ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2013年06月

2013年6月30日
於:サントリーホール(1階17列中央ブロック)
 
東京交響楽団、第611回定期演奏会
指揮:ドミトリー・キタエンコ
チェロ:イェンス=ペーター・マインツ
 
プロコフィエフ:交響的協奏曲(チェロ協奏曲第二番)
ラフマニノフ:交響曲第二番
 
今朝、ラフマニノフをさらおうと思っていたら、家人が高橋真梨子のベストCDを買ったという。手にとって何曲か聴いたら止まらなくなって一枚聴いてしまった。「別れの朝」、「ごめんね」、「FOR YOU」などが好きだった。単身赴任のころカラオケによく行ったが、「ごめんね」をそのたびに歌ってたのを思い出した。その他竹内まりあの「家に帰ろう」、「駅」、「シングルアゲイン」、百恵ちゃんの「さよならの向こう側」などが、持ち歌だった。最後に歌うのは必ずさよならの向こう側か家に帰ろうだった。もう20年近い昔のことだが、今日高橋真梨子を聴いていて、すっかり忘れていたあのころの記憶が、今日のように鮮明に思い浮かんだ。音楽と云うのはそういう意味では凄いものだ。余談です。
 本題。ラフマニノフがとびきりの素晴らしさ。3楽章はもともと美しいが、キタエンコはそれに輪をかけて美しくしてくれた。思い入れたっぷりの指揮だが、それが嫌味にならないところがロシアの血だろうか?最初のクラリネットの主題の提示の素晴らしさ、思わずほろりとしてしまう。そしてその後のうねるようなオーケストラ、思い切り鳴りきっているのが何とも云えず快い。この楽章聴いていて、美しさも極めつけだが、ただそれだけではなく、自分の若き日々の喜びや、悲しみ、悔恨、苦い思い出を浮かび上がらせる力をもっているような気がする。今日の演奏を聴いて一層それを思った。最初のクラリネットで涙腺が緩み、最後は舞台が見えなかった。
 キタエンコが指揮するとオーケストラの鳴りっぷりがよい。1楽章の最初の主題が弦で奏されるときの力強さにまず驚かされる。2楽章のスケルツォのホルンの鳴りっぷりの良さはどうだろう。そして4楽章のお祭り騒ぎの様な音楽も音は拡散せず、凝縮するから、下品にならず、鳴りっぷりの良さにつながる。終演後の拍手やブラヴォーも日ごろ以上のもので、演奏が聴衆の共感をもたらしたのがわかる。演奏時間は57分強。ライブで聴いたなかで、この曲のベストだ。
 
 プロコフィエフは基本的にはチェロ協奏曲だ。1954年に完成版ができた時に、交響的協奏曲と銘打ったそうだ。全く初めて聞く曲だが、とても魅力的な音楽だった。プロコフィエフは現代の作曲家だが、現代音楽のつかみどころにない部分と、思い切り美しい部分と、とぼけたユーモラスな部分とを併せ持った作曲家だと思う。この協奏曲もその点は同じ。なかでも2楽章はその全てを兼ね備えた、変化にとんだ魅力的なもの。チェロの超絶技巧も楽しめる。この楽章が全体の半分を占める。アンコールはバッハの無伴奏チェロ組曲からサラバンド。
                                                          〆
 

2013年6月28日
於:新国立劇場、中劇場(1階13列中央ブロック)
 
香月 修 「夜叉が池」 新国立劇場公演(原作:泉鏡花、台本:香月 修、岩田達宗)
指揮:十束尚宏
演出:岩田達宗
 
白雪:岡崎他加子
百合:幸田浩子
晃:望月哲也
学円:黒田 博
鉱蔵:折江忠道
鯉七:高橋 淳
蟹 五郎:晴 雅彦
鯰入:峰 茂樹
合唱:新国立合唱団
児童合唱:世田谷ジュニア合唱団
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団
 
泉 鏡花の一幕物の戯曲を香月が2幕のオペラに仕立てたもの。新国立劇場委嘱作品で初演である。戯曲と比べてそれほど大きな違いはない。順序を少し変えたり、役回りをいじったりしているがほぼ原作に近い。初めて聴いて評価できるほどの見識はないが、印象だけで云うと、鏡花の戯曲にとらわれ過ぎているような気がして、芝居としては面白かったが、さて印象に残った音楽はどれだろうというと、探すのが難しい。私ならもっと原作を刈り込んで、ストーリーの説明的な部分を軽くするだろう。例えば学円などははしょってしまうだろう。そうしないと2幕110分弱でこの物語の背景から、それぞれの主人公の性格や関係を明示するのは、ちょっと忙しくて、それぞれが半端になってしまうような気がした。
 1幕は10場だが、9場まではドラマというよりこの物語の背景の説明的な要素が多くて、正直退屈。唯一10場の百合のアリア、子守唄、白雪たち夜叉が池の住人が現れての一連の動きは面白かったし、幸田のアリアが実に百合のイメージそのものなので感銘を受けた。
 2幕は変化が大きいが、冒頭の鯉と蟹と鯰の化け物の掛け合いはまるでトゥーランドットのピン・ポン・パンみたいでユーモラス。3人の歌も楽しい。このオペラの不満は1幕でもそうだったが、、夜叉が池の白雪に与えられた曲が私には騒々しいだけで印象が希薄だったことだ。また腰元たちはまるでタンホイザーのヴェーヌスを取り囲む妖精の様で、日本のお化けのイメージはなく、この幻想的な芝居の興を削ぐような気がした。2幕の7~10場まではまあフィナーレ。百合が村人から追いかけられ、雨乞いのいけにえにされそうになる、それを晃が助ける。百合は晃を守るため自害し、晃は鐘つきを放棄して、夜叉が池が大氾濫。ここは音楽も芝居も装置も立派なもので、最も面白かったところ。演出家はスペクタクルにしたくないと書いていたが、最後の氾濫で舞台が大きく転換するところは、CGも何もない中で、装置だけでやっていたが、それでも迫力満点。まるでワーグナーの神々のたそがれの最終場面みたいだった。トウキョウリングの装置よりずっと迫力があった。全体に装置は美しく、舞台を立派にサポートしていた。それにしても中劇場にこれだけの仕掛けができるとは思わなかった。
 歌手では幸田の歌唱が光る。もうまるで百合のイメージである。幕切れのアリアも美しく感動的だった。ちょっと脱線するがアリアが皆短くて物足りない。もっとたっぷり歌を聴かせて欲しかった。レチタティーヴォでつないで、アリアと云うパターンだが、アリアが皆短くて、良い歌をたっぷり聴いたと云う印象が少ないのだ。そういう意味では鏡花の戯曲に付けた音楽劇のようにも感じられる。鹿鳴館の時に書いたが、オテロの時にボイートがやったような大胆な刈り込みが必要ではないかと思った。
 望月の歌は今日の様に力まない時が素晴らしい。ただ聴いた後あまり印象に残る曲がないのは聴き手の問題だろうか?その他では鉱蔵が役柄を生かしたどすの利いた声で存在感があった。もう2~3回聴いてみたいオペラである。
                                                         〆
 
 

2013年6月26日
於:サントリーホール(1階17列中央ブロック)
 
東京都交響楽団、第754回定期演奏会Bシリーズ
指揮:ヤコブ・フルシャ
ピアノ:ヤン・リシエツキ
 
ショパン:ピアノ協奏曲第二番
リヒャルト・シュトラウス:アルプス交響曲
 
戦争レクイエムに続いて、今夜も大規模な編成のアルプス交響曲が聴きものだった。フルシャは都響に登場してもう3年くらいなるだろうか、最初は出身のチェコの曲ばかり振らされていたようだが、今回はドイツ物、次回はフランスものといろいろやるようだ。このアルプス交響曲はすこぶる巨大な曲だが、音楽の性質から云って、まあ大過なく演奏すればそれなりの効果の出る曲だから、指揮者によって大差ないと思っていた。CDではティーレマン/ウイーンのライブやカラヤンの最晩年の演奏をよく聴くが、最近聴き比べて随分違うなあと思うようになってきた。カラヤンの精妙さとドラマ仕立てのうまさが流石と思うのである。絵画的な面白さで云うとティーレマンの演奏がこれまた流石と思わせる。
 今日のフルシャはテンポは速いなあと思っていたら49分強だからそれほどめちゃくちゃ速い演奏ではない。ショルティの44分なんてのがあるくらいだから、まあ中庸のテンポだろう。しかし音楽の起伏の大きさはたいしたもので、もちろん頂上にてや、嵐の場面のオーケストラのなりっぷりと音楽の盛り上がりは相当なものだが、一方最後の日没からエピローグ~夜までの音楽の精妙さ、特に弦のしなやかさは誠に素晴らしく、この音楽の対比が印象的だった。また登山の始まりから、頂上までの登りの音楽の多彩さも印象的。とにかく音の変化が面白く、緩やかかと思ったら、急に走り出すと云った具合で、聴いてて飽きがこない。久しぶりにシュトラウスのオーケストラ曲を堪能した。 
 会場に入場したら、舞台で何人が稽古をしていたが、ショパンの前に、アルプス交響曲をさらっている方が何人かいた。頂上にての冒頭で、美しいオーボエソロが聴けるが、それを何度も何度もさらっていたのが印象的。もちろん本番でのこの部分はすこぶるつきの美しさだった。今夜の都響は、弦が特に印象的で、大雨で鳴らないのかと思いきや、予想外のしなやかさで、この大曲を楽しませてくれた。金管は最後でホルンが一か所ひっくり返った以外立派なものだった。
 ショパンもなかなか面白かった。この人の曲はきれいなだけだろ、なんて思って特にこの曲はほとんど聴くことはないが、今夜の演奏はきれいなだけでなく、弱冠20歳のショパンの激情を18歳のピアニストが余すところなく聴かせてくれたと思った。思い入れたっぷりの2楽章も決して情に溺れず、冷静なのも良い。両端楽章の激しさも印象的。ベートーベンが亡くなって3年後に作曲されたこの曲、もうロマン派の音楽なのだと改めて感じさせてくれた。演奏終了後の拍手もかなり大きかったのは、若いピアニストへの儀礼だけではないような気がした。アンコールはショパンの練習曲25-2。演奏時間は31分弱。なお3楽章の終わりごろに休止があってホルンが吹かれるが、ポストホルン?で演奏された。
 2楽章でハプニング。なんとフルシャの指揮棒がすっ飛んでしまったのである。この静かな楽章で珍しいことだ。しばらくしてから、悠然と2ndヴァイオリンが拾って指揮者に渡していた。

2013年6月23日
於:東京文化会館(1階17列中央ブロック)
 
ヴェルディ:歌劇「椿姫」・ハンガリー国立歌劇場公演
指揮:ヤーノシュ・コヴァーチュ
演出:アンドラーシュ・ベーケーシュ
ヴィオレッタ:ディミトラ・テオドッシュウ
アルフレード:ヤベ・トメ・フェルナンデス
ジェルモン:ミケーレ・カルマンディ
ハンガリー国立劇場管弦楽団、合唱団、バレエ団
 
久しぶりに、ほとんど読み替え的な要素のない演出にお目にかかった。1幕と3幕の冒頭にヴィオレッタの家に競売屋らしき男たちが来て物色しているシーンが、おやと思わせるくらいで、衣裳も含めてほぼト書きに近い。舞台にはベッドとか椅子と云った小道具があるくらいで、あとは特徴的と云ったら巨大な鏡の様な物体が舞台上の出演者たちを取り囲み、それに彼らが映るようになっている。ただ鏡の表面を均一にしていないせいか人物が歪んで見えるのは何かの意図だろう。ただ指揮者まで映って、ちょっと煩わしかった。舞台上の演出はト書きに近いと云っても、付けている演技は新派大悲劇的な、時代がかったもので、少々辟易する。2幕のヴィオレッタとジェルモン、ジェルモンとアルフレートのやりとり、3幕のヴィオレッタの「さらば過ぎし日よ・・・」などがその例だ。
 しかし歌い手がそういう演技に見合った歌唱なら良いのだが、妙に地味でそのギャップがちぐはぐに感じる。テオドッシュウは最初から病人の声でほとんどソットヴォーチェと云っても差し支えないくらいか細い声で驚いた。いくら肺病だからといって最初からこれでは困る。「そわかの人か」もささやき声にしか聴こえないので、ヴィオレッタの心の動きまでは伝えてくれない。カヴァレッタになって少々元気になるが、今度は叫び声になる、と云った按排で音楽を楽しめない。2幕は少しよくなるが、でもジェルモンとの二重唱など悲痛な気持ちが演技ほど歌では伝わらないのが、靴の上から足を掻くようでいらいら。3幕は瀕死の病人なので、この声でもまあ良いか、しかし心の動きを声に託すのがオペラのはずだが、そういう意味では歌に心が託されていない。やはりエヴァ・メイにすればよかったか?どうしてもエヴァ・メイの日が都合がつかなくて今日にしてしまったのが残念。
 男声陣はジェルモンもアルフレートもヴィオレッタほどの違和感はなかった。アルフレートは柔らかく、リリックな声は魅力的だが、惜しむらくは少々非力である。ジェルモンも力強さはないが父親の気持ちをせつせつと歌っていた。ヴェルディのこの傑作を歌うにしては歌手達が皆貧血気味の様な気がして、聴き手の心を揺さぶるような歌唱にならないのがなんとも不満の公演だった。指揮のコヴァーチュも歌手に合わせてか、のんびりと指揮をしていた。オーケストラの音は魅力的で、指揮者次第ではもう少しなんとかなったのではないか?演奏時間は122分、ただし拍手込である。なおゾルタン・ケレメンがドゥフォール男爵で出ていたのには驚き。彼はカラヤンのお気に入りで、アルベリヒなどを歌っていたはずだ。
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2013年6月22日
於:トリフォニーホール(2階3列中央ブロック)
 
新日本フィルハーモニー管弦楽団、トリフォニーシリーズ、第509回定期演奏会
指揮:ダニエル・ハーディング
 
マーラー:交響曲第六番「悲劇的」
 
新日本フィルは顧客志向が進んでいる。何よりうれしいのはオーケストラの演奏者の配置表がプログラムに挿入されていることだ。今日の様な大編成の場合や古楽出身者による指揮の場合など、特に便利である。先日の都響の「戦争レクイエム」などは必須だと思うのだが、都響側には残念ながらそういうセンスの人はいないようだ。
 今日の新日本フィルは弦がいつもと違って、左奥にコントラバス、ヴァイオリンは対面式、中央にチェロとヴィオラである。最後列にはおびただしい打楽器群、ティンパニが2セットある。ハンマーは右奥だ。チェレスタはCDなどではあまり気にならないが、ライブでは効果的に聴こえる。これは右の第二ヴァイオリンの後ろである。
 ハーディングのマーラーは五番、九番、一番そして今日の六番と聴いてきたが、昨年の一番がすこぶる存在感のある演奏だったので、今日の六番は期待の演奏会だった。聴いた印象は一番と同等の素晴らしい音楽だった。特に前半の3楽章は何も言うことがないくらいよかった。もちろんオーケストラの完成度は高いことはいうまでもない。もう日本のオーケストラはこんな曲は難曲でも何でもないのだろう。1楽章の展開部までは今までのハーディングのように、美しさの極み。この曲の持つ毒気はあまり感じないが、でもこの演奏は決して嫌ではない。ひたすら酔いしれればよいのである。しかし後半になると音楽のせいでもあるのだが、のんびり浸ってはいられない。音楽の起伏は急に大きくなり、劇的だ。終結部のたたみこみも強烈でハーディングの若々しさを感じる。素晴らしい音楽だ。
 2楽章にはアンダンテをおいている。この楽章は自分が好きなのもあるが、すこぶるつきの素晴らしさ。音楽はこれ以上ないくらいの美しさだが、あの美しい主題が最後に帰ってくる場面では肺腑をえぐるような感動をもたらす。同じ音楽を聴いていてこう感じさせるものと、感じさせないものとの違いはどこからきているのだろうか?よく説明はできないがこの演奏は前者を体感できる。3楽章はスケルツォが出だしから厳しい。五番や九番のころだったらこんなスケルツォにはならなかったような気がする。グロテスクと云っては怒られるかもしれないが、なにか醜悪なものをも見せつけるような音楽が感じられた。
 4楽章はどうもいつもハンマーがどうなっているのか、つまりどう叩いてくるのだろうか、どういう音になるのだろうか、ということが気になってしまう。これは個人的な事情だ。だから今少し、感情移入の度合いが、音楽的と云うよりも、オーディオ的な興味が先になってしまうのである。今日もそうで、気が散ってしまって、集中度を欠いてしまったような気がするので、演奏についてはコメントは控える。音響的には全く不満のないものであることは付け加えたい。なおハンマーは2回であった。演奏時間は82分。
 全体に聴いた印象は今一番嵌まっている、ティルソン・トーマス/サンフランシスコの演奏に近いように感じた。このCDはSACD盤ですこぶるつきの美しさである。マーラーのSACD録音の場合、ジンマン/チューリッヒのように美しいが力感に物足りなさが残る録音が散見されるが、トーマスの録音は力感も素晴らしい。特に金管群の定位の良さと力強さは特筆もの。今日のトリフォニーの席は2階だったが、トーマスの録音はまさに2階の良い座席で聴く音である。今日の新日本の演奏を聴いていて、まずティルソン・トーマスのCDを思い出した次第。彼のマーラーシリーズは未体験の方お薦めである。去年のライブで聴いた彼の五番の演奏は忘れられない。
 新日本フィルは好調のようだ、来シーズンのシーズンチケットを買おうと思ったらもう良い席は全くなかった。とにかくすみっこに1席は確保したが!メッツマーッハーとハーディングの2枚看板に、大野など若い日本の指揮者が入るという、在京オーケストラの中でも最強の指揮者構成であるからだろう。これからも注目すべきオーケストラである。                 〆

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