ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2013年07月

2013年7月22日
於:サントリーホール(1階17列中央ブロック)
 
東京都交響楽団、第755回定期演奏会Bシリーズ
指揮:小泉和裕
チェロ:ニコラ・アルトシュテット
 
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲
グラズノフ:バレエ音楽「四季」
 
ドヴォルザーク、1楽章はちょっと硬いかなあといった印象。2楽章はクラリネットとの協奏が素晴らしく美しく、ドヴォルザークの旋律の美しさを十分味わえる。しかし最も素晴らしかったのは3楽章。ここではチェロは解き放たれたよう、速いパッセージでは天馬空をゆくがごとき趣、そして遅い部分は歌又歌だった。チェリストはまだ31歳だが、2012年からクレーメルの後任としてロッケンハウス音楽祭の芸術監督に就任しているほどの実力者のようだ。オーケストラも良かった、音は十分鳴り切っていて、しかも無駄な音は一切なし、もちろんうるささも皆無。金管はバランスとしては大きいかなあと云った印象であったが、それが耳障りと云うことはなく、逆に爽快感一杯。特にトランペットの音は快感に近い。
アンコールはバッハの無伴奏チェロ組曲第一番からサラバンド。演奏時間は39分。
 グラズーノフは初めて聞く曲だ。ただ秋の「バッカナール」は聴いたことがあると云った程度。この曲は春から始まらないで冬から始まって秋で終わると云う構成。バレエ音楽だけに、バレエ付きだったらもっと楽しめただろう。
                                                         〆

2013年7月20日
 
「クラウドアトラス」、トム・ハンクス、ハル・ベリー他
何ともスケールの大きな話だ。同名の小説の映画化。面白いことは、無類のものがある。思わず2回も見てしまった。19世紀初頭の奴隷問題から、2X世紀の地球崩壊から他の惑星への移住までの長大な時間空間の中で、人は生まれ変わり、巡り合い、影響し合って、将来を決めてゆく。時代を行ったり来たりするので、ややこしいことはややこしいが、あまり細部にこだわらなければ、抵抗はない。主な舞台は19世紀初め、20世紀初め、20世紀後半、21世紀初め、22世紀の初め、そして20何世紀かの遠い未来で、場所はイギリス、アメリカ、韓国、そして太平洋の島である。同じバースマークをもったものが生まれ変わってゆくようだが、例えばトムハンクスやハルベリーがいくつの役を演じるのかを追いかけるだけでも十分楽しめる。クラウドアトラスというのは映画の中のフロビシャーという音楽家が書いた交響曲でその音楽がバックを彩り、それがまた錦上華を添えている。
 
「悪の教典」、伊藤英明主演
同名の小説の映画化。原作も相当グロテスクだが、それを映像にしたこの映画も更に凄惨で、正直みていて気分が悪くなるほどだ。他人の感情には全く関心ない、動機もはっきりしない、ただ殺すことが趣味の、殺人鬼を伊藤が好演。狂人ではなく常に冷静な計算で動く。しかしこういう犯罪も精神異常ということで極刑を免れることを暗示した終わり方が今日のこう云う犯罪に対する警鐘か?音楽には「三文オペラ」の中の大道芸人が歌う、「匕首マック」のオリジナルとジャズヴァージョンとが交互に出て、それが殺人鬼ハスミン(伊藤)のトレードマークになっている。ハスミンの犯罪を見ているとマクィスの犯罪なんて可愛いもんだ。見る人はある程度覚悟をもってみる必要があるだろう。
 
「レッド・ライト」、シガニー・ウィーバー、キリアン・マーフィー、ロバート・デニーロ主演
超能力者のいかさまを見破る科学者にウィーバーとマーフィー、それに対する伝説的な超能力者がデニーロで、この対決が本線のようだ。ようだと云うのは最後が今一つ自分にはすっきりしないから、理解力不足かもしれない。正直云って有名な俳優を並べた割には、あまり面白くない。こういう理屈をこねくり回す映画は苦手だ。
 
「地球最後の男」、ガンナー・ライト主演
タイトルに惹かれて見たが、これも良くわからない映画だ。原題は「LOVE」になっている。冒頭は南北戦争、その後宇宙ステーション。ステーションの飛行士が地球からの連絡もなく、宇宙に何年も浮遊してしまう。その間は地球は崩壊しその宇宙士が唯一の人類の生き残りと云うようだ。しかしステーションに一人だけ乗務すると云うのも変な話だし、挿入されるいろいろな人のインタビューも意味不明だ。こう云う映画は自分ののうみそを超越していてついて行けない。頭の良い人にお薦め。
 
「アウトロー」、トム・クルーズ主演
原題は「ジャック・リーチャー」でクルーズの役。米陸軍の凄腕憲兵(リーチャー)が退役して姿を消す。この経緯は説明らしきものがあるが、意味不明。イラクで訳ありの男がリーチャーに助けを求めてくる。ある無差別殺人の犯人の容疑をかけられそれを晴らして欲しいと云うものだ。それに美人弁護士が絡むと云う寸法。唐突にロバート・デュバルなんぞが現れるのも面妖。ただいろいろと話に穴がある割には面白かった。せっかくトムクルーズがとっつぁんらしくなったんだからもう少し性格描写を丁寧にやれば、もっとよかったろう。特にリーチャーがなぜ退役したのかという説明がなんとも青臭くて、これではついて行けない。それが最大の穴だ。
 
「トゥモロー・ワールド」
原題は「FALLS THE SHADOW」、超B級映画。タイトルで借りたのが大失敗。地球は世界戦争?の後の崩壊の時代、伝染性の菌をもったゾンビや奇妙なカルト集団のはびこる世界になっていた。カルト集団に娘をさらわれた元兵士とその父親などによる、カルト集団征伐の話、とにかく俳優がみなへたっぴなので見ていて恥ずかしかった。
 
「パーカー」、ジェーソン・ステイサム、ジェニファー・ロペス主演
又ステイサムかあと思いつつ見てしまう。今回も不死身のステイサムだ。プロの強盗のパーカーの役。ある強盗事件で仲間に裏切られる。強盗にも秩序があるなどという屁理屈で裏切ったやつらをやっつけると云う話。結局アメリカは金の社会かあと気付かせることが目的の映画?
しがない不動産会社のアラフォーのロペスとの接点は見てのお楽しみ。とにかくステイサムのスーパーマンぶりを楽しむべき映画。おっちょこちょいのロペスがよい味を出しているのがアクセントになっている。ステイサムとセガールの違いは今回改めて気付いたのだが、前者はいつも重傷を負うがそれを克服して悪いやつらをやっつけるが、セガールはほとんど無傷というところが違いか?まあどうでもいいか!
 
「ロンドンヒート」、レイ・ウィンストン
原題は「スゥィーニー」、1970年代のイギリスのTVドラマの映画化の様だ。原題はイギリスの特別機動捜査隊の俗語。レイ・ウィンストンはその隊長で、仕事ができるがちょい悪、というか相当悪だ。まあそういう役回り。かなりB級の映画だ。作りはかなり乱雑。ウィンストンはこういう主役級より、脇役が似合う。例えば「ディパーテッド」のフレンチ役なんて好きだ。
 
「漆黒の間でパリに踊れ」
なんとも訳のわからない邦題だが、原題は「UNE NUIT」、ある一夜と云ったような意味か?
パリ警察のワイス警部、裏社会にも通じた、辣腕刑事。しかしその行動には内務調査課から目をつけられる。そんな警部の一夜の行動を克明に描きながら、警部の崩壊を描く。射ち合いも何もないが、警部が徐々に追い詰められてゆく様はこちらも息苦しい。面白い、佳作。
 
「ライフ・オブ・パイ」、アン・リー監督
殺伐とした作品ばかり続いたが、これはかなりほんわかした映画。決して馬鹿にしたわけではなく、かなり面白く見た。
主人公のパイの漂流の物語が本線だが、この映画のところどころに散りばめられている、神についての会話が物語の伏線になっているようだ。特にパイの少年時代が面白い。彼はヒンズー/キリスト/イスラムの3つの宗教を信じる。短いけれど父親との宗教論争は特に興味深い。最後のほうでは釈迦の涅槃像のイメージまで出てきて、要は宗教のいさかいは無駄なことよと云っているように感じられた。それにしてもこの映像の美しさはどうだろう。これは劇場で3D画面でみるべきものだろう。アバターに匹敵する映像美である。
以上全てレンタルDVDで鑑賞                                     〆
 

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2013年7月18日
於:歌舞伎座(1階15列中央ブロック)
 
歌舞伎座杮落とし、七月花形歌舞伎「東海道四谷怪談」
岩/佐藤与茂七/小仏小平:菊之助
民谷伊右門:染五郎
薬売直助:松緑
お岩妹お袖:梅枝
お梅:右近
按摩宅悦:市蔵
伊藤喜兵衛:團蔵
 
鶴屋南北作の「四谷怪談」は子供のころから映画などで見知っていたが、歌舞伎で見るのは初体験。今月の花形歌舞伎の夜の部、全四幕の通しで約3時間の芝居だったが、全く飽きさせない面白さで、今までの数少ない歌舞伎体験でも最も印象的、というより、やはり面白かったという表現が的確だろう。
 その要因はなんといっても原作の面白さ。この作品は1825年の初演だから、明治維新まであと40年ちょっとというその時代だ。だから出てくる人々はそんな大昔の人と云うより、現代に通じるものをもった人ばかり。夫に裏切られた岩の怨念、芝居を見ていると伊右衛門の非情が度を越しているだけに、共感を呼ぶ。伊右衛門のような人間は今でもいそうだ。この悪さ加減はどうだろう。バサバサと人を殺す非情さは「悪の経典」のハスミンのようだ。お袖の貧窮の中で親を救うために体を売るところまで決心するその気持ちも共感を呼ぶ。その他与茂七や直助、お梅など皆切れば血の出る生身の人間として描かれていて、それぞれが性格のエッジを鋭くはしてはあるが、リアルである。
 もう一つの要因は演者たちの、秀逸さだろう。菊之助の岩の心の移り変わり、怨念の塊になった幽霊の演技の素晴らしさ、また3役の早変わりの巧みさなど、見ていて楽しく、なおかつ舞台上の人物への感情移入を強く誘う。染五郎の伊右衛門も素晴らしい、きれいな顔をしていながら、やっていることは、何とも凄まじい。その2重人格的な表現が時には美しく思い、時には卑しく、不快に思える。松緑は出会うたびに印象強くなる。最初に見た時は聴きとりにくいと思っていた台詞もが、きりりとした言い回しになっていて、直助の小悪党ぶりをうまく演じていた。袖の梅枝の演技も哀れを誘う。若い人中心の配役であったが、初体験の私にとっては関係なく彼らの演技を十分堪能できた。満足の一夜であった。
 今回は1階席だったが、2階や3階席とは違って、前の席との空間が広くてゆったりしていた。それにしても2階3階と1階の席の差はあまりに大きくてこれは劇場の設計としては納得できない。また傾斜が少ないので前にちょっと大きな人が座ると舞台がマスクされてしまって、見にくい。こう云う点も再オープンの際に何とかできなかったのか、疑問を感じた。2階席は以前にも書いたが更に見にくいポイントがあって、同じ1等席でも随分違うなあと思った。いまさら直せまいが残念である。写真の2枚目は座席の空間を示している。                  〆                                          

2013年7月17日
 
白鳳は強い。今日もまるでぶつかり稽古の様な立会で、鶴竜の素晴らしい立ち合いにのけぞりそうになりながら、小手投げをうってしのいだ。昨日の小手投げもまるで手品の様で、解説者も云っていたが力をほとんどかけないで、相手を駒の様に回して倒していた。
 彼の強さはもう誰も否定できまい。しかしだ。横綱なら少し考えてもらいたいことがある。それは彼の汗だ。相当な汗っかきのようだ。ある親方がけいこ不足からきていると云っていたが、どうもそれだけでなく体質的なもののようだ。そうであるならば時間になってタオルをもらった時に、きちんと胸前を拭いて欲しい。拭いてはいるのだが、お腹の周りをさっとひと拭き程度で、これでは首から胸にかけての汗は全く拭きとられていない。まあ汗で相手が滑ることは期待していないだろうが、そう勘繰られないようにきれいにふき取るべきだろう。そんなことをしなくても十分強いのだから?敢えて云うが不潔でもある。昔武蔵丸が新聞のコメントの中でこの汗について触れていた様に記憶しているが、最近は云う人は誰もいないようだ。これだけ別格の強さを示している大横綱には誰も云えないのだろうか?親方や勝負審判から指導すべきだと思うが! まあ誰も云えないかな?
 対戦する力士からのクレームもないのだろうか?こんなことを気にするのは私だけだろうか?

2013年7月17日
 
14日に見た「三文オペラ」については、既にブログに感想を述べたが、あれから少したって冷静になってみると、なぜあの公演に接した時に、かなりの拒否反応というか嫌悪の気持をもったのか、がわかってきた。
 あの公演の冒頭、序曲が流れた時に、ああこの響きだよと思って、これは今日の公演期待できるぞと胸躍らせたのだが、その後のバラード「匕首マック」を大道歌手がきざな仕草で歌い始めた時、ああこりゃだめだ、と即座に私の耳が反応したのである。1931年の映画はこの場面は次のように演じられている。場所は波止場の様だ。群衆に囲まれた大道歌手がこの歌を歌う。仕草は全くなく自分の横の紙芝居を(これは歌詞に準じている)めくりながら淡々と歌う。伴奏は手回しのオルガン。くたびれたような女がけだるく回す。音楽までかったるいが、その雰囲気はワイルの作曲した狙いだと私の脳に刷り込まれてしまった。第一次大戦の終了から約十年、ドイツは不景気のどん底だった。この後大恐慌がきて、ナチが登場、そしてドイツ帝国の消滅につながる、舞台はロンドンでもその不安定な時代の音楽なのだ。これはデッカのCDでも同じ印象だ。ここでも大道歌手はちゃらちゃらと歌わない。しわがれた声で、淡々と歌う。だからこそ一層この歌が生きる。それをチンピラあんちゃんの風情の歌手が、あんちゃん風に歌ってもなんじゃこれと、私の脳髄は受け付けない。大体マクィスは別にいるのだから大道歌手までマクィスの真似をして歌うことないだろう。
 大体演出家はこの公演をどういうイメージにしたかったのか?やはり狙いと云うものはあったはずだ。少なくともクルト・ワイルが初演の時に狙ったものとは違うような気がする。敢えて云えば、オペラ風「三文オペラ」か?しかしこれはたとえばバーンスタインがウエストサイド物語をカレーラスとテ・カナワと組んでレコーディングした時と同じで、木で竹を接いだような印象が拭えないのだ。まあこれもデッカのCDが刷り込まれているからかもしれない。
 それにしても演じている歌手たちのキザったらしい仕草はなんとかならなかったのか?あの日本人が外国人の仕草を真似した時のいやらしさがこの演出では濃厚なくらいにあって、それだけでも辟易する。それを狙った演出であったのなら、チケットを買った自分が悪いのだが!残念ながら聴くまでは(見るまでは)それがわからない、のがライブの面白さなのだが!
 園田の作りだす音楽は十分ワイルがイメージしていたであろう響きだったのは唯一の救い。これがなかったら途中で帰ったろう。野暮ったい管楽器や木管の響き。雄弁なピアノ、どの部分をとっても音楽は切れば血の出るような生命力が溢れている。のに舞台は杓子定規で測った様な演技と歌唱。
 もうひとつ、海賊ジェニーはポリーが歌っているが、これはジェニーにも歌って欲しかった。デッカでは1幕ではポリーが歌い、後半ではジェニーが歌っていて、二度楽しめるし、レンパーとミルヴァの聴き比べもできる、という贅沢なおまけつきだ。なお、31年の映画ではロッテ・レーニャのジェニーだけが歌っている。
                                                         〆

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