ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2011年07月

2011年7月26日
於:東京文化会館(22列左ブロック)

アメリカン・バレエ・シアター日本公演
プロコフィエフ「ロメオとジュリエット」
  (マクミラン版)

ロミオ:マルセロ・ゴメス
ジュリエット:ジュリー・ケント
マキューシオ:クレイグ・サルステイン
ティボルト:ゲンナディ・サヴェリエフ
ヴェンヴォーリオ・ダニール・シムキン
パリス:アレクサンドル・ハムーディ
キャピュレット夫人:ステラ・アブレラ
ロザライン:ルシアナ・パリス
乳母:スーザン・ジョーンズ
ローレンス神父:クリントン・ラケット

指揮:オームズビー・ウイルキンズ
管弦楽:東京シティフィルハーモニック管弦楽団

昨年の6月10日の英国ロイヤルバレエ以来のロメオだ。今年新国立でも公演があったが、体調不良で見ることが出来なかった。
 このアメリカン・バレエもマクミラン版である。こうマクミラン版が続くとたまには違う振り付けで見てみたいとも思う。逆にそれだけマクミラン版の評価が高いと言うことだろう。
 今夜の公演もやはりジュリエットが素晴らしかった。いつもジュリエットの踊りに目が行ってしまうがそれだけジュリエットに与えられた振り付けが素晴らしいと言うことだろう。今夜も冒頭のおもちゃ遊びをしているジュリエットの初々しさ、バルコニーの場面、ロメオとの別れの場面、ジュリエットの死の場面、それぞれ踊りだけでジュリエットの気持ちを表せると言うバレエ芸術の素晴らしさを見せてくれた。ただ、いままで見た中ではジュリエットの感情の動きを、大きく踊りに表すジュリエットではないように感じた。例えば最終場のジュリエットの自害の場面も少しおとなしく感じた。
 男性陣も良いがロメオはちょっと重々しく感じた。もう少し若々しく踊って欲しい。何か分別くさい大人のようだった。マキューシオは儲け役だが、ティボルトに刺されて死ぬ場面は後ろから刺される演出になっていたのはちょっと抵抗がある。
 見せ場の騎士の踊りは豪壮華麗で圧倒された。昔コベントガーデンでこれを見たときは度肝を抜かれるようなインパクトだった。今夜も素晴らしい。
 このバレエでいつも印象に残るのが2幕最後のキャピュレット夫人の悲嘆の踊りだ。甥のティボルトがロミオに刺され死ぬ、床を叩いて悲しむキャピュレット夫人へ与えられた振り付けはすさまじいもので、音楽との相乗効果は絶大だ。今夜もよかったが、もっと激しく踊っても良かったのではないかと思った。昔見たコベントガーデンを超えるものには未だお目にかかったことがない。
 アメリカン・バレエ・シアターというのはどの程度の水準かわからないが、今夜の公演を見た限りでは比較的おとなしい踊りだなあと思った。例えば2幕の冒頭の町の踊りやロザラインたちの踊りなどは少々冗長で飽きがくる。
 オーケストラはこの素晴らしいプロコフィエフの音楽を十分再現してくれたかというとちょっと精度に物足りなさが残った。
                                           〆

2011年7月25日
於:サントリーホール(2階3列右ブロック)

読売日本交響楽団、第540回サントリーホール名曲シリーズ
指揮:ワシリー・シナイスキー
ピアノ:アレクセイ・ゴルラッチ

グリンカ:歌劇「ルスランとリュドミラ」序曲
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第二番
ショスタコーヴィチ:交響曲第五番

ロシアの有名な曲ばかりを集めた名曲シリーズらしいプログラム。指揮者・ピアニストいずれもロシア系でこの有名な曲をどう料理したか?
 ルスラン・・・はどのコンサートで聴いても勇ましい。オペラを聴いたことがないのだがオペラ劇場でもこのように振るのだろうか?実にかっちりした音でマッチョ風だ。
 ラフマニノフは実に美しく、情感豊かな演奏だと思った。この曲、もともと全編甘ったるい(失礼)メロディが充満した曲で、正直今日の様に思いいれたっぷりやられると、ケーキの上に砂糖をまぶして食べているような気分になってしまう。3楽章の有名な主題が最後に帰ってくる所などこれでもかと言った具合に鳴り響く。まあそれはそれでよいのだが、今はこういう演奏が一般なんだろう。CDでランラン/ゲルギエフなどを聴いてもそう感じてしまう。私はセシル・リカド/アバド盤を愛聴している。こってりしたラフマニノフでなく少しさらっとしているところが好きだ。まあここらは好みでしょう。アンコールはショパンの練習曲作品10-4.ポリーニのCDで慣らされている耳には、何か違う曲のように聴こえた。もっと聴いてみたいなと思った。

 ショスタコーヴィチの五番も超有名な曲だが、共産党というかスターリン圧政下で作られた曲というのが頭にあって素直に曲に入り込めないのが常である。もちろん外面的には面白い曲なんだが、それ以上のものを感じるにはもっともっとこの曲を勉強しなければならないような気がする。今夜の演奏は少し速いテンポで充実した演奏だと思ったが何物かが感情移入を妨げているように感じられた。
                                            〆

2011年7月22日
於:サントリーホール(2階RD3列)

東京フィルハーモニー管弦楽団第806回サントリー定期公演

指揮:上岡敏之

シューベルト:交響曲第七番「未完成」
       交響曲第八番「グレート」

上岡の指揮はいつも面白い。昨年はブッパタール交響楽団でリングのハイライトを聴いた。彼の指揮は一歩間違えるとわざとらしさというかあざとさというか、悪いほうに行ってしまうすれすれのところで踏みとどまっているような気がする。神々の黄昏からのジークフリートの葬送行進曲などはそのように感じる。さて今夜のシューベルトはどうか?
 予想どおり大変面白い演奏だった。しかしあまりにもいろいろなことを繰り出してくるのでおおっとという場面に何度も遭遇してしまって、正直終わってみたらぐったりだった。
 未完成は低弦のみのイントロがあまりにも長く引っ張るので不安になってしまうくらいだ。そのあとのヴァイオリンによるさざ波のような音楽はアクセントをつけたように聴こえていて胸がざわめく。特に展開部ではそう感じた。とにかく一つ一つのフレーズが長く感じる。第2主題の前のホルンなども随分長く引っ張っている。という具合だから自然、音楽はスムースには流れない。なんと1楽章に15分もかけているのだ。決して嫌な演奏ではないのだがもう少し流れて欲しいなあと思った。ちょっと聴くほうも肩に力が入ってしまう。その点2楽章はあまりいじくっていないというか、自然に流れていたように思った。1楽章に比べるとあっさりしていると思った。上岡の指揮はティーレマンみたいに体をコンサートマスターのほうに絶えず乗り出して細かい指示を出している、それは各楽器に対してもそうで視覚的にも面白かった。各楽器それぞれに、いちいち棒で指示を出しておりその都度その楽器が浮かび上がると言った塩梅だ。

 グレートのほうも実に面白かった。
 1楽章冒頭のホルンのイントロはかなり遅く驚くが、まあこれは想定内だ。しかしそのあと、主部に入ってのアレグロのその勢いの凄いこと。驚くばかり。しかし爽快感一杯だ。ただし緩やかな部分になるとじっくりと腰を落とし、各楽器を浮かび上がらせる。コーダは圧倒的な音の洪水だ。
 2楽章はアンダンテ楽章だが何か行進曲のように聴こえた、私にとって標準盤のベーム/ベルリンのほうがかなり遅い演奏だと思ってチェックしてみたら、ベームのほうが速度が速かったのでちょっと驚いた。上岡のほうが聴感上はかなり速く感じたからだが、実際はベームより若干遅いくらいなのだ。これはおそらく最初の主題での弦の刻む音がかなりアクセントが強くてザッ、ザッ、ザッと何か気ぜわしく聴こえたからではないかと思った。
 3楽章は今夜の白眉。スケルツオ部分の前進力はたとえようがなく、力強くそして若若しい。トリオはストンと腰が落ちてその対比が鮮やか。その美しさ例えようがなく、切なさで胸が一杯になる。
 4楽章は一気呵成に描ききったという印象だ。ここも前進力がすさまじい。しつこいばかりのリズムの連続だが、その盛り上がりにぞくぞくしてしまう。コーダまで一直線で突き進むが途中では木管楽器などを浮かび上がらせて爽快感も醸成したりして、決して性急さを感じさせない。コーダも圧倒的だが最後の一撃がそこで止まるのでなく、何秒か余韻をもって終わるのは今まで聴いたことがない。
 この曲はシューベルトが亡くなった年に書かれたということになっていたが、最近はその3年前に書かれたということが定説になっていて、今夜の様などちらかというと若々しい、前進力を感じる演奏スタイルが多いようだ。ノリントンなどはその一例だと思う。最初は抵抗があったが今はもう慣れてしまって、むしろこのほうが良いように感じる。
 東フィルは新国立ではおなじみだが、定期で聴くのは久しぶり。指揮者に煽られてか大熱演だった。ブッパタールのように低音は分厚く、高弦は全く嫌な音を出さない。木管の美しさも立派。特筆ものはティンパニーで、海外のオーケストラのように思い切り叩いていて気持ち良かった。
 RD席というのは初めてだったが少しもやもや感はあるものの全く鑑賞には支障なかった。
 面白いけど疲れたコンサートでした。
                                    〆

2011年7月17日

最近見た映画その15

今回もすべてDVDレンタルだ。もう予告を見てもこれは見たいと思うのがない。独りよがりの映画や観客におもねる映画が多すぎるような気がする。今は我が家のコレクションを繰り返して見るほうが多くなってしまった。先日も「遠い橋」という戦争映画を見たがもうこういう正統派戦争映画は見ることはできまい。俳優も凄いが、イギリスの英雄、モントゴメリー元帥を正面から批判していて、なおかつ官僚制の弱みみたいな点もクローズアップ、娯楽性も盛りだくさん。今見ると少し古いかなと思うがそれでも最近の映画のような軟弱さは皆無。今夜は「シリアナ」という謀略物の傑作を見る予定だ。

まあごちゃごちゃいってもなんだから退屈しのぎに借りた何本かの作品に触れたい。

「アンストッパブル」、デンゼルワシントン主演
これは結構面白かった。鉄道員のミスで39両をひいた貨物列車が暴走してしまう。それを別の列車にのった機関士と車掌の勇敢な行動で脱線寸前に止めると言う感動もの。約100分、はらはらしっぱなしで面白かった。その中でアメリカの社会の現場のモラルの低下が印象に残った。仕事中の私語や携帯電話の使用などひどいもの。俳優では現場の運行係のフーバー役のロザリオ・ドーソンが威勢の良い管理職を演じていてなかなか小気味が良かった。

「ソーシャルネットワーク」、デビッド・フィンチャー監督
フェースブックの創始者マーク・サッカーバーグの物語。フェースブックというものが具体的にどういうものかが、ピンと来ていない者にとっては隔靴掻痒の感があるが、新時代の創造というものは、こういうものだと言う感触は良くわかる。全編機関銃のように言葉が飛び交って迫力のあるドラマとなった。

「チェーシング」、ラッセル・クロー主演
何だか良くわかない映画だった。原題は「TENDERNESS」、両親を殺害した少年、それを殺人鬼として追い回す(少年院受刑後も)刑事がラッセルクロー。義父に犯され、少年殺人鬼の犯罪を目撃してしまう少女。どういういきさつかわからないが、その少女が少年院を出た殺人鬼に接触する。トマス・ハリスの猟奇もの的な話にならないのがなんとももどかしい。それぞれの人物像が全く読めないので最後までいらいらする。結局何だったのと言った印象。これこそ時間の無駄でした。ラッセル・クローももっと作品を選んで欲しい。

「ネスト」ケヴィン・コスナー主演、
原題は「NEW DAUGHTER」、これもケヴィン・コスナーが何でこんな映画に出るのと言った印象。サウスカロライナの田舎町へ越してきたコスナー親子。コスナーは奥さんに逃げられた小説家。そして長女と息子の3人家族が新しい生活を始める。裏庭に大きな塚がありそれが鍵。そこは先住民の古い墓で、その霊を体現したものと少女が交流し新しい生命を宿す。そして霊たちの殺戮。ここらへんの霊たちの行動が不可解で最後までよくわからなかった。もう少し説明が欲しい。ラストは何ともやりきれない。

「完全なる報復」ジェイミー・フォックス主演
原題は「LAW ABIDING CITIZEN」、法に忠実な市民と言ったような意味だろう。いわゆる報復ものだが一ひねりあり途中までは面白い。妻子が惨殺され犯人は捕まるが、主犯が司法取引で軽い刑になる。ここらがアメリカの司法の仕組みがわからないので今一つしっくりこない。司法取引した検事補が出世の塊でジェイミー・フォックスが演じている。
 妻子を惨殺された父親は大金持ちで、しかも政府の仕事(暗殺ほう助)もやっている怪しげな男。彼が10年間練りに練ったプランを実行する過程はなかなか面白い。これが唯一の見もの。しかし一番最初に殺されなければならないフォックスが最後まで生き残るのは、物語としてはそうとはわかっていても何か割り切れないものがある。ご都合主義的な結末は食い足りない。

「白いリボン」ドイツ映画
これは評判が良かったので期待してみたのだが、ひとりよがりというか、思わせぶりと言うか何ともいらつく映画だった。一次大戦直前のドイツのある荘園、その村の大半が小作人というその時代の社会の描写が面白い。その村で事件が次々起きるが、犯人はわからない。その謎解きの部分はそれなりに面白いが、それよりもそれぞれの家庭の子供たちの異様な行動や立ち居振る舞いが目を惹く。この映画の根底に流れるのは抑圧された村人たちのさらに抑圧された子供達の制御が利かない行動。子供たちにとって許せないことに対してのレジスタンスが陰惨な行動に導く。まるでヒットラーユーゲントの走りみたいのようだ。ただ子供たちの残虐な行動が映像では全く出てこないので本当はどうなのか、年寄りには今一つついて行けないところ。そういう意味で言うと謎解きの視点はこのドラマでは二の次だ。そこをもう少しクローズアップしてくれるとうれしいのだが。

 「13人の刺客」、役所行司他
1986年のリメーク。役所をはじめなかなか時代劇向きの俳優がそろって、そこそこ見られる重厚な娯楽映画に仕上がっている。最後の肉弾戦はもう少し仕掛けの工夫をして敵の数を減らしてから入ったほうがリアルさが増したろう。海外の活劇でもこのピストル、何発弾丸が装填されているのと、言いたいくらいの射ち合いにお目にかかるが、まあそれのチャンバラ版と思えばよろしい。こういうゲーム感覚で人が死ぬのはテーマが「武士道」だけにちょっと厳しさに欠ける印象を受ける。明治維新まであと23年という時代設定は面白い。武士道は地に墜ち、ろくすっぽ刀も振り回すことができない武士。その中で忠義・武士道を守って主君を守る、一方その愚昧な君主を暗殺するさむらい達が激突するというのはもうすぐ明治維新と言う設定の中で時代錯誤とも感じるが、逆にそういう設定だからこそ忠義や武士道を金科玉条のごとく掲げる人々への皮肉な視点も感じる。作りによってはもっとリアルさを築けたろう。

「最後の赤穂浪士」役所行司、佐藤浩市主演
これも「武士道」がテーマだが、こっちはずっと渋い。内蔵助の命で16年もの間遺族をケアしてきた佐藤と、内蔵助の隠し子を素性を隠して育てた役所。その2人の貫く武士道を描いておりその忠実さはいらいらするくらいだが、この時代はそれが希薄になりかけたころでありそういう時代背景を認識したうえで見ると感動ものだろう。しかしこの武士道は結局自発的なものではなく上司に命ぜられたものだ。サラリーマン道にも通じるだろう。そういう点に共感した人々もおられるに違いない。

「バレッツ」ジャン・レノ主演のフランス映画
英語で22BULLETSとあったからこれが原題かと思いきや「IMMORAL」のフランス語が原題で悪徳と言った意味か。まあマフィア同志の抗争が背景だからそういう題も良かろう。
22発も弾丸を撃ち込まれた元マフィアの親分その犯人達を追いつめ殺してゆくという話。実話だそうだ。その親分がジャン・レノ、ただ22発撃たれて右手がマヒしている割にはえらく敏捷で嘘っぽいのが難点。実話ならもっと本当らしく作って欲しい。まあ仇討ちのプロセスが話の中心でそれはそれで面白いが、いとも簡単に殺されるのは変だし、警察の無能ぶりもいつものフランス映画らしくない。それにやたら友情や家族愛が出てくるので辟易する。題名らしくハードにやって欲しかった。ジャン・レノは「レオン」1作でもう他の作品はいらないように思う。
                                    〆

2011年7月16日
於:トリフォニーホール(18列中央ブロック)

新日本フィルハーモニー交響楽団トリフォニーシリーズ
第480回定期演奏会

ワーグナー、楽劇「トリスタンとイゾルデ」
(コンサートオペラ形式)

指揮:クリスティアン・アルミンク
演出:田尾下 哲

トリスタン:リチャード・デッカー
イゾルデ:エヴァ・ヨハンソン
マルケ王:ビャーニ・トール・クリスティンソン
クルヴェナール:石野繁生
ブランゲーネ:藤村美穂子

一年で二回もトリスタンが聴けるなんて大した時代がきたものだとつくづく思う。今日の演奏は昨年のこの団体による「ペレアスとメリザンド」と同じ演奏会形式だ。ただそうはいっても多少の演技はあり、歌う場所も指揮者の前、オーケストラの後ろ、舞台両袖の2階客席といろいろなところで歌う。そして正面には大画面がありCGでオペラの背景が映し出される。またその画面に字幕も映し出されるのでとても読みやすい。ついでに言うとこの字幕の翻訳はかなり平易になっておりわかりやすい。
 1幕はアイルランドからコンオールへ向かう海と船が映し出される、2幕では森や大きな大木が映し出されそれが少しづつ変化する。3幕は大きな半球状のものが映し出されやがてそれが地球になる。と言った具合だ。

さて、新国立の「ばらの騎士」をキャンセルしたアルミンクが戻ってきた。新聞では最初は新日本フィルとぎくしゃくしたそうだが、今日はそのようなことを全く感じさせないほど素晴らしい演奏だったように感じた。新日本フィルは前回聴いたハーディングによるマーラーもそうだったが本当に美しい音を出すようになった。以前はちょっと刺激的な音が出て気になったが少なくとも直近に2作品は全くそういうことはない。トリスタンの前奏曲から力のこもった演奏。音が徐々にふくれ上がる様は素晴らしい。そして全く嫌な音を出さないのが凄い。最後までほとんど傷のない演奏だった。今日の演奏を盛り上げた最大の功労者と言ってよい。演奏時間はおよそ218分、私の基準演奏のベーム/バイロイトライブ盤とほぼ同じ演奏時間だが1幕と3幕がベームより数分遅く、その分、2幕がベームより7分速い。幾分2幕がせせこましく感じたが、ライブのせいかあまり性急さと言った印象はなかった。
 今日の演奏でもっとも素晴らしかったのは3幕だと思う。前奏曲の気迫のこもった演奏からトリスタンが自死するまでの音楽の素晴らしさ。トリスタンは名前も聞いたこともない歌手だ。1幕では元気なくなにやらなよなよと歌っていたが、2幕の2重唱あたりからエンジンが入り3幕で最高潮と言うように聴こえた。この長大なトリスタンのモノローグを飽きさせずに聴かせたのだから相当な実力があるのだろう。決して英雄的な声でなくむしろ清潔感を感じさせるような声、系統からいうとジークムントやパルシファル向きかなと言う感じだった。
 そしてイゾルデの愛の死が更に素晴らしかった。このヨハンソンという歌手は1幕ではきんきん声でこりゃ大変だと思った。金属的な声は良くあるが、それが彼女の場合あまりピュアーでなく何か混ざりものがあるようで聞きづらい。しかしだんだん慣れてきたこともあって2幕の2重唱はまずます。そして3幕の愛の死に入るわけだがこれがうって変わって素晴らしい、気迫のこもった声で、声質がどうのこうのなんて関係なく感動的な歌だった。この曲を聴いて久しぶりに心を動かされてしまった。
 その他の歌手ではクルヴェナールが素晴らしい。声量もさることながら豊かで輝かしい声はクルヴェナールの役の重要性を感じさせてくれる。特に3幕の歌唱は感動的だった。藤村のブランゲーネもすごかった。さすがバイロイトで常連なだけのことはある。イゾルデ役がどちらかというと一本調子だったが、ブランゲーネは音色や音量の変化の自在性が素晴らしい。2幕の見張りの歌などは久しぶりに肌に粟を覚えてしまった。この両日本人とタイトル役がうまくかみ合って正月の新国立の演奏に勝るとも劣らない水準に達したと思った。特に3幕の素晴らしさは特筆ものだ。なお、マルケ王は2幕のモノローグが聴きもののはずだが、ちょっと退屈だった。
                                    〆

7月17日追記
先週金曜日にワーグナーテノールの系譜というレクチャーを聴きに行った。
堀内修氏によるもの。
ワーグナーオペラ初演の時のテノールから19-20世紀のテノール、最後に現在のテノールを時系列で紹介、一部DVDでも見せてくれた、非常に分かりやすい講義だった。面白かったのは20世紀、ウイントガッセンとコロが今のワーグナーテノール特にジークフリートやトリスタン歌いの典型を作ったという話だ。昔はそれこそ突っ立って歌っていたそうだが彼らは動けるという意味で新しい時代を作ったようだ。そういえば今の歌手は皆良く動く、まあ悪く言えば良く動かされるのだ。演出と連動しているように思った。
 現代の演奏家は17人ほど紹介されそのうち何人かが映像で紹介された。残念ながら16日のトリスタンはそのリストには載っていなかった。その中でヨナス・カウフマンが筆頭というのが堀内氏の評価だ。彼は現在ジークムントーローエングリンーパルシファルの道を歩んでいるが、本人はジークフリートやトリスタンも歌いたいらしい。それよりも彼はワグナーテノールという型に嵌まるのが嫌だそうで、イタリアものなども歌いたいようだ。彼に続くのがバイロイトでマイスタージンガーのワルターを歌ったフォークト、さらにランス・ライアン、ゲーリ・レークス(メトで活躍)、などをあげておられた。
 ワグナー歌いで必須は長丁場を最後まで歌いきること、歌詞を忘れないことだそうだ。そういう観点でみると現在はワグナー歌いは昔より格段に多いそうだ。まあ需要も多いからだろうか。また理由は複合的だろうが寿命が短いと言われていたテノールも昔ほどでなくかなり長くなっているという。ウイントガッセンも全盛期は10年未満だったそうだ。
 しかしここからは私見だが全体に小粒になったと言わざるを得ない。今でもリングのベスト録音はショルティ盤とベーム(バイロイトライブ)の2セットでしのぎを削っている。どちらもウイントガッセンがジークフリート、ニルソンがブリュンヒルデを歌っているのだ。そしてもうバイロイトは聖地とは言えない。ごく一部の歌手を除いたらどうしてもバイロイトでしか聴けないという代物でなく、もっとひどいのは演出で最近のリング、トリスタン、マイスタージンガーなどいずれも実験劇場的なものに、あえて言えば、堕している。ワーグナーは自分の親族の演出をあの世でどう見ているのだろう。

 もうひとつ面白い情報、今年の秋のバイエルン、なんと希望をとったらスタッフ、オーケストラ合わせて80人も来日しないそうである。カウフマンは来るのだろうか?
                                     〆
                                     

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