2011年9月29日
於:NHKホール(1階20列左)
バイエルン国立歌劇場日本公演
ワーグナー、3幕のロマンティック歌劇「ローエングリン」
指揮:ケント・ナガノ
演出:リチャード・ジョーンズ
ハインリッヒ王:クリスティン・ジークムントソン
ローエングリン:ヨハン・ボータ#
エルザ:エミリー・マギー
テルラムント:エフゲニー・ニキーチン#
オルトルート:ワルトラウト・マイヤー
王の伝令:マーティン・ガントナー#
(注:#印は代演)
最大の呼び物だったはずのローエングリンだったが、カウフマンのキャンセルで正直言ってあまり魅力あるものではなくなってしまった。胸部の結節手術だとのことなので仕方のないことではあろうが残念だ。聞くところによるとこういう興行では病気の場合は歌手側はノーペナルティだが、原発などで行きたくないといった場合は歌手側にペナルティが必要だとのこと。勘繰りたくはないが!またそのほかの歌手も直前までごたごたしたし、スタッフ・オーケストラも100人近く正規の劇場のメンバーではないとのことで、引越し公演の難しさを改めて感じた。しかし主催者はカウフマンでお客をひきつけておいて、キャンセルになっても、こちらのチケットのキャンセルが出来ないのはいかにも一方的でおかしいのではないだろうか?詫びビラだけですむ問題ではなかろう。ボローニャではプログラムを無料配布したそうだがバイエルンはA4一枚の配役表のみ。全く誠意が感じられなかった。
そういうごたごたはおいておいて要は公演がよければめでたしめでたしだろうが、私にとってはあまり居心地の良いローエングリンではなかった。自室で62年のバイロイト/サヴァリッシュのライブ盤を聞いていたほうがよっぽどよかった。それにしても第3幕の幕切れのブラバント国の民衆の集団自殺は一体いかなる意味なのだろうか?
まず歌手陣だが自分の思っているローエングリンの歌い手のイメージとは少々違って、音楽がすっと入ってこなかった。ボータのローエングリンは流石に美しく、高音もよく伸び、しかもこの大ホールにも負けない大きな声がでていた。その限りでは言うことはないが、しかしワーグナーにおけるテノールはもう少し違うのではないのかなといった違和感がずっと続いた。特に1,2幕は金属的な声に聴こえて不満。高音は出てもそこはワーグナーなのだからもう少しずっしりした質感が欲しい。でも3幕は流石によかった。特にエルザとの幕開けの2重唱や後半の「遠い国に」や「我が愛する白鳥よ」などは立派なものだと思った。それとやはりダイエットすべきだ。あのデボラ・ヴォイトがえらくスマートになったんだから、ボータさんも頑張って欲しい。帰路、横を歩いていたご夫人同士が声は良いけど見た目がねえとため息をつかれていた。
エルザ役のエミリー・マギーは新国立にも出ている日本でもおなじみの歌手。声は透明で美しいがなぜかあまり存在感が感じられなかった。例えば2幕のオルトルートに言いくるめられるところや、その後オルトルートにだまされたとわかった時の表現が私には物足りない。淡白すぎるような気がする。まあ演出家の指示かも知れませんが。
マイヤーのオルトルートは流石だとは思うが、ただ私には少し高音が不安定な気がして安心して聴いていられなかった。
ニキーチンのテルラムントは少々期待はずれだ。卑しくもハインリッヒ国王にも一目置かれた貴族なんだからそれらしく歌ってほしいではないか! もう少し低音の響きが欲しい。
ナガノ/バイエルン国立劇場管弦楽団の演奏も少々物足りない。聞かせどころがことごとくさらっとしすぎているような気がする。特に最も劇的な2幕のテルラムントとオルトルート、エルザとオルトルートの2重唱、その後の「お待ちエルザ」から幕切れまでが物足りない。もう少し劇的な管弦楽を期待したが案外のっぺりしていたのはなぜだろう。また3幕の「ハインリッヒ王万歳」のシーンは、管弦楽と合唱の聴かせどころだが、そしてバンダも登場してパノラミックなはずだが、ホールのせいかこれも案外さらっとしていてがっかりだった。演奏時間はあの速めのサヴァリッシュより更に速かった。
さて、演出だ。相変わらずの読み替えだ。いろいろ能書きはあるだろう。しかしそれはこの公演に触れた日本人で果たして何人が理解しただろうか?少なくとも私には全く意味不明のシーンばかりで楽しめたものではなかった。(最も私がマイノリティかもしれないと言う不安はないことはない)29日付けの日経の夕刊で山崎氏がいろいろ書かれていたが、あんなものは初めて舞台に接して本当にわかるものだろうか?詳しくはその記事をご覧いただきたいが、ワーグナーがト書きを書いたときにそんなことまで思ったとは私には思えない。最も今年のバイロイトの「鼠ちゃん」のブラバント国よりましかな?
舞台は大きな上下する遮蔽版(ドアつき)で仕切られそれで場面転換を行っている。舞台上方には丸いスクリーンが2枚ぶら下がっておりそこに王の伝令の歌う顔が映し出される。何のためにそうしているのか?マスメディアによる民衆へのメッセージの伝達だろうか?なお時代は現代だと思われる。1幕冒頭では遮蔽版の前をエルザがいったりきたりするがこれも意味不明。後からこの遮蔽版が上に上がると、舞台中央には家の工事現場がある。エルザはそこへなにやら資材を持ち込んでいるようだ。エルザは弟殺しの濡れ衣で火あぶりになろうとする(こんなことト書きにない)。そこへローエングリンが登場、普通なら白鳥に引かれた船に乗って現れるのだが、ここではローエングリンが重たいせいか白鳥を抱いて登場。幻想的な場面が台無しだ。決闘シーンもテルラムントに対して最後はカメハメハみたいな念力で戦って勝つといった按配。重々しさ皆無の漫画だ。しかもこれも意味不明だが買い物袋(デパートのみたい)を被った何ものかが決闘の場所を囲む。笑ってしまうのは決闘開始の合図で3,2,1と数字が前述のスクリーンに映し出される。まあ人を馬鹿にしているじゃありませんか!
2幕は半分くらい出来た家を舞台にいろいろなシーンがある。しかし舞台上に大きな家がどんとあるものだから邪魔と言うかうっとうしい。家の右側に建築事務所がありそこにローエングリンが仮眠している。どうもローエングリンは建築家らしい。
3幕では家が出来上がり、そこが二人のスイートホーム、しかしエルザの裏切りであえなくおじゃん。ローエングリンはせっかく作った家に火をつける。最後白鳥に乗って去ってゆくシーンも白鳥を抱いて自分で歩いて消えていったと思ったら今度はゴットフリートを抱いて現れる。まあ出たり入ったり忙しいことだ。余計なことをやろうとするからこういう舞台になってしまうのだろう。幕切れは民衆の集団自殺。お互いが銃を向け合うシーンで幕。ローエングリンが去って絶望的なったからか?しかしゴットフリートが帰ってきたではないか?今年のバイロイトのようにゴッドフリートがあのような奇怪な姿で現れたら自殺したくなるかもしれないが!なおここではエルザとオルトルートはボーっと立って彼らを見ている。死ぬのはエルザとオルトルートのはずだがなぜ入れ替わるのだろうか?
全曲聴いてあまりにト書きと違う部分が多くてこれが本当にワーグナーの「ローエングリン」だろうかと思ってしまう。
読み替えは読み替える側は面白いだろうし、評論家は仕事が増えててうれしいだろうが見る/聴くものにとってはあまり楽しくないような気がしてならない。音楽家が原典主義と称して作曲された当時の音楽を再現しようとしているにもかかわらず、演出家は作曲された当時のト書きとはるか離れたことをやっている。これでもし音楽家達が演出家があんなに勝手なことをやっているのだから、俺達も音符を加えたり手を入れようなんてことになったら、原作はもう滅茶苦茶になってしまうのではないだろうか?
こういう意見もあるかもしれない、すなわち読み替えをしないでト書きどおり演出すれば舞台は皆同じになってしまうのではないか?と。しかしそんなことはないのである、なぜなら同じ楽譜を使って演奏した音楽は指揮者や歌手によって決して同じものにはならないのである。もし同じ楽譜での演奏は全て同じ音楽になるのならあんなに沢山のレコードがあるはずがないのではないか?それと同様に、同じト書きでも決して同じ舞台にはならないだろう。そこにこそ本当の演出家の真価があらわれるのではないか?一つの答えは今メットで行われているリングプロジェクトだと思う。仕掛けは現代のハイテク技術だが歌手の動きはト書きにかなり忠実だと思う。
〆
於:NHKホール(1階20列左)
バイエルン国立歌劇場日本公演
ワーグナー、3幕のロマンティック歌劇「ローエングリン」
指揮:ケント・ナガノ
演出:リチャード・ジョーンズ
ハインリッヒ王:クリスティン・ジークムントソン
ローエングリン:ヨハン・ボータ#
エルザ:エミリー・マギー
テルラムント:エフゲニー・ニキーチン#
オルトルート:ワルトラウト・マイヤー
王の伝令:マーティン・ガントナー#
(注:#印は代演)
最大の呼び物だったはずのローエングリンだったが、カウフマンのキャンセルで正直言ってあまり魅力あるものではなくなってしまった。胸部の結節手術だとのことなので仕方のないことではあろうが残念だ。聞くところによるとこういう興行では病気の場合は歌手側はノーペナルティだが、原発などで行きたくないといった場合は歌手側にペナルティが必要だとのこと。勘繰りたくはないが!またそのほかの歌手も直前までごたごたしたし、スタッフ・オーケストラも100人近く正規の劇場のメンバーではないとのことで、引越し公演の難しさを改めて感じた。しかし主催者はカウフマンでお客をひきつけておいて、キャンセルになっても、こちらのチケットのキャンセルが出来ないのはいかにも一方的でおかしいのではないだろうか?詫びビラだけですむ問題ではなかろう。ボローニャではプログラムを無料配布したそうだがバイエルンはA4一枚の配役表のみ。全く誠意が感じられなかった。
そういうごたごたはおいておいて要は公演がよければめでたしめでたしだろうが、私にとってはあまり居心地の良いローエングリンではなかった。自室で62年のバイロイト/サヴァリッシュのライブ盤を聞いていたほうがよっぽどよかった。それにしても第3幕の幕切れのブラバント国の民衆の集団自殺は一体いかなる意味なのだろうか?
まず歌手陣だが自分の思っているローエングリンの歌い手のイメージとは少々違って、音楽がすっと入ってこなかった。ボータのローエングリンは流石に美しく、高音もよく伸び、しかもこの大ホールにも負けない大きな声がでていた。その限りでは言うことはないが、しかしワーグナーにおけるテノールはもう少し違うのではないのかなといった違和感がずっと続いた。特に1,2幕は金属的な声に聴こえて不満。高音は出てもそこはワーグナーなのだからもう少しずっしりした質感が欲しい。でも3幕は流石によかった。特にエルザとの幕開けの2重唱や後半の「遠い国に」や「我が愛する白鳥よ」などは立派なものだと思った。それとやはりダイエットすべきだ。あのデボラ・ヴォイトがえらくスマートになったんだから、ボータさんも頑張って欲しい。帰路、横を歩いていたご夫人同士が声は良いけど見た目がねえとため息をつかれていた。
エルザ役のエミリー・マギーは新国立にも出ている日本でもおなじみの歌手。声は透明で美しいがなぜかあまり存在感が感じられなかった。例えば2幕のオルトルートに言いくるめられるところや、その後オルトルートにだまされたとわかった時の表現が私には物足りない。淡白すぎるような気がする。まあ演出家の指示かも知れませんが。
マイヤーのオルトルートは流石だとは思うが、ただ私には少し高音が不安定な気がして安心して聴いていられなかった。
ニキーチンのテルラムントは少々期待はずれだ。卑しくもハインリッヒ国王にも一目置かれた貴族なんだからそれらしく歌ってほしいではないか! もう少し低音の響きが欲しい。
ナガノ/バイエルン国立劇場管弦楽団の演奏も少々物足りない。聞かせどころがことごとくさらっとしすぎているような気がする。特に最も劇的な2幕のテルラムントとオルトルート、エルザとオルトルートの2重唱、その後の「お待ちエルザ」から幕切れまでが物足りない。もう少し劇的な管弦楽を期待したが案外のっぺりしていたのはなぜだろう。また3幕の「ハインリッヒ王万歳」のシーンは、管弦楽と合唱の聴かせどころだが、そしてバンダも登場してパノラミックなはずだが、ホールのせいかこれも案外さらっとしていてがっかりだった。演奏時間はあの速めのサヴァリッシュより更に速かった。
さて、演出だ。相変わらずの読み替えだ。いろいろ能書きはあるだろう。しかしそれはこの公演に触れた日本人で果たして何人が理解しただろうか?少なくとも私には全く意味不明のシーンばかりで楽しめたものではなかった。(最も私がマイノリティかもしれないと言う不安はないことはない)29日付けの日経の夕刊で山崎氏がいろいろ書かれていたが、あんなものは初めて舞台に接して本当にわかるものだろうか?詳しくはその記事をご覧いただきたいが、ワーグナーがト書きを書いたときにそんなことまで思ったとは私には思えない。最も今年のバイロイトの「鼠ちゃん」のブラバント国よりましかな?
舞台は大きな上下する遮蔽版(ドアつき)で仕切られそれで場面転換を行っている。舞台上方には丸いスクリーンが2枚ぶら下がっておりそこに王の伝令の歌う顔が映し出される。何のためにそうしているのか?マスメディアによる民衆へのメッセージの伝達だろうか?なお時代は現代だと思われる。1幕冒頭では遮蔽版の前をエルザがいったりきたりするがこれも意味不明。後からこの遮蔽版が上に上がると、舞台中央には家の工事現場がある。エルザはそこへなにやら資材を持ち込んでいるようだ。エルザは弟殺しの濡れ衣で火あぶりになろうとする(こんなことト書きにない)。そこへローエングリンが登場、普通なら白鳥に引かれた船に乗って現れるのだが、ここではローエングリンが重たいせいか白鳥を抱いて登場。幻想的な場面が台無しだ。決闘シーンもテルラムントに対して最後はカメハメハみたいな念力で戦って勝つといった按配。重々しさ皆無の漫画だ。しかもこれも意味不明だが買い物袋(デパートのみたい)を被った何ものかが決闘の場所を囲む。笑ってしまうのは決闘開始の合図で3,2,1と数字が前述のスクリーンに映し出される。まあ人を馬鹿にしているじゃありませんか!
2幕は半分くらい出来た家を舞台にいろいろなシーンがある。しかし舞台上に大きな家がどんとあるものだから邪魔と言うかうっとうしい。家の右側に建築事務所がありそこにローエングリンが仮眠している。どうもローエングリンは建築家らしい。
3幕では家が出来上がり、そこが二人のスイートホーム、しかしエルザの裏切りであえなくおじゃん。ローエングリンはせっかく作った家に火をつける。最後白鳥に乗って去ってゆくシーンも白鳥を抱いて自分で歩いて消えていったと思ったら今度はゴットフリートを抱いて現れる。まあ出たり入ったり忙しいことだ。余計なことをやろうとするからこういう舞台になってしまうのだろう。幕切れは民衆の集団自殺。お互いが銃を向け合うシーンで幕。ローエングリンが去って絶望的なったからか?しかしゴットフリートが帰ってきたではないか?今年のバイロイトのようにゴッドフリートがあのような奇怪な姿で現れたら自殺したくなるかもしれないが!なおここではエルザとオルトルートはボーっと立って彼らを見ている。死ぬのはエルザとオルトルートのはずだがなぜ入れ替わるのだろうか?
全曲聴いてあまりにト書きと違う部分が多くてこれが本当にワーグナーの「ローエングリン」だろうかと思ってしまう。
読み替えは読み替える側は面白いだろうし、評論家は仕事が増えててうれしいだろうが見る/聴くものにとってはあまり楽しくないような気がしてならない。音楽家が原典主義と称して作曲された当時の音楽を再現しようとしているにもかかわらず、演出家は作曲された当時のト書きとはるか離れたことをやっている。これでもし音楽家達が演出家があんなに勝手なことをやっているのだから、俺達も音符を加えたり手を入れようなんてことになったら、原作はもう滅茶苦茶になってしまうのではないだろうか?
こういう意見もあるかもしれない、すなわち読み替えをしないでト書きどおり演出すれば舞台は皆同じになってしまうのではないか?と。しかしそんなことはないのである、なぜなら同じ楽譜を使って演奏した音楽は指揮者や歌手によって決して同じものにはならないのである。もし同じ楽譜での演奏は全て同じ音楽になるのならあんなに沢山のレコードがあるはずがないのではないか?それと同様に、同じト書きでも決して同じ舞台にはならないだろう。そこにこそ本当の演出家の真価があらわれるのではないか?一つの答えは今メットで行われているリングプロジェクトだと思う。仕掛けは現代のハイテク技術だが歌手の動きはト書きにかなり忠実だと思う。
〆