ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2012年08月

2012年8月28日
於:サントリーホール(1階16列右ブロック)
 
東京都交響楽団第739回定期演奏会B:日本管弦楽の名曲とその源流⑮
(一柳 慧プロデュース)
指揮:下野竜也
ピアノ:館野 泉
 
ケージ:エトセトラ2(4群のオーケストラとテープのための)
一柳 慧:ピアノ協奏曲第五番「フィンランド」:左手のための・初演
一柳 慧:交響曲第八番「リヴェレーション2011」管弦楽版・初演
 
苦手な現代音楽、止めようかと思ったが勉強だと思い、難行苦行を覚悟で会場へ向かった。正直申し上げて退屈だった。まあいずれも初めて聴く曲で、ただでさえ初めて聴く曲は厳しいのに現代音楽だから余計に大変だった。この曲を初めて聴いて好きになる人は音楽によほど造詣が深い人ではないだろうか?これは負け惜しみです。
 ケージの曲は、舞台上に小編成(ばらばらです)の4群のオーケストラが中央の下野率いる群を半円状に囲んで配置される。従って指揮者は下野を入れて4名である。演奏者は皆ラフな服装。各群はそれぞれ定められた間隔で指定の音(トゥッティだから一瞬)を発する。しかも指揮者の指示と一呼吸ずらして演奏せよと云う作曲家の指示だそうだ。各群はそれぞれ音を発する、全体で同時に発することはない。バックグラウンドにケージが録音した日常音のテープが流される。下野の左側と舞台の奥にそれぞれ4つのソロの席が設けられていて、各群から定められた奏者が演奏中に席を移動して、独奏する。こういう音楽?です。これが30分も続く。
 ケージの狙いは音楽から押しつけがましさを除くことにあると云う。たとえばベートーベンの音楽も自分の意思を押し付ける音楽だとといい、ケージはそれを解放するという。そして行き着くところはちゃらんぽらんで気ままな世界、だそうだ。(プログラムによる) しかしこれを音楽と云うのは少々抵抗がある。音ならわかる。気ままな音がだらだらと流れるのはそれはそれで良い。イージーリスニングみたいなものだ。だけど音楽に意思がなければ「聴く意味」はあるのだろうか?私はおそらくドイツ音楽の呪縛から逃れられないので、こういう音楽は理解の外なのだろう。なおこの曲は1985年サントリーホールの委嘱で作曲され初演され、初演時の指揮者は岩城宏之、一柳 慧、黛 敏郎、湯浅譲二。
 一柳のピアノ協奏曲は館野の委嘱だそうだ。そのせいか館野のゆかりのフィンランドという副題がついている。世界初演である。終わった後盛大なブラボーの声があったが、初めて聴いてよく云えるなあと感心してしまった。1楽章形式の幻想曲風。どこがフィンランドなのか行ったことがないからわからない。私にはシベリウスの7番のほうが、行かなくてもフィンランドのように感じる。
 むしろ次の交響曲のほうが面白かった。この曲は昨年の大地震から触発されて作曲された。昨年の12月に初演されている。東京シンフォニエッタの委嘱によるもので、もともとは室内オーケストラ版だった。今夜聴いたのはそれを管弦楽版にしたものであり、世界初演である。西洋の音楽技術で日本の古来の文化を表現し、再生を祈った作品だそうだ。曲は4つのセクションで構成され、続けて演奏される。「予兆」、「無常」、「祈り」、「再生」というタイトルがつけられている。津波を思わせるプレストの「無常」とアレグロモデラートの「再生」がオーケストラの威力を発揮して大きく盛り上がり、圧倒される。この曲はもう一度聴いてみたい。
                                                         〆

2012年8月26日
於:第一生命ホール(1階12列左ブロック)
 
ロッシーニ「セビリアの理髪師」 矢澤定明&ヴィッラ・デ・ムジカ室内管弦楽団公演
指揮:矢澤定明
演出:飯塚励生
 
アルマヴィーヴァ伯爵:藤田卓也
フィガロ:須藤慎吾
ロジーナ:鵜木絵里
バルトロ:大井哲也
バジーリオ:大澤恒夫
ベルタ:田辺いづみ
管弦楽:ヴィッラ・デ・ムジカ室内管弦楽団
チェンバロ:小埜寺美樹
ギター:相川達也
合唱:根木秀雄他
 
昨年の9月の藤原歌劇団公演以来のセビリアだ。あの時はゼッダの新校訂版とシラクーザのアルマヴィーヴァが売りでバランスとしては少々良くない演奏のように思った。ブッファとしての面白さも少々乏しくあえて言えば堅苦しいセビリアだった。とはいえシラクーザの熱演もあってとても楽しめたのは事実。しかし今日のこの公演は藤原歌劇団のような立派すぎるような演奏とは対極の様な演奏だった。
 簡易舞台形式による演奏。実質は演奏会形式に毛の生えたようなものだ。舞台の左手の第一ヴァイオリンの前に指揮台があり、舞台右手には木管と金管、チェンバロ、舞台の奥には低弦と打楽器がならぶ。歌手たちは管弦楽にぐるりと囲まれた半円状のスペースで歌う。装置は椅子や手紙を書くテーブルのような台など、すべて簡単に運べるものばかり。背景はなにもない。
 しかし、この演奏ただものではなく、藤原歌劇団の公演の数倍も楽しんでしまった。なにがそんなによかったのか?歌手か?管弦楽か?演出か?終わってから考えて見たのだがそのどれでもないのである。要するにこの公演全体をワンパッケージとみて、良かったのである。この公演が行われたのは収容人員が800名弱の小さなホール。当然制約が多い。しかしその範囲でやれることは全てやりつくしたようなパフォーマンス、そのセンスが素晴らしいと思う。一方小さな劇場だけに歌い手と聴衆はお互い手を伸ばせば届くようなもの。歌い手は客席通路を通りながら登場する。要するにこのセビリアは大劇場のはるか彼方の歌い手ではなく、極々身近な歌い手達が演じるオペラであって、そのことがまたこのオペラに新鮮な息吹を与えているのではなかったろうか?
 歌手達は二期会や藤原など所属はまちまち。まあ若手と云ってよいのだろう。皆生き生きとして魅力たっぷりだった。タイトル役の須藤は立派な声で驚かされる。ただ軽妙さには少々欠けるようで「町の何でも屋」の早口のところはぱくぱくしていた。フィガロが駄目と云うことではないが、彼を聴いていてむしろトロヴァトーレのルーナ伯爵なんてぴったりではないかなどと思いながら聴いていた。アルマヴィーヴァの藤田は役通りのイメージの声で、ベルカントと云うのはよくわからないけれど、こういう歌い方を云うのかしらと思いながら聴いていた。ロジーナの鵜木は軽々と高音を操り、1幕のカヴァティーナからもうエンジン全開で、装飾音などもたっぷりで、コケットなロジーナを素晴らしい声で演じてくれた。バルトロは声は素晴らしいがもう少し声に軽妙さがあっても良いのではないかと思った。立派すぎるバルトロ。
 管弦楽は小編成ではあるが、ホールに爽やかに響く。ただこれでも編成が少々大きいのか歌手をマスクする場面もあった。古楽奏法かと思ったがそうでもないようだ。演奏時間は1幕86分、2幕52分。かなり省略あり。例えば1幕冒頭のフィオレッロと合唱はカットなどなど。小編成らしく機敏な管弦楽は魅力的で、ロッシーニクレッシェンドの魅力は十分味わえたし、それよりなにより生き生きした響きが楽しかった。ライブの常の若干の傷は目をつむろう。小埜寺のチェンバロも魅力たっぷりだった。矢澤は歌手に好きにやらせるだけではなく、めりはりも聴かせて、自分も演技に参加する場面もあって楽しんでいた。
 演出はスピーディなもの。劇場におさまらないような部分をのぞいては基本はト書きベースである。終わって劇場をでて、今日のように満ち足りた気分になった演奏会は久しぶりだった。この演奏には、妙な読み替えもなく、ごてごてした装置も何もない、ただロッシーニの音楽が生き生きと鳴っている。これこそがオペラの楽しみではないのか?オペラの原点に触れたような気がしたからだろう。先日の二期会の公演のような欧州の流行を追ったような演奏と今日のこの演奏、曲は違うが、どちらの音楽が生き生きしていたか?私は今日の演奏に軍配を上げたい。
このような形式でも十分オペラが楽しめたのは大発見だった。
 セビリアは1980年のスカラ座来日の時に、ヌッチ/テッラーニ/アバドを聴いて大感激で、それ以来ずっとアバドのCDを聴いてきた(72年録音)。ただどうしてもヘルマン・プライのフィガロが好きになれなくてずっと我慢して聴いてきた。最近パターネ盤(98年)が再発になりそれを聴いたところすっかり気に入ってしまい、いまではセビリアはこのCDがベスト盤だ。ロジーナのバルトリ(ファーストレコーディング23歳の時)の初々しさは何とも言いようがないくらい素晴らしいし、レオ・ヌッチのフィガロやマテウッツィの伯爵などいうことがない。ただバルトロとドン・バジリオは少々癖があって好きになれないが!パターネも学者みたいな指揮ではなく、劇場で慣習になっているものを生かしていて聴いていて楽しい。
                                                      〆

2012年8月17日
於:新橋演舞場
 
八月花形歌舞伎、鶴屋南北作、「桜姫東文章」
石川耕士演出
桜姫:福助
清玄:愛之助
吉田松若:児太郎
入間悪五郎:亀蔵
残月:一蔵
長浦:萬次郎
釣鐘権助:海老蔵
 
歌舞伎初鑑賞である。この桜姫・・・と云う出し物も見たことも聴いたこともなく、なんとか事前にできたのは簡単な筋書きをウィキで調べて頭に入れたくらい。けれども発端、序幕、二、三、四幕、大詰めで構成される三時間半にも及ぶこの複雑な話はそう簡単には頭にははいらない。まあかなり不安な気持ちで新橋演舞場の入口をくぐった。
 この「桜姫東文章」は1817年に江戸河原崎座にて初演された。しかし初演後忘れ去られ、復活したのはなんと昭和42年だそうで、それ以来南北作品でも人気の作品として上演を重ねているそうだ。坊主と稚児との心中という場面から始まるのだから現代に通じる何かがあって、人気があるのだろうか。お家断絶、桜姫の出家、破戒僧と姫のお局の関係、姫と無法者・権助との道ならぬ恋、清玄と姫との不思議な関係などなど人間関係だけ見ても頭がこんがらがってしまう。その他怪談話、女郎屋への身売り話、子殺しなど、話はてんこ盛りで、場面場面を楽しんで見ていれば思っていたほどは退屈せず面白かった。特に三幕の岩淵庵室の場は変化もあって楽しめた。
 役者さんは海老蔵くらいしか知らなかったし、歌舞伎初体験で何も言うことはないが、感心したのは福助演じる桜姫で、女形なんて気持ち悪いと思っていたが、ところがどっこいで、序幕二場での権助との濡れ場などは女性の魅力たっぷりで驚かされた。そして四幕では女郎に身を落とした桜姫がお姫様言葉と女郎仕事で覚えたべらんめえ言葉をミックスさせた台詞を実に魅力的に聞かせてくれた。海老蔵は流石にスターを思わせるオーラは感じられたが、肝心な台詞は声質によるものか妙に軽くて案外だった。もう少し腹の底から声を出すものと思っていたのだが。
 舞台ははりぼて。おそらく1817年の初演当時と大して変わらないのではないのだろうか?(あてずっぽうです)。まあオペラなどもこれで十分だと思うのだが!歌舞伎で読み替えなどしたらどうなってしまうのだろう。そういう意味では伝統をしっかり受け継いだ芸術の重みを感じた。歌舞伎の様式化された所作はリアリズムに欠けるという批判は容易にできるだろうが、この様式でずっと通してしまうと云うのは考えてみれば凄いことではないだろうか?最近のオペラ演出ではこの様式を無視し過ぎているような気がしてならない。
 歌舞伎鑑賞して感じたことを列記してみよう。観客はオペラと一緒でかなり高齢化している。私は2階の3列目だったが、20代とおぼしき観客は1割もいない。1番高い桟敷席が16000円で安い席は3000円だから贅沢を云わなければそれほど高い娯楽ではないので費用の問題ではないであろう。よほど勉強しないと楽しめない娯楽は今の若い人たちには無理なのであろうか?私が一番困ったのは役者の台詞で聴きとれない部分があることだろう。古い言葉やかけ言葉などは聴いただけではよくわからない。日本語だからわかるだろうと思ったら大間違いだった。邪道だろうが字幕付きにしたらより理解が速いだろう。
 座席で食事できるのも驚きだった。二幕終わった後、30分の休憩があるのだが、座席に残った観客は申し合わせたようにお弁当を開いていた。それと途中の入退場も自由なのも驚き。ノイズを出したり、私語が飛び交うことにも寛容なようだ。私の前の女性などは終始身を乗り出して鑑賞していたが、あまり後ろの席のことは気にしていないようだった。もっとも休憩時間におしゃべりはやめよとか身を乗り出すなというアナウンスは流れるが無視されていた。まあ長年の慣習なのだろう。歌舞伎初体験なかなか面白かった。
                                                       〆

2012年8月11日
 
ツタヤディスカスという便利なものを紹介いただいてからますます映画に対してものぐさになってしまった。まず映画館に今まで以上に行かなくなったし、レンタルショップにも行かなくなった。とにかくツタヤのシステムは1カ月も借りられて、コストは月に2000円未満で済むのだから誠にありがたい。しかも見たい映画を登録しておくと、返却したらすぐ次のものが送られてくるので途切れがない。しばらく映画館には行かないだろうと思っていたら、リドリー・スコットの「プロメテウス」が面白そうで、これは絶対見に行くつもりである。
 
「127時間」 ジェームス・フランコ主演
ブルージョン渓谷の狭間に落ち、右腕が岩に挟まり動けなくなる。主人公は少々脳天気な気の良い男だけに少々気の毒。これは実話に基づく話、脱出するシーンは凄まじいが、あとは単調で眠気を誘う。結局妄想や幻想、回想シーンの映像の羅列にしかならないからだろう。原作はあるそうだからこれは本で読むべきだろう。
 
「ロシアン・ルーレット」、サム・ライリー、レイ・ウインストン、ミッキー・ローク、ジェーs-ン・ステーサムなど主演
究極の博打、ロシアン・ルーレットを主題にしたドラマ。ロシアン・ルーレットといえばデニーロ主演の「ディア・ハンター」を思い出す。クリストファー・ウォーケンとの対決は凄かった。本映画はロシアン・ルーレットにフォーカスしているだけにその究極の恐ろしさを感じる。人間が極限に追い込まれた時の恐怖を!そこでは人の本性が赤裸々となる。しかしそれを強く感じさせるのは一癖もふた癖もある俳優たちを配しているからだろう。冒頭から結末まで息をのむばかり。予想以上の佳品。リメイク作品。
 
「プリンセス・トヨトミ」、中井貴一
万城目学の小説の映画化。原作は読んでいない。あまりにバカバカしく支離滅裂さに呆れるばかり。特に後半は眠気を誘う。ポリティコンのような政治思想劇と思ったら全然そうではなく、出だしの豊臣秀頼の子孫という話ではとても面白い映画になるのではと期待したのだが!結局父と子がモティーフなのだろうか?私にはドラマがまるで感じられなかった。こんな映画を作っているから邦画は見る気がしないのだ。
 
「3デイズ:原題はnext three days」、ラッセル・クロー、ブラウアン・デネヒー、リーアム・ニーソン
殺人罪で長期刑を宣告された教師の妻、控訴も認められず、長期囚の入る刑務所に移送されるまで3日しか余裕がない。妻を救うために脱獄を計画する夫役がラッセル・クロー。こういうのははまり役だ。オリジナルはフランス映画「彼女のために」のリメイク版である。ロシアン・ルーレット同様、あまり期待していなかったがこれも予想外に面白かった。その要因は男優陣が粒ぞろいであると云うことに尽きる。ラッセル・クローはこういう直情径行型の役はぴったりだし、リーアム・ニーソンらの脇役も粒ぞろい。刑事役の2人も派手さはないが存在感はあった。荒唐無稽な話ではあるが作りに筋が通っていれば本物らしく見えるのである。
 
「悪魔を見た」、イ・ビョンフォン
140分の長尺もの。血みどろの陰惨な映画で少々辟易する。イ・ビョンフォン演じる主人公による復讐劇。韓国らしく(失礼)実にしつこい。まあ犯罪が半端でなく残忍なので、復讐もやむを得ないと思わせられる。イ・ビョンフォンは少々かっこいいが、復讐してゆくうちに自分の人格も崩れてゆくのが見もの。この変化は実にリアルで恐ろしい。でももっと恐ろしいのは猟奇殺人犯のチェ・ミンスクだ・彼の演技は真に迫っている。一見弱弱しく見えるがそれは見せかけで、要するに人を傷つけたり、犯したり、殺したりすることに何の感情もない異常な男を演じている。最後はどちらが悪魔かわからなくなるが、見終わった後少々疲れる。
 
「フェア・ゲーム」、ナオミ・ワッツ、ショーン・ペン主演
イラクが核兵器や大量破壊兵器を製造しているという情報に基づき、ブッシュはイラク/フセインに侵攻する。しかし実際は大量破壊兵器などなかったのだ。マット・デイモン主演の「グリーン・ゾーン」も似たようなテーマを扱っているがそちらは実際の戦場での物語。この映画はワシントンが舞台でCIAとホワイトハウスの政争劇だ。実在のCIA要員のナオミ・ワッツと夫のショーン・ペンがその渦に巻き込まれる。最初はスパイ活劇かと思ったが、ショーン・ペンはそんな映画には出ないだろうと思っていたら、やはりそう単純な映画ではない。アメリカの社会の公正さがテーマだろう。テーマは重たいが、正直いって話がポンポン進むので少々慌ただしい。全体に軽い。もう少しじっくり構えて作れば更に重量感が出てくるのではないだろうか?こういうテーマを映画にしてしまうアメリカ映画と云うのはいつも感心させられる。ショーン・ペンは相変わらずキーキーとうるさい。演技派なのだろうが私には鼻につく演技としか思えない。ナオミ・ワッツはどんな役をやってもうまくやるが、私にとってはいつも印象が希薄なのが可哀想だ。
 
「マージン・コール」、ケヴィン・スペイシー、デミ・ムーア、ジェレミー・アイアンズ
マージンコールとは証券界の用語で追加証拠金請求のこと。アメリカの不動産バブルが弾けてMBS(不動産担保証券)の価格がさがるなかで、危機にひんした投資会社がそれをどのようにしのいでゆくか、という物語。会社の資本が毀損してゆくことが分かってからそれに対処するまでの24時間のドラマである。ここには男たちの金融世界での血みどろな生き残りの物語があるが、更にはアメリカにおける成功、金、競争とは何かが赤裸々に語られれているのが印象的だ。ただこの映画にはそれに対して批判の眼はあることは間違いないが、その視線は弱い。ウォールストリートをもう少し凝縮させた佳品。投資会社のトップのジェレミーアイアンズが素晴らしい。
 
「ブラッド・アウト」、ヴァル・キルマー
殆ど見たことのない俳優さんばかり。相当できの悪いB級アクション。でも最後まで見てしまう自分が情けない。結局最後まで出来が悪かった。
ブラッドアウトという言葉は辞書にも載っていない。まあ話の筋から云うと血盟した組織から足抜けするなら血で償えと云う意味らしい。警察官の弟がその組織の一員で、足抜けしようとして殺されてしまう。兄はその仇討ちを行うと云う話。兄が組織に潜入するのだが、まああまりにも簡単に潜入できたり、あっというまにナンバー2になってしまうなど話はめちゃくちゃ。芝居も臭く少々恥ずかしい。
                                                       〆
 

2012年8月11日
於:トリフォニーホール(1階28列中央ブロック)
 
新日本フィルハーモニー交響楽団、第24回新クラシックへの扉
指揮:山田和樹
ピアノ:萩原麻未
 
ラヴェル:亡き王女のためのパヴァーヌ
ラヴェル:ピアノ協奏曲
サンサーンス:交響曲第三番・オルガン付
 
欧州のコンクールで優勝した、日本の若い2人の演奏家による、フランスの作曲家のポピュラーな作品で構成されたコンサート。猛暑にもかかわらずほぼ満席。
 ラヴェルのパヴァーヌはもう殆ど聴くことはないが、久しぶりに聴いて、とても素敵な曲だと、改めて感じた。ホルンから入って木管群に引き継ぐのだが、どの奏者も美しく聴き惚れてしまう。
 ピアノ協奏曲は2楽章が素晴らしい。冒頭ピアノのソロがしばらく続くが、この音楽の透明さには驚きとしか言いようがない。そして後半のイングリッシュホルンとの掛け合いは更に素晴らしく、音楽が永遠に続くのでは思わせるような趣。両端楽章の生きの良さはこの若いコンビの真骨頂だろうが、私は2楽章に感銘を受けた。いやいや弾いたようなアンコールはドビュッシーの亜麻色の髪の乙女。彼女の演奏ではなく、立ち居振る舞いに一言。入退場がよちよち歩きのてれんこタイプなので少々だらしがない。内田みたいにきびきびした振る舞いもこれから国際舞台で活躍するには必要ではないだろうか?まあ本質論ではありませんが!
 オルガン交響曲は1年に一回は聴きたいものだ。第2部の4楽章に当たる部分の冒頭の壮大なオルガンの響きを聴いただけでぞくぞくしてしまう。トリフォニーのオルガンは初めてだと思うが素晴らしい響きには圧倒されてしまった。ただ1部の2楽章に当たる部分のオルガンはアンセルメ/スイスロマンドの録音に毒されているせいか、少々物足りない。このCDは1961年に録音されたものだがオルガンの音は発売当時から評判だった。今聴いても凄いもので、家が揺れる感覚。足元に低音が忍び寄ってくる感覚、まあこれは聴いていただかなくてはわからない。ただある程度以上の装置でないとウーファーがぼーぼー云うだけでこの音の魅力は味わえないだろう。まあこれは完全に録音芸術の領域で、ライブでは決してこのようには鳴らない。今日のトリフォニーのように、密やかに、荘重に鳴り響くのである。
 山田の指揮は振幅が大きくて一気呵成に聴かせると云うタイプではないように感じた。アンセルメはかなり遅く全体にゆったりとしたつくりだが、山田もどちらかと云うとその系統。バレンボイム/シカゴの録音は山田より一割くらい早くて一気呵成タイプ。好みとしては最近はバレンボイムタイプが好きだ。年をとって気が短くなったせいだろう。
                                                        〆

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