2012年11月27日
於:サントリーホール(2階5列中央ブロック)
バイエルン放送交響楽団来日演奏会
指揮:マリス・ヤンソンス
ベートーベン
交響曲第一番
交響曲第二番
交響曲第五番「運命}
ヤンソンス/バイエルン来日でベートーベン交響曲全曲演奏を行うと云うことで、当初は全曲を聴くつもりだったが、日程的に少々きついので最も今関心のある二番と一番の演奏のあるこの日にした。
ベートーベンの交響曲は3番から明らかに変化を遂げている。それは英雄と云う標題とは別にこの曲はベートーベン自身の体験(精神を含めた)を音楽にした最初の交響曲だからである。1番と2番にそういう精神の表出がないということはないがそれ以上に純粋音楽としての面白さがある。この1番と2番をどう表現するかで大体その指揮者のベートーベンに対するアプローチが私はわかるような気がしている。それは昨年末聴いた2セットのベートーベン交響曲全曲のCDの体験から感じたものである。シャイー/ゲバントハウスとティーレマン/ウイーンフィルである。前者はメンデルスゾーンの時代のベートーベンを再現しようとしたものだし、後者はワーグナーが編み出した指揮法の後継者としての意気込みを感じさせるものだった。ピリオド楽器の演奏によるノリントン/ロンドンクラシカルプレーヤーズのCDや敢えて云えばラトル/ウイーンフィルの演奏もシャイーと同系であると私は思っている。ティーレマンの大先輩はフルトベングラーで、この流れはフルトベングラーで絶ち切れていて、ティーレマンがその後継者たらんとしている。こうしたベートーベン演奏史の中で、私はこの4セットのCDにカラヤンの60年代と70年代に録音したCDを加えたものがあれば全集としてはもう何もいらないと今は思っている。これに単発ではフルトベングラーの7,9番、カルロス・クライバーの4,5,7番を加えたものがあれば更に完璧だろう。もうこれ以上浮気する時間も余裕もない。
のっけから脱線しているがそれほどベートーベンには古今の名演がある。これからもでてくるだろう。では今夜聴いたヤンソンスはどう云う位置づけだろう。少なくとも1,2番を聴いた限りではティーレマンのような伝統型とは思えない。音楽は全くあくがなく、端正で、美しい。編成が小さいせいもあって、音楽が軽快で生き生きしているのがとても魅力的だ。奇をてらうというか、あっと驚くような部分はほとんどなく、音楽は流麗に流れる。ベートーベンの音化と云う意味では云うことないだろう。しかし個人的には徹底しきれていないと云うか、特に好きな2番については、今一つこの演奏に没頭できないものがあった。たとえば1楽章の提示部や再現部での最後の部分での切り返しが甘いことや(ここはノリントンやラトルの鮮やかな切り返しと比べて欲しい)、1楽章のコーダでのトランペットの強奏がなよなよして腰砕けになったのは残念だ。ここはベートーベンの革命児としての意気を表出した部分と私は思っていて、オーケストラを突き破るようにトランペットを吹かせて欲しいのである。これは4楽章の終結部でも一緒である。音楽はとても軽快にこの最後に部分に来るが、ここから運びが少々重たくなって尻つぼみのように感じた。ここはベートーベンの哄笑ではないだろうか?ノリントン、ラトル盤の過激なまでの演奏こそがベートーベンの意図したところではないかと私は信じている。おそらくヤンソンスはシャイー型を志向しつつも伝統型を生かそうと思ったのではないだろうか?1番も冒頭の序奏の元気のない音楽に少々がっかりしてしまった。ここはカラヤン盤のような素晴らしい音楽のふくらみが欲しい。ベートーベンの最初の交響曲のもつ覇気が欲しい。
運命は楽器編成(弦)を大幅に増やしたため、1,2番の延長線とは全く違うベートーベンに聴こえた。軽快感や爽快感は失せ、よく云えば重厚、悪く云えば鈍重なベートーベンだった。私は1,2番と同じアプローチをして欲しかったが!特に前半の2つの楽章はそう感じた。流石に3楽章から4楽章にかけての圧倒的な音の噴出は魅力的だったが、オーケストラの美音による純粋な音としての魅力であり、3番以降のベートーベンの音楽のもつ特性が生かされていたかと云う面ではちょっと疑問である。端的に云えば私をぞくぞくさせるものはなかった演奏だった。アンコールはハイドンの弦楽のためのセレナーデから2楽章、弦の美しさは魅力的だが運命の後にアンコールは欲しくなかった。
なお演奏時間は以下の通り。
1番:24分18秒
2番:29分57秒
5番:30分51秒
〆