ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2012年11月

2012年11月20日
於:東劇
 
メトロポリタン歌劇場ライブビューイング(2012年10月27日上演)
ヴェルディ「オテロ」
指揮:セミヨン・ビシュコフ
演出:エライジャ・モシンスキー
 
オテロ:ヨハン・ボータ
デスデモーナ:ルネ・フレミング
イアーゴ:ファルク・シュトルックマン
カッシオ:マイケル・ファビアーノ
 
歌い手、演出、オーケストラ、装置など全てどんぴしゃっと決まった公演だった。特に後半は涙なしには聴けないすばらしい演奏だった。この演出は1993年初演のもので、その再演である。もっともこの9年間で何回演奏されたかわからない。これはとてもオーソドックスというか、ト書きとおりというか、全く演出によって気をそらされることのないものだ。ごく自然にト書きに忠実にやればこのような立派な仕上げのオペラを聴(見る)くことができる見本のような演出だ。とはいえ細部ではいろいろ工夫している。しかしそれはほとんど気にならない。本質とは関係ないからである。装置も演出に沿って重厚なもので、METの巨大な空間を十分活用している。1幕など正面にキプロスの城塞がそびえて圧巻である。その他衣裳も時代を生かしたもので全く違和感がない。
 歌手だが、タイトル・ロールのヨハン・ボータは実はあまり期待していなかった。それは先年のバイエルンの引っ越し公演のローエングリンのタイトルロールが予想以上に私には合わなかったからだ。とにかく金属的な声には辟易してしまった。NHKホールと云うことも災いしたのかもしれないが!とにかく居心地の悪い公演だった。しかし今回は、特に3幕以降は全く不満のない歌唱だった。ただ1・2幕はヨハン・ボータは本質的には英雄オテロではなく、泣き虫オテロなので、冴えない。2幕などはイアーゴにやられっぱなしの情けない将軍である。このオテロの嫉妬にとらわれて最後は妻を殺害してしまう役まわりは非常に難しいと思う。ずっと英雄的だと3・4幕が違和感出てくるし、かといってすぐ嫉妬に狂ってしまうとオテロってほんとうは馬鹿な、意気地なしじゃないのなんて思いたくなってしまう。本公演のボータは最初から泣き虫なのでかえって徹底していて良かったのかもしれない。だから3幕のデスデモーナとの2重唱、3幕の幕切れ、4幕の幕切れなど大いに共感できた。特に4幕の「たとえまだほかに武器をもっていたとしても・・・」からオテロの死までは感動的でこれを聴いて心が動かない人はいないだろう。
 ルネ・フレミングはそのような夫に対して、決して負けていない役作りを目指したようだ(インタビューでそう答えている)。だから3幕の2重唱ではなぜ自分がオテロからこのような仕打ちを受けるのかわからない為、その悔しさの様なものが現れていたし、その後の幕切れの「ひざまずいて、泥にまみれて・・・・・」にはその悔しさが絶望に代わる様が表現されていて、彼女の心の中を思えば涙なしには聴けない歌唱になっていた。4幕はアヴェ・マリアもよかったが、更に素晴らしいのは柳の歌で最後の一呼吸おいて「エミリアさようなら」と絶叫するシーンも涙を誘う。
 シュトルックマンのイアーゴは2幕のクレドが圧巻である。3幕のオテロを引きずりまわす場面もイアーゴの独壇場で、まるでイアーゴが主人公の趣であるが、それもこれも4幕の愁嘆場への布石であることがこの公演を聴いていて(見ていて)よくわかる。
 とにかく皆、歌も演技もうまい。特にフレミングとシュトルックマンは素晴らしい表現力だと思った。その他カッシオがフレッシュな声で、ああイタリアオペラを聴いているんだと、改めて気付かせてくれた。
 ビシュコフの指揮は丁寧なもので、テンポも全体に遅い。歌手に寄り添った演奏と云えるかもしれない。2幕、3幕の終わりなどはダッシュのようにテンポを上げて終わる演奏が多い中、泰然自若、悠々と終わらせて、堂々たるものだ。演奏時間は143分で、愛聴盤のカラヤン/デル・モナコより7~8分遅い。
                                                        〆

2012年11月19日
於:サントリーホール(1階18列右ブロック)
 
サンフランシスコ交響曲アジアンツアー2012、日本公演
指揮:マイケル・ティルソン・トーマス
ピアノ:ユジャ・ワン
 
ラフマニノフ:パガニーニの主題による狂詩曲
マーラー:交響曲第五番
 
サンフランシスコは小澤がかつて音楽監督だったと云うくらいしか知らないがティルソン・トーマスがマーラーを振ると云うのでチケットを入手。というのは2005年のこのコンビのマーラーの五番の録音がとても印象的だったので、一度ライブで聴いてみたいと思っていたからである。このCDを買ったのは演奏もさることながら、SACDの録音が素晴らしいと云うことに惹かれたからであった、しかしもちろん録音は素晴らしかったが、その演奏も予想以上のものだった。結論的に云うと今夜とCDとでは大きな差はない、しかし7年の差はやはり微妙に出ているようで、より音楽のスケールが大きくなったように感じた。特に2,3,4楽章はそういう印象が強い。
 さて、ラフマニノフはどうだったか?ユジャ・ワンはCDでもライブでも初めてのピアニストだが、印象としてはパルスのようなピアノで、導入のパガニーニの主題から仰天してしまった。タッチがあまりにも鋭敏でパルスのように感じるのである。これが全曲貫かれる。そしてこの曲の誰もが知っている第18変奏アンダンテ・カンタービレ、これはもう17変奏から期待をもたせるような趣で、そして期待を裏切らない美しさだった。少々情緒に流され気味ではあるがそれを途中で食い止めて品位を保っているところが素晴らしい。従って音楽は自由に飛翔しているように聴こえる。ランラン/ゲルギエフ盤の品のなさとはちょっと違う。ただ私はここはもうお砂糖のように甘い音楽なのだから、さらっとやったって何ら支障がないと思っており、セシル・リカド/アバド盤の楚々とした演奏が好きだ。まあそれはそれとしてその後の22変奏から最後の24変奏までは一気呵成、火花が飛び散るようなピアノで、この曲でこんなに興奮するとは思わなかった。管弦楽のサポートもユジャ・ワンにあわせて実に俊敏に反応するのでこれも驚きだ。18変奏の弦楽部のなめらかさや美しさも忘れられない。とにかくこの曲のライブ、今まで聴いた中ではベストだった。アンコールはプーランクのピアノ連弾ソナタから3楽章。連弾の相手はティルソン・トーマスで大喝さいだった。ユジャ・ワンの衣裳はユニークなもので、ドレスが割れてももまで見えて、最前列の方は落ち着かなかったろう。ユジャ・ワンのお辞儀も内田みたいに最敬礼でおかしかった。
 さてマーラーだ。これほど細部まで磨きこまれた美しい五番と云うのは初めてである。往々にしてこう云う演奏は、どんどん細部に拘泥していってしまって、聴くほうがいまどこにいるのかわからなくなってしまう演奏になりがちであるが、今夜の演奏はそうはならないところが素晴らしい。そういう意味ではバースタインと同じ傾向ではあるが、トーマスの場合はバースタインのような毒がないような気がした。ここが彼のマーラーへの嗜好の分かれ目だろう。もちろんバーンスタインのマーラーは聴いていていつも圧倒されるが、最近は少々疲れる。だからトーマスの今夜の様な演奏を聴くと、こう云うマーラーもいいなあと思ってしまう。いつだったかハーディングが新日本フィルを指揮した時も美しさを堪能したが、今夜のマーラーはそれ以上に磨きこまれており、ライブでこれ以上の演奏は考えられないほどの完成度ではないかと思わされた。
 印象に残ったのは2,3楽章でここでの千変万化の音の変化をいちいちあげつらうことは私にはできないが、常に音楽が一定の表情をしていなくて、次から次へ変化してゆく様は何と表現しよう。4楽章は美音の極みである。これはCDでも同じであるが、今夜はさらに磨きこまれているような気がした。正直言ってここまで来ると(4楽章までで60分)少々疲れてくるが、5楽章に入ってもオーケストラは全く疲れを知らない。ティルソン・トーマスの集中力も全く途切れず最後は盛大に盛り上がる。ただ3楽章の終結やこの5楽章の終結部は案外とさっぱりと終わってしまうのがこの演奏の特徴なのかもしれない。バースタインだとここは気ちがいじみたようなドライブをオーケストラに駆けるので異様な興奮を生むのであろう。演奏時間はバーンスタイン盤(新盤)とほぼ同じの75分。2005年のCDとは2分遅くなっている。マーラーの五番は20年以上前に聴いたショルティ/シカゴの来日演奏は今でも忘れられない。CDで今はショルティの演奏を最もよく聴く。今夜の演奏はそのショルティの演奏以来の素晴らしいマーラーだった。
 サンフランシスコの音はこのところ聴いてきた外来のオーケストラとは一味違う。一言で云えば、ドレスデンやバンベルクの欧州勢は密度の濃い、凝集力のある音だが、サンフランシスコは密度よりも拡散と云うか開放と云うイメージである。たとえば1楽章の素晴らしいトランペットソロは鋭く直進するというよりも、ホールにきらきらと拡散するイメージである。だから全体に音は柔らかくふんわりしており、いくら大きな音を出してもうるさくない。これはCDでも感じ取れる。金管群の余裕のある楽器ドライブ、木管のクリアな(オーケストラが鳴っている中で木管が綺麗に浮かび上がってくる分離の良さ響き)、ティンパニのここぞと云う時の気迫のこもった一撃、弦楽器群のなめらかさと、輝かしさ。ティルソン・トーマスが20年以上パートナーとして育て上げた音の結晶がここにあった。細かいことだがアジア系の演奏者(日本人を含む)が多いのも、ウエストコーストのオーケストラらしい。
 今夜の公演はJPモルガンがスポンサーになっていたが、名札をつけたスタッフが会場内をうろうろしているのは煩わしい。メセナは露骨にやられると品がなくなる。
                                                        〆
 

2012年11月18日
於:サントリーホール
 
東京交響楽団第605回定期演奏会
指揮:飯森範親
バリトン:ロディオン・ポゴソフ
 
マーラー/ベリオ編:若き日の歌より
1.夏に小鳥はかわり
2.シュトラスブルグの砦の上で
3.二度とは逢えぬ
4.いたずらな子をしかりつけるために
5.思い出
 
リヒャルト・シュトラウス:家庭交響曲
 
若き日の歌は、家にCDもなく、ぶっつけ本番で聴いた。プログラムには歌詞は子供の不思議な角笛からとあったが、角笛をチェックしてもそのような歌詞はないので何かの間違いではないだろうか?(マーラーの角笛歌曲集ではなくその元になる詩集のようである)1曲目は幸いにも第三交響曲の3楽章に使われている旋律なので、ほっとしたが、後は全く初めてなので何とも言えない。しかしこの歌手はなかなか立派な声で、少々硬質ながら、ホールのすみずみまで響き渡る。先日のマリインスキーのエンリーコ役よりずっと良いと思った。
 1曲目の後、休憩と思ったら、飯森がマイクをもち、家庭交響曲の各動機を丁寧に説明してくれた。これはわかりやすくてよかったが、飯森のしゃべりがあまりうまくないのでちょっといらいらする。マイクをもつならもう少し事前にしゃべりを工夫すべきではないか?
 ということで「家庭交響曲」はかなり見通しが良い曲になった(私にとって)。シュトラウスの交響詩はこのごろ全く何も感じなくなって、家では殆ど聴くことはない。シュトラウスはオペラの人だと思っているからだ。この家庭交響曲はなかでももっとも感情移入しにくい曲で、それはあまりにも自己顕示が強い曲だからだろうと、思っている。聴いていて少々恥ずかしくなってしまう。特に前半はついて行けない。今日もそうだったが、流石にフィナーレ楽章で各動機が集まって盛大に盛り上がるところは、シュトラウスのパワーに圧倒された。東響の演奏は立派なもので、特に金管、木管の雄弁なこと。まあシュトラウスでこれが駄目だったら悲惨だけれども!飯森の指揮も相変わらず切れ味が良い。ローマ三部作がこのコンビで録音され、それをライブで聴いているものだから、CDを買って聴いたが録音の素晴らしさも相まってこの曲の今のところ愛聴盤になっている。来月N響/デュトワで聴けるので楽しみだ。
 なお演奏時間はプログラム通り44分だった。
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2012年11月16日
於:NHKホール(1階9列右ブロック)

NHK交響楽団、第1740回定期演奏会Cプログラム
指揮:エド・デ・ワールト

ブルックナー:交響曲第八番(ノヴァーク版)

N響の演奏の機能美を堪能できたコンサートだった。輝かしい金管、澄明な木管そして重厚な低弦に透明な高弦、誠に素晴らしい演奏だ。このところドレスデンやバンベルクでブルックナーを聴いてきたが、機能的には彼我にはほとんど差が感じられない。ただそれぞれの演奏のところで感じた、音の密度の濃さと、弦や金管のしなやかさなどの極く細かいところにどうしても差を感じる。日本のオーケストラは昔から比べると格段にうまくなったと思うが、この音色のところは歴史や民族性や、カルチャーなどいろいろな変数が折り重なって生まれているのでそう簡単にはできないと云うことだろうか?
 エド・デ・ワールトは70年代には世界の将来性のある指揮者の中にはいっていたはずだ。その中には、メータ、小澤、レヴァインなどがいたが、どうも21世紀の時点ではワールトは今一つ影が薄いように感じる。今夜の演奏を聴いていてその一因をちょっぴり感じた。決して今夜の演奏は凡庸というわけではない、むしろ今年聴いたフランクフルト/パーヴォ・ヤルヴィの演奏より格段と素晴らしいブルックナーだと思った。ただ流れがとても自然なのは良いのだが、全体が少々颯爽とし過ぎているように思った。ブルックナーのいやらしさと云うか、ごつごつしたというか、野人的な迫力に欠けているような気がするのである。例えば2楽章のスケルツォなどは素晴らしい前進力で圧倒されるが、野人的ではなく、颯爽としているのである。スマートとはちと違うが!これを聴いていてクライバーの指揮したシューベルトの三番の交響曲のアレグレットを思い出した。この楽章をクライバーは3分弱で駆け抜ける。もう実に颯爽としてかっこいいんである。ワールトのブルックナーはそういう印象だった。それが嫌ではないが古今のカラヤンやヴァントやクナパーツブッシュの名演奏と比べてしまうと、ほんのわずか巨匠に欠けるものを感じてしまうのである。
 さて、それはそれとして、今夜の演奏は2楽章以降が素晴らしかった。2楽章はすでに述べたとおりだが、スケルツォの前進力が素晴らしい。ティンパニも迫力ある。ただもう少しがんがんたたいても良いのではないかと思う。マゼールがワーグナーをやったときのように思い切り叩いて欲しい。金管の威力も素晴らしい。ヴァントなどに比べるとかなり速い演奏だが、これはこれで説得力はある。3楽章は第1主題が引きずるように入ってくる、あの弦たちの音を聴いただけで心が揺さぶられる。ワグネルチューバ、ホルンによるコラール風の音楽も素晴らしい。ここは自然な流れが逆に魅力的である。
 4楽章の第1主題の提示はかなり速い、スケルツォと同様の前進力には圧倒される、展開部のめくるめく音楽の移り変わりにも耳を奪われる。そして最後の休止の後、ティンパニの導入で、終結部に向かう。この流れも全く自然であり、聴き手はただただ音楽の流れに乗って漂うばかり。コーダの威力は凄いがカラヤンのライブやCD、クナッパーツブッシュ/ミュンヘンのCDに比べると金管が爆発するようにホールに放出されるような開放感までは行っていないような気がした。もっともライブでそのような演奏にはまだお目にかかったことがないので、ないものねだりかもしれない。1974年のシカゴでのカラヤン/ベルリンによるこの部分はまさにオーケストラの大爆発で、シカゴ、オーケストラホールの天井まで金管やら、ティンパニやらに埋め尽くされていた。もうあんな演奏は死ぬまで聴けないだろう。今夜の演奏では1楽章が少々不満。音は盛大に盛り上がっているのだが、音が大きいだけで全体が一つのマスになっていないように感じた。演奏時間は79分でカラヤンやヴァントに比べるとかなり速い演奏だった。1楽章(15分40秒)、2楽章(15分10秒)、3楽章(26分50秒)、4楽章(21分強)
 いろいろ感じたことを書き綴ったが、これは更なる高みを目指して欲しいと云う期待値をこめてであり、今夜のN響の演奏はこれはこれで素晴らしいものだった。特に2楽章以降の集中力はそうざらに聴けるものではないと感じた。日本でこれだけのブルックナーが聴ければ言うことはない。
 皇太子ご来臨のもとでの演奏会だった。
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2012年11月12日
於:サントリーホール(1階20列中央ブロック)
 
ドニゼッティ「ランメルモールのルチア」(演奏会形式)
指揮:ワレリー・ゲルギエフ
 
ルチア:ナタリー・デセイ
エンリーコ:ウラジスラフ・スリムスキー
エドガルド:エフゲニー・アキーモフ
アルトゥーロ:ディミトリー・ヴォロバエフ
ライモンド:イリヤ・バンニク
アリーサ:ジャンナ・ドムブロスカヤ
ノルマンノ:水口 聡
管弦楽:マリインスキー歌劇場管弦楽団
グラスハーモニカ:サッシャ・レッカート
合唱:新国立劇場合唱団
 
今年ベルカントオペラに挑戦しようと決めて、これまでセビリアの理髪師、夢遊病の女、アンナ・ボレーナ、そして今夜のルチアを聴いてきた。これらを聴いてきてまだまだ入口ではあるが、ベルカントオペラの素晴らしさを感じることができたような気がする。それにしても日本ではベルカントオペラはヴェルディやワーグナーに比べると格下のように思われているような気がするし、私自身もドニゼッティなんてワンパターンでずんちゃっちゃずんちゃっちゃばかりだろうと思っていたのだから!しかしドニゼッティの作曲した70作のオペラで生き残っている数少ない作品のうち現在最も多く演奏されているこの「ルチア」を聴いていると決して侮れないと思った。2幕の幕切れの6重唱などは火の出るような劇的な音楽で興奮を誘う。特に1835年の初演のオリジナルバージョンでの演奏では一層直接的で、劇的迫力がある。これはマッケラス/ハノーバーバンド/アンドレア・ロストの組み合わせでCDがでていて聴くことができる。ただし狂乱のの場は今夜のようなグラスハーモニカではなく初演と同じ木笛でカデンツァもない。このようなピリオド演奏からこの曲に入ったので、今夜の演奏はかなり印象が違って少々面食らったが、聴き進むうちに気にならなくなっていた。
 ゲルギエフ/マリインスキーの組み合わせでは昨年2月に引っ越し公演があってシュトラウスの「影のない女」を聴いたが、正直がっかりしたのを覚えている。がっかりした原因の一つはマリンスキー劇場付きの歌手達、一つは演出だった。ゲルギエフも期待通りとはいかなかった。もう少し劇的にやってくれるか思ったが案外まともで肩すかしだった。ゲルギエフはマーラーも印象は良くなかったのでどうも私とは相性が悪いのではと思っていた。しかし今夜のルチアは期待どおりの好演だった。テンポはかなり速くて(演奏時間は132分弱、これは発売なったばかりのCDとほぼ同じ演奏時間。マッケラス盤も今夜と同様ノーカット版だがその演奏よりも5分ほど速い)、速すぎるなあと思うところも無きにしも非ずではあったが、かえってそれが劇的興奮をもたらしたような気がした。ただ前述の2幕の最後の6重唱はもう少しギアを落としたほうが良かったかなあとも思った。マリインスキーの演奏はロシアの楽団ではあるがこのベルカントオペラを聴くのに全く不満のないもの。もっとも私は古今のベルカントの演奏になじみがないのでそうだったかもしれない。
 歌手達はいろいろ考えさせられた。先日のアンナ・ボレーナはグルベローヴァのアンナ・ボレーナだったが、今夜はデセイ(正式にはドゥセイと呼ぶようだ)のルチアだった。彼女の演奏をはじめて聴いたのはDVDだが90年代のメトロポリタンの「アラベラ」でミリを歌っていた。それはそれは素晴らしい歌唱でムゼッタやツェルビネッタなどを聴いてみたいなあと思ったの覚えている。その後しばらく途切れて、次に聴いたのは昨年のエクサンプロバンスでの「椿姫」だった。これはテレビで放映されたのを見た。レコード雑誌にデセイはもう椿姫は歌わなくなるのではないかと云うような記事が載った直後に見たので余計興味深かった。しかし歌唱は大変素晴らしいもので、というか演技を含めた総合的なパフォーマンスが誠に説得力があった。声やしぐさや、体全体でヴィオレッタの心情をきめ細かく、紡ぐように表現していたのが印象的だった。
 今夜一晩のために来日し、一発公演だったが期待にたがわず名唱だった。演奏会形式だと彼女の魅力が削がれてしまうのではと思ったが、棒立ちで歌うのではなく、手や体の細かい仕草を含めた感情表現は相変わらずだし、声も一部苦しいとところはあるにしても、きめ細かい、表現豊かな歌唱は誠に印象的だった。ルチアは運命に翻弄されるはかない女性だが、デセイのルチアはそれだけではなく、運命を切り開こうとしたができなかった女の情念の様なものをはらんでいたような気がした。狂乱の場での絶望の叫びが地声で聴こえた時は思わずぞくっとしてしまった。1幕の最初のカヴァティーナやエンリーコとの2重唱もすばらしいが、なんといっても聴きものは狂乱の場だろう。グラスハーモニカとのカデンツァは涙を誘うもの。この長大なアリア「あの方の声の優しい響きが・・・・」が終わった後、シーンと静まり返った会場、やがて一人の男性が小さくブラボー、そして嵐の様な拍手。そのあとのルチアの「そのような恐ろしい目つきでご覧にならないで・・・」のデセイの技巧の限りを尽くした歌唱もとても印象的だった。グラスハーモニカは現物を見るのは初めてで、近くで見たが、あのような構造からなんであのような音が出るのか不思議でならなかった。サンカルロ劇場で初演の際に、ドニゼッティが使いたかったが、断念したそうだが、ドニゼッティの狙いは今夜の演奏で再現されたように感じた。
 その他の歌手達はどうか?ほとんどの歌手(ペチャワ以外)はレコーディングと同じメンバーだ。正直申し上げてアルトゥーロとちょっとおまけでライモンド役を除くと不満は大きい。生意気な云い方をして申し訳ないが、1幕のエンリーコの歌唱を聴いた時に、これはイタリア語なのだろうかと思ったくらい違和感があった。終始それが付きまとった歌唱だった。エドガルドは立派な声だが、声が大きければよいものでもなかろう。デセイがきめ細かく歌えば歌うほどその差が大きくなってしまって、こんな恋人あり得ないと思わざるを得なかった。ただひとり出番は少なかったがアルトゥーロ役の声は素晴らしく、本当のイタリアオペラ風の歌唱だったように感じた。
 レコード芸術の11月号でこの録音が準推薦になっていたが、マリインスキー劇場付きの歌手達についてはノーコメントになっていたのがよくわかった。
 それにしても水口はなんでノルマンノ役を引き受けたのだろう。大体演奏会形式だと自分の出番が終わった歌手は退場するのだが、今夜のバージョンではその幕が終わるまでその場に座っているのだ。ノルマンノは1幕の冒頭と、3幕の終わりごろにちょこっと出番があるだけなので、その間ボケっと座っているのが気の毒と云うか、本人もだらしなく座っていて印象はあまり良くなかった。演奏終了後も前半、後半とも舞台には現れなかったのも何か大人げない。それくらいなら受けないほうが良かったのではなかったの、と余計なことまで考えてしまった。
 いろいろ考えさせられたが、ベルカントについて少しは経験を積めたかなと云う思いは強い。そういう意味では今夜の演奏は私にとっては貴重な体験であった。日本ではあまりベルカントオペラの演奏はされていないように思う。新国立でも最近数年で見るとロッシーニはセビリアの理髪師、ドニゼッティは愛の妙薬、ベッリーニは一本もなしと云った具合で少ないように感る。そのなかで藤原歌劇団はチェネレントラ、タンクレーディなどのロッシーニのオペラを取り上げてくれたし、今年は夢遊病の女をやってくれた。二期会ではほとんどおめにかかっていないのは、すみわけでもしているのだろうか?CDもヴェルディやワーグナー、モーツァルトのオペラは店頭にごまんとあるのに、ベルカントだと一部を除くと輸入盤に頼らなくてはならないのが現状である。
まあ日本におけるオペラの嗜好を表わしているのかもしれない。
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