ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2013年05月

2013年5月25日
於:新国立劇場(1階16列中央ブロック)
 
ヴェルディ「ナブッコ」、新国立劇場公演
指揮:パオロ・カリニャーニ
演出:グラハム・ヴィック
 
ナブッコ:ルチオ・ガッロ
アビガイッレ:マリアンネ・コルネッティ
ザッカーリア:コンスタンティン・ゴルニー
イズマエーレ:樋口達哉
フェネーナ:谷口睦美
アンナ:安藤赴美子
アブダッロ:内山信吾
ベルの祭司長:妻屋秀和
合唱:新国立劇場合唱団
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団
 
現在に置き換えた、読み替え演出である。読み替えもここまで来るともう勝手にやってくれと言いたいほどだ。演出家か主催者かわからないが、気が引けたのか、ホール入口にプロダクションノートのコピーを貼りだしていた。やはりこの演出は日本人には向かないと思ったのだろうか?しかしノートの本文を読むとどうも日本人のための演出の様だ。何か意図がよくわからなかった。
 舞台は現在のどこかの都市のショッピングモール。右手にはエスカレータが2台あり2階につながっている。けれどエスカレータは動かないので皆歩いて、登ったり下ったりしている。1,2階とも舞台の奥は商店があり、携帯ショップやカフェなどが並んでいる。まあこういう設定。ヘブライ人たちは「物欲にまみれ、所有欲をあらわにした:プロダクションノート」ため神に見放される、ヘブライの敵のアッシリア人は「アナーキスト」として描かれている。物質主義に相対する位置づけである。いろいろあって最後は神の恩寵を感じて、人は皆謙虚さを取り戻すという寸法。
この強欲の様に神を裏切る行為に対する天罰というテーマそのものをどうこういうつもりはない。
 問題はそういう能書きをこの読み替え演出のように露骨に表に出すと、いまさら愛国者オペラとは云わないが、人間ドラマとしての面白さが希薄になってしまうと云う落とし穴待っていると云うことである。ナブッコとアビガイッレの確執など十分に面白いのにこの演出ではその面白さは感じられない。
 もう一つ、プロダクションノートで「音符と言葉が全てです」と云っているが、読み替えの為に歌詞と舞台設定とが全く合わないので、歌詞が全く意味をなしていない部分が多いと云うことである。
 何でもいいが、例えば第一部の導入部の合唱の歌詞を見てみよう。
 「祭祀の器具が壊れて落ちるといい
 ユダの人は喪服をつけるがいい
 侮られた神の怒りを代弁する
 アッシリアの王はすでに我々の上に襲いかかった
 野蛮な国の軍隊の怖ろしい咆哮が
 聖なる神の神殿にとどろいた」
 
この歌詞を現在のショッピングモールを舞台に現在の人が歌うのである。まるで意味をなしていないではないだろうか?こういうことを不思議に思わないで「言葉と音符が全てです」などとよういいますなあ。
 しかし今日は実は音楽が全く演出負けしなかった。こう云う舞台だったにもかかわらず、ヴェルディの若い血潮あふれる音楽を十分堪能した。それはカリニャーニと歌手達の作った音楽によるものである。先日の二期会のマクベスの様に完全に演出が音楽を屈伏させたのとはえらい違いである。
 カリニャーニはこの演出をどう思ったかはわからないが、関係ないよとばかり、実に輝かしく、勢いのある音楽を聴かせてくれた。序曲からして凄いが、第4部の第一景の最後、ナブッコと兵士たちの合唱を交えたカバレッタのオーケストラの勢いと合唱の素晴らしさ、ガッロのナブッコの力強さなどがあいまって、本日最大の聴きものだった。しかも2部の第一景のアビガイッレのアリア「かつて私も喜びに心を開いた」など音楽を十分歌わせると云う面でも素晴らしいサポートだった。
 ガッロのナブッコは前半からもう雷に打たれたような声でどうなるかと心配してしまったが、後半は見事な歌唱。特に3部のアビガイッレとの2重唱や4部の覚醒の場面など十分感情移入できる、歌唱だった。
 アビガイッレのコルネッティはそのパワーに圧倒される。この役は本来は「ソプラノ・ドラマティコ・ダジリタ」という超難役。低い声から高い声までドラマティックに出さなくてはいけないので大変な役だ。だから低音のでるメゾのコルネッティが歌ったのだろうか?ドラマティックと云う面ではこの起用は全く素晴らしい結果だったが、カラスや愛聴盤のシノーポリ/ディミトローヴァの天井を突き抜けるような声は聴くことができなかった。もうこの役を歌えるソプラノはいないのだろうか?コルネッティのよさは、そういうドラマティックな部分もさることながら、アビガイッレが昔を思って歌う前記の「かつて私も喜びに心を開いた」などの数少ない抒情的な部分の、柔らかく、豊かで、しなやかな歌唱にあったように感じた。
 ザッカーリア役も素晴らしいがこれは声に天井を感じた。日本人は皆素晴らしいが、特にイズマイッレの樋口とフェネーナの谷口は、誠にヴェルディのこのオペラの素晴らしさを味あわせてくれた熱唱だった。ただ4部のフェネーナの「ああ天国は開かれた」は少々気のない歌いっぷりが残念だった。これはシノーポリ盤のテッラーニと比べてだから仕方がないかもしれない。
 合唱は相変わらず素晴らしい。3部のヘブライ人のとらわれ人の合唱はカリニャーニのしなやかなサポートもあって、聴かせどころに相応しい合唱だった。東フィルも輝かさと力強さが、カリニャーニに誘発されたせいか、いつも以上に元気な演奏に感じた。若きヴェルディの音楽を十分聴くことができた公演だった。なお演奏時間は前半1部・2部が67分、後半3部・4部が48分強だった。いずれも拍手込みである。快速テンポとは思わなかったが、繰り返しなど省略があったたか、シノーポリ盤より8分ほど速かった。なお場面転換は全くなく各部はすべてショッピングモールで進められた。
                                                         〆
 
 

2013年5月18日
於:NHKホール(1階9列右ブロック)
 
NHK交響楽団、第1755回定期演奏会Cプロ
指揮:ウラディミール・フェドセーエフ
 
ショスタコーヴィチ:交響曲第一番
チャイコフスキー:弦楽セレナード
ボロディン:イーゴリ公から、序曲とダッタン人の踊り
 
フェドセーエフのN響初登板のプログラムは、ロシア音楽の夕べというのは実に安易な企画だと思うが、しかもこの脈略のないとしか私には思えない構成はどうだろう、がしかし、このごった煮も聴き終えるとそう変な印象ではなかったのは指揮者の力量だろうか?
 特にショスタコーヴィチは印象に残った。この曲、何回聴いても2楽章のくるくる回るようなスケルツオ風の音楽がいつも印象に残って、他が飛んでしまうのだが、今夜は全てとても素晴らしい曲に聴こえた。両端楽章のパワフルさはこの曲が新しい曲想を身につけているとは云え、ロシア音楽のパワーを十分感じさせる。N響も力演、特に4楽章のパワー感とスピード感の調和の素晴らしさは印象的だった。ティンパニソロも十分な力感があって素晴らしい。
 2楽章は独楽鼠の様な音楽だが、その軽快感が今夜の演奏では少々グロテスクにも聴こえたのは興味深かった。素晴らしいのは第3楽章でこの静謐感はたとえようもなく美しい。エレジーだがあまり悲しみは感じられないのは曲のせいだろうか?ここでの木管楽器、「トリスタン」を思わせるチェロの美しさも印象的。全体にかなりこってりとした印象だった。演奏時間は34分強。
 チャイコフスキーのセレナードは最後まで聴きとおせたことはない。とにかく1楽章のあの主題を聴いただけで嫌になってしまう。私にとってチャイコフスキーが苦手になった原因はこの曲かあ、などと冗談を言いたくなる曲だ。わずかに3楽章のみが共感できる。今夜の演奏はとても美しかったが、セレナードにしては編成が大きすぎやしないかとの印象が強かった。まるでマーラーやワーグナー並みの編成でゴリゴリ来るものだから、特に低弦群のぼってりした音は少々もたれる、これがロシアの音だろうか?チャイコフスキーはどのような規模の編成を想定してこの曲を書いたのだろう。
 最後の2曲はアンコールの様なものだ。序曲もダッタン人の踊りもリムスキー・コルサコフが絡んでいるだけあって、アンコール・ピースとしては最高の曲だろう。特に有名なダッタン人の踊りは大迫力で聴きごたえがあった。編曲されてポップ音楽にもなっている最初のエキゾティックな主題の、木管による提示は今夜の特筆ものだろう。この主題と豪壮な踊りの音楽が交差する部分はこの曲の聴かせどころだが、通俗的な調べにもかかわらず胸がキュンとなるのは、シルクロードへの憧れからだろうか?この曲のパワフルな演奏はショスタコーヴィチと今夜の双璧だったが、ダッタン人のほうが少々荒っぽい印象を受けた。
 しかしこのホールで聴くとこのパワフルさがサントリーなどで聴くようなピラミッド状にならないのが不思議でならない。要するにマスとしてではなく個々の楽器のパワフルさが強調されるような気がするのである。だから同じピラミッドでも小ぶりである。ホール全体に聳え立つピラミッドには聴こえないのである。
 せっかくフェドセーエフをよんでチャイコフスキーを指揮させたのなら交響曲を聴きたかったなあ、というのが率直な印象の夜でした。でも悔しいけど、帰りの駅までの道すがら、セレナードやダッタン人の踊りの1節を口ずさむ私でした。
 それにしても原宿から乗った山手線の混んでいること。驚くべき街、東京!
                                                         〆

2013年5月14日
 
珍しく今月はたて続けに3本映画を劇場で見た。
 
「ジャッキー・コーガン」、ブラッド・ピット、レイ・リオッタ主演
原題は「killing them softly」、小説の映画化、小説のタイトルはまた違う。まあややこしいです。
賭博場を襲った半素人の強盗犯をブラッド・ピット扮する殺し屋がひとりづつ殺してゆくと云う話。ピットの冷酷な殺しっぷりはなかなかのもの。顔はやさしそうなのにやることは怖い。やられる強盗は社会の底辺のくずのような代物。とにかく見ていて腹が立つくらい最低の男たち。この対比と追跡劇は面白い。こういうポイントはあるが、映画のあちらこちらでマケイン×オバマの選挙演説があり、最後にはオバマの当選演説が流れる。政治家が勝手なことをほざいているが、荒廃としたこのアメリカ社会での生き残りは生易しいものではないと云うことが主題の様に思った。オバマは共同体というが、ピットはアメリカは共同体ではない、ビジネスだ、そして共同体でなく、皆一人だと云う台詞が印象的。舞台が大体荒廃としていていったいどこの町での撮影なのか、アメリカとは思えない風景でこれもこの映画にフィットしていた。ハーバードの熱血教室のケースに使えそうだ。
 
「ザ・マスター」、フィリップ・シーモア・ホフマン、ホアキン・フェニックス主演
2大俳優による緊迫した舞台劇の様な仕立ての映画だ。二次大戦の退役兵、フェニックス、狂気を秘め、それは戦争によるものなのか、はたまた遺伝によるものなのか、とにかく切れると怖い男。ホフマンは「コーズ」という怪しげなカルト宗団の教祖で、「マスター」と呼ばれている。輪廻転生ということで人間は何度も生まれ変わる、その根源までさかのぼって悩みや病気を治すと云う代物だ。正直云ってこのカルト集団が「ちんけ」なのでいまひとつ緊迫感がなく、それゆえかフェニックスとホフマンとの対話が私には退屈で、ところどころ睡魔が襲う。大体このまるで違うような二人がなんで一緒にいるのかが私には最後までわからなかった。きっと眠っている間に何かがあったのでしょう。DVDがでたら確認のため見てみよう。
 
「LAギャングストーリー」、ジョシュ・ブローリン、ライアン・ゴスリング、ショーン・ペン主演
ロスの裏世界のボス、ミッキー・コーエン(ペン)がロスの町全体を牛耳る。もちろん政治家、裁判官、そして警察までもが彼に握られている。そこで結成されたのが「gang squad:これが原題」だ。ジョシュ・ブローリンがその隊長。ゴズリングが一の子分と云う訳。ただこれは禁酒法時代のアンタッチャブルとは違って、彼らはバッジをもたずに、しかも「00」つまり殺しも許容されているところだ。なんともハチャメチャな話だが。実話に基づくそうだから、アメリカと云う国は怖ろしい国だ。ブローリンもゴズリングもコーエンに媚びないから、一匹狼だが、ダーティーハリーとはちょっと違う。ブローリンは家族がいて、ゴズリングも伴侶となるべき恋人がいると云うことだ。こんなハチャメチャな話の中で、あれだけ人を殺しておいて(もちろん悪いやつら)、最後は家族が大切ですと云ったって、ああそうですかとはなかなか思えないところが、この映画の食い足りないところだ。特にブローリンの奥さん役のミレイユ・イエノスが又可愛くて、魅力的な設定にしてあるのが、脚色と云えば脚色だが、殺人シーンの凄さ、男たちの非情さを薄めているような気がした。ラッセル・クロウのLAコンフィデンシャルとはまた違うんだよなあ。ショーン・ペンのコーエンも人間としては薄っぺら過ぎるような気がする。
以上は劇場にて鑑賞
 
「WAY BACK」、ピーター・ウイアー監督、ジム・スタージェス、コリン・ファレル・エド・ハリス主演
タイトルは遠く離れてという意味の様だ。 1941年、シベリアの政治犯収容所から6人の囚人が脱出。途中で集団農場を脱出したポーランドの少女も加わり計7人の脱出行である。これがまた壮大な計画である。主人公はポーランド人だがシベリアを南下して、モンゴル~チベット~インドを目指すと云う。6500KMの旅だ。メンバーにはロシアのヤクザ(コリン・ファレル)やアメリカ人(エド・ハリス)、ラトビア人などがいて彼らの共同作業が実に面白い。しかしこの映画の肝はこの若いポーランド人(ジム・スタージェス)の自由を求めての強烈な意志の力だ。彼がいなければこの旅は成就しなかったろう。それだけ自由への希求が強いと云うことだ。ソ連の圧政が20世紀後半まで続いたポーランド人を主人公にしたことに意味があると思った。ただしこれも実話に基づいた話だそうだ。(DVDレンタル)
 
「希望の国」、園 子温監督、夏八木 勲、大谷直子主演
福島原発事故をモデルにした辛い映画だ。架空の長島県、大葉町の原発が津波で被害を受け、半径20K以内の人は強制退避させられる。そういうなかでの夏八木一家のちり散りばらばらになってゆく様が抑えた映像で描かれてゆく。こう云う主題になると、きーきー騒ぐ人間が必ず出てくるが、夏八木の長男役がその例、この映画ではそれをあまり表に出さないところがよく、それがかえって悲しみを強くしている。主演の二人の演技と若い人の演技とのギャップは眼をつぶろう。マーラーの交響曲第十番のアダージョが効果的に使われている。(DVDレンタル)
 
                              
「コンフィデンスマン」、サミュエル・L・ジャクソン主演
原題は「SAMARTAN:善きサマリア人}
友人を殺して服役していた詐欺のプロ(ジャクソン)が25年の刑を終えて出獄する。友人の息子はジャクソンの腕を利用して大掛かりな詐欺を計画、ジャクソンは嫌がっていたが、やむない事情で手を染める。少々ややこしいが話としては面白い。終わりが予想できる底の浅さが欠点だろう。                                            (DVDレンタル)
 
                                                         〆

2013年5月10日
於:サントリーホール(1階20列中央ブロック)
 
読売日本交響楽団、第560回サントリーホール名曲シリーズ
指揮:ユーリ・テミルカ―ノフ
ピアノ:河村尚子
 
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第二番
チャイコフスキー:交響曲第六番「悲愴」
 
ロシアを代表する二人の作曲家の代表作による、まさに文字通りの名曲シリーズだ。しかも指揮者はロシアのテミルカ―ノフだから大いに期待した。期待にたがわず良い演奏、というよりとても面白い演奏だった。
 ラフマニノフの1楽章、オーケストラが素晴らしい。冒頭から音楽が耳からではなく、情緒に直接訴えているように聴こえる。情が勝っている演奏だと思うが、だからといって決して通俗的なべたべたした音楽にならないように踏みとどまっている。一音一音心に沁み込んでくる演奏だ。それには河村の少しさっぱりしたピアノが貢献しているかもしれない。そういう意味ではこのカップル、寄り添って演奏しているように聴こえた。河村はばりばり進行する部分より、静かな部分での存在感が大きい。一音一音明快であり、情に負けていないところが良い。
 しかし2楽章はテミルカ―ノフが情に溺れたようで、音楽が停滞してしまって、この美しい楽章に浸るところまではいっていなかったようだ。河村も引きずられているようだった。3楽章は1楽章同様オーケストラとピアノがぴったりと息があって、まさに協奏曲だった。演奏時間は36分弱でかなり遅い。河村のアンコールはバッハ/エゴン・ペトリ編、「羊は安らかに草を食み」。あまり弾きたくなさそうだったが、とても美しかった。アンコールは無理して弾く必要はないと思う。昨夜の児玉は弾かなかった。
 チャイコフスキーも面白い演奏だ。1楽章は硬軟相まったスリリングな演奏だ。硬は1主題の最初の盛り上がりと中間以降の2つのピークで、ここはまるで鋼の様な音楽。軟はその中間の緩やかな部分で、これはかなり情に流された演奏で、少々もたれるが、もともとそういう曲なので決して嫌ではない。この部分日ごろ聴いているカラヤン/ウイーンとはかなり違って聴こえる。例えて云うと演歌の「こぶし」のようなものがきいている印象だ。ロシア人だからだろうか?1楽章は聴いてゆくとこの硬軟のアンバランスが均整を欠いているような印象で、聴き終えると少々拡散した印象だった。2楽章はさらっとしているが、中間でティンパニを強調しているところが心に残る。いつもは気にならないのだが! 後に続く楽章の予兆の様な響きに思えた。
 3楽章は誠にユニークな印象。ここはどうしてもテンポをあげてゆくので最後はつま先立って駆け足のようになり、そのため音楽が前のめりになる傾向がある。しかし今夜は決してつま先立ちにはならないのだ、テンポは上がるが、足はどっしりと地面を叩いて進む。だから音楽の重心は低くなり、前のめりにならない。このような演奏は聴いたことがない。
 4楽章は知情のバランスが最も取れた、実に均整のとれた、名演である。2つ目の主題が徐々にふくれ上がってゆく部分を、目をつむって聴いたが、頂点はまさに音のバランスはピラミッド型、頂上にはトランペット、土台には低弦他の低音楽器群がどっしりと音楽を支える、誠に素晴らしい悲愴だった。2つの主題とも抑えて演奏していることがかえって悲劇性と緊張感を高めたような気がした。集中力の高い演奏だ。全曲の印象は大名演とは云えまいが、なぜか心に残る演奏だった。演奏時間は47分でこれも遅めの演奏だった。
 読響も素晴らしいが、昨夜の都響と比べると高弦の艶やかさで少々差が出たような気がした。また緩やかな部分では音楽が色あせて聴こえる部分もあった。たとえばテンポの問題があるにしてもラフマニノフの2楽章は少々精彩を欠いているように聴こえた。前後の楽章が素晴らしいだけに、ちょっと腑に落ちない。それ以外は全く不満のない演奏。金管群も十分輝かしく、特にチャイコフスキーの4楽章は印象的。又同楽章のティンパニの力強さも忘れられない。 〆
                                                         

2013年5月9日
於:東京文化会館(1階14列右ブロック)
 
東京都交響楽団、第752回定期演奏会Aシリーズ
指揮:エリアフ・インバル
ピアノ:児玉 桃
 
モーツァルト:ピアノ協奏曲第九番「ジュノム」
ブルックナー:交響曲第九番
 
両曲とも極上の音楽を聴かせてくれた、素晴らしいコンサートであった。
 ジュノムはモーツァルトが21歳の時の作品、オーケストラが何小節か序奏を弾いた後すぐピアノが入ってきたり、3楽章のロンド・プレストの中間にメヌエットが入ったりユニークな作品。2楽章が素晴らしかった。後年の緩徐楽章と比べても優るとも劣らないこの楽章を児玉のどちらかというと軽めのピアノのその混じりけのない音とインバル/都響のどちらかというと重めの音が混ざり合って、極上の響き。オーケストラがピアノをなぞる部分も哀愁漂い素晴らしい。ただ1楽章はピアノとオーケストラのスタイルが違いすぎるような気がした。オーケストラはよく云えば重厚だが、悪く云えば少々もっさりして田舎臭い。児玉のピアノの上品な軽やかさが生きない。しかし3楽章のまるでオペラの序曲みたいな浮き浮きした音楽は、オーケストラものりのりで児玉のピアノと呼吸が合っていた。こんな素晴らしい曲が21歳の青年の手から生まれたなんて信じられないことだ。演奏時間は31分。
 ブルックナーは更に素晴らしい。インバルはマーラーとブルックナーと両方を得意にしている指揮者で、昔はこう云う指揮者はあまりいなかったようだが、最近は珍しくないらしい。インバルのマーラーはチクルスが進行中でどれもが何年か前の演奏より更に進化して素晴らしいが、このブルックナーも今までの彼のブルックナーの中では最高の演奏だと思った(私の聴いている範囲で)。
 1楽章は第1主題の提示からエンジン全開。少々速めのテンポでぐいぐいと迫る。第2主題はやや遅めでこれはまたすこぶる流麗な音楽、その対比が生きる。素晴らしいのは展開部~再現部~終結部と音楽が進行してゆくにつれ、音楽の緊張度がますます高まって、特に徐々にテンポをあげてゆくコーダにおける音楽の集中力は並でなく、まさに手に汗握るスリリングな演奏だった。2楽章は異様な演奏だ。スケルツオの第1主題は凄まじい遅さだ。ティンパニはドスンドスンと響き、弦は叩きつけるように弾いているように聴こえる、この音楽の巨大さは言葉では表せられない。この楽章がこのように響くのは未体験の世界である。トリオは幾分テンポを上げるがこれも侏儒の踊りの様には聴こえない。例えようのないグロテスクさに驚く。
 このようなスケルツォのあとに何でこんな素晴らしい3楽章が待っているのだろう。ただし第1主題から生への訣別まで、音楽はそれほど深刻には聴こえず、いくらかゴージャスに聴こえる。ゴージャスは少々言い過ぎかもしれないが、音楽は豊かに響き、わずかに楽天的に聴こえた。しかしそれは決して嫌ではなく、音楽の響きとしては極上であり、ぞくぞくするくらいの快感を感じる音楽だった。
 両端楽章は幾分速く演奏され、2楽章は幾分遅く演奏された。演奏時間は58分強。
 都響の演奏はマーラー以来の素晴らしさ。弦は艶やかさを十分持っていながら、重厚に響く。金管群の安定度も特筆したい。3楽章のワグナーチューバの響きも素晴らしいかった。ティンパニの力強さも今までにないもの。文化会館で聴く都響の演奏ではベストのサウンドだった。
                                                          〆

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