ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2012年10月

2012年10月28日
 
「ビヨンドアウトレイジ」ビートたけし監督
とにかく多彩な男優陣には驚かされる。たけしにそれだけ共感している俳優が多いと云うことか?
巷ではあまり評判はよろしくないようだが、平日にもかかわらずお客さんはかなりの入りで、男性一人で見に来ている方も多かった。
  乱暴な言葉が機関銃のように飛び交うと云う前評判を頭に入れて見たが、そう思って見たせいか案外にまともな映画だと思った。こちらの頭がおかしくなっているからだろうか?アメリカ映画の汚い英語連発に比べればこんなものは可愛いように感じた。殺人や暴力シーンは前作同様。たけしの殺人姿はまるでノーカントリーのパクリの様だ。しかしこの映画の暴力や乱暴な言葉を一枚づつはがしてゆくと、そこにはどこの組織や社会にもある、権力闘争・抗争が見えてくる。それを暴力などのオブラートで包んだだけだ。そういう意味で現代社会のパロディのようにも感じた。ただ暴力という、ヤクザ社会という異常な世界でしかこう云う事を描けないと云うのはたけしの一種の照れではないか?しかしこの映画には仁義なき戦いの様な情念はあまり感じられない、人間はあくまでもテレビゲームの主人公の様に無機的にしか描かれていない。切れば血の出る人間としては描かれていない。切れば血が出るが、それは物理的な赤いものでしかないのだ。女っ気がないのも情念に欠ける一因だろうが、それが奇妙な清潔感を感じさせた。俳優は皆うまいが、加瀬亮は少々気合い乗り過ぎ。狂言回しの小日向の存在感は流石と思った。とてもとは言えないが面白く見た。(劇場にて)
 
「最強の二人」フランス映画
この手の映画は苦手だが、評判がよろしいので劇場まで足を運んだ。面白いことは面白いが私には本当の話とは思えないほど、おとぎ話風にしか思えなかった。実在の人々のお話だそうである。つまるところ健常者が障害者を障害者としてみないところから交流が始まり、やがてお互いの世界が変わったと云うことだろうか?障害者がめちゃくちゃな金持ちというのも本当だろうが、現実離れした設定である。心温まる映画で家族で見る価値があると思うが、PG12となっているのは、マリファナを吸ったり、ドラッグの密売をやっている社会の貧困層を描いていたからだろうか?(劇場にて)
 
「キリンの翼」阿部 寛、新垣結衣
テレビや映画で同じみの俳優が勢ぞろい、しかも原作(東野圭吾)とくればつまらないはずはない。前半快調、謎解きやかっこよすぎる阿部刑事の捜査、なかなか面白い。しかし後半の涙ちょうだいで、またかあと云った感じ。主役の刑事とその父親を、殺害された父親(中井貴一)と息子の関係をだぶらせてみたり、派遣切りを絡ませて社会性を表わしたりでやっていることが全て薄っぺらい。こうみえみえにしなくてもさりげなくやるだけで十分メッセージが伝わるはずだろうに!社会の最底辺で生きているはずの新垣がふっくらして、貧乏たらしく見えないのも興ざめだ。(DVD)
 
「タイタンの逆襲」サム・ウォーシントン
前作同様お子様向けである。ただあえてこの映画を見るのはその撮影技術の素晴らしさである。前作には感心させられた。神々の神話の映像化は子供の夢だろうが、それを現代の技術で実現させるのは映画の一つの役割だと思う。「ヒューゴ:スコセッシ監督作品」など見ていてもそういう映画人の思いは伝わる。ただ本作は前作に比べると面白さは減っているような気がした。それはTVゲームのような集団戦が多いからだと思った。CGを使った映像も新鮮味はあまり感じられなかった。女優も前作のほうが魅力的。まあ本質とは関係ありませんが。(DVD)
 
「ステキな金縛り」西田敏行、深津絵里
こう云う映画は自分に合わないと云うことを改めて感じた。面白さが全てへそ曲がりにできていて、いろいろ含蓄というか、メッセージが込められているが、それをわからすのにこんなに遠回りする必要はないんじゃないのと思った。しかも立派な俳優さんを山ほど使ってだ。エネルギーの浪費としか思えない映画だった。つまらなかったのかいと云われれば、つまらなくはなかった。ただいらいらする。(DVD)
 
「逆転裁判」三池崇史
これはひどい映画だ。途中眠くなって何度も巻き戻したが、いい加減こう云うおちゃらけた映画を作るのはやめたらどうだろう。近未来で人口増の社会での裁判制度と云う、面白い切り口なのに残念だ。原作は漫画か?人口増による近未来映画で「タイム」と云う映画があった、これもそうできは良くはなかったが、話の斬新さでは圧倒的にそちらのほうがスケールが大きく面白い。この逆転裁判の話のちまちましたこと!!
 
「マシンガン・プリーチャー」ジェラルド・バトラー
ならずものが戒心して、キリスト教の一派の新興宗教を信じ、南スーダンの子供たちを救う、実在のサム・チルダースの物語だ。話は大変面白いが、チルダースの心の変化があまりに唐突・単純なので、どこまで本当なのと、思わず眉に唾をつけてしまう。まあ映画と云うのは無制限の時間が許されるものではなく、せいぜい2時間程度に納めなくてはならないから、そう細密に描けないが、そこはプロなんだからもう少し本当らしく脚色したり、演出して欲しい。大体一回教会に行っただけで、狂信的な信者になるものだろうか?自分で教会まで建ててしまうくらいに!
(DVD)
 
「クリミナル・合衆国の陰謀」 ケイト・ベッキンセール、マット・ディロン
ナオミ・ワッツ/ショーン・ペン主演の「フェア・ゲーム」と似た話。フェア・ゲームはイラク侵攻に絡むCIA女性局員の暴露話だが、本作は架空でベネズエラに侵攻する話に絡むCIA女性局員の暴露話だ。ただ本作はそれを暴露した女性新聞記者側の話が本筋である。原題は「NOTHING BUT TRUTH」。実話に基づいた話だそうだが、案外とモデルはイラク侵攻事件かもしれない。暴露した記者は情報源を明かさない為に留置されてしまう。彼女の主義と法との戦いが肝である。重苦しく見終わった後も苦さの残る映画だ。(DVD)
 
「クリミナル・マフィア法廷」シドニー・ルメット監督
これも実話に基づいた話。20人のマフィアを76の訴因で訴えた、2年にものぼる裁判の生々しい再現劇である。マフィアは全員がひとりづつ弁護士をつけるが、一人弁護士を信じないディノーシオだけ、自らを弁護する。原題は「FIND ME GUILTY」。本作はこのディノーシオがどのように自分と仲間を弁護するかを克明に描いている。ルメットがマフィア裁判を映画化するからには何か裏があるはずだが、それは見てのお楽しみ。だがアメリカと云う国は本当に面白いと云うか、変な国だなあと思わされた一本だった。(DVD)
                                                     〆

2012年10月27日
於:横浜みなとみらいホール(1階7列中央ブロック)
 
インバル=都響、マーラー・ツィクルス 第Ⅰ期
指揮:エリアフ・インバル
メゾソプラノ:池田香織
女声合唱:二期会合唱団
児童合唱:東京少年少女合唱隊
管弦楽:東京都交響楽団
 
マーラー:交響曲第三番
 
このコンビでこの曲を聴くのは2010年以来である。あの時の演奏は素晴らしいものであったが、その後で演奏された二番・復活は更に素晴らしく、私個人の中では、三番は消えてしまっていたのであったが、今日久しぶりにこのコンビでこの曲を聴いて、更なる成長を感じた。インバルの気迫のこもった、緊張感あふれる指揮は、近寄りがたい雰囲気さえ感じさせるものだった。一言で云えば情緒性をできるだけ削ぎ落した演奏と云えまいか?
  1楽章は特に素晴らしい。この楽章は全体が行進曲のようで、ソナタ形式とは云え、私にはごちゃごちゃしてなかなか全容がつかめない。うろ覚えで申し訳ないが、形式にとらわれず、情景的に聴く楽章だ、と何かの記事に書いてあったので、なるほどそう聴けば良いのか、と簡単に納得してしまった。しかし今日の演奏はそういう情景的というものはかなぐり捨て、緊張感の溢れる音の連続で、一気呵成に音楽が進む。特に開始してから20分前後、展開部?の後半の荒れ狂う様は、自然を切り取ったこの曲のイメージを破壊するかのような音楽で、体が揺さぶられる。しかしその後冒頭主題が復活してくるが、これが冒頭より一段と豊かでスケールアップされ、この対比がまた素晴らしい。そして終結部の素晴らしいオーケストラの追い込みは筆舌尽くしがたい。テンポはかなり速い。(31分弱)
  2楽章はメヌエットだが途中からそのようことを感じさせない厳しさ。2楽章の後、インバルは退場しその間合唱とソロが入場。3楽章はスケルツォ部分はユーモラスというか、ちょっと骨休みと云っては語弊があるが、ほっとする。そして中間部はポストホルンが夢のようだ。この楽章もテンポはきびきびしているが、全体が夢幻的で魅力的だった。
  4~6楽章は通して演奏された。4楽章は池田の歌唱が印象的。2010年のフェルミリオンの少々太い声で、情緒の勝った歌い方とは対照的な、清楚な歌い方が好感が持てた。
  5楽章のビム・バムがこれほど明快にきびきび歌われたのを聴くのは初めてだ。ここでも池田の声は心にしみるものであった。この楽章もかなり快速だ。
  そして6楽章も決してべたべたしない。きびきびしたビムバムを受けたこの楽章は天国的な美しさだ。しかし冒頭の弦の入りは全然なよなよしていない。実在感をもって主題を聴かせる。そして徐々に音楽が膨れ、クライマックスを迎えるが、そのスケールの大きさは圧倒的だ。最後のティンパニの連打も迫力満点で、この感動的な演奏を見事に締めくくってくれた。
  都響の演奏は相変わらず素晴らしい、わずかに傷があるのは、ライブゆえやむを得ないだろう。昨夜のドレスデンだって決して完璧ではなかったのだから。感心したのはポストホルン。これは難しい楽器の様で、いつも聴いていてはらはらするが、今日はほぼパーフェクト。金管ではトランペットソロが素晴らしい。6楽章の終結部でのトランペットの浸透力のある音は印象的、1楽章のトロンボーンもよかった。弦楽器群も相変わらず安心して聴けた。今日の演奏は都響の演奏の中でも最上の部類だが、後は音色だろう。ドレスデンのところでも書いたような微妙な差が彼我にあるような気がする。これをカルチャーだから仕方がないとするか、チャレンジするか、それが問題だ。
  いずれにしろ、今日、日本で聴ける最上のマーラーであることは間違いない。
  なお演奏時間は89分弱であった。最近のホーネック、ジンマンやアバドのCDでは100分前後だったり、バーンスタインも新盤は104分(旧盤は96分)かけており、全体に演奏時間は100分前後が多い。ショルティがその中では90分強で最短である。ただ興味深いのは2010年のインバルの演奏は95分弱だったことである。わずか2年の間に6分近く演奏時間が短縮された理由はどこにあるのだろう。個人的には今日の演奏を支持する。それぐらい今日の演奏のもつ緊張感は説得力があった。
  今週はフィガロから始まって、ドレスデンの2つのコンサート、そして今日のマーラーと聴いてきた。正直疲れたが良い経験をした。
 
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2012年10月26日
於:サントリーホール(1階19列中央ブロック)
 
ティーレマン/シュターツカペレ・ドレスデン来日演奏会
ワーグナー:楽劇「トリスタンとイゾルデ」より前奏曲と愛の死
ブルックナー:交響曲第七番・ハース版
 
ワーグナーは昨日とほぼ同じ印象だ。ただホールがみなとみらいからサントリーに変わったことと座席がかなり後ろになってオーケストラから遠くなったからかもしれないが、弦はより一層しなやかさが増し、全体にふわっとした印象。みなとみらいではもう少し引き締まった印象。ティーレマンは2003年にウィーン国立歌劇場ライブ演奏をCD化しているが、その時の演奏より更に音楽が巨大化しているように感じたのは、オペラ全曲とオーケストラピースとして演奏する違いなのかもしれない。特に前奏曲のうねるように音楽が盛り上がってゆく様は怖ろしいばかりであった。なお今夜の演奏時間は19分弱。全曲版の前奏曲と愛の死を足した時間は約1分短い.
 
 ティーレマンのブルックナーはこれで三度目だ。五番と八番と今夜の七番である。過去2回の演奏と比べて今夜の演奏は少々肌合いが違うように感じた。過去2回の演奏は豪快でスケールの大きな演奏。もちろん演奏時間も長大だ。五番の4楽章の巨大なこと、スケルツォの荒々しいことまるで野人のごとき演奏だった。しかし今夜の七番は曲想が全然違うこともあってか、特に前半の2楽章は今までのティーレマンとは異なった印象を受けた。例えば1楽章の第3主題、演奏によっては武骨なダンスとしか聴こえないが、今夜はまるで蝶が舞うような軽やかさで驚かされた。2楽章もしなやかな演奏が続く、クライマックスも盛大にはオーケストラを鳴らさないような印象だった。ただこの2つの楽章だけで46分強もかかって、流石に疲れる。しかし3~4楽章はまたいつもの野人ティーレマンにもどる。この武骨なスケルツォはどうだろう。そして中間のトリオの鄙びた美しさ。トランペットも凛とした響きではなく、なにか田舎風の野暮ったさが魅力だ。誠に懐かしい響きだ。そして4楽章は展開部~再現部にかけて音楽がどんどん変化してゆく様は豪壮な建築物が立ち上がるような趣で聴く者を圧倒する。そして最後に各主題が戻ってくる終結部は更に凄く、音楽が膨れ上がる。
 
  さてこのようなブルックナーを演奏する指揮者は世界に何人いるだろう。日本では飯守泰次郎くらい。海外の演奏家でもこうはやらない。もっとスマートだし、武骨にやるにしてもスクロヴァチェフスキーのようになるだろう。そういう面では彼のオリジナリティは凄いものがあると思う。しかし休止の長さは相変わらずだし、遅いところはものすごい遅さで個人的には少々もたれてしまう。例えば4楽章のコーダも豪快ではあるが、悪く云えば勿体をつけたようにも取れる。もう少し音楽を自然に流れさせたほうがよいのではなかろうかと思った。
 なお演奏時間は71分で過去聴いた演奏では最も長いと思う。CDだが、カラヤンより10分長く、ヴァントよりも7分長い。なおカラヤンもヴァントもハース版である。
  みなとみらいではプログラムを無料のものと有料のものと両方用意してくれたが、サントリーでは有料のみと云うのはどういうことだろう。よく見たらみなとみらいのスポンサーはマクドナルドでサントリーはそういう企業は付いていなかった。そういうことなのだろうか?
                                             
                                                   〆

2012年10月25日
於:横浜みなとみらいホール(1階14列中央ブロック)
 
クリスティアン・ティーレマン指揮/シュターツカペレ・ドレスデン来日演奏会
ワーグナー
  歌劇「タンホイザー」序曲
  楽劇「トリスタンとイゾルデ」、前奏曲と愛の死
  歌劇「リエンツィ」序曲
ブラームス:交響曲第一番
 
先日のウィーン国立歌劇(ウィーンフィル)の時にも感じたのだが、欧州の一流のオーケストラと日本のオーケストラとの微妙な差を(聴く人によれば微妙ではないかもしれない)を感じた夜だった。ドレスデンの音もぎゅっと詰まったいささかの、音に空隙のないオーケストラの音だ。そして更に感じたのはオーケストラは美しいだけでは駄目だと云うことである。ドレスデンの今夜の音を聴いて、決してゴリゴリとした重厚感を表に出した演奏ではないのだが、一音一音の実体感と云うか、もっとわかりやすく云えば力強さが違う。例えばヴァイオリン。しなやかでありながら鋼の様な強靭さを感じる。また木管も単に美しいだけではなく、例えばブラームスの2楽章のオーボエ、フルート、クラリネットの芯の通った、力強さは強く印象に残った。オーケストラの中から燭光のように光り輝き、ホール全体に広がる、この美しさと力強さ。これは日本のオーケストラはちょっとかなわないような気がした。先日のインバル/都響のブラームス四番の1楽章の冒頭のヴァイオリンはせつせつとした美しさには耳を奪われたが、おそらくドレスデンだったらそれに更に強靭さが加わったろう。都響や東響など在京のオーケストラが最上の演奏をしても、この音色は出せるかどうか?考えさせられた夜だった。
  ティーレマンの指揮は日本ではブルックナーばかり聴いてきたが、この人はオペラの人ではないかと改めて思った。今夜の前半のワーグナーのオーケストラピースはどれも素晴らしいもので、とくにトリスタンとイゾルデの前奏曲は圧巻。うねるようなオーケストラの響きとティーレマンの音楽作りが相乗して極上の音楽。このままオペラに入って欲しいくらいだった。愛の死はやはり歌が欲しい。テンポはごく遅いがそれが滞留に感じないところが彼の真骨頂だろう。タンホイザーは若々しい音楽でまた違う面を味わうことができた。特に最後に巡礼の主題が戻ってくる場面、ヴァイオリンが天国的な調べを奏でながら、もう一度盛り上がってゆく様は圧倒的だった。ただリエンツィはちょっと騒々しいだけの音楽の様な気がして、もっと違う曲を、例えば神々の黄昏のジークフリートの旅立ちなどを聴いてみたかった。
  ブラームスもティーレマンらしさ一杯だ。4楽章の序奏から主部に入る間の長いこと、あっ、また止まっちまった。てな具合だが、以前よりその違和感が少なくなったように思った。26日のブルックナーではどうだろう。今夜改めてティーレマンの交響曲の演奏は起承転結が明快だと思った。特に両端楽章でそれを感じた。1楽章の展開部から再現部への前、音楽が大きく沈みこんだ後、主題が再現するが、それは更に巨大になって戻ってくるのが興奮を呼ぶ。更に4楽章では序奏は遅いのが想定内で、提示部もまあこんな感じかなあとおもっていたら、展開部~再現部へ次第に音楽が膨れ上がってゆく様は圧巻で、そしてそのまま終結部へ駆け抜けるかと思ったら、最後にもう一度腰を落とす。ここはわざとらしさを感じさせる寸前だが、その音の渦にそのようなことを忘れさせるような効果だった。なお演奏時間は47分弱。定評のあるミュンシュ/パリ管とほぼ同じ演奏時間。なお愛聴盤のヴァント/北ドイツ放盤より数分遅い演奏時間だった。
  アンコールはローエングリンの第3幕への前奏曲。これはまた目の覚めるような輝かしさだった。ティーレマンのオペラは2008年のバイロイトで聴いた「リング」はいまでも懐かしく、時々そのライブ盤を聴くが、あれから4年、更に熟成したオペラを聴かせてくれるだろう。一度聴いてみたいものだ。
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2012年10月23日
於:神奈川県民ホール(1階14列右ブロック)
 
ウィーン国立歌劇場来日公演
モーツァルト:フィガロの結婚
指揮:ペーター・シュナイダー
演出:ジャン=ピエール・ポネル
アルマヴィーヴァ伯爵:カルロス・アルバレス
伯爵夫人:バルバラ・フリットリ
スザンナ:シルヴィア・シュヴァルツ
フィガロ:アーウィン・シュロット
ケルビーノ:マルガリータ・グリシュコヴァ
マルチェリーナ:ゾリャーナ・クシュプラー
バジリオ:ミヒャエル・ロイダー
ドン・クルツィオ:ペーター・イェロシッツ
バルトロ:イル・ホン
アントニオ:ハンス・ペーター・カンメラー
バルバリーナ:ヴァレンティーナ・ナフォルニータ
ウィーン国立歌劇場管弦楽団、合唱団
 
フィガロの結婚は本当に素晴らしいオペラだ。4幕の幕切れ、伯爵が妻に許しを乞い、伯爵夫人がそれを許す場面はいつ聴いても感動的だ。今夜の演奏も音楽がぐっと腰を落として、心にしみるような場面だった。ウィーンフィルの演奏するモーツァルトはそう多く聴いているわけではない。1974年のザルツブルグ音楽祭で4つのオペラを聴いた。演奏は全てウィーンフィルだ。
その中にフィガロも入っていた。カラヤン指揮、伯爵がトム・クラウセ、伯爵夫人がエリザベス・ハーウッド、スザンナがミレルラ・フレーニ、フィガロがホセ・ファン・ダム、まあ名前を聴いただけでぞくぞくする配役。そしてこの演出はポネル。もっと凄いのが「コジ・ファン・トゥッテ」ベーム指揮でヤノヴィッツ、ファスベンダー、シュライヤー、プライ、レリ・グリスト、パネライの配役、カラヤン指揮でもう一本、「魔笛」これもパミーナにエディット・マティス、パパゲーナにレリ・グリスト、パパゲーノのヘルマン・プライと云う配役。最後の一本は「後宮からの逃走」指揮は若きセゲルスタム、あのクルト・モルがオスミンを歌っているのだ。もうまるで夢の様な歌手達、指揮者、そしてオーケストラ。もういまではこのようなレベルの顔ぶれで聴くべくもない。
 今夜のキャストもそれらに比べれば随分小粒になったものだ。このごろの外来の公演は一人抜きんでた、またはネームヴァリューのある人をいれて客寄せするパターンが多い。だからその一人が崩れるとあまり魅力的でなくなるキャストになる。昨年だったかカウフマンがキャンセルしたローエングリンなどはその例。世界にオペラハウスが山ほどあって、一流と呼ばれる人には限りがあるとこうなることは致し方ないことだろう。でも80年代の来日公演、たとえばスカラ座ではクライバーやアバドが指揮して、ドミンゴがオテロをカプッチルリがシモンを歌ったりしていたのだから、逆に云うと日本の音楽市場もなめられたものだと哀しくなる。まあ愚痴は云うまい。
 今夜の演奏はどうだったろうか?楽しいフィガロであったことは事実だが、それは半分以上この作品がもっている本来的な楽しさであって、さてこのキャストに触発されて、新国立や二期会、藤原歌劇などの料金の3倍も楽しかったとはちょっと云えまい。
 今夜の演出はポネルでこれはたしか相当古い演出だ。しかしこのような古いものが今の様な読み替えの激しい時代に生き残っていることはすばらしいことではないか?オットー・シェンクのばらの騎士のようなものだ。事実、今夜この演出を見て改めてこの演出の安定感を感じた。読み替えがないから安心して音楽に浸れる。歌手達の動線に無理がない。そしていくつかの絵になるような美しい場面。例えば2幕の冒頭の伯爵夫人の部屋の朝日を浴びた伯爵夫人のシルエットの美しさ。ケルビーノがひざまずいて伯爵夫人の手に接吻をする場面などなど、枚挙のいとまがないくらいだ。今年の夏のエクサン・プロバンスでの映像と比べると別のオペラのようだ。
 歌手達はみなうまい、ただ主役級はどれも少しづつ物足りない。フィガロは声は立派だがもう少し軽妙さが欲しい、スザンナの清潔感のある声は魅力的だが彼女の役回りはそれだけでなくもう少しのコケットさが必要ではないだろうか?伯爵夫人のフリットリは案外だった。2幕のカヴァティーナはもう少し心を揺さぶる音楽ではないだろうか?3幕の第20曲のアリアも私には声がいつものフリットリでないような気がした。少々不安定に聴こえたのは気のせいか?今フィガロでもっとも感情移入できる役は伯爵夫人だ。何年も昔伯爵がやっとの思いでロジーナと結ばれたのに、今は時の移ろい、人の心の移ろいを感じるロジーナ=伯爵夫人、その気持ちをこの2曲で表わして欲しかったが、どうもそこまでは行ってなかったような気がする。
 伯爵とケルビーノはこの中でも最も安定感があってしっくりとした歌唱と演技だったと思う。ただ伯爵の3幕の18曲、アリアは少々尻つぼみで残念。ケルビーノは素晴らしく伸びやかな声が魅力的だった。
 シュナイダーの指揮はいつもながら安定感のあるもの。カットなどがあるから比べても意味がないかもしれないが演奏時間は174分、ベーム/ベルリンは171分、アバド/ウィーンは170分。ただアバドは4幕のマルチェリーナとバジリオの長い歌を入れての170分だから相当速いと言えよう。だからといって今夜のシュナイダーの指揮がだるいと云うことは決してない。この素晴らしい音楽に十分浸れる演奏だった。ただアバドが感じさせてくれるぞくぞくさせてくれるような趣には少々欠けていたと云うことだ。
 ウィーンフィルの音はなんとたとえようか?そう音がぎっしり詰まっているのだ、楽器と楽器の間には空間が当然あるわけで、それは通常聴覚では聴き取れない空間だと思うが、このウィーンフィルの演奏ではその空間がほんとうにぎっしりと音が埋まっているように感じるのである。弦のしなやかさ、金管の柔らかさ、木管のしなやかさはたとえようもない。
 今夜は外来の演奏家によるもののせいか、ひときわブラボーの声が大きかったが、中には蛮声に近いものもあって興ざめ、歌舞伎と同様掛け声をかけるにはそれなりの覚悟が必要かと思う。ただ私の列の女性のブラボーは実に美しかった。見習いたいですね。
 それにしても、なんで神奈川県民ホールなのだろう。音響的にとても良いとは思えないのだが?新国立劇場で聴いてみたい。
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