ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2012年04月

2012年4月25日
於:東京オペラシティコンサートホール(1階13列右ブロック)

東京ニューシティ管弦楽団第81回定期演奏会
指揮:内藤 彰
合唱:東京合唱協会

松村禎三:ゲッセマネの夜に
ヴェルディ:レクイエム

オーケストラは内藤 彰が設立したもの、合唱協会も内藤が監督をしている。内藤は「クラシック音楽、未来のための演奏論」と云う本を書いており、これはなかなか面白い。このオーケストラで彼の理論を実践しているのだろう。
 ゲッセマネの夜にはジョットのユダの接吻から霊感を得た曲だそうだ。初めて聴いた曲だが、クライマックスの緊迫感は印象的だった。演奏も素晴らしい。このオーケストラ初めて聴いたが、失礼ながら、大変立派な演奏で驚いた。
 レクイエムは「リベラメ」を1869年の原曲で演奏している。まあそのアイディアはよいのだが、驚くことにソロを合唱団のメンバーに、それも各声部を数人でシェアしているである。こういう方法は初めてだ。前例があるかは別として、要はソロを歌う人々の歌唱が素晴らしければそれで良いのだが、そうではないから困るのだ。いくらアイディアがよくても中身が伴わなければこけおどしだ。ソプラノは4人、メゾも4人、テノール3人、バス3人で手分けしているのである。これで統一のとれたレクイエムになると内藤は本当に思ったのだろうか?二期会のダブルキャストも学芸会みたいだが、今夜のこの合唱団も顔見せみたいでお客不在の公演と云わざるを得ない。オーケストラは大熱演で素晴らしいのにソロになると声が出ないのではらはらどきどき、下を向いて聴いていた。しかし合唱は力感に欠けるにしても十分合格点だ。怒りの日から妙なるラッパの音はいつ聴いても素晴らしいが、今夜も素晴らしい。2階席に陣取ったバンダの威力はいつもながら強力で戦慄の瞬間だ。ソロで、唯一感心したのはメゾの山下牧子だ。彼女だけはものが違う印象。豊かな声ながら艶もあり「書き記されし書物は」は感動的。彼女の歌ったパートは素晴らしい。哀れなる我、恐るべき王、思い出し給え、そして涙の日、それも素晴らしいが、特に「思い出し給え」が印象的だ。
 最もがっくりきたのは「我は嘆く」とオッフェルトリウムの「主よ賛美のいけにえと祈りを・・・」のテノールだ。名前はあえて書かないが、声は全く出ないので聴いていて気の毒になった。これはキャスティングの罪としか言いようがない。
 今日の売りは従って「リベラメ」のオリジナルバージョンと云うことになる。怒りの日の前、レクイエムの雨、そして最後のリベラメをソプラノソロでなく、男声合唱に歌わせるところなどが最終バージョンとの違い。その他にも聴いたことのない部分があった。しかしソプラノがやっと歌っているだけというのでは興ざめだ。せっかくのアイディアも台無しだろう。もう少し完成度の高いヴェルディを聴きたかった。オーケストラと合唱が水準以上だけに誠に残念だった。
 この曲は古今の名曲だけに素晴らしい録音がたくさんある。ライブではシカゴで聴いたショルティ/シカゴ、や日本で聴いたアバド/スカラ座はとても印象に残っていてCDもその二枚が愛聴盤。その他カラヤン/ベルリン、最近ではパッパーノ/サンタチェチーリアも素晴らしい。
 なお写真は先週ゴルフ帰りに寄った浅草。レクイエムとは関係ありません。
                    〆
 

2012年4月22日
於:新国立劇場(1階13列中央ブロック)

モーツァルト「ドン・ジョバンニ」、新国立劇場公演
指揮:エンリケ・マッツォーラ
演出:グリシャ・アサガロフ
ドン・ジョバンニ:マリウシュ・クヴィエチェン
騎士長:妻屋秀和
レポレッロ:平野 和
ドンナ・アンナ:アガ・ミコライ
ドン・オッターヴィオ:ダニール・シュトーダ
ドンナ・エルヴィーラ:ニコル・キャベル
マゼット:久保和範
マルチェリーナ:九嶋香奈枝
合唱:新国立劇場合唱団
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団
チェンバロ:小埜寺美樹

オペラはやはり歌だ、と改めて感じた公演だった。歌手たちの高水準は最近の新国立ではもう当たり前になった。わずかにオッターヴィオが精彩を欠いたように気がした。これなら先日聴いたカバーの鈴木のほうがはるかに良い。
 タイトル・ロールのクヴィエチェンはメットでこれを歌った、今急成長の歌手だそうだ。声が素晴らしいのは言うまでもない。透明だし、癖がないし、しかもよく通る。決して声量がでかいわけではないが、この大劇場に響き渡る声は流石と思わせる。しかしそれだけなら先日のカバー歌手公演の与那城と大きく違うわけではない。違いはドン・ジョバンニを決して無頼漢にしていないことだ。女を犯し、殺人まで行う男は、無頼漢だろうが、クヴィエチェンは決してそれを前面に出さずに、色気を感じさせる、そう、これなら女性にもてるだろうなあと思わせる妖しい魅力たっぷりの歌い方。おそらく演出もあるのだろうが誠に魅力的なドン・ジョバンニだ。
 しかし、今日の白眉は、ドンナ・アンナのミコライである。この声は今日の8人の中では群を抜いて見事な声。犯され、父親まで殺された貴族の娘の役柄にふさわしく、気品にあふれ、しかも心に秘めた復讐の思いを、自らの声に託した。1幕第2曲のオッターヴィオとの2重唱の圧倒的な歌唱は肌に粟を覚えるほどだった。第10曲「オッターヴィオ、私死にそう・・・」も素晴らしいが、更に凄いのが2幕第23曲の「私が残酷ですって・・・」のレチタティーボ・アコンパニャートとアリア。これだけの劇的表現を身につけていて、しかも声まで見事な歌手はそうざらにはいない。
 ドンナ・エルヴィーラのキャベルもミコライの陰になってちょっと気の毒だが、彼女も薄幸の美女役を見事に歌いあげていた。2幕の15曲や19曲など、エルヴィーラの悲劇を私は笑えなかった。(会場では女性の笑いが聞こえたが、私には笑う人の気持ちが理解できない)そして圧巻は21ーb曲「なんとひどいことを・・・」、しかしそうは言っても未練は断ち切れぬ、その揺れ動く女心を歌いあげていた。エルヴィーラは決して分別ある(昔はそういう役柄だと思っていた)女性ではなく、未練を断ち切れない、若くて高貴な、むしろ情熱的な女性と云う役柄で演じられていたように感じた。
 レポレッロも素晴らしいが、これで今一つ声に柔らかさが伴うと云うことなし。ところどころで一本調子に聴こえるところがあった。その他では妻屋の騎士長がいつになく立派だった。ツェルリーナはもう少しコケットさがでても良かったように思った。いずれにしろ歌手陣は見事だった。
 東フィルも熱演。マッツォーラの指揮はきびきびしたもの。緩急はかなりつけているが、急の部分がかなり速くてこれが、今日の演奏を性格付けていたように感じた。ただそれが時折行き過ぎて、例えばシャンパンの歌などは私の耳には少々速すぎて聴こえた。チェンバロの即興的な参加も効果的。
 演出は特に奇異なところはなかった。一番の特徴は舞台がスペインではなく、ヴェネチアであること。したがって台本にないゴンドラや運河が1幕冒頭に出てくる。こういう演出はほっとする。
                                     〆

2012年4月21日
於:サントリーホール(1階20列中央ブロック)

読売日本交響楽団、第548回サントリーホール名曲シリーズ
指揮:シルヴァン・カンブルラン
サキソフォーン:須川展也

メシアン:ほほえみ
イベール:3つの小品
イベール:アルト・サクソフォーンと11の楽器のための室内小協奏曲
フランク:交響曲二短調

前半はフランスの20世紀中期音楽。もう二度と聴かなくても良い曲ばかりだが、イベールの3つの小品は短い曲ながら、とてもチャーミングで美しく印象的だった。オーケストラコンサートなのにフルート、オーボエ、クラリネット、ファゴットそしてホルンのみによる管楽合奏と云うのは珍しい。奏者はいずれも読響のトップ奏者である。
 フランクはカンブルラン渾身の演奏だ。劇的で、豪華絢爛、弦はきりりとしまり、金管はサントリーホールの広い空間を埋めつくさんばかりにほとばしる。しかしだ、フランクがこのような音で良いのだろうかとの思いもよぎる。1楽章の盛り上がりはまるできらびやかなブルックナーのようだし、2楽章の終結部でのトランペットも少々唐突に聴こえる。私のもつフランクのイメージとは少々違うのである。もう少し抑制された音であっても良いのではないかと云う思いである。またまたしかしだ、3楽章はそのような思いが吹き飛ばされるような圧倒的な音の渦、それにのみ込まれてしまう。今日のカンブルランはいつもより動きが大きく、各奏者に対する指示もかなりきめ細かいように思った。それに伴い音楽の起伏が大きく、スケールも大きい、とても劇的なフランクだった。彼が十分に感情をこめて指揮しているのが手に取るように分かる演奏だった。なかなか聴けない快演だった。
 フランクは昔から大好きで、古くはフルトヴェングラーやカラヤン、ジュリーニなどを聴いていたが今はデュトワ/モントリオールを聴くことが多い。この録音はデッカのよさがでたもので教会での残響が大きい音響が聴きとれる。デュトワの指揮は肩の力の抜けた、実にスマートなもの。カンブルランに比べると大人しいような気がするが、継続して聴くにはこのほうが飽きがこないように思う。おそらくライブではカンブルランに軍配を上げるだろう。
 読響も熱演だったが低弦が少し弱く全体に腰高に聴こえたのは、指揮者の指示なのか、それとも座席のせいなのだろうか?
参考:フランク「交響曲二短調」(指揮デュトワ/モントリオール響/1989年
/POCL-5113)
〆                                    

2012年4月20日
於:NHKホール(1階9列右ブロック)

NHK交響楽団第1725回定期演奏会Cプロ
指揮:ロジャー・ノリントン

ベートーベン:序曲「レオノーレ」第二番
ベートーベン:交響曲第四番
ティペット:交響曲第一番

ベートーベンの四番が素晴らしかった。ノリントンは80年代にピリオド楽器によるベートーベン交響曲全曲を録音しているが、基本的にその演奏と今夜の演奏とは大きく違わない。メトロノーム重視、ノンヴィブラートの弦、突拍子もないようなティンパニの強打、つんざく金管などである。その後モダンオーケストラ(シュトゥットガルト)による録音もしているがそれも大きな違いがない。しかし今夜聴いてい全体の印象としては微妙に大人しくなっているように感じる。逆にそれが音楽におおらかな印象を与えて、かつて受けたやんちゃなベートーベンから、落ち着いた大家風なベートーベンを聴くことができた。しかも基本的なスタイルは変わっていないのである。今まで聴いたライブの四番のなかで最高の名演と言えよう。この印象の一因はテンポであろうかと思う。80年代では30分強だったのが、今夜は32分と幾分緩めている。(参考までにシュトットガルトはその中間)それが音楽に余裕を感じさせたかもしれない。
 この曲は闘争から勝利へという三番や五番を書いた作曲家の作品とは思えない、清新かつ穏やかな、ユーモアあふれる作品だと思う。だからこそ演奏は難しいのではなかろうか?今夜の演奏は難しい顔のベートーベンではなく、ユーモアあふれる、清新なこの曲のイメージ通りの演奏だと思った。先日聴いたスクロヴァチェフスキ/読響の演奏も素晴らしかったが、まだそれはいかつさが残る。クライバーの演奏は名演の誉れが高いが、ノリントンの演奏に、更に燃え盛る炎をそそいだような音楽で、36歳のベートーベンを感じさせる演奏のように思える。最近ティーレマンの演奏をCDで聴いたが演奏時間が37分と長大で1,2楽章は少々重たく感じた。シャイーはお気に入りだが29分で駆け抜ける。カラヤンは31分でまあ私にとっては物差し的な演奏である。などなど聴き比べるとこんなに表情が変わる曲と云うのも珍しいのではないか?
 楽器配置はいつもとは異なる。左からヴァイオリン、チェロ、ヴィオラ、ヴァイオリン、左奥ホルン、中央奥木管、右奥ティンパニ、その他金管、中央最奥にコントラバスでコントラバスの後ろには反射板を取り付けている。ホールの欠点を補っているようである。N響の演奏も流石と思わせる。このコンビで過去1,2番を聴いたが、今夜はそれ以上に指揮者との一体感を感じた。
 ティペットは初めて聴く曲。終戦直前に書かれた曲。イギリス人の作曲家ではエルガーがもっとも聴きやすい曲を書いているが、ティペットはなかなか難解。結局心に残る部分はあまりなかった。初めて聴いた曲でも全体のどこかにいいなあと思う、芯のような部分があるが残念ながらこの曲にはその部分を発見することはできなかった。N響の演奏はとても美しく安定していた。
 レオノーレ序曲二番はぎくしゃくして習作の様な印象を与える。ベートーベンがこのオペラを書くときに苦労したその縮図のような曲に思える。三番のほうが断然よいと思うがなぜ二番を選んだのだろう。ノリントンの指揮ぶりは時々後ろを振り向いたり、飄々としたもので、まあベートーベンの伝統的な指揮を好む人には不謹慎と思うかもしれない。
                                     〆

2012年4月19日
於:サントリーホール(1階18列右ブロック)

新日本フィルハーモニー交響楽団、第493回定期演奏会サントリーホールシリーズ
指揮:クリスティアン・アルミンク
ピアノ:原田英代

ヴェルディ:歌劇「ルイザ・ミラー」序曲
カゼッラ:スカルッティアーナ
レスピーギ:リュートのための古風な舞曲とアリア 第三組曲
レスピーギ:交響詩「ローマの松」

アルミンクのセンスを感じさせるプログラムだ。全てイタリアの作曲家による曲であるが、それぞれ編成が異なり楽しむことが出来る。このひねりがプログラムつくりには大切だと思う。ルイザ・ミラーは普通のオーケストラ編成、スカルッティアーナはピアノ+32人構成のミニオーケストラ、リュートの・・・は弦5部合奏、そしてローマの松は2階席にバンダを配したり、舞台袖奥でトランペットを吹かせたり、そしてもちろんオルガンが加わった大オーケストラといった按配である。
 まずヴェルディだが後半の生きのよさというか、勢いはヴェルディの初期の音楽に相応しい、そして中間のクラリネットの素晴らしさ、この響きだけで胸が熱くなってしまうのだから不思議だ。
 スカルッティアーナは初めて聴く曲であるが、大変面白かった。カゼッラ(カセルラ:N響のプログラム表記)はN響の定期で交響曲を聴いたが、マーラー張りのスケールの大きな曲で印象的だったが、今夜の曲は小編成だ。原田のピアノがスカルラッティのソナタ風に弾くのに対して、オーケストラは現代音楽風に響いて、このギャップが面白かった。ソナタの断片が88もちりばめられているそうだ。もちろん全てを認識などできはしないが、例えば2楽章のように私の好きなト短調K-454(おそらく)が中心の楽章などは馴染みのメロディだけに、おもわず聞き惚れてしまう。
 レスピーギの2曲は、いずれも名曲でそれぞれ楽しむことが出来た。リュート・・・の弦楽合奏は美しいが少々アルミンクに力瘤が入っていたようで、ごつごつした面も出たのはいただけない。これは現代音楽だけれど、やはりバロック音楽へのノスタルジーが曲想に色濃く含まれているように思うので、その面を聴きたかった。せつなさややるせなさなどは皆無の力技的な音楽に聴こえた。特にパッサカリア。
 しかし最後のローマの松はその力技が生きる。ボルゲーゼの松は誠にきびきびした音楽で耳をひきつける。圧巻はカタコンブとジャニコロである。カタコンブの最初の静寂のきわみから強奏までのスムースさとスケールの大きさには圧倒された。ジャニコロの清澄感も見事である。ここでもクラリネットの美しさは特筆ものだった。その他木管群の美しさはたとえようもない。アッピア街道の松は最初はものすごい遅いテンポでちょっと驚くが、バンダが加わるころからはテンポもあがって、クライマックスの迫力はホールを揺さぶるようだった。先日聴いた飯森/東響も素晴らしかったが、彼のはどちらかというと額縁にかかれた一幅の絵の趣だが、今日の演奏は更にスケールアップしたもので新日本フィルの能力を改めて感じた。
ローマの松はずっとデュトワ/モントリオールで聴いてきたが、最近買った小沢/ボストンのSACD盤はとても素晴らしく、今はそれが愛聴盤である。録音年代は古いけれどもボストンシンフォニーホールの響きを再現したかの(未だ聴いたことはありません)ような音は魅力だ。なお小沢の演奏時間とアルミンクの演奏時間は両者とも22分強とほぼ同じだった。
 スカルラッティのソナタも好きな曲で、それゆえか、今夜の曲ではスカルラッティアーナが一番面白かった。スカルラッティのソナタを初めて聴いたのはもう40年以上前になるが、ホロヴィッツのスタジオ録音だ。今はCDで聴いているがかけがいのない一枚だ。この演奏を聴いているとなんともやるせないというか愛おしいというか、表現に苦しむ感情がこみ上げてくる。最近はもう少し明るいオリヴィエ・カヴェという人が演奏したものもよく聴く。安価盤のポゴレリチの演奏も美しく又一味違う。
参考:レスピーギ:ローマの松(小澤指揮/ボストン/1977年/シンフォニーホール/UCCG9046)
   スカルラッティソナタ集(ホロヴィッツ/1962-68年/SICC1026)
              (カヴェ/2007年/輸入盤)
              (ポゴレリチ/1991年/ベートーベンザール/UCCG4435)
                                            〆

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