ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2012年01月

2012年1月31日

「小澤征爾とマーラーの交響曲第二番」
この話はある古本から始まる。一ヶ月くらい前高田馬場のビッグボックス前の広場で古本市をやっていた。ここでは定期的に馬場の古本屋さんたちが本を持ち寄って市を開く。私は毎回必ずのぞく。狙いは音楽関係の本だ。というのは音楽関係の本はまず高いのである。それと小説とは違って何回も読む本ではない、と私は思っている。例外は吉田秀和氏の作品群だ。さて、その日みつけたのは「コンサートは始まる:小澤征爾とボストン交響楽団」という本だ。カール・A・ヴィーゲランドというアメリカのジャーナリストが書いた本である。1980年代の初め、小澤がボストンの音楽監督になってから約10年たった頃の、まあ言ってしまえば裏話だ。これがすこぶる面白く、小澤の人となりをアメリカ人や楽団員がどう思っていたかが良くわかる。特に訴訟にまでなったチャーリー・シュレーターという第1トランペット奏者との確執は、小説を読んでいるくらい面白い。最後に小澤が彼にかける言葉が何とも感動的だと、日本人の私なんかは思ってしまった。どうもこの時代、アメリカでは小澤の評価はあまり高くなかったようだ。特にベートーベンなどのドイツ物。しかし、一方ヨーロッパでは絶大な人気を誇っていた。という奇妙な現象が起きていたようだ。そのようななかでマーラーの交響曲第二番が定期で演奏される。このリハーサルや録音の模様もスリリングで面白い。結論的に言うと小澤は音楽以外の雑事はあまり好まなかった。音楽監督なのにである。例えば演奏家たちの賃金交渉のストライキなども全く関心を示さなかったようだ。ここらが本のなかでの楽団員とのきしみにつながったようだ。とにかく無類の面白さである。定期での二番の交響曲の演奏はどうだったかって?それは読んでのお楽しみです。
 さて、話はまだ続く、この本を読み終わった頃、丸善をぶらぶらしていたら小澤征爾と村上春樹との対談集「小澤征爾さんと音楽について話をする」という本をみつけた。新聞の書評でも読んだ気がして、前述の本を読んだこともあって、つい買ってしまった。それまで村上春樹の本なんて一冊も読んだことがなかったのにである。しかしこれもまた無類の面白さである。村上の音楽に対する博学ぶりは半端ではなく、小澤もびっくり。それもプロの目ではなく、あくまでもディレッタントとしての目である。それゆえ小澤も目を見張るくらい新鮮だったようだ。この対談でわかったのだが、私は小澤はバーンスタインの直弟子のように思っていたが、実はそれ以上にカラヤンの影響が大きい。バースタインのことはレニーと呼んで、カラヤンのことはカラヤン先生と呼ぶのである。オペラを指揮するようになったのもカラヤンの勧めだったそうだ。とにかく小澤の音楽成長遍歴は読んでいて実に面白く、一青年が世界の小澤になってゆく様が解き明かされる。それは小澤も知らないうちに、村上の巧みな問いかけで、小澤が語ってゆくのである。
 しかし、唯一小澤が明確にしなかったことがあった。小澤は何年も前からスイスで若い演奏者を教育しているのであるが、それについて村上は小澤に「どういうところが勉強になるのでしょう」と聞く。しかし小澤はなぜか答えない。前述のボストン時代の本にヒントがあるようなのだが、自信がないので私は書けない。この答えは奈辺にあるのか知りたいところである。とにかくこの本も無類の面白さである。この2冊の本を読んで少し小澤の演奏を聴いてみようと思ったのが今日のタイトルにつながるのである。
 さて、この本題のマーラーの二番だが、前述のボストン時代の本にあるレコードがCD化されており聴いてみた。これは若さの噴出したマーラーで仰天してしまった。年齢的にはカラヤンがベルリンフィルとベートーベンの交響曲全曲を録音した頃である。カラヤンはその後何回かベートーベンを録音しているが、この60年代(カラヤンが50歳前半)の頃がもっとも勢いがあって私は好きだ。小澤がこのマーラーを録音したのは1986年だから小澤はまだ51歳。この演奏の勢いは本当に素晴らしい。特に1楽章の凄絶と言ってよい演奏は肌に粟を覚えるくらいだ。もちろん終楽章の盛り上がりも感動的だ。この演奏はライブではなく、音響の素晴らしいボストンシンフォニーホールで録音されており、実に生々しい音にとれている。またまた余談だが、これも古本だが、マイケル・フォーサイスという人が書いた「音楽のための建築」という本でも、このホールを一つのデファクトのように書いていたくらい、素晴らしいホールだという。余談続きで申し訳ないがボストンのこのホールの残響時間は1.8秒である。ベルリンのフィルハーモニーは1.95秒、オペラをやるせいかザルツブルグ祝祭劇場は1.55秒、ウイーンのムジークフェラインザールの大ホールは2.2秒、ニューヨークのカーネギーホールは1.7秒である。この「音楽のための建築」という本にまとめてあって、この一覧表を見ているだけで楽しい。なおオペラの場合は声が通るようにするために残響時間は短くなっている。バイロイトは長いほうだが1.5秒である。スカラ座は1.2秒である。
 まあとにかくこの86年のボストンの録音を聴いてみたまえ、最近のSACDなど真っ青だ。なお小澤と訴訟まで起こした(要は小澤がわけもいわずに首を切ろうとしたのが発端のようだ。前述の本にはその理由は音が大きすぎるからだそうだ)トランペットはこの録音でも活躍していて実に素晴らしい演奏に私は思えた。なおこの曲のライブの際に流石の小澤もこのトランペットには敬意を表したそうだ。2冊の本がきっかけで小澤の音楽に接するようになった。しかしレコード店にいってもボストンとの録音は少なく、ほとんどが最近のサイトウキネンとのペアによるものだ。別に恨みはないが、サイトウキネンという名前が嫌いなので、どうもこのオーケストラは聴く気がしない(すみません)。しばらくはボストン時代の小澤の音楽を探してみたい。

ご参考
「コンサートは始まる」カール・A・ヴィーゲランド著(音楽の友社)
「小澤さんと音楽について話をする」小澤征爾×村上春樹)新潮社)
「音楽のための建築」マイケル・フォーサイス著(鹿島出版会)→この本は驚くなかれ12,360円もします。古本屋さんでも約6000円です。物好きしか買わないでしょう。私は物好きです。
「マーラー交響曲第二番」指揮小澤征爾、演奏ボストン交響楽団、合唱タングルウッド音楽祭合唱団、ソプラノ:キリ・テ・カナワ、メゾソプラノ:マリリンホーン
(UCCD-5104/5)
 余談ながら村上春樹さんの本を初めて読んでいます。「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」です。
                                     〆

2012年1月28日
於:サントリーホール(2階4列中央ブロック)

東京都交響楽団第346回プロムナードコンサート
指揮:山田和樹
トランペット:マティアス・ヘフス

チャイコフスキー:エフゲニー・オネーギンからポロネーズ
アルチュニアン:トランペット協奏曲
ラフマニノフ:交響曲第二番

ブザンソン音楽コンクールで優勝した、山田の指揮によるロシア物を中心にしたプログラム。古くは小澤征爾が優勝したコンクールで将来を期待されている指揮者だ。新聞などでも好意的な評が目立つ。
 最初のチャイコフスキーは元気なもの。きっぷが良い。オーケストラが湧き立つようだ。ついでアルチュニアンのトランペット協奏曲は初めて聴く曲で何とも言えないが、繰り返して聴くと良さが分かるかもしれない。というよりもアルメニアの民族音楽が底流に流れているようで耳に優しい。ヘフスのトランペットは滑らかで素晴らしく、とくに緩徐楽章は美しい。アンコールに選ぶだけのことはある。
 最後のラフマニノフは全編甘い旋律で時には辟易するが、たまに聴くと流石に美しく、ぞくぞくしてしまう。特に3楽章などはいつまでも浸っていたいくらいだ。最後の4楽章はお祭り騒ぎみたいな音楽だが、オーケストラの能力と指揮者のドライブ力を見るには最適だろう。山田の指揮は、過剰な動きがなくシンプルなもの。全体に甘さ控えめで、清潔感一杯なのが良い。3楽章は思い切り甘く演奏するものもあるが、山田は若干抑制気味。しかしここでのクラリネットやオーボエのソロは思わずほろりとするくらい美しい。4楽章は決して大騒ぎせずバランスが良いが、もう少しオケを鳴らしても良いんではないかとも思った。でもこういうラフマニノフも良いなあと思った。我が家にあるレコードはマゼール/ベルリンで、これは少々醒め過ぎてあまり面白くないが、物差しにはちょうど良い。それとほぼ演奏時間は一緒だが、出てきた音楽はかなり違うように感じた。
 こういうロシア物やフランスものをやらされているようだが、彼のシューベルトやモーツアルトなどは一度聴いてみたいものだ。まだ32歳ということでこれからが楽しみな指揮者だ。                                 〆

2012年1月27日
於:杉並公会堂(2階10列中央ブロック)

指揮:青木洋也
ソプラノ:藤崎早苗
アルト:青木洋也(カウンターテナー)
テノール:畑 儀文
バリトン:篠崎信宏

管弦楽:フィルハーモニカーカンマーアンサンブル
合唱:エルヴィオ・ソーヌス

杉並公会堂は初めてのホール。歌謡曲などを昔よくやっていたようにも思ったが、会場は改装したようでなかなか美しい。しかし出てきた音はかなりデッドに聴こえた。
 管弦楽は東フィルのメンバー中心で構成された小編成、しかしなかなか立派な演奏で驚いた。バッハだからピリオド奏法かと思ったがビブラートはかけていたようで奏法は通常。ただティンパニはバロックティンパニのようだ。ピッコロトランペットやオーボエダモーレ(?)、フルート、ホルンなどみな素晴らしく聴き惚れてしまう。歌手たちは清澄な声で楽曲にふさわしい、デッドなホールだけに余計すっきり感が目立った。特にソプラノの藤崎の透明で清潔な声は印象的。アルトの青木はよかったが、私はリヒターのレコードのように女性のほうが良いと思った。特にソプラノとの2重唱では違和感が残った。昨年のブリュッヘン/新日本フィルの感動的な演奏でもカウンターテナーを使っていたが古楽の方たちはどうもこういう嗜好があるようだ。ただしリフキン版で録音(合唱各声部は一人で歌われる)されたジョン・バッド盤はピリオド合奏団によるものにもかかわらず女性が歌っていたので決して流行ではないようだ。
 そういう意味で言うと今夜の演奏は少々方向性が見えない演奏のように思った。というのは、バロック的解釈で演奏するという思想の指揮者の青木がカウンターテナーで歌うのはわかるが、であるならば管弦楽も古楽器でやってもらいたいものだ。統一感という意味では徹底を欠いたと言わざるを得ない。一方、演奏時間(112分)もなにやらのんびりとしている。バッドの演奏より10分以上遅い。ブリュッヘンは完全に古楽奏法で演奏時間は100分であった。そういうこともあってか全体の印象はもっさりしたロ短調だった。
 そのような印象のもう一つの要因は合唱である。キリエ・エレイソンから各声部がばらばらに聴こえて凝集感がなくだらだらと音楽が流れるだけ。またグロリアやクレドなど合唱に力がないものだから管弦楽ばかりが目立つ。管弦楽を突き抜けるような力強い合唱を聴きたかった。合唱の弱いロ短調というのは少々さびしい。ただ後半のサンクトゥスで合唱の並びが変わってから音が見違えるくらい変わった。サンクトゥスまでは各声部ごとに並んでいたのを、シャッフルしてごちゃまぜにしたのである。結果として各声部が融け合うようになり、力強さもでてきて、サンクトゥス、ホザナ、ドナ・ノービスなどやっとバッハらしい合唱の魅力の片鱗を味わうことができた。なぜシャッフルしたらよくなったのか良くわかりませんが?
                                     〆

2012年1月22日
於:新国立劇場(1階13列中央ブロック)

新国立劇場公演
プッチーニ「ラ・ボエーム」

指揮:コンスタンティン・トリンクス
演出:粟国 淳

ミミ:ヴェロニカ・カンジェミ
ロドルフォ:ジミン・パク
マルチェッロ:アリス・アルギリス
ムゼッタ:アレクサンドラ・ルプチャンスキー
ショナール:萩原 潤
コリーネ:妻屋秀和
合唱:新国立劇場合唱団
TOKYO FM少年合唱団
管弦楽:東京交響楽団

ボエームは素晴らしいオペラだと改めて感じさせてくれた公演だ。数日前にカラヤン/パバロッティ/フレーニのCDを聴いたが、久しぶりに聴いて、とてもインパクトのある録音だとこれも改めて感じた。とにかく歌手に穴がない。パバロッティは少々演技過剰の面があって鼻につくが、フレーニのミミは完璧だ。でも今録音で気に入っているのはシャイー/アラーニャ/ゲオルギューだ。なんと全4幕100分のハイスピードだが、その若々しさの噴出するような演奏は誠に魅力的だ。歌手陣も魅力ではあるが、なんといってもこのシャイーの音楽作りが素晴らしい。プッチーニはヴェルディより下だと思っている方は結構おられるようだが、このシャイーの演奏を聴いてみて欲しい。クライバーの指揮をした「こうもり」同様、目から鱗だろう。
 さて、今日の公演であるが歌い手、演出、舞台、指揮、オーケストラのバランスがとてもとれていて誠に感動的な公演だった。特に3幕と4幕は昨年のトリノ/フリットリらの公演に勝るとも劣らぬ出来栄えだと思った。
 この公演のプログラムを見ると美術と衣装以外は歌手、指揮者を含めてイタリア人が全くいないインターナショナルなキャスティングで、まあ新国立らしいと言えよう。しかし違和感は全くなかった。演出は粟国でもうこの演出で聴くのは3回目だと思う。印象としては、今回が最も良いと思った。この演出は全く不自然なところがなく、「えーッ」という場面は私には全く感じられなかった。評論家の方々には仕事にならなくてつまらないかもしれないが!
1幕のボヘミアン達の動き、ミミとロドルフォの動き、2幕の素晴らしい場面転換と群衆とボヘミアン達の動かし方、3幕の雪の風景の美しさとオンフェール門と居酒屋の場面転換の見事なこと、更に4幕のミミを中心にしたボヘミアンたちの動きのスムースさなどに感心した。プログラムに粟国のこの公演の演出について小論を書いているが誠にわかりやすく参考になった。
 歌手たちも穴がなく、特に3幕と4幕は涙なしには聴けない(見られない)。パクのロドルフォは、1幕ではちょっとひっかかるような声が気になったが、場面が進むにつれ声がスムースになり3幕、4幕はとても立派な歌唱。少々青臭いが情熱的な詩人といった役どころを演じていた。カンジェミのミミも出だしは声のギアチェンジのところでの濁りが気になったが、これも場面が進むにつれ、落ち着き、特に4幕のミミの登場から亡くなるまでは心を揺さぶる歌唱だったと思う。恥ずかしながら、思わず涙腺がゆるんでしまった。マルチェッロは1幕から全く危なげなく安定していたし、ルブチャンスキーのムゼッタは、立ち姿も美しくスケールの大きい歌唱で、印象的だった。日本人ではショナールの萩原が印象的だった。
 トリンクスは聴かせどころになるとテンポを落とし、じっくりと歌手に歌わせているように感じた。しかし昨年のトリノのノセダのような停滞感は全くなく、スムースな流れだった。演奏時間は106分でカラヤンに近い演奏時間だった。
 新国立の水準の高さを改めて感じさせてくれた公演だった。
                                     〆
 

2012年1月20日
於:すみだトリフォニーホール(1階23列右ブロック)

新日本フィルハーモニー交響楽団、第487回定期演奏会トリフォニーシリーズ
指揮:ダニエル・ハーディング

マーラー:交響曲第九番

ハーディングによるマーラーは昨年の6月にこのコンビで同じホールで五番を聴き、大変強い印象を受けた。こんなにマーラーが流麗な音楽だったのか?それでよいのだろうか?とも思ったが、しかしそれは終わってからしばらくの、冷静になってからの感想であり、その場では圧倒的なインパクトがあったことは否めない。
 さて、今夜は九番である。この曲は学生時代から聴いていて、ワルターやバースタイン、カラヤン、そしてバルビローリなどのレコードで聴くたびに感銘を受けてきた。ただこの曲を聴くのがだんだん辛くなってきたせいか、最近は滅多に聴かなくなった。これはベートーベンの第九とはまた違った意味で聴かなくなったのである。自分がだんだん老境に入ってきたからだろうか?そういえば「大地の歌」もあの最後の楽章が昔は美しくて夢中になったが、今は聴くのがちょっと怖いくらいだ。まあそこまでのめり込んで聴くこともないのだが、マーラーとなるとなぜか構えてしまう自分がおかしい。

 ハーディング/新日本フィルの今夜の演奏は率直に言って五番ほどの高みには到達してないと思った。この曲は随所に心震わす旋律が埋め込まれているわけだが、どういうわけだか、ほとんど心震えないのだ。たとえば第1楽章の冒頭からの主題の演奏はまるで体がゆすぶられるような異様な感動をいつもは受ける。バルビローリの演奏がその最たるものだが、今夜はなんともあっさりと過ぎ去ってしまう。1楽章は28分かけて演奏しているのだから決してテンポは速いわけではないのにである。また3楽章のロンドブルレスケでははちゃめちゃな音楽の間に4楽章の誠に誠に印象的な主題が最初はおそるおそる、続いて決然と奏せられ、ここを聴くといつもは胸を締め付けられるというか、ゾクゾクしてしまうのだが、今夜は何も感じないのだ。だから最後の乱痴気騒ぎもただ騒々しく、スポーティに聴こえるのである。2楽章も木管など音楽の作りがわざとらしく聴こえ、いつも聴いている音楽とは違うような気がした。
 ただ4楽章はさすがに感動的だった。五番の時もそうだったが弦が素晴らしくうねるように音がふくれあがってゆく様は胸が熱くなる。こういう素晴らしさがなぜ1-3楽章では感じられなかったのだろうか?私にはわからない。こちらは感動しようと思っているのだから受け入れ態勢はできていたはずなのだから。なお演奏時間は82分で少々長め、3-4楽章は切れ目なく演奏された。
 今夜の新日本フィルは精度からいうと五番の水準には達していないと思った。特に一部の金管にはいらいらさせられた。この曲は超難曲だからというエクスキューズは許されないだろう。そのせいかどうかわからないがオーケストラコンサートには珍しく「ブー」の声も上がっていた。聴衆はCDなどで耳が肥えているから演奏家も大変だと思う。なお今夜の編成は昨年の6月と同じでヴァイオリンは相対し、コントラバスは左奥に位置していた。何度もいうが新日本フィルの弦は本当に素晴らしくなった。あえて言えば4楽章の消えゆくようなヴァイオリンの合奏に今一つの精妙さが欲しい。
                                     〆

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