ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2011年10月

2011年10月29日
於:東京オペラシティコンサートホール

指揮:ロッセン・ゲルゴフ
ピアノ:野原みどり

東京都交響楽団、第84回「作曲家の肖像」:レスピーギ
「ベルファゴール」序曲
交響詩「ローマの噴水」
トッカーターピアノと管弦楽のための
交響詩「ローマの松」

本公演はもともとトリンクスという指揮者が振るはず(先日のドイツレクイエムも同様)だったが原発の影響でゲルゴフになったようだ。すでに8カ月近く経過してもまだ原発理由で来ない音楽家がいるのは正直言って驚きだが、仮病を使って来ないよりましかもしれない。
 さて、この指揮者は30歳、若いエネルギー大放出の面白い演奏会だった。
 特に、ローマの松はオーケストラを聴いてこれだけ興奮させられたのは久しぶりという体験だった。ボルゲーゼ荘の松は如何にも子供たちが戯れている風で、小気味の良い音楽で耳を惹く。終わりの気違いじみたスピードにはちょっと驚かされるが!カタコンベの松は一転静謐のなかから木管が美しく、また舞台裏のトランペットも心に沁みて、夢のような、幻想的な音楽を堪能できる。ここはじっくりと腰を落ち着けた音楽だった。ジャニコロの松も美しくスピーカーからのナイチンゲールの声もなかなか魅力的。
 そして、圧巻はアッピア街道の松、まさにローマ軍団が怒涛のように行進してくるかのような凄まじい音響だ。2階奥左右に置かれたトランペットとトロンボーン、そしてオルガンも加わった、パノラマ効果。思わずぞくぞくするような音楽の洪水だった。これだけ都響が盛大に鳴ったのはインバルのマーラー以来だろう。とにかくこのアッピア街道は筆舌に尽くしがたい迫力だった。
 ローマの噴水(ローマの泉と思っていたがプログラムでは噴水になっているのでここでは噴水とする。ローマでもトレビの泉とは言うがトレビの噴水とは呼ばないような気がするが)も素晴らしい。ここでは夜明けから夕方までも4つの情景に分けているが、それぞれが描き分けられているように感じた。特に夜明けのジュリア荘の噴水はまるでイタリアの油絵を見ているような美しさ。それに続くトリトーネとトレビは生き生きとした音楽、最後はまた絵を見るような美しさで、この指揮者が単に力づくでないことがよくわかった。
 その他の2曲は残念ながら初めて聴く曲で、全く勉強もしていないので何とも言いようがないが、トッカータの2楽章が映画音楽のようで美しかったのが印象的だった。
                                      〆

2011年10月25日
於:サントリーホール(2階1列LCブロック)

第723回東京都交響楽団定期演奏会Bシリーズ
指揮:小泉和裕
ソプラノ:佐々木典子
バリトン:萩原 潤
合唱:晋友会合唱団

ブラームス:「ドイツレクイエム」

ドイツレクイエムはいままで敬遠してきた曲。ブラームスが苦手だし、さらに宗教曲ということでまあ無理かなと思っていた。しかし今回都響の定期のプログラムにあるということもあって、一念発起して勉強してのぞんだ。教材はカラヤン/ベルリンの古い録音をSACD化したものだ。悪戦苦闘の末なんとなくわかってきたかなあと言う段階だ。
 第一曲目の「悲しみを負うものは幸いである」が合唱によって歌われた時、何かえらくもっさりした演奏だなあと思った。この曲は弦はヴィオラより大きい楽器しか鳴らないのでそうなったのかとも思った。ドイツレクイエムは全部で7曲から構成されており、歌詞は典礼文ではなく、ブラームス自身がドイツ語の新旧聖書から言葉を持ってきて配置をしており、ブラームスの思いいれの強い曲であることがわかる。7曲はアーチ上に展開され4曲目をはさんで3,5曲目にそれぞれバリトンとソプラノのソロをいれて対象形の配置にしている。そういう意味で救いを明示した重要な第七曲と第一曲は対のようになっていて、いずれもselig・・・という歌いだしで始まる。したがってこの一曲目はもうすこし清らかな音楽が聴けるのではと思っていた。ところがかなり重々しいと言うか鈍重なスタートで一気にめげてしまった。
 第2曲目は人の命のはかなさを第一節(ペテロの手紙)で歌いだす。この世の無常を感じさせる歌詞であり歌であるが、これが妙に突っ張った音楽に聴こえてしまって、ここもイメージと違う。オーケストラも合唱も盛大に盛り上がるが、ここも鈍重な感じ。私には重々しすぎ、うるさく感じられた。最後のイザヤ書からの一節は明るい音楽に変わる。ここも盛り上がりはするが、決して喜びあふれた快感にならず音楽がうるさい。
 残念ながらもうこの2曲で今夜はあきらめてしまった。この後も同様な音楽が続くのである。危険を恐れずに言えば小泉の作り出す音楽は外見を気にしすぎているように思えてならない。三曲目も良い例だ。「主よ、今や私はなにをなぐさめにすればよろしいでしょうか」と絶望が歌われた後「苦痛に悩まされることはない」と壮大なフーガが歌われるがこの前半と後半の対比が私には音楽で十分にあらわされてはいないように思った。前半はさらさらさらと終わり、後半のフーガは音量的には立派だが合唱は(特に男性)いきり立っており、うるささが耳に残って、神の救いの手が差し伸べられたようには思えない。。
 二人のソロは実力者だが、佐々木は無難な歌唱。ただ彼女の実力ならもっと天国的な声が聴けたはず。萩原は不安定で少々どきどき。合唱は男性が強く女性が物足りない。座席のせいかもしれない。合唱の位置はP席であったから。オーケストラはよく言えばブラームスらしく重厚。しかし私には少々重々しすぎるように思った。
 このドイツレクイエムは素晴らしい演奏だったかもしれない。又こういう演奏のしかたもあるのかもしれないが、私には居心地の悪い72分だった。
                                           〆

2011年10月22日
於:新国立劇場(1階14列中央ブロック)

リヒァルト・シュトラウス:サロメ
指揮:ラルフ・ヴァイケルト(尾高忠明病気のため代演)
演出:アウグスト・エファーディング

サロメ:エリカ・ズンネガルド
ヘロデ:スコット・マックアリスター(クリスティアン・フランツの代演)
ヘロディアス:ハンナ・シュヴァルツ
ヨハナーン:ジョン・ヴェーグナー
ナラボート:望月哲也

管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

今まで聴いたサロメでも最良の公演だった。というよりも新国立劇場でのオペラ公演の中でもベストの一つに入るパフォーマンスだったと思う。
 まず歌手は上記の主役級が全て立派な歌唱であった。サロメ役は細身で、小柄で、今日風のサロメらしく、少々小悪魔風のキャラ作りにふさわしい声だった。きりりとしたしかも伸びやかな声はホール全体に響き、魅力的だ。ヘロデ役はシュトルツェのようなあくの強いヘロデではなく小心で好色、傲慢なヘロデ王をそれらしく歌っていたと思う。もう少しあくが強くても良いかと思うが、これはこれで納得できる。ただクリスティアン・フランツのヘロデは聴いてみたかった。ヨハナーン役は朗々と響く声、高潔な預言者役を立派に歌っていた。ヘロディアスも懐かしいハンナ・シュヴァルツの怪演だ。ナラボート役は望月で主役級ではただ一人の日本人だったが、これも外来の歌手たちに伍して立派な歌唱。彼の声は実に気持ちが良い。ということで殆ど穴がなくバランスがとれていた。日本でこの水準のサロメが聴ければ言うことはない。下手な引っ越し公演よりずっとまとまっていると思った。

 東京フィルと指揮者のヴァイケルトの演奏も聴きもの、シュトラウスでオケが柔では全く面白くないが今日の演奏は繊細さから迫力のある部分まで全く過不足なくシュトラウスサウンドを堪能した。ヨハナーンの登・退場の音楽、最後のサロメの独唱などの音楽は圧倒的だった。
 演出はエファーディングでもう何年も聴いているものだ。しかし私の印象では今回がもっとも素晴らしいと思った。歌手陣もよかったせいもあるが、演出が練れてきているということもあるかもしれない。舞台は中央奥に巨大なキノコ型のテントがある。その前はベランダで真ん中に大きな穴があり、そこからヨハナーンが幽閉されている地下牢に入れる。入り口は大きなガラスの蓋で覆われている。演出に奇をてらったところはほとんどなくほぼト書きに沿っている。とはいえいくつか気のついた(ちょっと細かいです)ところを書いてみる。
 第3場の終わりでヨハナーンはサロメに呪われておると歌うが、その時ヨハナーンは自害したナラボートを指さしながら歌う。ナラボートの呪いを暗示か?これが後でいきてくる。ヨハナーンはサロメの誘惑に対して初めは抵抗していたが段々抗じきれなくなって来るのが面白い。最後は何かサロメから逃げ出したような形で牢に自分で戻る。その時手を縛っていた綱を念力で断ち切ってしまう。処刑人のナーマンはヘロデの護衛のような役もやっているが、その姿がまるでイエス・キリスト風、イエス・キリスト風のナーマンにヨハナーンの首を切らせるという演出もなかなか怖い。サロメが最後ヘロデの命で処刑されるが、ナラボートの友人の小姓が短刀でとどめを刺そうとして幕になる演出も面白かった。ナラボートの呪いなのか。それとも2人の関係を暗示しているのか。なんて勝手に想像してしまう。これもワーグナーのへんてこな演出で鍛えられた賜物だろう。そうそう今までの演出ではなかったと思うが(記憶にはない)7つのヴェールの踊りの後、サロメはブラジャーをとってしまったのはびっくりした。

 サロメの録音はショルティ/ウイーンフィルとシノーポリ/ベルリンドイツの2つをもっている。前者はニルソンの超弩級のサロメ、後者はスチューダーのちょっと今日風のサロメでどちらも面白い。古くからショルティ盤を聴いているので、どちらというとどうしてもショルティ盤に手が出てしまう。録音はカルショーのプロデュースでいわゆるソニックステージで疑似舞台を体験できる。ウイーンフィルも魅力だ。そしてもうひとつゲルハルト・シュトルツェのヘロデが聴けるのも魅力だ。シノーポリ盤はヘロデ役が少々大人しく感じる。
 なお本日の演奏時間は101分でシノーポリより4分短くショルティより2分速い。この指揮者は初めてだったが立派な音楽を聴かせてもらった。身振りは大きくないがここぞという時の集中度は凄まじいもので圧倒的な音楽だった。
                                     〆
                                    
                                     

2011年10月21日
於:NHKホール(1階9列右ブロック)

第1710回NHK交響楽団定期演奏会Cプロ
指揮:アンドレ・プレヴィン
ピアノ:児玉 桃
オンド・マルトノ:原田 節

メシアン:トゥランガリラ交響曲

トゥランガリラというのはインドのサンスクリット語に起源をもつものらしい、そして現代の単一の言葉では表わしきれず「ダイナミック」、「遊戯」、「生のエネルギー」といったニュアンスを含んでいるとのことである。これはケント・ナガノ/ベルリン(ライブ)の録音の解説書についていたものである。しかし正直何を言っているのかさっぱりわからない。この音楽がそれを表わしているのかと言ったらそうかもしれないとしか言いようがないくらいだ。この曲を知ったのはオザワによる録音だが何度聞いてもライトモチーフが頭に入らないので、なかなかこの曲の全貌がつかめない.この曲を楽しめるようになるにはまだまだ時間がかかりそうだ。

 ライブで聴いたのは初めてだったが、発見したのはCDで聴く以上にピアノとオンド・マルトノ(一種の電子音楽でかなり安っぽい音がするので、ちょっと聴くと昔のテレビドラマかなんかの音楽に出てきそうな楽器だ、事実この曲以外に大した曲は書かれていないそうだ)のための協奏曲的色彩が強いと思った。これは席が9列目でオンド・マルトノのスピーカーのほぼ目の前、ピアノの鍵盤もこちらを向いているような中で聴いたのでそういう印象をもったかもしれない。印象に残ったのは児玉のピアノで特に長大な第6楽章での鳥の声が実に澄明で心に残った。その他では比較的耳当たりの良い第5楽章のオーケストラのド迫力、第10楽章の音が徐々に膨れて収斂して、クライマックスへ到達するまでの過程の面白さが印象に残ったがその程度で残念だ。
 プレヴィンは介助がないともう歩行もできないようで痛々しい、昨夜のスクロヴァチェフスキとはえらい違いだ。今夜の演奏はしかしプログラム通り80分だった。つまらないことに感心してしまったが、実際はプログラム通りにはなかなか音楽は終わらないのだ。
ケント・ナガノよりゆったりした演奏のようだ。
 この曲の楽器編成は凄くて聴いたことのない楽器がいくつかある。例えばプロヴァンス風長太鼓。指揮者のすぐ後ろにはピアノ、その左にはチェレスタ、更に左には鍵盤つきグロッケンシュピール、ピアノの右横にはオンド・マルトノがいる。後は普通の楽器だが打楽器がやたら多くてびっくりするが、書くのが面倒だからやめる。オンド・マルトノはマルトノさんが発明した楽器だそうでチャチイ鍵盤とスピーカーとなにやらよくわからないギターを立てたような楽器から成っている。ただこのスピーカーがおもちゃみたいでこれがヒステリックに鳴るものだからうるさいこと極まりない。JBLとかアルテックとかしっかりしたスピーカーを使えばと思うがどうもセットになっているようでもある。

 2日続けてブルックナーを聴いた後トゥランガリラを聴くのはかなりしんどかった。しかも明日は新国立で「サロメ」だ。
 でもこのトゥランガリラを聴いた後言うのもなんだがやはりブルックナーのほうがいいよなあ!
                                     〆

2011年10月20日
於:東京オペラシティコンサートホール(27列中央ブロック)

ザールブリュッケン・カイザースラウテルン・ドイツ放送フィルハーモニー管弦楽団
指揮:スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ

シューマン:交響曲第四番
ブルックナー:交響曲第九番

今夜の座席はかなり後方にしたせいか音がホールとよく混ざり更に一層このオーケストラの良さを聴くことができた。特に金管は間接音も加わったせいか音がホール全体に散らばり気持ちが良い、ティンパニも昨夜は何かすっきりしなかったが今夜はドスンドスンと盛大になっている。ヴァイオリンは相変わらず明るいがこれもホールに融けあって美しい。

 シューマンの四番は4楽章が誠に素晴らしく感動的だ。導入部は原始霧のような、深遠な山にさまよいこんだような、なにやらもやもやした、不安な音楽だ、しかしそれを断ち割るような金管がすさまじい。特に割れるようなトランペットの効果は大である。その後に続く音楽はふっきれたように生き生きして、最後のプレストも手に汗握るようだ。2楽章はやさしく穏やかな音で一杯でこの楽章がこんなに素晴らしいとは思わなかった。3楽章は速いかなあと思うがその後すぐ続く4楽章との対比を考えるとその効果は納得できる。

 ブルックナーの九番は3楽章が圧倒的だ。今夜のこの楽章を聴いた後、正直言ってやれ主題がどうだ、展開部がどうだといったごたくについてはどうでもよくなる。夢を見て目を醒めた後のような、一陣の風がさーっとふきぬけるような、一枚の絵を見るかのような、そういった印象なのである。指揮者は演奏が終わったあとしばし沈黙し、その間ぱらぱらと拍手があり、正面を向いた途端割れるような拍手と、ブラボー声。しかしそれはもうそのような声でさえわずらわしく思える瞬間だった。さて、一つだけ触れると、最も感銘を受けたのは第1主題の取り扱いだ。最初の楽句の盛り上がりのスケールの大きさはどうだろう、ゆったりしたテンポの中でうねるように音楽が膨れ上がってくる様は実に感動的だ、そのあとの「生との訣別」の金管群のワグネルチューバを初めとする素朴な響きも素晴らしい。展開部などでの第3主題の響きも忘れられない。とにかくこの3楽章は何か突き抜けた感じがある。
 一方、1楽章には少々違和感があった。とにかく速い。提示部も速いが、展開部は更に速く、あっという間に通り過ぎてしまう。大体この交響曲は未完に終わっているので版による違いはそうなく、発売されているCDは私の持っている限りでは、皆「原典版」である。今夜の版はよくわからないがおそらく原典版ではないだろうか?だとするとヴァント/ベルリンは26分強、あのカラヤンも25分弱かけているのに、スクロヴァチェフスキは22分で駆け抜けるのはいかなる理由なのだろう。どのような意図があるかわからないが、この時間設定は疑問だった。ただ再現部からコーダにかけてはテンポがゆるくなり聴き馴染んだ音楽に聴こえここの感銘は深い。
 これに対して上記の3楽章では27分強かけて演奏している。これがいかに遅いテンポであるかはカラヤンもヴァントも25分程度で演奏していることからもよくわかる。しかしスクロヴァチェフスキの演奏した3楽章は決してもたれることなく聴衆に絶大なる感動を与えてくれたのであった。問題は1楽章の印象と3楽章の印象とのギャップが私には到底理解できないほど大きかったと言うことだ。    〆

↑このページのトップヘ