ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2011年09月

2011年9月29日
於:NHKホール(1階20列左)

バイエルン国立歌劇場日本公演
ワーグナー、3幕のロマンティック歌劇「ローエングリン」

指揮:ケント・ナガノ
演出:リチャード・ジョーンズ

ハインリッヒ王:クリスティン・ジークムントソン
ローエングリン:ヨハン・ボータ#
エルザ:エミリー・マギー
テルラムント:エフゲニー・ニキーチン#
オルトルート:ワルトラウト・マイヤー
王の伝令:マーティン・ガントナー#
(注:#印は代演)

最大の呼び物だったはずのローエングリンだったが、カウフマンのキャンセルで正直言ってあまり魅力あるものではなくなってしまった。胸部の結節手術だとのことなので仕方のないことではあろうが残念だ。聞くところによるとこういう興行では病気の場合は歌手側はノーペナルティだが、原発などで行きたくないといった場合は歌手側にペナルティが必要だとのこと。勘繰りたくはないが!またそのほかの歌手も直前までごたごたしたし、スタッフ・オーケストラも100人近く正規の劇場のメンバーではないとのことで、引越し公演の難しさを改めて感じた。しかし主催者はカウフマンでお客をひきつけておいて、キャンセルになっても、こちらのチケットのキャンセルが出来ないのはいかにも一方的でおかしいのではないだろうか?詫びビラだけですむ問題ではなかろう。ボローニャではプログラムを無料配布したそうだがバイエルンはA4一枚の配役表のみ。全く誠意が感じられなかった。

 そういうごたごたはおいておいて要は公演がよければめでたしめでたしだろうが、私にとってはあまり居心地の良いローエングリンではなかった。自室で62年のバイロイト/サヴァリッシュのライブ盤を聞いていたほうがよっぽどよかった。それにしても第3幕の幕切れのブラバント国の民衆の集団自殺は一体いかなる意味なのだろうか?
 まず歌手陣だが自分の思っているローエングリンの歌い手のイメージとは少々違って、音楽がすっと入ってこなかった。ボータのローエングリンは流石に美しく、高音もよく伸び、しかもこの大ホールにも負けない大きな声がでていた。その限りでは言うことはないが、しかしワーグナーにおけるテノールはもう少し違うのではないのかなといった違和感がずっと続いた。特に1,2幕は金属的な声に聴こえて不満。高音は出てもそこはワーグナーなのだからもう少しずっしりした質感が欲しい。でも3幕は流石によかった。特にエルザとの幕開けの2重唱や後半の「遠い国に」や「我が愛する白鳥よ」などは立派なものだと思った。それとやはりダイエットすべきだ。あのデボラ・ヴォイトがえらくスマートになったんだから、ボータさんも頑張って欲しい。帰路、横を歩いていたご夫人同士が声は良いけど見た目がねえとため息をつかれていた。
 エルザ役のエミリー・マギーは新国立にも出ている日本でもおなじみの歌手。声は透明で美しいがなぜかあまり存在感が感じられなかった。例えば2幕のオルトルートに言いくるめられるところや、その後オルトルートにだまされたとわかった時の表現が私には物足りない。淡白すぎるような気がする。まあ演出家の指示かも知れませんが。
 マイヤーのオルトルートは流石だとは思うが、ただ私には少し高音が不安定な気がして安心して聴いていられなかった。
 ニキーチンのテルラムントは少々期待はずれだ。卑しくもハインリッヒ国王にも一目置かれた貴族なんだからそれらしく歌ってほしいではないか! もう少し低音の響きが欲しい。

 ナガノ/バイエルン国立劇場管弦楽団の演奏も少々物足りない。聞かせどころがことごとくさらっとしすぎているような気がする。特に最も劇的な2幕のテルラムントとオルトルート、エルザとオルトルートの2重唱、その後の「お待ちエルザ」から幕切れまでが物足りない。もう少し劇的な管弦楽を期待したが案外のっぺりしていたのはなぜだろう。また3幕の「ハインリッヒ王万歳」のシーンは、管弦楽と合唱の聴かせどころだが、そしてバンダも登場してパノラミックなはずだが、ホールのせいかこれも案外さらっとしていてがっかりだった。演奏時間はあの速めのサヴァリッシュより更に速かった。

 さて、演出だ。相変わらずの読み替えだ。いろいろ能書きはあるだろう。しかしそれはこの公演に触れた日本人で果たして何人が理解しただろうか?少なくとも私には全く意味不明のシーンばかりで楽しめたものではなかった。(最も私がマイノリティかもしれないと言う不安はないことはない)29日付けの日経の夕刊で山崎氏がいろいろ書かれていたが、あんなものは初めて舞台に接して本当にわかるものだろうか?詳しくはその記事をご覧いただきたいが、ワーグナーがト書きを書いたときにそんなことまで思ったとは私には思えない。最も今年のバイロイトの「鼠ちゃん」のブラバント国よりましかな?
 舞台は大きな上下する遮蔽版(ドアつき)で仕切られそれで場面転換を行っている。舞台上方には丸いスクリーンが2枚ぶら下がっておりそこに王の伝令の歌う顔が映し出される。何のためにそうしているのか?マスメディアによる民衆へのメッセージの伝達だろうか?なお時代は現代だと思われる。1幕冒頭では遮蔽版の前をエルザがいったりきたりするがこれも意味不明。後からこの遮蔽版が上に上がると、舞台中央には家の工事現場がある。エルザはそこへなにやら資材を持ち込んでいるようだ。エルザは弟殺しの濡れ衣で火あぶりになろうとする(こんなことト書きにない)。そこへローエングリンが登場、普通なら白鳥に引かれた船に乗って現れるのだが、ここではローエングリンが重たいせいか白鳥を抱いて登場。幻想的な場面が台無しだ。決闘シーンもテルラムントに対して最後はカメハメハみたいな念力で戦って勝つといった按配。重々しさ皆無の漫画だ。しかもこれも意味不明だが買い物袋(デパートのみたい)を被った何ものかが決闘の場所を囲む。笑ってしまうのは決闘開始の合図で3,2,1と数字が前述のスクリーンに映し出される。まあ人を馬鹿にしているじゃありませんか!
 2幕は半分くらい出来た家を舞台にいろいろなシーンがある。しかし舞台上に大きな家がどんとあるものだから邪魔と言うかうっとうしい。家の右側に建築事務所がありそこにローエングリンが仮眠している。どうもローエングリンは建築家らしい。
 3幕では家が出来上がり、そこが二人のスイートホーム、しかしエルザの裏切りであえなくおじゃん。ローエングリンはせっかく作った家に火をつける。最後白鳥に乗って去ってゆくシーンも白鳥を抱いて自分で歩いて消えていったと思ったら今度はゴットフリートを抱いて現れる。まあ出たり入ったり忙しいことだ。余計なことをやろうとするからこういう舞台になってしまうのだろう。幕切れは民衆の集団自殺。お互いが銃を向け合うシーンで幕。ローエングリンが去って絶望的なったからか?しかしゴットフリートが帰ってきたではないか?今年のバイロイトのようにゴッドフリートがあのような奇怪な姿で現れたら自殺したくなるかもしれないが!なおここではエルザとオルトルートはボーっと立って彼らを見ている。死ぬのはエルザとオルトルートのはずだがなぜ入れ替わるのだろうか?
 全曲聴いてあまりにト書きと違う部分が多くてこれが本当にワーグナーの「ローエングリン」だろうかと思ってしまう。
 読み替えは読み替える側は面白いだろうし、評論家は仕事が増えててうれしいだろうが見る/聴くものにとってはあまり楽しくないような気がしてならない。音楽家が原典主義と称して作曲された当時の音楽を再現しようとしているにもかかわらず、演出家は作曲された当時のト書きとはるか離れたことをやっている。これでもし音楽家達が演出家があんなに勝手なことをやっているのだから、俺達も音符を加えたり手を入れようなんてことになったら、原作はもう滅茶苦茶になってしまうのではないだろうか?
 こういう意見もあるかもしれない、すなわち読み替えをしないでト書きどおり演出すれば舞台は皆同じになってしまうのではないか?と。しかしそんなことはないのである、なぜなら同じ楽譜を使って演奏した音楽は指揮者や歌手によって決して同じものにはならないのである。もし同じ楽譜での演奏は全て同じ音楽になるのならあんなに沢山のレコードがあるはずがないのではないか?それと同様に、同じト書きでも決して同じ舞台にはならないだろう。そこにこそ本当の演出家の真価があらわれるのではないか?一つの答えは今メットで行われているリングプロジェクトだと思う。仕掛けは現代のハイテク技術だが歌手の動きはト書きにかなり忠実だと思う。
                                           〆

2011年9月27日
於:サントリーホール(2階LCブロック)

東京都交響楽団第721回定期演奏会Bシリーズ
指揮:マーティン・ブラビンス
ピアノ:上原彩子

プロコフィエフ:歌劇「戦争と平和」序曲
チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第二番
プロコフィエフ:交響曲第五番

指揮者はイギリス人のようだがオールロシアプロ。ムーシンに師事していた様で、そのせいでロシアものが得意なのかもしれない。
 交響曲が断然良かった。プロコフィエフは一番「古典」がとても親しみやすい交響曲だが、その後の2-4はまるで別人のような曲になってしまう。しかしこの五番は一転スケールが大きい上に、叙情性もあるとても親しみやすい曲になっている。この曲は1944年、ちょうど対独戦争に終止符を打ったときに初演されている。そのせいかこの曲は華やかで、明るい曲である。デュトワ/モントリオールでずっと楽しんできたが最近はゲルギエフの小気味良い演奏もいいなあと思っている。しかし今夜の演奏は今まで聴いてきたこの曲とはちょっと違って聴こえた。この曲の持つ外面的な親しみやすさの陰にあるものがぬーっと顔をだしたような演奏に聴こえた。
 1楽章はスケールの大きな、戦勝を喜ぶような華々しい曲だが、今夜の演奏はのっけからかなり重苦しく、開放感と言うより音の重圧を感じる、2楽章はコミカルなスケルツォだが、何かに追いかけられているような、焦燥感に駆られたような演奏に聴こえる。3楽章は美しいアダージョだが何かうっとうしい。そして4楽章は華々しいが、決して万々歳の明るさではなく、勝利の凱歌のなかにも何か鬱屈したものを感じてしまう。と言った具合でかなり面白い演奏だった。この印象、もしかしたら久しぶりにこの曲を聴いたのでゼロベースで音が耳に入ってきたからかもしれないし、ロシアの曲は表面だけで判断してはいけないということがわかってきたからかもしれない。正直言ってこのごろショスタコーヴィッチの五番も素直に耳に入ってこないのだ。まあ週末にでもCDを聴いてみよう。都響の演奏は全く破綻はなく素晴らしい。若干きらびやかな高弦も曲想にあって効果的。金管群もバランスを崩さないでしっかりと吹いていた。

 チャイコフスキーは有名な一番ではなく二番で、慣習的にカットされた部分を復元した原典版による演奏だった。45分近い大曲。正直言ってカット版でも良かったかなあという印象。まあ初めて聴いたから軽るがるしく判断してはいけないだろうが!
 印象的だったのは2楽章でヴァイオリンのソロで始まり、その後チェロのソロがそれに絡む、そして終わりころにピアノが絡むアンダンテ楽章。この部分はとても美しく、演奏も素晴らしいが、協奏曲なのにピアノの出番がほとんどないのはちと面妖。1楽章で疲れたからお休みと言うわけでもないだろうが?ブラームスのヴァイオリン協奏曲の2楽章よりももっとソロ楽器の出番が少ない。両端楽章はまるでサーカスのような名技的なピアノの演奏で、オーケストラもあいまって相当喧しい。チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を更にロシア風にしたような感じだ。正直言って退屈だった。
 上原のピアノはとても硬質で、しかもダイナミズムがすごい。3楽章のコーダの部分などは手に汗握る追い込みで興奮してしまう。更に素晴らしいのは出番の少ない2楽章で最後に彼女のピアノが加わると、空気感が変わるように音楽の透明度が上がる。この部分はちょっとドキッとしてしまう。弱音の明晰さ、透明さは圧倒的だった。このような曲ではなく例えばブラームスの一番の協奏曲などを聴いてみたい。チャイコフスキーコンクールで1位になったからと言ってチャイコフスキーにこだわる必要はないと思うのだが!なおアンコールはなし。
 1曲目の序曲は5分くらいの短い曲で小手調べか!
                                            〆

2011年9月27日

 今月は全く映画館に行かなかった、全てDVDレンタル。行かないとなると途端に腰が重くなってしまう。ハンナとかシャンハイとかゴーストライターなど見たい映画はあるのに!

最近見た映画、その17

「エレクトリックミスト」、トミー・リー・ジョーンズ主演
原題はIn the electric mist with Federate dead、同名小説の映画化である。ハリケーン・カタリナ後のニューオリンズが舞台。トミー・リー・ジョーンズは刑事役で連続娼婦殺人事件を捜査中。同時に40年前の黒人脱走兵の殺人事件が絡む。更に意味不明の南軍の亡霊やら、アル中の映画俳優などが絡む。原作はどうだかわからないが、これらのエピソードが時空を超えて次から次へとでてくるので、ややこしいこときわまりなく、もう少し整理しろやいと怒鳴りたくなる。私にとっては未消化の映画。

「モンガに散る」、台湾映画
台北のモンガという町のやくざの抗争に巻き込まれたチンピラやくざの物語とみることができるし、チンピラやくざ仲間の友情を描いた青春映画とも言える。最後は陰惨な殺し合い・抗争になるが、見終わった印象は案外とさわやかである。でてくる青年(少年)達がやくざではあるが嫌味というか、変な毒気のようなものがないからだろうし、友情は少々青臭いが共感が出来たからだろう。ただ一部の役者が素人芝居みたいなのが少々残念。おそらく台湾のスマップみたいな輩なのだろう。間違っていたら失礼。

「ゆきずりの町」、中村トオル、小西真奈美
志水辰夫の同名の小説の映画化。小説は読んでいないがかなり原作とは肌合いの違う映画のような気がした。その一因はキャスト。主人公中村トオルの役作り、「国語の教師なのに言葉の足りない唐変木」とは随分違う印象だ。小西は熱演だが演技が少々恥ずかしい。2人は12年前結婚したが別れてしまって、中村は田舎の塾の教師になる。ひょんなことから東京に出てきたことから再会して、焼けぼっくりに火がつくという按配でこれが伏線なのに、本線である学校法人経営に絡む殺人事件を押しのけて二人の恋愛を本線にしようという魂胆が間違っている。黒幕(?)役で石橋蓮司が出ているがもうすごみは全くなく三の線のようだ。昔の石橋のあの狂気のような役作りが懐かしい。それにしても出演者の殴り合いがすごい映画で、普通ならあれだけ殴られたら骨の何本か折れて動けないだろうに、すぐ動き出してしまうのはリアリティにかける。こういうところこそ手間を惜しまず丁寧につくると作品の厚みが出ると思うのだが!俳優も含めて日本のハードボイルドでこれはと言うのがないのはここらが理由かもしれない。派手な暴力シーンがあるからハードボイルドなのではない。

「百夜行」、掘北真希、高良健吾、船越栄一郎
東野圭吾の同名小説の映画化。豪華キャストだ。原作の味をできるだけ壊さず丁寧に作られた作品といえる。ただ小説は大部なので少々説明調になる部分もでてくる。話は陰惨だが20年近い時代の流れに沿って進むのでまあスタイルとしてはフォレスト・ガンプのようなものだ。現実離れした話だと思ってみているとだんだんこういうこともあるかもしれないと思わされてくるから不思議だ。幼児売春から、父親殺しなどいろいろな犯罪が目白押しだが作りが緻密だからリアリティも感じる。まあ面白かったがキャストに穴があった。掘北はがんばっているがどう見ても似合わない。船越の刑事も原作の刑事とはいまひとつイメージが違うような気がする。

「英国王のスピーチ」、コリン・ファース、ジェフリー・ラッシュ
英国映画らしくかっちりと、上質のドラマにしたてている。各シーンに全く無駄がなくどのシーンも完璧にドラマに組み込まれているシナリオが素晴らしい。そして主演の二人の演技が又素晴らしい。シンプソン夫人との恋でエドワード国王が王位を失う話は有名だが、そのとばっちりでどもりで演説も出来ない弟のジョージが国王になってしまうと言う話は、この映画を見て初めて知った。この王位継承に絡んで首相まで変わってしまうのだから、イギリスにおける王のステイタスと言うのがいかに大きいのかよくわかった。このような王家のネタを映画にしてしまうと言うのも日本ではなかなか難しいのではないかと思われた。とにかく最後はうまく行くだろうということはわかっていても最後まではらはらどきどきで全く飽きさせない面白い映画であった。ジョージ6世の戦争に際して国民を鼓舞する演説の背後に流れるベートーベンの音楽が感動に花を添えている。

「ザ・パシフィック」、DVD全五巻、テレビ用の映画とおもわれる。
太平洋戦争におけるアメリカ海兵隊員の物語。ここでは戦争の作戦とか戦略とかが中心ではなく、戦場における個々の兵士達の生々しい生き様にスポットがあてられており、作りとしては昔のテレビ映画「コンバット」や映画の「突撃隊」のような小隊物である。ただし内容は描写も含めてかなりリアルである。それは主人公達が皆実在の人物だからだろう。ごく普通の青年(少年)が戦場でだんだん壊れてゆく様を克明に描いているあたりが今の戦争映画らしい。もちろん英雄譚もあるのだが!
 日本兵の扱いは極端ではあるが、アメリカ人から見た日本兵はきっとこの映画のように思えたのではないだろうか?静止に耐えない映像もあり、戦争のおぞましさを写した映画だ。ただ500分近くも同じような映像を見せられるのは少々辛い。後半のペリリュー島のエピソードがもっとも出来が良い。全体に後半がよくその後の硫黄島や沖縄戦も良く描かれていると思った。

「太平洋の奇跡」副題(フォックスと呼ばれた男)、竹野内豊、井上真央
戦争映画が2本続いてしまった。これも実話でサイパン島における日本人将校大場大尉の物語。戦争末期サイパン島が米軍によって陥落するが、186名の民間人と47名の敗残兵が山中に残ってしまう。大場大尉が中心になり終戦までの500日強彼らを守りぬくと言う話だ。タイトルは大げさで大場大尉が生きておられたら辟易するだろう。副題をメインタイトルにすべきだった。
 竹野内は相変わらずだが大場大尉のキャラクター作りにはフィットしたように感じた。実話なのにかなり手が入っているようで、そんなことはないだろうという部分が散見され残念だ。唐沢の兵隊やくざの立ち位置がいまひとつぼけているし、看護婦役の井上もきゃんきゃんとスピッツみたいにうるさい。中島朋子の抑えた演技のほうがかえって本物っぽく思える。それとあまりにいろいろなエピソードをごちゃごちゃといれたために、フォックスと米軍から呼ばれた大場大尉の神出鬼没の作戦が希薄になったような気がする。もう少し大場大尉の活躍にスポットをあて、そのほかは極力そぎ落としても良かったのではと惜しまれる。そぎ落とす勇気も必要だと思う。インヴィクタスを見習って欲しい。サービス精神があだになったような気がする。もったいない。
 ザ・パシフィックを見た後これをみると、やはりアメリカ人は何故日本人は降伏しないのだという疑問に最後まで答えを得られずに、戦いを続けたと思わざるをえない。

「True Grit」トゥルー・グリット、ジェフ・ブリッジス、マット・デイモン、ヘイリー・スタインフェルド
邦題「勇気ある追跡」のリメイクだ。オリジナルはジョン・ウエイン、グレン・キャンベル、キム・ダービー。こういうスタイルの西部劇、すなわち善悪がはっきりしている敵討ち物語、は二番煎じでしか作れないかもしれないというのが率直の印象。アカデミー賞にノミネートされたのは単純にそういう昔のスタイルにかえって新鮮さを感じたからではないか?話は最後を除いてオリジナルと一緒。この最後の違いが今の西部劇らしさなのだろうか?私は無駄な抵抗のような気がした。キャストを新旧比較しても意味ないがやはりジョン・ウエインの存在感は大きいと思った。ジェフ・ブリッジスだって決して悪くはないが格の差だろう。キム・ダービーのほうが敵討ちをするしっかり物の娘風だ。グレン・キャンベルは芋だが、マット・デイモンのテキサスレンジャーはもっと似合わない。

「アレキサンドリア」、原題はAGORA、レイチェル・ワイズ
紀元4世紀末、時はローマ時代が終焉を迎えつつあるテオドシウス帝からホノリウス帝にかけての時代に、エジプトのアレキサンドリアに実在したと言うヒュパテイア(レイチェル・ワイズ)という女哲学者の物語だ。もちろんレイチェル・ワイズはうまいし、彼女が地動説から地球(惑星)の太陽を回る軌道を発見する過程は面白い。もちろん彼女の存在が本線だ。しかし私はむしろこの映画の時代背景のほうが面白かった。キリスト教がローマ帝国の国教になり、その波がこのエジプトにも押し寄せる。キリスト教徒と旧来の多神教徒との戦い、そしてキリスト教徒とユダヤ教徒との戦い、そしてキリスト教が政教一体化をめざす時、ローマ政府軍との戦いが起る。これは宗教戦争の映画でもあり、キリスト教を他の宗教にに置き換えれば、現代の宗教戦争にもつながるような気がした。
 もうひとつはエジプトの学術都市アレキサンドリアの再現映像だ。CGが中心ではあるが全く不自然さのないリアルな映像は素晴らしかった。こういう真面目な歴史映画も最近は少ないような気がする。時代考証にも念を入れた面白い映画だった。
                                           〆

2011年9月24日
於:横浜みなとみらい大ホール(1階21列右ブロック)

NHK交響楽団横浜定期演奏会
指揮:ヘルベルト・ブロムシュテット

シューベルト:交響曲第七番「未完成」
ブルックナー:交響曲第七番

ブロムシュテット/N響、会心の演奏。これほど素晴らしいN響のサウンドを聴いたのは初めてだ。高弦は決して金切り声を出さず、どんなに大きな音をだしても心地よい、低弦はぶんぶんと分厚い。いつもは気になる金管も実にバランスが良く、この弦楽群の上に乗り圧倒的な迫力を出しながらうるさくないのである。指揮者のせいか、ホールのせいか?
圧巻はブルックナーの1楽章のコーダ、そして4楽章の再現部からコーダ、3楽章のスケルツォの音だ。圧倒的な音の洪水だが決して荒々しい音にはならず端正な姿を保っているのが何ともいえず素晴らしく感動的だった。

 ブロムシュテットは昔から録音が多く何度か聴いているが、正直言って淡白過ぎて物足りないというのが先にたって、今一つ関心が湧かなかった。コレクションに1枚もないはずだが、と見ていたらなんとシューベルトの交響曲五番と七番があった。パートナーはドレスデン・シュターツカペレで、約30年前の録音である。昨日これを聴いたのだが、録音・演奏とも実に素晴らしく驚いてしまった。端正な音作りで聴き惚れてしまう。決して人を驚かすようなパフォーマンスはないが、その上品さが何とも言えないシューベルトだった。ブロムシュテットのブルックナーはチェコフィルが来日した際に聴いた八番が印象的で、本日のこの公演は非常に楽しみであった。
 この2曲のカップリングは最近ではスクロヴァチェフスキー/読響の公演を聴いているがそれに勝るとも劣らない立派な演奏だった。スクロヴァチェフスキーは両曲とも剛毅な演奏で感動的だった。ブロムシュテットは剛毅というよりは、端正な上品さで全く立派なブルックナーを聴かせてくれた。
 さて、ブルックナーの1楽章の第3主題がこのように端正に鳴ったのを聴くのは初めてだ。1楽章はやはり展開部の音の変化が素晴らしく、冒頭触れたようにコーダの圧倒的な音楽とともに感動的だった。
 2楽章では、この世の中で最も美しい音楽の一つである第1主題の演奏の美しさは比べるものがない。提示部、展開部、再現部でこの主題が出てくるたびに心が揺さぶられる。再現部でのクライマックスへの道のりも素晴らしい。金管や木管に乗った各主題に弦が絡みながらクライマックスに音楽が膨れながら進んでゆく様は圧倒的だ。ノヴァク版のためクライマックスはティンパニ付きだ。
 3楽章のスケルツォは前述の通りだが、更に素晴らしいのはトリオでこの音楽の切なさはたまらない。トランペットも安定していて立派。
 4楽章ではなんといっても再現部からコーダまでの複雑な音楽が巨大にふくれ上がって
ゆく様は圧倒的だ。
 演奏時間は66分だった。まあ中庸のテンポと言えるだろう。なお楽器配列はコントラバスを左奥、ヴァイオリンは対面式に、ホルンは左奥、ワグネルチューバは右奥という按配、先月の新日本フィル/アルミンクと同じだが出てきた音は相当違った。

 シューベルトはもっと素晴らしかった。言葉がないくらいだ。この曲を聴いて肌に粟を覚えたのは本当に久しぶりのことだ。特に感銘を受けたのは2楽章の第2主題の表現だ。提示部も展開部も木管のすすり泣くような音が何とも言えない響きだ。ドレスデンの録音では23分強の演奏時間だったが今日は25分だった。
                                     〆

2011年9月18日
於:東銀座・東劇

ワーグナー楽劇「ニーベルンクの指輪、序夜・ラインの黄金」
(METライブビューイング2010-2011シーズン)

指揮:ジェームズ・レヴァイン
演出:ロベール・ルパージュ

ヴォータン:ブリン・ターフェル
フリッカ:ステファニー・プライズ
ローゲ:リチャード・クロフト
アルベリヒ:エリック・オーウエンズ
ミーメ:ゲルハルト・シーゲル
フライア:ウエンディ・ブリン・ハーマー

ワルキューレがあまりにも面白かったので、再演されるということを聞き「ラインの黄金」を聴き(見に)に行った。今回は座席をかなり後ろにしたので音響的にはそれほど不満はなかった。
 ジェームズ・レヴァインの作りだす音楽は非常にドラマティックで感動的だった。全体にゆったりしたテンポで時折駆け足になると言った按排。その緩急が劇的な表現につながっているのかもしれない。ただショルティの録音で半世紀聴いてきたものとしては、もう少しきびきびしても良かったのかなあとも思った。特に場面転換のところでは何箇所かじれったいようなところがあった。まあ演奏時間は157分でショルティはそれより10分も短いのだからかなり差があるので当然だろう。
 歌手陣ではターフェルとプライズが特に良かった。あとはそうバラツキがなく安定したキャスティング。クロフトにはブーイングがでていたがわからないこともない。このローゲという役はシュトルツェからウイントガッセンまで古今の名だたるテノールが歌っているのでクロフトの様なまじめな歌い方だとつまらないのだろう。でもブーイング出すほどひどくはないと思うのだが!アルベリヒ役は最初は冴えないと思っていたが、ニーベルハイムの場面あたりから凄みもでてよかったし、呪いの場面も逆に哀れを催すような歌い方が面白かった。

 演出のルパージュだが装置は別としてほぼト書きに忠実な点がなにより良い。何が良いって、舞台を見ていてあれはなんじゃいなんてことはないということである。
 例の45トンの24枚の板を回転させる装置も効果的。冒頭のラインの乙女たちの歌も最初は宙吊りになったりしてカラヤンみたいと思っていたら歌は「板」の上で歌っていた。水底にいるように口から泡がでる(もちろんCG)などリアルな演出もある。水底を表わすように砂や石が崩れるような様もCGで表わしてやることが細かい。
 ニーベルハイムへの昇降はその「板」を階段にしておりたりあがったりするがスローモーションのようで面白い。おそらく宙吊りになって歩いているのだろう。ニーベルハイムのなかでも「板」が洞窟の屋根になっていたり、アルベリヒが大蛇に変身する場面では胴体になったりしていた。この大蛇や蛙の出る場面は大体苦労するのだが,ルパージュは結構真面目に演出していた。その他エルダの登場も幻想的だったし、何より素晴らしいのはワルハラ城への入場で、全員が宙吊りになって虹のような橋(実際は例の「板」)を渡るのだ。こういう演出は初めてだ。おそらくワーグナーもこの演出なら怒らないだろう。ワーグナーが書いたト書きにできるだけ忠実に、しかもそれを最新のハイテク技術で再現させるという手法は一つの方向性で私は好きだ。
                                    〆

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