ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2012年03月

2012年3月29日
於:サントリーホール(2階1列LCブロック)

東京都交響楽団、第731回定期演奏会Bシリーズ
指揮:エリアフ・インバル
メゾソプラノ:イリス・フェルミリオン
テノール:ロバート・ギャンビル

マーラー
  亡き子をしのぶ歌
  交響曲「大地の歌」

私にとって大地の歌は難しい曲だ。この2年で3回ほど聴いているがわずかにカンブルラン/読響が良かったなあと思えるくらいで、なかなか自分の気持ちに添うような演奏にはおめにかからない。その原因は何度も書いているがこの曲の初体験(もちろんレコード)の演奏のインパクトが強烈であったからであろうかと思う。バーンスタイン/ウイーンフィル盤で、1966年の録音である。これをもう40年以上聴いているのである。このCDはメゾソプラノではなくバリトン(フィッシャー・ディースカウ)が歌っている点でもユニークで、それゆえメゾが歌う演奏はいまひとつ感情移入できないでいる。わずかにクレンペラー盤のクリスタ・ルトヴィッヒくらいである。
 さてカンブルランが良かったのだが、それは彼の音楽が極彩色で塗りつぶしたような音ではなく、水墨画とは言わないが、パステル画のような爽やかといおうか、淡いといおうか一種独特の音色だったのが原因だったように思う。そういう切り口でいうと今日のインバルの演奏はかなり味付けの濃い、油絵のような音楽に聴こえたのである。終演後の大変な拍手喝采をみると、良い演奏だったのかなあという思いの反面、何かしっくりこないなあという気持ちもあったのは事実である。その理由の一つが前記の味付けである、特にフェルミリオンがカバーしている曲がそのように感じた。実は彼女がシノーポリと組んでこの曲を1996年に録音しているが、そのCDではこれほど表情が豊かではなかったように思う。とにかく歌の一節一節がそれぞれ濃厚に歌われるので少々辟易してしまったというのが本音である。バーンスタイン盤なども決して爽やかな演奏とは言わないが、例えば告別でのディースカウの歌唱はテンポはものすごく遅いにもかかわらず決して感情過多になっていないのが良いと思う。
 しかし一番の違和感はそこではなく、インバルのとったテンポかもしれない。告別を26分で、あえていうが、駆け抜けるというのは自分の感覚ではついてゆけない。この告別は最も好きな楽章だったにもかかわらず、今夜もっとも乗り切れなかった部分でもあった。「あれを見よ!銀の小船に似た月が揺らめき・・・」は最も絵画的で美しい音楽であるのに、さーっと通り過ぎていってしまうのはつまらない。もっとこの美しい音楽に浸りたいのに!「逍遥する我、上りつ下りつ我が琴を抱き・・・」の4節も歌詞にあわないくらい忙しい。
 1楽章の酒の歌は6楽章と同じくらい好きだ。ここでは都響の輝かしい演奏が圧倒的で、誠に素晴らしいと思った。それゆえにといったらよいかわからないが、ギャンビルの声が少々マスクされてしまったのは残念だ。テノールにとっては辛い曲かも知れない。N響がシナイスキ/トレレーベンと演奏した時もトレレーベンの声が全く物足りなくて、残念というよりもはらはらしてしまったことを覚えている。トレレーベンにしてもギャンビルにしても中堅の実力者なのだが、彼らにはこの歌はきついのではなかったろうか?もっと若くて生きの良い歌手で一度大地の歌のテノール部分を聴いて見たい。たとえばMETのシンデレラボーイ、ハンター・モリスなどはいかがだろう。まあ日本には来てくれっこないだろうけど!「青春について」も「春に酔う人」もやっとこ歌っているというだけで聴き手が感情移入できる水準には達していないように聴こえた。「秋に寂しき人」や「美について」は告別と同様フェルミリヨンのめりこみが強すぎて、聴き手の入り込む余地がなかったように思えた。
 インバルのマーラーは二番、三番とまことに素晴らしい演奏だっただけに、大いに期待した大地の歌だったが少々期待はずれだった。
 「亡き子をしのぶ歌」はただいま勉強中で多くを語るすべはないが、自分にとってというか、親という立場から、3,4,5番が感情移入しやすい。フェりミリオンの歌は特に3番ではじーんとしてしまった。逆にこれは彼女の一語一語噛みしめる歌う歌い方があっていたように感じた(わがままですねえ)。
                              
参考
 バーンスタイン/ウイーンフイル/1966年 輸入盤 (演奏時間66分48秒)
 クレンペラー/フィルハーモニア/1964年 エソテリック盤(64分06秒)
 シノーポリ/ドレスデン/1996(UCCG-5056)(62分)

 なおインバルの演奏時間は58分32秒であった。

2012年3月25日
於:神奈川県民ホール(2階3列左ブロック)

ワーグナー「タンホイザー」二期会、神奈川県民ホール、琵琶湖ホール共催公演
指揮:沼尻竜典
演出:ミヒャエル・ハンペ

ヘルマン:妻屋秀和
タンホイザー:福井 敬
エリーザベト:安藤赴美子
ヴェーヌス:小山由美
ヴォルフラム:黒田 博
合唱:びわ湖ホール声楽アンサンブル、二期会合唱団
管弦楽:神奈川フィルハーモニー管弦楽団

いつだったか、友人たちと雑談していて、リングを除いたらワーグナーで一番好きなオペラは何か、という話で盛り上がったことがあった。私は迷った末「トリスタンとイゾルデ」にしてしまった。してしまったというのは、その当時はどうしてもトリスタンを聴きとおせなくて、もう自分も年かなあと思っていたので迷ってしまったのだった。でもやはりトリスタンははずせなかったのである。しかし今日久しぶりに「タンホイザー」を聴いて、ひょっとしたらこの作品が私の最も好きなワーグナーかなあと思ってしまった。序曲から始まって聴きどころ満載で、最後の巡礼の合唱なんてどんな凡庸な演奏でも目がうるうるしてくるのだから少し恥ずかしい。今日も涙腺が緩んでしまったが、花粉症の時期なので恥ずかしい思いはしなくて済んだ。
 さて、今日の二期会の公演はどうだったか?最近の二期会の水準からしたら凡演だったと思う。その原因は歌手たちだ。先日のナブッコなどでは歌手たちのばらつきがあまりなくバランスのとれた公演だったが、今日は少々ばらつきが大きかったかな、というのが率直な印象である。素晴らしかったのは安藤のエリーザベトだ、声の安定感は今日の歌手たちの中では最高だ。もちろん美しい声だし、しかも決して非力ではない。そして小さな声から大きな声までの変化が実にスムースなのだ。これはなかなか難しい。声は出ていてもその声に到達するプロセスがシームレスになっていない歌手が案外多いのだ。しかし安藤は全く危なげなく変化に対応する。今日は本当に感心してしまった。3幕のエリーザベトの祈りなどは本当に胸がジーンとするくらい素晴らしかった。福井のタンホイザーも部分部分はなかなか立派な声で流石と思わせたが、彼にしても声のつながりがシームレスではなく、極端な言い方をすると、ぎくしゃくしながら目的の音域に達する場合があるので少々ハラハラしてしまう。
 ヴェーヌスの小山は問題だ。とにかく声が安定しないから困る。高い音は絶叫になってしまう。この役は重要な役だけに残念だ。1幕1場は従ってつまらなかった。二期会のダブルキャスト方式の弊害としか思えない。ヴォルフラムの黒田も儲け役なのに全く精彩がない。声は出ているのだが輝かしさや伸びに欠けていて魅力がない。夕星の歌ではムード音楽になってしまっている。まあもともとそういう曲なんだろうが、もう少し格調っていうものがあると思うのだが!
 その他の男声陣も物足りない1幕2場や2幕の歌合戦の場などのアンサンブルも少々雑ではないだろうか?妻屋のヘルマンも軽い。牧童の森の声は美しくチャーミングで良かった。
 神奈川フィルは力演だ。最初はちょっともこもこした音で、透明度が低いなあと云った印象だったが、聴くほどに良くなってきたように思う。沼尻はきびきびした指揮だ。最近のワーグナーは重厚長大というよりも、もう少し素軽く、透明度の高い演奏が多いように思うが、沼尻もその傾向。先日のMETのファビオ・ルイジもそうだった。これはこれで良いと思った。従って沼尻の演奏時間は(173分)1962年のバイロイト並みに快速だ。
 演出はハンぺがインタビューで応えているように、ト書きに指示されている時代に忠実なもので、全く読み替えはなく、素直に接することができた。ただ装置は最近のオペラ公演にしては珍しく質素なもので、1幕や3幕などは背景が銭湯の富士山の絵みたいだったが、訳のわからない装置よりもずっと良い。感心したのは3幕のローマ語りから幕切れまでの照明で、だんだんうす暗くなり、ヴェーヌスが登場するともやがかかったようになり、最後の合唱部分は夜明けになる、と云う按配で美しかった。全体に1幕や3幕は紗がかかったような印象を受けたが照明のせいだったのかもしれない。なお今日の公演の版はドレスデン版であった。
 この曲はずっと1962年のサヴァリッシュ指揮のバイロイトのライブ公演のCDを聴いてきたが最近はショルティ盤やバレンボイム盤を聴くことが多い。

参考:
  サヴァリッシュ指揮、バイロイト/1962年(演奏時間170分、パリ・ドレスデン折衷版)
  ショルティ指揮/ウイーンフィル(演奏時間187分:パリ版)
  バレンボイム指揮/ベルリンドイツ/2001年(194分:折衷版)
                                     〆
  


 

2012年3月23日
於:東劇

METライブビューイング
  ヴェルディ「エルナーニ」(上演日2012年2月25日)

指揮:マルコ・アルミリアート
演出:ピエール・ルイジ・サマリターニ
エルナーニ:マルチェッロ・ジョルダーニ
エルヴィーラ:アンジェラ・ミード
ドン・カルロ:ディミトリ・ホヴォロストフスキー
シルヴァ:フェルッチョ・フルラネット

このオペラは歌の饗宴である。であるからして主演級の4人の声のどれを欠いても面白くない。このメトロポリタンの公演は3人のベテランと一人の若手の組み合わせだが、それぞれなかなか立派な歌唱で、ヴェルディの初期のこの作品の楽しさを味あわせてくれた。特にフルラネットのシルヴァは圧倒的な存在感である。ヴェルディがこの曲を書いたのは、フェニーチェ座の依頼によるものだが、シルヴァの曲はその劇場の脇役バスのために書かれている(後に一部追加している)。だがこの公演ではフルラネットの歌唱で、まるでシルヴァが主人公で国王カルロやエルナーニへの復讐劇のようだ。そういう面ではジョルダーニは少し損をしている。シルヴァのエルヴィーラへの思い、エルヴィーラがドンカルロに奪われてしまう時のシルヴァの悲しみの歌、最終幕でのシルヴァの怒りなどのは聴くものの心に迫る。フェルラネットの熟成を見る思いだ。
 エルヴィーラ役はまるでリングのハンター・モリスみたいだ。4年前のこの曲の公演の際に彼女は控えだったが、主役が欠場したため急遽彼女が登板したそうだ。舞台も共演も全く初めての彼女がそこで大成功したのは云うまでもない。現代でもこのようなシンデレラストーリーがあるのだ。したがって今年の2月の公演は再演となる。ちなみにこのMETの演出は初演が1983年だそうだ。彼女の豊かな声は誠に魅力的。少々太っているが先日の新国立のゼンタとはちがって動きは軽快だ。
 ドン・カルロはロシアの歌手のようだ。1幕では少々歌い方が粗っぽいなあと思ったが聴いているうちにその堂々とした、迫力のある声に圧倒されてしまう。シルヴァとドンカルロの重唱などものすごい迫力だ。
 ジョルダーノはMETの常連だ。相変わらずの美声だが本公演では2人のバス陣に少々おされぎみのようだった。アルミリアートの指揮はエルナーニの音楽がもつ勢いを十分生かしてくれたし、美しさも十分引き出してくれた。
 印象に残ったのは重唱。たとえば1幕のエルヴィーラ、ドンカルロ、エルナーニの3重唱などまさに手に汗を握るよう、そこに怒りのシルヴァが登場。幕切れもド迫力だ。もう一つはこの幕切れもそうだが、合唱が素晴らしい。3幕の幕切れも素晴らしい。
 演出はごくまっとうなもの。ただ最終幕でエルヴィーラもエルナーニを追って自害する演出はあれっと思わせた。装置も衣裳もその時代感覚の重厚なものだ。映像では巨大な装置の場面転換をずっと見せてくれたが興味深かった。
 エルナーニはヴェルディの3大荒唐無稽オペラの一つと云われている(残りの二つは運命の力とトロヴァトーレ)。原作のユーゴーも怒ったらしい。大体1幕、2幕はスペインで3幕になると一気にドイツのアーヘンに飛んでしまうのだから、このように、ちょっとついて行けないところは多々あるが、音楽の勢いがそれを打ち消してしまうと思う。だから歌い手が凡庸であるとこのオペラは全く面白くないかもしれない。
 実は私はまだこのオペラ、実際の舞台に接したことがない映像を見ただけである。昨年のボローニャは良かったらしいが代演続きで聴く気がしなくなったの聴きそこなった。日ごろ見ている映像はパルマ歌劇場の2005年のライブ公演である。METに比べると小さな劇場でセットや歌手は随分小粒だが入門には問題ない。
 オペラの好きな方、このMETのフルラネットのシルヴァを一度お聴きいただきたい。エルナーニのまた違った一面を感じるでしょう。
                                     〆

2012年3月18日
於:オーチャードホール(1階27列右ブロック)
指揮:山田和樹
ピアノ:小山実稚恵

伊福部 昭:交響譚詩
ラヴェル:ピアノ協奏曲
ベルリオーズ:幻想協奏曲

ブザンソン指揮者コンクールで優勝した、山田の力演が聴けた。まずラヴェルが素晴らしい。1楽章は生き生きして若さが一杯。実に躍動的なオーケストラが魅力だ。小山のピアノは少し落ち着いてその按配が絶妙。1楽章の終結部は手に汗握る。そして2楽章はピアノのソロが美しく、やがてそれに木管たちがからむ、さらに中盤以降はピアノのきらきらした音の連続に、オーケストラが静かに絡む。誠に精妙な音楽が聴けた。最後の楽章はオーケストラの前進力が素晴らしい。ラヴェルの協奏曲がこんなに素晴らしい曲とは思わなかった。昔は良く聴いたが今では殆ど聴かない。本箱を見たらCDすらないのである。ラヴェルには申し訳ないことをした。
 幻想も若さのあふれた熱演。特に良かったのは3楽章で17分もかけてじっくりと振っていた。まるで絵画を見ているようだ。出だしのヴァイオリンは美しいけれどもまるで恋人たちの不安を表わすような趣。最後の遠雷も不気味だ。4人の奏者がティンパニをたたいて迫力十分だ。とにかく長さが気にならないくらい音楽が自然に流れた。4楽章以降は元気一杯だ。広大なオーチャードの空間が鳴らんばかりに大太鼓が炸裂する。金管の咆哮、ティンパニの強打、まさに死刑台への行進だ。そして5楽章も、素晴らしいクライマックスまで、音楽が一気呵成に突き進んでゆく様は圧倒的。誰が振ってもうまくいきそうな音楽のようにも思えるが山田の個性は出ていたように思った。
 ただ1,2楽章は少々違和感があった。緩やかな部分でごくわずかだが、しなを作るように音楽が鳴り、音楽が停滞する。ここは右顧左眄せず一気に進めて欲しかった。2楽章も同じで、ワルツの出だしからして少々気持ち悪い。意図的かもしれないが個人的には不満を感じた。
 伊福部の曲は日本のメロディも含まれており聴きやすい曲だ。1943年の曲だそうだ。1楽章はリズムが特徴的か、とにかくぐいぐいと同じリズムで音楽が進む。2楽章はまるで時代劇の映画音楽の趣。小手調べには良い曲かもしれない。
 幻想はずっとミュンシュ/パリ管を聴いてきたが、SACD盤にしても弦の音が神経質に聴こえて、最近は小澤/ボストンが愛聴盤だ。今日の山田よりさらに勢いを感じる、演奏時間も山田よりかなり短い。小澤が47分、山田が51分でその差は3楽章にある。若き小澤の名演だと思う。
         
参考:幻想交響曲:指揮小澤征爾、演奏:ボストン交響楽団
   (UCCG-4439 1973年、ボストンシンフォニーホール)                            〆

2012年3月17日
於:東京オペラシティコンサートホール(2階5列中央ブロック)

東京都交響楽団、作曲家の肖像 86回<ドヴォルザーク>
指揮:エリアフ・インバル
ピアノ:クン=ウー・パイク

久しぶりに「新世界より」を聴いて、この曲はいい曲だなあと改めて感じた。この曲を初めて聴いたのは中学の音楽教室でだったが、初めて買ったレコードも多分この曲だったと思う。高校一年の時だった。カレル・アンチェル/チェコフィルの演奏で、25センチのレコードだった。そのころは30センチ以外に、25センチなどと云うのもあったのである。数寄屋橋にハンターという中古のレコード屋(今はもうないと思う)で見つけたものだ。小づかいなどわずかなものだから、やっとためた小金を握りしめて買ったのがこのレコードだった。そのあとお金がたまるまでしばらくレコードを買うことができなかったので、何カ月も毎日毎日このレコードを聴いていた。その後大学に入り、アルバイトをするようになると、少し余裕もできて徐徐にコレクションが増えてきた。その中で最も印象に残った「新世界より」はケルテス/ウイーンフィルのものだ。これはいまでも愛聴盤でこれ以外にもカラヤン、ショルティ、セルなどが指揮したものを聴いてきたが、結局このケルテス盤に帰ってくるのである。序奏の後、左スピーカーからティンパニーの強烈な音が聴こえてくる、デッカの録音も素晴らしかった。この当時はスピーカーはパイオニアのPAX-20Fという同軸型のスピーカーにトリオの真空管のアンプ、シュアーカートリッジで聴いていたが、その程度の装置でもわくわくするような音だった。まあ余談はこれくらいにしておこう。
 
 今日の新世界はどうだったろうか?予想以上に素晴らしく、決して甘さのない、どっしりした演奏だったと思う。マーラーなどのようにはテンポをいじったりはぜずひたすら前進する様はこの曲の通俗性をぬぐい去ったものといえよう。特に両端楽章のダイナミックレンジの大きな演奏は印象的だった。都響の能力も、余裕綽々と云った感じで、このコンビでマーラーなどの名演を演奏してきたことが自信になっているのかもしれない。2楽章の木管群の質感も素晴らしい。終楽章の再現部からコーダへのたたみかけるような金管も印象的だった。
 ピアノ協奏曲は初めて聴いた曲だ。牧歌的な両端楽章、夢見るように美しい2楽章が印象的で、特に2楽章の美しさはドヴォルザークのもつ土俗的な響きとは異なった上品なものだった。ピアノは韓国の実力者によるもので初めてこの曲を聴く者にとって何ら過不足のない演奏だったと思う。ただティンパニのドロドロした音が弦などをマスクしたように聴こえたのがちょっと面妖だった。交響曲ではそういうことはなかった。
                                     〆

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