハ国立歌劇場来日公演
モーツァルト「魔笛}
指揮:ズビネく・ミューレル
演出:ラディスラフ・シュトルス
 
ザラストロ:ズデネック・プレフ
タミーノ:マルティン・シュレイマ
夜の女王:エリカ・ミクローシャ
パミーナ:レンカ・マーチコヴァー
パパゲーノ:ダニエル・チャプコヴィッチ
パパゲーナ:ユキコ・シュレイモヴァー・キンジョウ
プラハ国立歌劇場管弦楽団、合唱団他
 
魔笛は何度聴いても、苦手なオペラだ。音楽は美しい部分もあるが、2幕の冒頭など退屈だし、タミーノの試練の場面も面白くない。大体途中で正邪が入れ替わるなんて台本はついてゆけない。でもいつかは開眼するのではないかと思い、なるべく機会があれば接するようにしている。
今夜のプラハは正直あまり期待していなかった。ただプラハはモーツァルトに縁のある劇場なのでもしかしたらと思いながら劇場に赴いた。
 結果は期待以上、このオペラを聴いてこれほど感動したのは初めてだった。理由はなんだろうか? さて、これはというものは思い浮かばないのである。でも2幕のフィナーレなどを聴いていて、幸せな気持ちで胸が一杯になる。どうしてだろう?歌手は正直云って先日聴いた新国立での公演とそう差がない。でも新国立の公演はこれほどの気持ちにはさせてくれなかった。演出はオーソドックスなもので、ト書きを大きく逸脱するものではない。これは音楽に集中できると云う意味で、良かったと思うが、決め手ではない。オーケストラは小編成で、序曲など音が薄くて大人しいのだ。もしかしたら古楽奏法かもしれない。うーむ、これかもしれない。歌に付けているオーケストラの響きはとても暖かく、自然な流れで、モーツァルトの音楽を生み出している。そうまるで今夜のオペラはモーツァルトが指揮しているようだ、といったら言い過ぎだろうか?音楽がひとりでに流れ出しているようなそういう演奏なのだ。しかもなぜか聴いていてとても懐かしい音楽なのだ。懐かしいと云うのは何かの対象があって懐かしいのであるが、不思議なことにこの音楽を聴いていて、何に対して懐かしいのか、思い浮かばないのだ。でも懐かしい。
 素晴らしい場面はたくさんあるが、7番のパミーナとパパゲーナとの2重唱がこれほど、人を感動させる音楽だと云うことが初めて分かった。二人が「気高い愛を目指すところは~」と歌う部分はなぜか胸が締め付けられるよう。20番のパパゲーノのアリアも素晴らしい。歌い手も良いが、オーケストラが素晴らしい。グロッケンシュピールがこれほど生き生きと鳴った演奏は初めてだ。本当に我ら凡人はパパゲーノに感情移入できるのだ。
 21番フィナーレの「パ・パ・パ・パ~」のパパゲーノとパパゲーナの2重唱を聴いてて幸せな気持ちにならない人はいなだろう。もう胸が一杯になり涙腺も緩む。その他あげたらきりがない。
 歌手で素晴らしかったのはパミーナだ。この美しい声はパミーナにぴったり。ついでパパゲーノも役に相応しく、軽妙な歌唱で観客を魅了していた。夜の女王は少々線は細いはまずまず。タミーノはリリックなのはよいが、もう少し男なんだから力強くても良いのではないかと思った。ザラストロは不安定なような気がしたが、気のせいかもしれない。その他モノスタトスは少々物足りない、3人の侍女もアンサンブルが冴えないように思った。
 オーケストラは上記のとおり、1stヴァイオリンが6丁の小編成、薄い響きだが、それが逆にこの曲に新鮮でしなやかな息吹を感じる。演奏時間は1幕は63分、2幕は予定は80分だが少々短いと思う(測定を忘れました)
 装置は簡素なもので舞台に横長の階段があり、それに5本の巨大な柱が乗っている。それだけである。1幕はパミーナとタミーノの巨大な頭部が天井から吊り下げられれている。
 演出も奇をてらったものはない。最後の「ぱ・ぱ・ぱ~」では未来の子供たちが登場して踊りだすぐらいがちょっとお遊びと云った具合。だから全く音楽の邪魔にならず、音楽に集中できた。オペラは絶対こう云う演出が良いのである。
 台風接近前日、ほぼ満席だったが、皆さんも満足したのではないだろうか?        〆
                                                 

2013年10月13日
於:すみだトリフォニーホール(1階20列左ブロック)
 
新日本フィルハーモニー交響楽団、第516回定期演奏会トリフォニーシリーズ
指揮:下野竜也
チェロ:ルイジ・ピオヴァノ
 
シューマン:チェロ協奏曲
ブルックナー:交響曲第六番(ハース版)
 
3日続けて在京のオーケストラで独墺系の音楽を聴いてきた。いずれも優るとも劣らない好演で、改めて、日本のオーケストラの水準の高さを感じた。昔はブルックナーなどはミスして当たり前、のつもりで聴いていたが、読響にしても今日の新日本フィルにしても、そんなことはなく四番や六番の難しいホルンのソロなども非常に安定していて、聴いていてまったく不安感がない。本当に良い時代になったものだ。お金がない負け惜しみでもないが、外来のオーケストラも昔はプログラムなど関係なくチケットを予約していたが、今は曲目に応じて取捨選択しても、なんの問題もないのだ。聴きたい曲を選ぶのであって、オーケストラで選ぶのではないのである。一昨日のスクロヴァチェフスキーの指揮したブルックナーの四番の水準なら、なんの過不足もないのだから!
 さて、今日は下野のブルックナーだ。切れ味の良い指揮をする下野がこの難曲をいかにさばいたか? 全体の印象は実にみずみずしいブルックナーだということだ。特にアダジョや1楽章の第2主題や3楽章のトリオの部分、4楽章のトリスタンとイゾルデの愛の死の動機の出てくる第2主題など、の緩やかな部分でのみずみずしさはどうだろう。思わず聴き惚れてしまう。しかし反面寂しさとか悲しみ、沈潜するような響きには欠けているような気がした。
 1楽章の提示部1主題はやけに威勢がよく、少々うるさい。しかし展開部ではずっと落ち着いた音になり、威勢が良いと云うよりも音楽がヴィヴィッドに聴こえる。緩やかな部分は上記のとおりで、しなやかかつみずみずしい。ブルックナーというと爺さんの音楽の様に思われるが、ここではそうではなく、明るく、若々しく、若者の様に屈託がない。
 2楽章は明確なソナタ形式だそうで、各主題が聴きやすく、浮かび上がってきてうれしい。しかしここでも深い悲しみや寂しさのような、いわゆるブルックナーの交響曲の持つ胸を締め付けるような、そういう音楽には、鳴っていないような気がした。特に第3主題の葬送行進曲には重々しいが悲しみは感じられない。
 3楽章のスケルツォは若さの爆発のような元気な前進力が素晴らしい。トリオはユーモラスですらあり、ブルックナーの五番の引用も何かとぼけて聴こえる。ここは少々違和感を感じた。
 4楽章の冒頭は1楽章同様威勢が良いが、決して嫌な音楽ではなく、爽快感みなぎる。2主題のトリスタンとイゾルデの愛の死の動機も明快に奏しており、一説によれば偶然だと云うことであるが、今日の演奏はブルックナーが意図して引用したことを感じさせる。終結部の直前ではわずかにテンポを緩めて、終結に突入する。きれいに決まって気持ちの良い着地だった。演奏時間は63分。
 今まで聴いてきたブルックナーとは少々違うが、これはこれで立派な存在感のある演奏だったと思う。新日本フィルも力演、最初は少々エッジの立った音がして、不安がよぎったが、それは最初だけで、後は立派なもの。緩やか部分でのしなやかな中にもきらりと光る、木管や高弦は印象的だったし、強奏部分での力強さは、力技ではなく、全体のバランスの取れた素晴らしい音場を形成していた。
 1曲目のシューマンの協奏曲は何度聴いても好きになれなくて、今日も半分眠ってしまった。ごめんなさい。アンコールはソリストがチェロのパートの中に入って7人で赤とんぼを合奏。
                                                        〆

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