ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2013年01月

2013年1月26日
於:新国立劇場(1階15列中央ブロック)
 
新国立劇場公演
ワーグナー「タンホイザー」
 
指揮:コンスタンティン・トリンクス
演出:ハンス=ペーター・レーマン
領主ヘルマン:クリスティン・ジグムンドソン
タンホイザー:スティー・アナセン
ヴォルフラム:ヨッヘン・クプファー
エリーザベト:ミーガン・ミラー
ヴェーヌス:エレナ・ツィトコーワ
ヴァルター:望月哲也
牧童:國光ともこ 他
合唱:新国立劇場合唱団
バレエ:新国立劇場バレエ団
管弦楽:東京交響楽団
 
ワーグナーイヤー、期待の公演だったが、少々期待外れだ。その原因の一つはタイトルロールのスティー・アナセンだ。1幕のヴェーヌスとの長い2重唱は、最初は、きれいな柔らかな声で気持ち良いなあと思っていたら、だんだん非力さが露呈してきた。とにかく力がなく弱弱しいタンホイザーと云った印象だった。重唱になると埋没してしまって、なんにも聴こえない。2幕の幕切れの重唱はその例。またここぞという聴かせどころで腰砕けになるのも興ざめ。たとえば1幕の大詰めで「マリアのうちでこそ」の部分や、2幕の歌合戦での「ヴェーヌスの山に入るがいい」、2幕の最後「ローマへ」と叫ぶ場面など物足りない。わずかに3幕のローマ語りは共感をもって聴けた。
 期待外れのもう一つの理由はトリンクスの指揮だ。彼の指揮では昨年この劇場で「ボエーム」を聴いたが、歌手に寄り添うようなサポートとテンポで好印象だったが「タンホイザー」ではそうはいかなかったような気がする。序曲からして音がばらばらで、全体にもっさりした印象。ヴェーヌスとの1幕の2重唱は冗長、それとどういうわけか、ヴォルフラムの歌が皆遅すぎて、いらいらするくらい。とにかく全体に重々しさを出そうと云うのか、勿体をつけているような印象。演奏時間は190分(ウィーン版)。例えばパリ版のショルティ(187分)、昨年聴いた春祭のドレスデン版(177分)、折衷版のサヴァリッシュ/バイロイト版(170分)などと比べても最も遅い。ただバレンボイムの折衷版の194分ほどではないが。遅くて駄目というわけではない、昨年の二期会の「パルジファル」などはあの超スローのクナッパーツブッシュより遅い演奏時間だったが、全く冗長感はなかった。飯守泰次郎の技だろう。
 ただその他の歌手陣はおおむね良好。特にエリーザベトは立派。声は美しいのは当然のことながら、安定感があり、しかも力強い。09年にオペラデビューした若手の様だが将来期待したい。2幕の「大切な殿堂!、ごきげんよう・・・」や歌合戦の最後の部分から終わりまでは素晴らしかった。3幕の祈りの歌は超スローテンポで少々もてあました感じ。
 領主ヘルマンのジグムンドソンはどこかで聴いているのだが思いだせない。領主らしい威厳のある声で存在感があった。ヴォルフラムは若々しい声が魅力。ヴェーヌスのツィトコーワは新国立の常連。一昨年のこの劇場でのブランゲーネの歌唱は印象的だった。ただ彼女の声にヴェーヌスはあっているのかなあと思いつつ聴いていた。歌は立派なもので、非力なタンホイザーが可哀想だった。その他日本勢では相変わらず望月が立派だ。
 合唱は、1幕では集中を欠いたような気がしたが、3幕の幕切れの合唱など立派だった。
 ペーター・レーマンの演出は奇をてらうことない、まともなもの。「私は、作品が現代の諸問題につながることを示すために、人物をジーンズ姿で登場させたり、キャンプ場に置いてみたりはいいたしません。そんなふうに演出しなければ作品の現代性に気付かないほど観客が愚かだとは、私は思っていません」(プログラム13ページ)。これがレーマンのオペラ演出に対するメッセージである。こう云う演出家が欧州にもおられるのは実にうれしい。きめ細かい演出は随所にみられるが、印象に残ったのは、3幕でエリーザベトがわが身をマリア様に捧げるからタンホイザーを救って欲しいと祈って、自死のために谷に向かう場面。ヴォルフラムがそれを察してお供をしてよろしいかと尋ねる。普通の演出ではエリーザベトは手などの身振りで拒絶する(ト書きとおり)が、ここでは、観衆に後ろ姿を見せているエリーザベトは、頭から長衣をかぶり、顔をかくして、ヴォルフラムの顔も見ずに通り過ぎてしまう、ヴォルフラムはがくっと体を折って悲しみを表現する。このシーン、言葉で書くとこうだが、実舞台に接すると実に感動的なシーンなのだ。
 装置は細いプラスティックの板を組み合わせていくつかの長い円筒にする、そしてそれを何個か組み合わせていろいろな場面を作り出す。照明との相乗で美しい。なお正面のスクリーンに映像を映し出すが、後ろからの光が漏れて見えるのは、少々雑だ。この演出は2007年初演のものである。なお1幕1場のバレエの振り付けは音楽にそぐわない気がした。まあわざとエロスを感じさせない意図があったのかもしれないが、物足りない。
                                                         〆

2013年1月22日
於:サントリーホール(1階16列左ブロック)
 
東京都交響楽団、第747回定期演奏会B
指揮:エリアフ・インバル
メゾソプラノ:イリス・フェリミリオン
 
マーラー
 リュッケルトの詩による5つの歌
  ふとやわらかな香りがした
  私の歌をのぞかないで
  きれいだから好きだと云うなら
  真夜中に
  私はこの世から消えている
 交響曲第五番
 
このプログラムは、同じ都響のマーラーチクルスで、横浜公演をすでに聴いている。実はマーラーチクルスの東京芸術劇場主宰公演ならだぶらなかったのだが、横浜みなとみらい主宰の場合はだぶりのままで聴かなくてはならないので、こうなってしまった。マーラーチクルスの後期も芸術劇場主宰の公演は満席に近くて、都響の会員でも良い席が全くなく、後期についても横浜公演を聴くことになってしまった。したがって九番の交響曲を二度聴くことになる。まあそれはよいのだが、このことはインバル/都響の人気の証明だろう。在京のオーケストラものんべんだらりとした相変わらずのプログラムから脱却して知恵を絞って欲しい。
 さてサントリーでの今夜の公演だが、横浜公演とは大きな変化はない(当然!)、席が横浜が前から7列で、今回が16列だからその違いとホールの違いが大きいと云えば大きい。7列だとどうしてもオーケストラに頭を突っ込むような聴き方になって、音楽は直接的で、明瞭だが16列だとホールの音が混ざってふんわりした感じがでて、私はこのあたりの席が好きだ。だから東響も17列だし、読響も20列である。ただしどういうわけだがN響だけはその番号はあまり音が良くない。だからN響は9列目で聴いている、そのほうが断然音が良い。これは蛇足。
 リュッケルトはやはり今夜も後半の3曲が素晴らしい。フェリミリオンの声がホールにふんわり響いて耳に入ってくるので、より美しく感じる。「真夜中に」の最後の節で、金管や打楽器、ピアノが入ってきた時の高揚感と云ったら、形容しがたい。この曲は弦が全く参加してないのにこの効果。そして「私はこの世から消えている」の最後の節の「私の天国に・・・」はイングリッシュホルンとフェリミリオンの声が溶け合い、ホールに拡散する素晴らしさ。
 五番の交響曲も、横浜と大きな印象の変化はない。2楽章の荒れ狂う様は凄まじいものだ。3楽章の音の変化はめくるめくようで、今でも耳から離れない。アダージェットは速めのテンポだが出だしからもう引き込まれる、ティルソン・トーマスのような磨きこまれた美しさではなく、武骨とは云わないが、一音一音心に語りかけてくるようだ。これはマーラーのアルマへの求愛の音楽だそうだ。こんな音楽で求愛されたらいちころだろう。5楽章も終結部の盛り上がりとインバルの追い込みはどうだろう。横浜以上だ。ただここは少々力技に走ったように感じたが、この音の奔流に翻弄されるしかない。演奏時間は65分で横浜より2分速いのはおそらく5楽章が、異様に早かったためだと思う。横浜もサントリーも約だが、1楽章12分、2楽章13分、3楽章17分、4楽章9分だったからだ。なおチェコフィルと共演したCDは67分だから横浜と同じだ。サントリーはインバルの気合いが一段とのっていたと理解したい。
 なお、3楽章と4楽章の間にインバルは短い時間だが舞台裏で休憩をとっている。これは横浜でもサントリーでも一緒だ。
 横浜でも、サントリーでも収録していたがどちらをCDにするのだろう。まさかまぜることはあるまい。
 都響の演奏も今夜は一段と白熱。トランペットのソロは相変わらずほれぼれするほど素晴らしい。ホルンも素晴らしいがサントリーのほうがより豊かだった様な気がした。特に3楽章のこだまの様なホルンの響き、寂寥感すら感じさせる、おもわず身震いしてしまうほどだった。弦も皆素晴らしい。高弦も透明感たっぷりでしかも嫌な音は皆無。アダージェットの響きは誠に魅力的だった。                                                    〆

2013年1月21日
於:新橋演舞場(桟敷席、花道側)
 
寿・初春大歌舞伎
お正月公演らしく華やかな演目が4つもあり、それぞれ楽しめた。
寿式三番叟
藤間勘十郎振り付け
三番叟:梅玉
千歳:魁春
附千歳:進之助
これこそお正月らしい、華やかでなおかつ儀式的で初春興行にに相応しいもの、前半の静的な舞踊より、後半の自由な、活発な舞踊のほうが素人には楽しい。
 
菅原伝授手習鑑・車引
梅王丸:三津五郎
桜丸:七之助
杉王丸:巳之助
藤原時平:弥十郎
松王丸:橋之助
3大名作のひとつだそうだ。1746年初演の人形浄瑠璃である。今日はそのうちの、三段目の口にあたる「車引き」、一幕である。三兄弟に人気役者を揃え見せ場たっぷりの一場面。七之助が美しい。それぞれ様式感たっぷりで、伝統的な芝居を堪能できた。
 
戻り橋(新古典劇十種のうち)
愛宕山の鬼女(扇折小百合):福助
渡辺 綱:幸四郎
最初舞踏劇と云うことと、50分もあると云うことで、参ったなあ思ったら、案外面白く楽しめた。途中幸四郎と福助が火花を散らしながら、手をつなぎ客席の通路を歩いて回ったり、サービス精神旺盛の舞台だった。福助は妖艶な美女から鬼女への変身が見事、最後は宙づりまであり、魅力たっぷりの舞台だった。車引と戻橋はみえやら様式的な型が随所に出てきて、それぞれ盛り上がった。凡庸な演技であればワンパターンで面白くもなんともないのだろうが、鍛えに鍛えた演者によるのは美しさの極致だと思った。
 
傾城反魂香(土佐将監閑居の場)
浮世又平(ども又):吉右衛門
おとく:芝雀
これはついせんだって、この劇場で市川右近と笑也で見たばかりだから、話も良く覚えていて楽しめた。見せ場のども又とおとくの芝居が山場で、今日も感動的だったが、私には右近/笑也のコンビのほうが軽妙で楽しかった。ちょっと吉右衛門は重々しくて違和感があったし、芝雀も夫を支える世話女房と云う感じではなかった。なんてまだ2回目なのにえらそうなことを云ってスミマセン。
 
今日は桟敷席だった。靴を脱いで足をおろして一見楽そうだが、座イスが座りが悪いし、体を傾けてみないといけないので、私にはあまり居心地がよくなかった。やはり椅子席が良い。
                                                          〆
 
 
 

2013年1月19日
於:横浜みなとみらい大ホール(1階7列中央ブロック)
 
インバル/東京都交響楽団・マーラーチクルスⅤ
指揮:エリアフ・インバル
メゾソプラノ:イリス・フェリミリオン
 
マーラー
 リュッケルトの詩による5つの歌
  ふとやわらかな香りがした
  私の歌をのぞかないで
  きれいだから好きだと云うなら
  真夜中に
  私はこの世から消えている
 
 交響曲第五番
 
インバル/都響によるマーラーチクルスの第一期の最後のコンサートだ。
リュッケルトはマーラーの歌曲の中で最も好きなものだ。特に今日の編成で云うと終わりの3曲はいつ聴いても胸がざわめく。今日は特に「真夜中に」が素晴らしかった。フェリミリオンの情感たっぷりの歌、都響の管楽器群の素晴らしさが相まって感動的。ついでまるでラブレターのような「きれいだから好きだと云うなら」がこれもフェリミリオンの心にしみるようなやさしい歌いっぷりが魅力的だった。全5曲いたるところに心に触れる部分があって、聴いた後の感銘は何とも云い難い。
 更に素晴らしいのは五番の交響曲。昨年聴いたゆったりした桃源郷のようなティルソン・トーマスの演奏とは対極的な、鮮烈なマーラーだった。
 1,2楽章は荒れ狂うマーラーだ。かつて聴いたアントン・レック/東響以来の凄まじいもの。とくに2楽章は緩急つけが明確で全体が劇的である。全体に速いが4楽章の最後に出てくるテーマの部分だけはがくっとテンポを落とす。その効果は素晴らしい。3楽章は更に起伏が激しい。レントラー風の舞曲は気持ち悪いくらい遅いし、ホルンのこだまの様な響きもものすごく遅い。しかしスケルツォの部分は荒れ狂うくらい速い。この対比が音楽全体をスケールアップしているようだ。
 4楽章のアダージェットは流麗とは決して言えないが、一節一節、一音一音聴き手に語りかけてくるような響きが感動的である。チェロ、ヴィオラなどの低音弦からヴァイオリンへ音楽が移行する部分の対比の美しさがとても印象的だった。5楽章はテンポの揺れは少なく、一気呵成に駆け抜ける。颯爽とした演奏だった。
 演奏時間は67分で速い方だ。バースタインの新盤やティルソン・トーマス盤と比べるとかなり差が大きい。時間だけ見るとバーンスタインの旧盤やショルティとほぼ同じ。今年はもうマーラーの五番は聴かなくても良いと思うくらい強烈な印象の演奏だった。
 都響の演奏もベストパフォーマンス、特に金管ではトランペットが抜群の安定感と透明度の高い音が素晴らしかった。リュッケルトでの木管群の繊細な響きも忘れられない。
                                                         〆
 

2012年1月16日
 
「レ・ミゼラブル」 ヒュー・ジャックマン、アン・ハサウエイ、ラッセル・クロー
ヴィクトル・ユーゴー原作のミュージカル化をさらに映画化したもの。子供の頃「ああ、無情」とか「ジャン・バルジャン物語」とか云うタイトルの本を読んでどきどきしたものだった。
 ミュージカルは見ていないが、この映画化は大変面白く見た。それはひとえにアン・ハサウエーとサマンサ・バークスの歌唱によるものが大きい。二人とも主役ではないのにその歌がなぜか無性に胸を強く打つのである。コゼットの母親役のハサウエーは前半ちょっと出るだけであるが、彼女が、夢破れ、地獄の現実を歌うシーンに胸をうたれない人はいないだろう。決して歌はうまいとは思えないのだが、演技力なのだろうか?それとマリウスの愛人エポニーヌは数奇な運命で落ちぶれているが、貴族出のマリウスを深く愛している。しかしマリウスはコゼットにひとめぼれ。そのかなわぬ恋をせつせつと歌う、その歌唱も心を動かす。男優陣はラッセル・クローとヒュー・ジャックマンが入れ替わったほうが良かったのではないかと個人的には思う。ウエストサイドストーリーのような5重唱の場面もも大変効果的でよかった。
 ただせっかく映画で作るのなら時代背景などもう少し付け加えるようにしても良かったのではないかと思った。(劇場)
 
「007スカイフォール」、ダニエル・クレイグ、ジュディ・デンチ、ハヴィエル・バルデム
相変わらず、ダニエル・クレイグのジェームス・ボンドは居心地が悪い。肉体派のボンドと思えば良いのだが、戦っていない時の棒読みみたいな台詞、野暮ったい立ち居振る舞い、フレミングの創造したボンドとは随分違う。
 フレミングの原作本もわかりやすく、プロットは単純だが、この映画もそういう意味では同工異曲の趣。話の筋立てが国際謀略物らしくスタートするが、結局は単なる復讐譚というのは何十作も作っていて、もうひとひねり欲しいところだ。見どころはアクションシーンで、こればかりはショーン・コネリー時代とは隔世の感あり。老兵MとボンドのコンビがITを駆使した新しい情報戦でどう戦うかが見どころのようだ。結局戦争は自分の土俵で戦えと云う教訓が、この映画でも実践されていて、案外まともに作られていることが分かる。2時間半近いがもう少しカットすれば冗長感はなくなるだろう。
 その他の配役では、演出のせいか、敵役のハヴィエル・バルデムがノー・カントリーの不気味さを出して欲しいと云う期待を全く裏切る平凡な出来でがっかり。レイフ・ファインズもこうもり野郎みたいな役かと思っていたら案外まとも。デンチのMは相変わらずの存在感。面白かったのがアルバート・フィニーで、こう云ったチョイ役でも味がある。ボンドガールはあまり色気がないのはクレイグに合わせているからだろう。
 懐かしいアストン・マーチンが出てきてオールドファンも楽しめるように作られている。ジェームス・ボンドのテーマが冒頭出てこないのであーあとうとう消えたのかと思っていたら、いい場面で効果的使われていたのはうれしい。指紋認証のワルサーPPKなどという小道具も楽しい。Qが若いあんちゃんになって登場するのも面白い。最後の小ひねりも笑ってしまう。そういう面では第一級のエンターテインメントだろう。
 こう文句ばかり言うなら見なきゃ良いのにと思うが、名作「ロシアより愛をこめて」を超える作品がいつ出てくるかを期待しつつ毎度劇場に足を向けるのだ。(劇場)
 
「テルマエ・ロマエ」、阿部 寛、市村正親、上戸 彩
漫画の映画化。若い人たちが面白かったというので見た。
 前半の日本のお風呂のアイディアを古代ローマに応用するわけだが、その応用の仕方一つ一つが秀逸に映像化されていて面白かった。後半のローマ皇帝の政争といった、ドラマになると途端に退屈。日本人がローマ人をやるのは阿部一人くらいならごまかせるが、こうたくさん出てくると少々違和感がある。ただ歴史にできるだけ忠実にしようと云う漫画家の姿勢はよくわかった。
 面白かったのは、挿入される音楽で、ヴェルディやプッチーニのオペラの歌がうまく使われていた。一番笑ったのは、阿部が時間を移動する場面で、「アイ―ダ」の第三幕の幕切れの音楽をうまく使っていて、これが何度も繰り返されるのがおかしかった。
 役者では上戸のでるドラマは売れない(視聴率を稼げない)というのがよくわかった。
(DVD)
 
「ファウスト」ドイツ映画らしい
ゲーテ「ファウスト」の第一部を中心とした映画化。かなり翻案してある。最も不満なのがファウストが年寄りではないので、そのため悪魔との取引でファウストに若さなどを与える代わりに、死後はファウストが悪魔に僕となって仕えるという、有名な契約の内容が希薄になっていることだ。
 悪魔は人間的だが、小悪魔としての不気味さはある。例えば悪魔がマリア像にキスする場面などは実に異様だ。西洋の人々はこのシーンどう思ったのだろう。ファウストがマルガレーテと出会うシーンもグロテスクで不快感しか残らない。ファウストは生についての苦悩が、そもそもこれがこの戯曲の発端のはずだったのだが、あまり私には伝わってこなかった。とにかく全体を見てあまり気持ちの良い映画ではなかった。こう云う映画の作りを見ているとオペラでの演出の趣味の悪さのルーツを感じる。(DVD)
 
「デンジャラスラン」、デンゼル・ワシントン、ライアン・レイノルズ
原題は「SAFE HOUSE」、つまりCIAが重要な人物や重要な捕虜などの隠れ家を云う。レイノルズが新米のCIA局員でこの隠れ家の責任者。ワシントンはCIAを裏切った男の役だ。
 期待の1作だったが、少々期待外れ。SAFE HOUSEから脱出した後半が特に乱暴な作り。細部の作りが安易なところが生々しさに欠けるのである。ばたばた人が死ぬのもいかがなものか?話の展開としては面白いので時間つぶしには良いでしょう。(DVD)
 
「ハングリー・ラビット」、ニコラス・ケイジ、ガイ・ピアース
交換殺人と自警団物のミックス。終わりがぱっとしないのが難点だが、ケイジの映画としてはかなり楽しんだ。それはどんな映画でも最後はケイジはスティーブン・セガールになってしまうのだが、この映画では常人の時間がかなり長いので、生々しさとハラハラ感がある。ただガイ・ピアースに与えたの台詞の臭さがこの映画の品位(QUALITY)を落としている。この映画を見ているとアメリカ人が銃を持ちたがるのがよくわかる。(DVD)
 
「王朝の陰謀」、香港映画
サブタイトルが長ったらしくて、「判事ディーと人体発火猟奇事件」だ。原題は「DETECTIVE D」
 舞台は690年の唐の時代、則天武后が中国初の女帝として即位する前夜、それを祝う巨大な像の制作関係者が次々と自分で発火して死んでしまう。そこでディーなる、もと則天武后の家臣で謀反を企てた、名探偵が駆り出されると云うお話。ただその謎解きよりも中国チャンバラ映画に堕しているのがもったいなかった。唐の時代の王都の模様がCGで丁寧に映し出されているのが興味深かった。(DVD)
 
「ロボット」インド映画
笑いあり、涙あり、歌あり、踊りあり、インド映画の真髄、満載の映画だ。昔日本映画もこうだったのだ、だから見ていて子供の頃映画館で歓声を上げながら見ていた時代を思い出した。(今歓声を上げたり、拍手したりしたら怒られます)。おそらくインドの人たちもこの映画を見て大騒ぎされるのだろう。そう云えば1970年代にアメリカでダーティー・ハリーを劇場で見ていたら、イーストウッドの登場シーンで拍手が凄かったのには驚いたことがある。まあ映画と云うのはもともとそういう素質のある芸術なのだろう。
 ただこの映画はちょっと私にはついて行けない。最後の大立ち回りのはちゃめちゃぶりを見ればよくわかる。(DVD)
                                                       〆
 
 
 

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