2011年12月26日
於:サントリーホール(1階16列左ブロック)
東京都交響楽団スペシャルコンサート
指揮:大野和士
ソプラノ:天羽明恵
メゾソプラノ:小山由美
テノール:市原多朗
バリトン:堀内康雄
合唱:東京オペラシンガーズ
ブラームス:アルト・ラプソディ
ベートーベン:交響曲第九番・合唱付き
今年5回目の第九だった。今年の中で最良の演奏だったように思う。大野は今年の初めに新国立で「トリスタンとイゾルデ」を聴きそのドラマティックな指揮に魅了された。その彼がベートーベンをどう演奏するか楽しみなコンサートだった。
1楽章は素っ気無い入りだ。思わずピリオド派かと思ったくらいだ。しかしそこからが違う、提示部での音楽は目の前に突然断崖が現れたごとく音楽が急変する。この劇的な効果は圧倒的で、その緊張感に肌に粟を覚えるくらいだ。展開部や再現部も下野と同様にティンパニやトランペットを強調して劇的効果を煽る。このトランペットは素晴らしい。そしてコーダがまたすさまじく、もやもやした音楽がだんだん膨れ上がる様はなんと形容しようか?
2楽章は比較的快速である。ただものすごい前進力を誇示するような音楽ではなくむしろどっしり構えた音楽に聴こえるのが不思議だ。トリオはちょっと腰を落とし、実にチャーミングだ。嵐の中で一瞬垣間みる日の光のよう、オーボエの音がなんとも魅力的だ。
3楽章は遅からず速からず中庸の進度だ。1,2楽章の緊張感とはうって変わったような爽やかな音楽が実に感動的である。後半若干進度アップするところはメトロノーム派の影響だろうか?
4楽章は佐渡のようにテンポを少しいじりながらの演奏だが、自然な流れの中での音楽だから違和感は全くない。主題の提示までの長い序奏での、各楽章の主題の提示は実に印象的な出し方で、だからこそ恐る恐る出てくるあの有名な主題が効果的に響く。主部に入ってからのオーケストラの劇的かつ雄弁な音楽には魅了された。特にところどころ響く木管の強調(例えばソロの歌い手に寄り添うように)や金管の朗々たる響きは効果的だと思った。唯一違和感があったのは「喜びよ、神々のうるわしき火花よ・・」と歌いだす最後のソロの4重唱が私のイメージでは少々速すぎて落ち着かなかったこと。ただしその後の合唱から速度を落としたソロの4重唱、そしてプレスティッシモはまさに手に汗握る大熱演でこの曲を立派に締めくくったように思った。
ソロは佐野の代演の市原を初め、ベテランの堀内など立派な歌唱、しかし感心したのは合唱陣の充実振りだ。合唱は各声部ごとに並ぶのではなく1列目に女声部、2列目に男性部と横に大きく広がって並ぶ。都響は毎年このようだ。パノラマ効果もでているのではないだろうか?
大野の指揮は下野のようにかっちりとしていて、ひとつひとつの楽器に丁寧に指示を出しているのが印象的。
演奏時間は1楽章15分強、2楽章11分強、3楽章15分、そして4楽章は24分で演奏時間で見ると伝統型である。しかしトータルは65分は伝統型では速い方である。佐渡も伝統型だが彼の演奏時間は約70分であり、大野とは印象がかなり違う。大野は伝統を生かしつつも全体を圧縮しているように感じる。そこに緊張が生まれて、アウトプットとしての音楽にもピンと張り詰めたものが感じられたのかもしれない。あて推量だが下野も大野もピリオド型(メトロノーム型)を相当研究しているのではないだろうか?
最近面白いベートーベンの演奏を2セット聴いた。一つはシャイー/ライプチッヒ、もう一つはティーレマン/ウイーンだ。2つの演奏はまるで違う。しかし共通点が一つある。それは二人の指揮者はピリオド派の洗礼を受けながら、モダンオーケストラでそれぞれのベートーベンを再創造したことだ。ただ二人の立ち位置が違うことから出てきた音楽も違う。それはシャイーはメンデルスゾーンの時代のメンデルスゾーンが指揮していた、ライプチッヒの音楽を再創造しようとしている(レコ芸のインタビュー)し、ティーレマンはメトロノームは意識しつつも、フルトベングラーやカラヤンなどの伝統的なベートーベンを志向(CDの付録のDVDなどによる)しているからだろう。下野は1・2と3・4楽章のスタイルを変えることによる、ピリオド型と伝統型との折衷で解決しようとしたように思えるし、大野は圧縮によってピリオド型を生かそうとし、なおかつ伝統のスタイルを尊重しているように思える。私には佐渡にはピリオド型の影響はあまり感じれなかった。次の世代を背負っているシャイーとティーレマンの2セットのベートーベンはまた新しいベートーベンの音楽の再創造への道を切り開いたように私は感じた。
〆
於:サントリーホール(1階16列左ブロック)
東京都交響楽団スペシャルコンサート
指揮:大野和士
ソプラノ:天羽明恵
メゾソプラノ:小山由美
テノール:市原多朗
バリトン:堀内康雄
合唱:東京オペラシンガーズ
ブラームス:アルト・ラプソディ
ベートーベン:交響曲第九番・合唱付き
今年5回目の第九だった。今年の中で最良の演奏だったように思う。大野は今年の初めに新国立で「トリスタンとイゾルデ」を聴きそのドラマティックな指揮に魅了された。その彼がベートーベンをどう演奏するか楽しみなコンサートだった。
1楽章は素っ気無い入りだ。思わずピリオド派かと思ったくらいだ。しかしそこからが違う、提示部での音楽は目の前に突然断崖が現れたごとく音楽が急変する。この劇的な効果は圧倒的で、その緊張感に肌に粟を覚えるくらいだ。展開部や再現部も下野と同様にティンパニやトランペットを強調して劇的効果を煽る。このトランペットは素晴らしい。そしてコーダがまたすさまじく、もやもやした音楽がだんだん膨れ上がる様はなんと形容しようか?
2楽章は比較的快速である。ただものすごい前進力を誇示するような音楽ではなくむしろどっしり構えた音楽に聴こえるのが不思議だ。トリオはちょっと腰を落とし、実にチャーミングだ。嵐の中で一瞬垣間みる日の光のよう、オーボエの音がなんとも魅力的だ。
3楽章は遅からず速からず中庸の進度だ。1,2楽章の緊張感とはうって変わったような爽やかな音楽が実に感動的である。後半若干進度アップするところはメトロノーム派の影響だろうか?
4楽章は佐渡のようにテンポを少しいじりながらの演奏だが、自然な流れの中での音楽だから違和感は全くない。主題の提示までの長い序奏での、各楽章の主題の提示は実に印象的な出し方で、だからこそ恐る恐る出てくるあの有名な主題が効果的に響く。主部に入ってからのオーケストラの劇的かつ雄弁な音楽には魅了された。特にところどころ響く木管の強調(例えばソロの歌い手に寄り添うように)や金管の朗々たる響きは効果的だと思った。唯一違和感があったのは「喜びよ、神々のうるわしき火花よ・・」と歌いだす最後のソロの4重唱が私のイメージでは少々速すぎて落ち着かなかったこと。ただしその後の合唱から速度を落としたソロの4重唱、そしてプレスティッシモはまさに手に汗握る大熱演でこの曲を立派に締めくくったように思った。
ソロは佐野の代演の市原を初め、ベテランの堀内など立派な歌唱、しかし感心したのは合唱陣の充実振りだ。合唱は各声部ごとに並ぶのではなく1列目に女声部、2列目に男性部と横に大きく広がって並ぶ。都響は毎年このようだ。パノラマ効果もでているのではないだろうか?
大野の指揮は下野のようにかっちりとしていて、ひとつひとつの楽器に丁寧に指示を出しているのが印象的。
演奏時間は1楽章15分強、2楽章11分強、3楽章15分、そして4楽章は24分で演奏時間で見ると伝統型である。しかしトータルは65分は伝統型では速い方である。佐渡も伝統型だが彼の演奏時間は約70分であり、大野とは印象がかなり違う。大野は伝統を生かしつつも全体を圧縮しているように感じる。そこに緊張が生まれて、アウトプットとしての音楽にもピンと張り詰めたものが感じられたのかもしれない。あて推量だが下野も大野もピリオド型(メトロノーム型)を相当研究しているのではないだろうか?
最近面白いベートーベンの演奏を2セット聴いた。一つはシャイー/ライプチッヒ、もう一つはティーレマン/ウイーンだ。2つの演奏はまるで違う。しかし共通点が一つある。それは二人の指揮者はピリオド派の洗礼を受けながら、モダンオーケストラでそれぞれのベートーベンを再創造したことだ。ただ二人の立ち位置が違うことから出てきた音楽も違う。それはシャイーはメンデルスゾーンの時代のメンデルスゾーンが指揮していた、ライプチッヒの音楽を再創造しようとしている(レコ芸のインタビュー)し、ティーレマンはメトロノームは意識しつつも、フルトベングラーやカラヤンなどの伝統的なベートーベンを志向(CDの付録のDVDなどによる)しているからだろう。下野は1・2と3・4楽章のスタイルを変えることによる、ピリオド型と伝統型との折衷で解決しようとしたように思えるし、大野は圧縮によってピリオド型を生かそうとし、なおかつ伝統のスタイルを尊重しているように思える。私には佐渡にはピリオド型の影響はあまり感じれなかった。次の世代を背負っているシャイーとティーレマンの2セットのベートーベンはまた新しいベートーベンの音楽の再創造への道を切り開いたように私は感じた。
〆