ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2012年06月

2012年6月30日
於:横浜みなとみらいホール大ホール

オペラシリーズ~みなとみらい流
プッチーニ:歌劇「蝶々夫人}

指揮:沼尻竜典
構成池辺晋一郎

蝶々夫人:山崎美奈
ピンカートン:カルロ・バリチェッリ
スズキ:相田麻純
シャープレス:堀内康雄
ゴロー:晴 雅彦

合唱:新国立劇場合唱団
管弦楽:桐朋学園オーケストラ

冒頭、池辺からこの演奏会形式によるみなとみらいのオペラシリーズ(前回はカヴァレリアとパリアッチ)の狙いにつきショートスピーチ。しかし背景をちょっとつけた演奏会形式のオペラ演奏をまるで自分が創造したようなものいいはちょっと納得ができない。この形式はもうすでに一般的になっておりいまさら池辺が自慢するような形式ではない。古くはサントリーホールオペラシリーズや最近では東京春祭などでN響によるものなど枚挙のいとまがない。なぜこのような発言になったのかよくわからなかった。
 オーケストラのバックにやぐらを組みその上で歌手たちが歌う。合唱団も1幕ではこの上に乗ったまま歌う。背景は大きな垂れ幕が天井から降りて、そこに草花や蝶々やイメージ映像が投射される。今の演奏会形式のオペラは皆このようなものだ。やぐらの上では歌手たちが最小限の動きをつけて歌う。

 タイトルロールの山崎は繊細な感情表現が素晴らしい。2幕2場の大詰め、蝶々夫人がスズキからもうピンカートンが戻らないと聞かされ、「全て終わってしまった」と歌うが、この短い歌唱が胸にぐさりと刺さるほど鋭い。これは「道化師」でカニオが最後に「お芝居は終わりだ」と歌うシーンに匹敵する場面だと思うが、今日のように感情をこめた歌唱はライブでは初めての体験だ。もう一例を上げると同じく2幕、今度は1場でシャープレスが蝶々夫人にもしピンカートンが戻らなかったらどうされますかと聞く、蝶々さんは芸者に戻って踊るか、死しかないと歌う。この歌も誠に素晴らしく胸を打つ。ただ踊りの振り付けが日本風でなく、フラメンコみたいなのはいただけない。ただ彼女で不満なのは、感情が頂点に達した時に声がその気持ちに追随しないことではないだろうか?たとえば「ある、晴れた日に」も前半は実に素晴らしいがクライマックスの声が今一つ前半の情感のこもった声につながっていないのが残念だ。2幕、幕切れの自害のシーン、ここも今一つ気持ちが伝わらない、1幕の蝶々夫人の登場も出だしは素晴らしく良いのに尻つぼみだった。これらが改善されれば更に一段高いレベルの歌唱が期待できるように感じた。将来が楽しみなソプラノだ。
 それに比べるとピンカートンはまるで繊細な表現が駄目。声がかすれたり、猫なで声になったりで具合が悪い。しかしトップにもっていった声は、さすがに輝かしく迫力があった。だから1幕など、蝶々夫人とピンカートンがからむ場面は、歌がうまくかみ合わない。ここらへんがライブの面白いところだろう。だからピンカートンのほとんどでない、蝶々さんがでずっぱりの2幕のほうが印象としては良かった。
 その他の歌手ではシャープレスの堀内が断トツだ。今日の公演でもっとも素晴らしい歌唱だった。1幕のピンカートンとの2重唱での若い友の将来を心配する、心のこもった歌唱は胸が熱くなるし、2幕の2場でのスズキを説得する歌唱も素晴らしい。ゴローは声は立派なのだが、なぜかやかましい。そうむきになって歌う役ではないと思うのだが!スズキはなぜかあまり存在感を感じなかった。
 沼尻は全体にかなり速いテンポを選択している。だから歌によっては少々せわしいものもあったが、演奏会形式だとこのほうが飽きなくて良いかもしれない。たとえば、舞台ではそんなに退屈にはならない1幕の蝶々夫人の登場の後、愛の2重唱の前までが今日はちょっと退屈。これをだらだらやられたら眠ってしまうだろう。だからこのテンポは必然だったかもしれない。(演奏時間1幕48分弱、2幕80分強、いずれもセラフィン/テバルディ盤より大幅に速い、1幕で約5分、2幕で約8分)
 オーケストラは学生なのかОBなのかよくわからないが、女性比率90%以上。だからどうだったということではない。ライブの常としての傷はいたしかたはないが、いつもより少々多かったかもしれない。だからといってこの素晴らしいオペラを楽しむのに大きな問題は感じられなかった。ただ音色が一昨日のシティフィルより更に画素数が減って音の滑らかさと云った面では更に改善の余地があるように感じた。もしかしたらオペラの演奏の経験があまりないのかもしれない。
 演出は特に違和感はなかったが、1幕の愛の二重唱で天井のミラーボール?から客席にまで星の降るような光がさすと云うのは人によっては気が散るので、好き嫌いが出るのではないかと思った。
                                    〆
                                     

2012年6月28日
於:東京オペラシティコンサートホール(1階18列中央ブロック)

東京シティフィルハーモニック管弦楽団
     第260回定期演奏会

指揮:尾高忠明
チェロ:宮田 大

エルガー:チェロ協奏曲
エルガー:交響曲第一番

エルガー2曲によるシンプルな構成。
チェロ協奏曲はCDでも、ライブでも今一つ好きにならなかったが、今夜の演奏は初めて楽しむことができた。宮田のチェロは実に雄大で素晴らしい。最初に主題が鳴った時に今まで聴いたことのない豊かなチェロの音。オペラシティと云うこともあるが決してそれだけではないだろう。しかも彼の場合はアンコールの「鳥の歌」のようにものすごく精妙な音も出せるのである。尾高の指揮もめりはりがあって十分なサポートだ。ゆったりとやっているようでいて、ここぞと云う時のパンチもすごい。実に立派なエルガーだった。

 更に素晴らしいのは交響曲だ。エルガーは尾高の得意の曲だが、それにしてもこれだけの立派なエルガーが聴けるとは思わなかった。この曲は何年か前の都響の定期で初体験して感銘を受けた。その後コリン・デーヴィス/ロンドン響のCDでも良く聴く。やはりモットー主題が素晴らしく。この部分はいつ聴いても肌に粟を覚えるほど、ぞくぞくする。大英帝国の栄光とたそがれを表わしているように私には聴こえる。
 尾高の指揮は比較的テンポが速い。1楽章の冒頭のモットー主題などはかなり遅めであるが、しかし主部に入ると一転音楽が荒れ狂う様が素晴らしい。ここではテンポも速い。デーヴィスとは2分ほども違うのだから、テンポの上げ下げが過激だと云うことがわかるだろう。2楽章はマーチだが従来のスケルツォのようだ。ここも凄い迫力で耳を奪われる。しかし中間の緩やかな部分はチャーミングである。圧巻は3楽章でこの演奏の美しさは特筆したい。ここでは尾高はじっくりと腰を落とし誠に丁寧に指示を出している。4楽章の素晴らしさは言うまでもないだろう。中間部分で各主題がミックスされる部分は感動的であるし、最後に圧倒的なボリューム感で現れるモットー主題は更に胸を打つ。エルガーの交響曲を再認識させてくれた演奏だ。今夜のお客さんは幸せだろう。
 シティフィルの演奏も全く傷がないとは言えないが、尾高の指示にしっかりと食いついて立派な演奏だった。前回の飯守のブルックナーも素晴らしかったが、このエルガーも負けずとも劣らない演奏だったと思う。ただ聴いた印象でものを言って申し訳ないが、ブルックナーに比べると、曲のせいなのか例えて云えば少々画素数の少ない音に思われた。これはしかし決して劣るというのではなく、むしろ何か違った次元の音の印象なのだ。とても懐かしい音なのである。そう私が30年ほど聴いてきた、タンノイのスピーカーの音なのである。タンノイはエルガーの曲のために作曲されたのではないかと錯覚するほどだった。高弦は決して伸びやかではないが、しかし決して丸っこくもなく、ここぞと云う時はきりりとした音も出す。金管は輝かしいが、しかし音の印象はいぶし銀のように渋いのである。私の今のスピーカーはタンノイの質感を生かしつつ、音場のリアリティを出したスピーカーだが、タンノイの質感が時々無性に懐かしくなるのである。今夜はそれを思い出してしまった。別れた恋人を思い出すようなものであろうか?これは世迷言かもしれないが率直な印象である。尾高がこの音色を意識的に出したとしたら素晴らしいとしか言いようがない。
                                     〆

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パレスホテルのクラウンというフランス料理のお店でなんとピアノ型のチョコレートケーキがデザートに出てきました。美味なのもさることながら形がまるでグランドピアノそのもの。鍵盤も蓋も足もありました。

2012年6月22日

「裏切りのサーカス」以降、見たい映画がなくて、欲求不満だ。なぜこう小粒の女々しい映画ばかりなのだろう。仕方がないのでレンタル屋にゆくも、状況は同じ。劇場で見逃した2作と、友人に薦められた2作を見てみよう。

「リアルスティール」、ヒュー・ジャックマン主演
涙なくしてみることができないなんてうたい文句だったようだが、一滴も出なかった。やはり間にマシンを介在していたからかもしれない。要は親子愛なのだが、その間に少年がロボットを育成するロボット育成ゲームのようなものがはさまっているから、見た印象はそちらが主になり、全体にゲーム感覚で生身の人間の要素が希薄になってしまったように感じた。ロートルロボットに日本の意匠とソフトなんて遊びすぎ。
 駄目親爺に出来の良い息子はアメリカ映画の常套みたいで、バック・トゥー・ザ・ヒューチャーがその一例。またこういう一対一の格闘技もアメリカ人大好きパターン。グラディエーターなどは上品なほうで、バトルランナーなんてゲテモノまで作る国だ。しかし自分の力で勝ち取れない(主人公はボクシングで負け犬になっている)ものをマシンに頼らざるを得ないというのはアメリカの閉塞感をあらわしていて、なんともうら寂しい。ということで「ウインターズ・ボーン」同様、まことにアメリカ的な映画であった。

「エドガー」イーストウッド監督、デカプリオ主演
アメリカの現代犯罪史をフーバーを介して描いた映画。「サッチャー」と同様過去と現代が入り乱れ、話がぷつぷつ切れる。この映画のクライマックスはどこにあるのだろう。こういう作りを否定はしないが私にはドラマが感じられない。ドラマが感じられない映画はただの映像の羅列で、アメリカの現代史の復習みたいで無味乾燥だ。自己顕示欲の強い、同性愛者である、フーバーをデカプリオは熱演しているといえようが、話の起承転結が見えないこともあって、空回り。アカデミー賞が取れなくてもしかたがない。しかもこのフーバーという男の複雑な性格が私には皮相的にしか見えなかった。彼の人生に対して感情移入は出来ない。イーストウッドは何故この題材を選んだのだろう。アメリカの国内犯罪の取締りをもっと厳しくやれといいたいのだろうか?

以下2作は友人の推薦作品
「運命じゃない人」、内田けんじ監督
監督も、主人公も全くなじみのない作品。冒頭婚約者に振られた女性が「地球でひとりぼっちなのね・・・」なんて云う。まあこれでもう先が読める映画だ。実際はそうではなく人間はしりとりのように、気のつかぬうちにつながっているのだ。ということだろう。この映画では5人(厳密には6人)が知らぬ間につながっている。そしてそれぞれの人物がどうつながるかを行ったりきたりしながら描いてゆく。この手法は古典的。印象としては劇画風だ。だからこの5人の人間が必死に生きている様が全く感じられない。たとえば冒頭の女性は行く当てもなく婚約者の家を出てしまうが、全く悲壮感はない。やくざが出てくるが、これがまるでパロディ。要は主人公達は監督に操られたお人形で、切れば血が出る人間ではないように感じられた。この監督の人間に対する冷たい目が恐い。そういう意味では私にはとても不気味な映画に感じられた。

「ウォルター少年と夏の休日」、マイケル・ケイン、ロバート・デュバル主演
これはまたうって変わってほんわかした映画だ。すごく居心地がよい。アメリカのおとぎ話である。駄目な母親が息子を二人の年取った叔父さんに預ける。この二人が上記のベテラン俳優で実に楽しそうに演技をしている。この二人のやりとりを見ているだけで楽しくなるのだから技というのはすごい。この二人、アフリカで暮らして大金持ちになって帰ってきたが、アメリカでは古いみすぼらしい家に住んでいて、偏屈親爺として近所では有名。その金を狙っていろいろな人が言い寄ってくる。まあそういう設定だ。しかしここの本線はアメリカ人が男というのをどういう風に考えているかだ。少年にデュバルおじさんが男とはこういうものだと熱く語るシーンは感動的だし、そこには生身の人間があって、また監督の人間を見る目の温かさを感じるのだ。原題はセコハンライオン。なんとこの老人たちはライオンを買うのだ。しかしこのライオンは動物園の払い下げの体も自由にならないような代物。要するにこの老人達のことを暗示している。あまり書くとネタばれになるのでやめておくが、よく見るとこの映画はなかなか奥が深い。それにしてもこの邦題の脳天気なこと。
                                            〆

初めて我が家にオーディオ装置(ステレオ)が入ったのは、私が高校受験に受かったごほうびに、父親が買ってくれた、そうそれは1961年だった。コロンビア製で定価が39800円、すべてオールインワンの今から思えば、ラジカセに毛の生えたようなものだった。最初はレコードなど高くて買えなかったのでステレオに付属のコロンビアのテストレコードばかり聴いていた。トリオ・ロス・パンチョスのべサメ・ムーチョを毎日聴いていたのである。
 初めてレコードを買ったのは今はもうないと思うが、数寄屋橋の西銀座デパートの中にあった中古レコード店のハンターで、ドヴォルザークの「新世界だった」。演奏はカレル・アンチェル指揮/チェコフィルだった。金額は覚えていないが1200円くらいだろうか?何ヶ月も小遣いをためてやっとの思いで買ったのだ。そのころ25センチ盤というのがあって、買ったのはそれだった。30センチ盤なんて買えないのだ。それから学校から帰るとこの曲ばかり擦り切れるまで聴いた。それからバーンスタイン/ニューヨークの運命や幻想など少しづつ買い集めたのだった。
 先日カラヤン1960’sというなんとCD82枚セットものを買った。タワーの通販で14000円弱である。一枚あたり200円にも満たないのである。なんと便利なというかイージーな世の中になったのだろう。これでは1枚のCDに対する熱い思いなどなかなか湧いてこないだろう。私は少なくてもブラックディスク時代はどのレコードはいつ、どうやって、どこで買ったのか全て覚えていた。だからその曲を聴くとそのシチュエーションまで思い出してしまうのである。今は残念ながらそういうことはない。それが良いことなのか寂しいことなのかどちらだろう。
 新世界が最初のレコードになったのは、初めて聴いたクラシックがこの新世界の2楽章だったからだ。中学校の音楽の先生が音楽の時間にかけてくれたのだ。それがずっと頭にあって最初に買うレコードはこの曲に決めていた。今思ってみると1000円ちょっとのお金を握り締めて銀座まで行った自分が愛おしい。
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