ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2012年02月

2012年2月25日
於:サントリーホール(1階17列中央ブロック)

東京交響楽団、第597回定期演奏会
指揮:ユベール・ズダーン
ヴァイオリン:パク・ユヘン

モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第五番
シェーンベルク:交響詩「ペレアスとメリザンド」

東響の今シーズンも残すところ今夜を入れて2回だ。今シーズンは、シェーンベルクをテーマにプログラムを作ってきたが、正直云ってなかなか大変だった。室内交響曲やピアノ協奏曲、モノドラマ「期待」など何度聴いても頭に入らない曲もあった。でも基本的に予習したことで、少しはシェーンベルクに近づくことができたような気がする。
 今夜の交響詩「ペレアスとメリザンド」は、メーテルランクの戯曲をもとにした作品だ。この戯曲は多くの音楽家に刺激を与えたようで、あのドビュッシーのオペラ、シベリウスの組曲、フォーレの組曲、そしてこのシェーンベルクの交響詩などが生まれた。このいろいろなペレアスを全部録音した便利なCDがある。セルジュ・ボド/チェコフィルである。少々軽い音だがこれらの音楽を楽しむのに何の問題もないように思う。シェーンベルクのペレアスはカラヤンも録音していて、これが愛聴盤だ。まあこれは少々嘘で、この曲を愛し、聴いて感動するまでには、もう少し聴きこまなくてはいけないと云うのが本音だ。この曲は運命の動機、ゴロー、ペレアス、メリザンド、愛の動機など、主要動機を覚えてしまえばなんてことない曲かと思いきや、なかなか全体像がつかめない。この曲はシェーンベルクがまだ20代後半の時に書いている、マーラーが6番を書いた頃だ。不思議なことに、このペレアスを聴くと、まず思い出すのはエルガーの交響曲第一番だ。同じ時代の作曲家だが、あまり関連がないようなのだが!ということで、今夜の演奏については、シェーンベルクの複雑で大掛かりな曲に圧倒されたと云うことにしておこう。

 今夜のもう一曲は、もともとモーツァルトの三番のヴァイオリン協奏曲だったが、ホールにきたらなんと五番に代わっていた。こういうことありだろうか?どうやら今夜のソリストのパク・ヘユン嬢の要求だったらしい。個人的には三番のほうが好きなのだが、いたしかたない。ヘユンはミュンヘン国際音楽コンクールで最年少優勝した新進気鋭のヴァイオリニスト。逆算したら御年20歳というから驚き。彼女のヴァイオリンはもちろん美しいが、加えて滑らかで、ちょっとひんやりした音である。例えて言うと青磁の肌触りのようだ。あの滑らかで、ちょっとひんやりした質感のような音だ。ただスダーン/東響はノン・ヴィブラートなので、滑らかというより少々きりりとした音で、ヴィブラートをつけているヘユンとでは竹に木を接いだような感がなきにしもあらず。まあごくわずかなことだけど! アンコールはバッハの無伴奏ヴァイオリンソナタ一番からラルゴ。楽器はロレンツォ・ストリオーニ(クレモナ、1781年)
 モーツァルトのヴァイオリン協奏曲は2セットをその時の気分で聴いている。ムターとカルミニョーラだ。ヘユンの演奏はカルミニョーラより若干遅く、ムターよりかなり速い。ムターは各曲ともゆったりと、思い入れたっぷりに弾く。時には辟易するくらいだが、そのような時は快進撃のカルミニョーラを聴く。この2セットがあれば今のところ不自由しない。

参考:
  いろいろな「ペレアスとメリザンド」:指揮セルジュ・ボド、演奏チェコ・フィル
  (1989年、プラハ、芸術家の家、COCO-70893/4)
  シェーンベルク交響詩「ペレアスとメリザンド」:指揮カラヤン、演奏ベルリン    (1973年、ベルリン、フィルハーモニー、UCCG-4665)

  モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲集
  指揮クラウディオ・アバド、ヴァイオリンカルミニョーラ、演奏モーツァルト管弦
  楽団(2007年、ボローニャ、UCCA-1081/2)

  指揮とヴァイオリン、ムター、演奏ロンドンフィル
  (2005年、ロンドン、UCCG-1257/8)
                                   〆

2012年2月25日

久しぶりに映画館で見た。新宿のミラノ1である。この劇場は東京でも随一というくらい広く、広大な空間で音響と映像を楽しむことができる映画館だ。新宿歌舞伎町はコマ劇場もとりつぶし再開発中だが、なんとかこの劇場は残してもらいたい。ちまちましたシネマコンプレックスでは本当の映画の醍醐味を味わえないだろう。例えて言うと大オーケストラをサントリーホールで聴けばその醍醐味を味わうことができるだろうが、紀尾井ホールでは音が飽和して聴けたものではないだろう。それと同じことが映画でも言える。シネマコンプレックスでの映画は、映画を矮小化しているように思えてならない。

さて、「ドラゴンタトゥーの女」だ。ダニエル・クレイグ、ルーニー・マーラ主演。原作はリチャード・ラーソンの小説で、スエ―デンのベストセラー。すでにスエ―デンでは映画化されていて、一昨年の11月DVDで見ている。もうリメイクというのは早いような気がするが、デヴィッド・フィンチャー監督がよほど気に入った作品だったのかもしれない。
 この映画の主人公は、一見、ダニエル・クレイグ主演の、ミレニアム(原作のタイトル)という雑誌の編集長と思われるが、映画を見ていて、多くの方はルーニー・マーラ扮するリスベットという調査員が主人公であることに気づくだろう。スエ―デン郊外の島にすむ大富豪から、その姪の過去の失踪事件の調査を依頼された編集長が、リスベットの助けを得て、追跡調査をする。そして驚愕の犯罪が暴きだされる、というのが本線だが、この作品の面白さはなんといってもリスベットの存在感だ。彼女の生い立ちは映画の中で語られるが、凄まじい人生を送った女性(23歳)だ。したがってこの彼女の性格をうまく出せるかが、この映画の魅力を左右するだろう。マーラのリスベットはオリジナルのノオミ・ラパスに比べると少し優しさが勝ってような気がするが、熱演であることは認めよう。この2人のリスベットは是非比べて欲しい。私はノオミ・ラパスの演技のほうがしっくりくる。とにかく彼女の存在感は圧倒的である。この作品は1-3までの三部作だが、第3部でのラパスの存在感は怖ろしいというか痛烈というか、よくこういう性格描写ができるなあ、と驚かされる。
 普段はサイボーグみたいなクレイグもこの作品では好演だと思った。その他クリストファー・プラマーなど脇役も充実して、重厚な娯楽映画になっている。なおこの映画のもう一つの面白さはリスベットが、パソコンを駆使したデータ分析で犯人を焙りだしてゆくプロセスだが、本作では少々その面での描写を書きとばしているようで、丁寧さに欠けているように感じた。これは二番煎じだから新鮮さに欠けたということだろうか?

その他
「銃劇のレクイエム」、ハーベイ・カイテル主演
原題はministers(神の使者)。相当できの悪い映画だ。カイテルが出ているハードボイルドということで期待したのだが! 不快感さえも感じさせる、稚拙な演技がその原因だ。この映画はメキシコ系の俳優で占められているが、彼らの演技はほとんど素人に毛の生えたような演技で見ていて恥ずかしい。いわゆる、正義の裁きもので、双子の兄弟の家族が放火や、警察官による誤射などで殺されてしまう。双子によるその仇打ちではじまった裁きがだんだんエスカレートして、といった筋書き。この双子の兄弟は熱烈なカソリック教徒という設定も、面白いのだがおそらくシナリオもひどいのだろう、仕上げは不満が残る。カイテルも冴えない年よりの刑事で凄みがない。(レンタルDVD)

「デビルズ・クエスト」、ニコラス・ケイジ主演
原題は「season of witch」、それにしてもこの邦題はひどいが、見終わった後、なるほどと思わせる。十字軍を脱走したケイジは、ペストの蔓延した町でペストの原因になっていると思われている魔女を、その裁きのために山奥の修道院に護送することを命令されてしまう。修道院にたどり着くまではサヴァイヴァルゲーム。そして修道院についてから、驚愕の真相が現れてくる。十字軍、神、教会、中世、魔女などのキイワード満載のオカルト映画だが、恥ずかしながらこの手の映画はどんな出来でも好きだ。ケイジは相変わらずのしたり顔でまたかと思うが、最後のシーンで許してあげよう。(レンタルDVD)
                                    〆

2012年2月18日
於:東京文化会館(1階17列右ブロック)

ヴェルディ「ナブッコ」、東京二期会公演
指揮:アンドレア・バッティストーニ
演出:ダニエル・アバド

ナブッコ:青山 貢
イズマイーレ:今尾 滋
ザッカーリア:斉木健詞
アビガイッレ:岡田昌子
フェネーナ:清水華澄
アンナ:日隈典子
合唱:二期会合唱団
管弦楽:東京フィルハーモニー管弦楽団

「ナブッコ」はヴェルディの初期のオペラで初めて大成功した作品だ。ヴェルディの若さ一杯の、溌剌とした音楽満載である。しかし初期だからなめてかかると、これはなかなか難しい作品ではないかといつも思う。どちらかというと声の饗宴的なオペラである。言い過ぎかもしれないが、後期の様な心理的な綾みたいなものを歌手には期待されていない。だから歌手が非力だと全然面白くないオペラなのだと私は思う。逆に少々荒削りでも力で押すような歌手のほうが良いようにいつも思う。だからと言って私の愛聴盤のシノーポリ指揮のものや、ファビオ・ルイジの指揮した映像の演奏が荒削りとは言っていない。どちらかと言えばと言っているのである。
 さて、この二期会の演奏は、最近の日本の団体の公演の特徴だと私は思うのだが、非常にバランスがとれていたように感じた。決して突出して素晴らしい歌手がいるわけではない。だけれども皆そこそこ歌えていて、全体として、この「ナブッコ」というオペラを鑑賞するのにまずは十分な水準だと云える。しかし十分ということと素晴らしい、感動的な演奏とはちょっと違うような気がするのだ。その差はどこにあるのだろう。
 やはり一つは歌手だろう。皆それぞれ立派な歌唱ではあるが、素晴らしいと云うレベルにはもう少し突き抜けるものが欲しい。例えばアビガイッレにしてもとてもきれいな声だし(鈴のようだ)、容姿も美しい、しかしアビガイッレが怒り、叫ぶように歌う時、声は急にしりつぼみになるのだ。これは男声陣にも言えること。ザッカリアも重心の低い声は魅力だが、強い声が必要になると、腰砕けになってしまう。ここは踏ん張ってもらいたいのだ。イズマエーレなどはそれ以前で、声がか細くてヴェルディの初期の力強い音楽には合わない。今日の演奏ではフェネーナとアンナの声が唯一突き抜ける声のように思った。その他は合唱の中に入ると埋没してしまう。だからどの場面か忘れたが、急に合唱が声を落として、歌手に合わせているのは少々興ざめだ。パワーのない「ナブッコ」の演奏では決して心は動かされない。
 その点指揮者のバッティストーニはわかっているようで、凄まじい推進力でこのオペラを一気呵成に進めてしまう。誠に痛快な指揮だ。演奏時間は約2時間弱は速いほうだろう。でもこの荒削りさが、このオペラの真骨頂だと思うのである。だからバッティストーニと歌手たちの間には、少し隙間があって、一緒には走っていないように感じてもどかしい。
 東フィルもオペラは慣れているオーケストラだが、バッティストーニの煽りについて行けていないようで、輝かしさ、推進力という面では少々物足りなかった。
 プログラムを良く見るとこの公演の装置はパルマ王立歌劇場からもって来ているようだ。第1部では正面に嘆きの壁のような巨大な壁があり、その前で演じられるが、その壁には大きな穴が3か所開いており、初めはふさがれているが、ナブッコの登場の場面ではその穴をふさいだ板が開いて前に倒れてきて、それが階段になっており、その階段をナブッコが降りくると云う寸法だ。この壁が2部の空中庭園にもなる。問題は歌手たちがこの空中庭園で歌うと云うことだと思う。つまり舞台から数メートル高いところから、そして舞台の奥から、歌わなくてはいけない。パルマの王立歌劇場の様な1200人強の規模の劇場なら良いが、文化会館はその2倍の収容力があるのだ。舞台の奥から、しかも高いところから歌うというのは、相当なパワーがなければ無理ではないかと、これは素人考えだが思ってしまった次第。間違っているかもしれないが、単純に設備を移せばよいと云う訳にはいかないのではないかと思うのである。ちょっと歌手が可哀想だった。
 演出はまともなものだが、時代設定があいまいなようなきがした。というのはユダヤ人たちは背広の様なものを着て、ネクタイを締めているような人もいるので、現在のイスラエルが舞台かと最初は思った。ルイジ盤のDVDでもギュンター・クレーマーがそのような演出をしていたから、なんだその真似かと思ったのである。しかしザッカリアやフェネーナ、アビガイッレなど主役級はバビロニア時代?の衣裳をまとっているのである。これはちょっと半端な時代設定だと思った。こういうことはきちっとしてもらいたいものだ。
 今日一番拍手を受けていたのがバッティストーニというのは、お客も皮肉がきついなあと思ったが、考え過ぎだろうか?合唱も盛大な拍手をもらっていた。なお有名な第3部の「行け、わが思いは」はリピートされた。最初は合唱団は円陣を組んで歌っていたが、2回目には舞台に広がって歌っていた。この歌は良い歌だとは思うが、今日は少々元気が足りないと思った。打ちひしがれているから力が入らなかったのだろうか?

参考:「ナブッコ」ファビオ・ルイジ指揮、ウイーン国立歌劇場管弦楽団
    レオ・ヌッチ、マリア・グレギーナ他
    (TDK、DVD、2001年6月9日ライブ)
   「ナブッコ」ジュゼッペ・シノーポリ指揮、ベルリンドイツオペラ
    ピエロ・カプッチルリ、ゲーナ・ディミトローヴァ
    (POCG-2887/8、1982年、自由ベルリン放送ホール)
                                     〆

2012年2月18日

「ゴーストライター」
ロマン・ポランスキー監督、ユアン・マグレガー主演
恐るべき謀略物だ。久しぶりに面白い映画を見た。原作はロバート・ハリス、その小説の映画化だ。原題は「GHOST」。
 イギリスの元首相が自叙伝を書くが、そのゴーストライターとしてマグレガーが雇われる。首相役はピアース・ブロスナン。ジェームス・ボンドを演じた俳優が、首相の役を演じて、謀略に巻き込まれるのだから、なかなか面白いキャスティング。マグレガーは前任のゴーストライターの死因に疑問を持ち、それを追求してゆく。その過程でイーライ・ウォーラックがほんのチョイ役ででているが、これが後半のキイになる役どころ。えらく年取ったが渋い演技だ。最後はとんでもない結末だがそれは見てのお楽しみだ。
 この首相のモデルはどう見てもアメリカのブッシュの盟友、ブレア首相だろう。ブレア首相を戦犯にしてしまうのだからおそるべきストーリーだが、それをまたポランスキーが映像化してしまうのだから驚きだ。日本でいえばブッシュの盟友は小泉首相だが、もし小泉さんが戦犯だなんて云う小説を書けなどといっても誰も書こうとしないだろう。こういう謀略物は日本では書けないのかもしれない。話はそれるが昨年のミステリー1位の「ジェノサイド」を読んだが、正直言って描写は細かいが、主題は他愛のないもので、がっかりした。もっと骨のあるミステリーが欲しい。
 この映画見て思い出すのは謀略物の傑作「シリアナ」だ。シリアナに匹敵する面白さだ。シリアナは裏社会の謀略だが、ゴーストは表の政治の世界の謀略の違いだけで、中近東・イスラム世界を舞台にした今日的な課題を見失っていない、リアルさがある。ミッションインポッシブルもテロを描いて今日的ではあるが、表面的である。したがってジェームス・ボンド的でもある。どちらも質は違うが面白さは無類である。なぜなら大切なのは嘘だとはわかっていても、本当のように思わせるリアルさだからだ。そのリアルさをどこで描くかは脚本と演出の技だろう。
 またまた脱線したが、この映画の良いところはキャスティングだろう。脇役まで全く手を抜かない。キャスティングこそ映画の生命線だということを教えられたのは、オリバーストーンの伝記本を読んでからだ。小説家になれない、しかしそこそこ才能があり、ユーモアのセンスにもかけていない、ちょっとあんちゃん風な脳天気な役回りのマグレガー、役者上がりの首相、ブロスナン。そして印象的だったのは首相夫人役のオリヴィァ・ウイリアムスだ。性格は陰影が濃く、人間が演じられている。その他政治学者、弁護士、ブローカー、首相秘書役など皆それぞれ立派な演技でゴーストライターの軽さを補った重厚な演技で全体のバランスをとっている。これがポランスキーの技だ。

参考:オリバー・ストーン(映画を爆弾に変えた男)、ジェームス・リォーダン著
   (小学館)
                                     〆

2012年2月17日
於:NHKホール(1階9列右ブロック)

NHK交響楽団第1722回定期演奏会Cプログラム
指揮:ジャナンドレア・ノセダ
ピアノ:デニス・マツーエフ

チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第一番
カセルラ:交響曲第二番(日本初演)

今日はダブルヘッダーだ。14時からオペラ「沈黙}を聴いてから、19時からは本公演、流石に忙しく疲れました。耳が飽和しそうだ。
 チャイコフスキーは誠に力感あふれた熱演。3楽章を聴いて熱くならない人はいないだろう。このマツーエフという人はロシアの人で、チャイコフスキーの優勝者。体が190センチくらいあって、ピアノが小さく見えるくらい(ちょっとオーバーか!)。冒頭のピアノの登場は、まるでピアノに体をたたきつけるようだ。9列目のせいかハンマーが弦を叩く姿が目に見えるようだ。実に豪快な音だ。だからと言って音が崩れているわけではない。1楽章の最後の部分も、テンポをぐっと落として、誠にスケールがでかい。
 2楽章はアンダンテらしく静かに入ってくるが、中間部の常動曲のような部分はちょっと大型の独楽鼠が走り回っているようでめまぐるしい。その勢いに圧倒される。そして圧巻は第3楽章だ。一気呵成に最後まで突っ走る、最後の追い込みは手に汗にぎる迫力で、ピアノが壊れんばかりだ。とにかく最後までパワーに圧倒されてしまった。たまにはこういうピアノの音響シャワーを頭からかぶるのもよいものだ。
 演奏時間は35分、愛聴盤のリヒテル/カラヤン盤とほぼ同じ演奏時間。なお、アンコールはグリーグ「ペールギュント」から「山の魔王の宮殿」、ギンスブルック編曲。最初にゆっくりと主題が低音で弾かれた時には、ええっと思ったが、これがなかなか凄い編曲で、とにかく呆気にとられるような音の連続で大拍手だった。

カセルラの交響曲は本邦初演。カセルラはイタリア人でパリで勉強し、活躍したらしい。マーラーの大信奉者で、本曲もその影響が色濃く出ている。1楽章と5楽章はまるでマーラーの交響曲第二番の最終楽章のようだし、2楽章はスケルツォ風で中間のトリオはマーチ風の舞曲の様な音楽。3楽章はアダージョだがマーラーのような美しさではなく、むしろ沈鬱な印象。それを受けて4楽章は軍隊行進曲の様な荒々しい音楽だ。作曲された1908-9年ごろの世相を表わしているのだろうか?そして最後はそれを打ち破るような凱歌で、マーラーの二番と三番の最終楽章のミックスの様な音楽、鐘やオルガンが、最後には盛大に加わり、あの広大なNHKホールが揺るがんばかりの大音響で圧倒される。N響でこういう体験は初めてだった。とにかく音響的には面白かったが、少々音の洪水が大きすぎて疲れ果ててしまった。まあ「沈黙」を聴いた後、凄まじい「チャイコフスキー」を聴き、そしてこの曲だからかもしれない。でももう一度聴いてみたい曲ではある。
 N響は最近ではベストの演奏ではないかと思った。アシュケナージのシベリウスやブロムシュテットのチャイコフスキーも素晴らしかったが、今夜はそれ以上だ。ノセダのドライブ力の賜物だろうか?まず弦が全くうるさくない、こんな綺麗なN響の弦は久しぶり。そして金管群は全く破綻がなく、伸びやかな音で安心して聴いていられる。そして9列目でも決してうるさくない。誠に素晴らしいパフォーマンスだ。演奏後ノセダは最初に打楽器群にスタンディングを指示したが、打楽器群の迫力も特筆すべきだ。重量級のプログラムで大満足の一夜だった。劇場を出たら雪で、寒かったが音楽の力のせいか体は暖かかった。
 
参考:チャイコフスキーピアノ協奏曲第一番:ピアノ、スヴャストラフ・リヒテル  
   指揮、ヘルベルト・フォン・カラヤン、ウイーン交響楽団
   (UCCG-4274 1962年、ウイーン、ゾフィエンザール)
                                    〆                                  

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