ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2011年06月

2011年6月20日
於:トリフォニーホール(22列中央ブロック)

新日本フィルハーモニー交響楽団チャリティコンサート
指揮:ダニエル・ハーディング

エルガー:創作主題による変奏曲「エニグマ」より第9変奏「ニムロッド」
(震災でなくなられた方々へ捧げる)
マーラー:交響曲第五番

今夜のコンサートは震災のチャリティである。あの3月11日の夜、トリフォニーでハーディングの指揮でこの曲を聴く予定だった。夕方トリフォニーに電話したらなんと演奏をするという。後で聞いたら聴衆は100名ほどだったらしい。しかしあの夜にトリフォニーにたどり着いた方は立派だが、演奏したハーディングも立派だ。今夜のコンサートもハーディングの発案らしい。

冒頭、震災でなくなられた方に捧げる曲としてエルガーが演奏された。これは誠に心のこもったスケールの大きい演奏で感動的だった。拍手はなし、ハーディングはそのまま黙祷し1分ほどして退場。

今年の前半でなんと今夜で3回目のマーラー五番だ、ハーディングの演奏はすこぶるつきの流麗かつ明朗なものだった。情熱的なレック/東響や無骨なヴロンスキー/読響の演奏とは一味もふた味も違った演奏でまた新しいマーラーを聴く事ができた。しかしこの流麗さはなんと表現したらよいのだろう、そういう切り口でみるとこの演奏は滅多に聴ける水準ではないと思うし、従って4楽章のアダジェットの素晴らしさは今夜の白眉。ライブでこれだけの演奏は初めてだ。2度の弦楽の盛り上がりは肌に粟を覚えるよう。新日本フィルは最高の演奏、これだけ嫌な音を出さない演奏も珍しいのではないだろうか?もう少し棘があってもと、贅沢な注文を付けたくなるくらいである。低重心のピラミッド型の音場の素晴らしさ、トリフォニーの空間に大きく広がり、うっとりと聞き惚れててしまう。新日本フィルがこんなに美しい音を出すのかと正直驚いてしまった。全体を見て特に良かったのは弦であるが、それより何より良かったのは全体のバランスであると感じた。金管も決して突出しないしティンパニなどの打楽器もバランスが良い。おそらくハーディングのトレーニングによるものではないだろうか?
 楽器の配置はヴァイオリンが1と2が相対し、1ヴァイオリンの後ろにコントラバス、1ヴァイオリンの横がチェロ、その横がヴィオラといった按排。
 ただこの流麗な演奏は、反面1楽章の葬送行進曲風のテーマは穏やかに流れて、どろどろしたものはあまり感じさせない、2楽章の中間部は少しゆるく感じた、3楽章の始まって6分くらいと終結部の前あたりの、あたかも地の底から響くようなおどろおどろしい音楽も何か角が取れて丸まっているように聴こえた、5楽章はそういう過程を経て聴くと、他の演奏のように解き放たれたようには感じられないので、この長大な曲としてのメリハリがないように思った。好悪の分かれる演奏ではなかっただろうか?
 演奏時間はおよそ70分、ショルティより5分ほど遅く、バーンスタインより4分ほど速い。上岡/ヴッパタールとほぼ同じ演奏時間だった。好みから言うともう1ノッチテンポを上げたほうがもたれないと思う。このごろもうバーンスタインは辛く、ショルティを主に聴いているからかもしれない。終演後はスタンディングオベイションもあり聴衆のおしみない拍手が続いた。
                                          〆

2011年6月15日
於:サントリーホール(LCブロック1列)

東京都交響楽団第718回定期演奏会
指揮:ジョセフ・ウォルフ
ピアノ:若林 顕
イングリッシュホルン:南方聡子

ブラームス:ピアノ協奏曲第二番
オルウィン:イングリッシュホルンと弦楽オーケストラのための「秋の伝説」
シベリウス:交響曲第七番

ブラームスはオーケストラが素晴らしい。1楽章冒頭ホルンの後ピアノが入ってきてその後に強奏になるが、もうブラームスの世界だ。低弦が充実しているのがなによりだし、高弦は全く嫌な音を出さない。中間でオーケストラを煽る場面も迫力満点で手に汗握る。3楽章もすてきだ。チェロから入り、続いて木管が順次加わり、そしてピアノがそろっと入ってくるこの美しさ。若林は豪壮な部分もよいが、このような抒情的部分も魅力的だ。きらきらと美しい。2楽章は期待したが少々エネルギに欠けるような気がした。もっとも最後の追い込みは素晴らしかったが!この曲の愛聴盤はギレリス/ヨッフムのもの。この男性的で豪快な演奏は比類ないと思う。今夜の演奏はそれより数分速い48分だった。

 オルウィンはイギリスの作曲家だそうだ。後半に印象的な場面があるものの全体に平板で面白くなかった。
 シベリウスは先日N響/アシュケナージの名演を聴いたばかりだが、今夜の演奏は一味違う。アシュケナージはいかにも北の音楽の趣で、冒頭からきりりとした、開放と言うより凝縮といった印象だ。最後に主題がもどり、オーケストラの音が壁のように屹立する様はまるで氷河の様な構造物を彷彿とさせた。しかし今夜は冒頭から開放感というか、季節でいえば冬よりも春から夏へ向かうと言った趣に聴こえた。冒頭主題の盛り上がりから速いパッセージになり、その後素晴らしい歌謡風の音楽が聴こえてくるが、これがまるで新緑が芽吹くようだし、最後に主題が戻りオーケストラが巨大にふくれあがるところも太陽が燦燦と照っているようだ。今夜も素晴らしいシベリウスを聴かせてもらった。このシベリウスも愛聴盤のカラヤンやベルグルンドより心持速い20分の演奏時間だった。
 ウォルフと言う指揮者はコリン・デービスの息子さんだそうで、親の七光を嫌って名前を変えているそうだ。今夜のオーケストラのドライブ力は素晴らしいし、音が低重心で曲想にぴったりなのが何より良い。都響も全く傷のない演奏で素晴らしい夜だった。こういう音を聴くとまたコンサートに来たくなるのだ。
                                    〆

2011年6月13日
於:東銀座・東劇

ワーグナー、楽劇「ニーベルンクの指環・第一夜・ワルキューレ」
メトロポリタン歌劇場公演(2011年5月14日上演をHDヴィデオ収録したもの)

指揮:ジェームズ・レヴァイン
演出:ロベール・ルパージュ
ブリュンヒルデ:デボラ・ヴォイト
ヴォータン:ブリン・ターフェル
フリッカ:ステファニー・ブライズ
ジークリンデ:エヴァ・マリア・ヴェストブルック
ジークムント:ヨナス・カウフマン
フンディング:ハンス・ペーター・ケーニッヒ

映画館でヴィデオ収録したものを見るなんてと思っていたが、前作の「ラインの黄金」の評判が良いので見に行くことにした。結論を言うと予想以上によかった。17:30に始まって終わったのは22:45でくたくたになったが充実感は残った。実質の演奏時間は228分だったが、幕の前後に出演者のインタビューそして休憩時間もありトータルでは5時間以上になってしまった。正直言ってインタビューはあまり噛み合わないので面白くない。ドミンゴが質問するのだが出演者の答えはしゃべっているのだがほとんどまともに質問に答えていないから。そりゃそうだろう、出演の何分か前までインタビューされるほうも気もそぞろだろう。

 演出、装置、オーケストラそして歌い手がどんぴしゃ決まった演奏だったように感じた。終演後のスタンディングオベイションもすごく、これをライブでみたら興奮しただろうなあとうらやましく思った。
 演出はフランス人らしい名前だが、変な読み替えや訳のわからないしぐさなど全くない、ト書きにほぼ近いものだった。ワルキューレたちへのインタビューで「楽譜どおりだったし、舞台の位置取りもまともで観客席に近かったので歌いやすかった」と言っていたし、ヨナス・カウフマンも舞台のアコースティックがよくて歌いやすかったと言っていたのが印象的だった。要は如何に歌手達を歌いやすくするかということを常に念頭に置いた演出のように感じた。だからといって何もしていないのではなく肌理細かい、印象的な動きもある。例えば1幕でジークムントにジークリンデが蜜酒を出すが、ジークムントは味見をして欲しいという(毒見のこと)がこの演出では、ジークリンデがコップの口をつけたところを探してカウフマンがそこに口を当てて呑むなんて洒落たことをやっている。もうこの時点でお互いがびびっときていることをあらわしているように感じた。ジークムントの生い立ちの歌のあとも二人が密かに手を触れ合うなんて場面もある。2幕のフリッカとヴォータンとの修羅場のあと、フリッカが勝ち誇って退場というのがト書きだが、この演出ではフリッカはヴォータンに勝ったが、その代わりヴォータンのフリッカへの愛は失われたというようにフリッカはがっくりきて退場するなどなど。これらは決して歌の邪魔にならないし動作も単純でわかりやすいのが良い。ただ2幕のジークムントの死の場面はフンディング、ヴォータン、ブリュンヒルデ以外にフンディングの仲間がうろうろしているのが邪魔で、ヴォータンがノートゥンクを打ち砕きそれにより、ジークムントがフンディングに槍で刺されるシーンが、整理されていないように感じたのはちょっと残念だ。
 圧倒されたのは装置である。舞台上に24枚の板状(正面から見ると板に見える)の構造物がありそれが横通しにつながっている。各板にはエンコーダーが埋め込まれており、コンピューター制御でそれぞれ独立して回転する。駆動源は油圧のようだ。重量がなんと45Tもある。この回転する構造物にCG映像が照射され、1幕では森になり、フンディングの館になる。2幕では岩山になる、3幕ではワルキューレたちの馬にもなるし、ブリュンヒルデが横たわり火に囲まれる岩山になる。この最後の魔の炎のシーンは忘れられない、24枚の構造物が宙に浮いたように見えそれがぐるぐる回るのである。それにCGの映像うが照射されるので美しいこと極まりない。
 歌手はほとんど穴がない。ブリン・ターフェルはまだ2回目のヴォータンらしい。若々しく、人間的なヴォータンである。神のようには見えないが今のヴォータンはみんなこうだから違和感がない。フリッカにこてんぱにやられておろおろするし、ブリュンヒルデとの別れも何かヴォータンのほうが辛そうに感じた。そりゃそうだろう、ブリュンヒルデはジークフリートによる救済を約束されたのだから、悲しさより喜びだ。ただ3幕の「さらば勇ある輝かしい子・・・」以降の歌唱は少々粗雑と言うか集中力を欠いたように聴こえた。まあ期待が大きいせいだろうと思う。
 デボラ・ヴォイトのブリュンヒルデは初役だそうだ。声の質に私は少々違和感があった。可愛らしすぎて戦乙女のイメージには合わないのではないだろうか?ジークリンデを以前歌っていたそうだがそちらのほうが良いように思った。まあこれは贅沢な話です。
 ヴェストブルックは2008年のバイロイトでもジークリンデを歌っておりそのときもとても良かったがこの公演は更に素晴らしい。声は全く無理なく素直に伸びきっていてジークリンデにぴったりではないか?特に2幕、3幕の出番は短いがそれぞれでの存在感には圧倒される。
 カウフマンのジークムントは初役らしいが、流石に今世界で評判をとっているだけのことがあって、素晴らしいジークムントだった。特に叙情的な部分の美しさは聴きもの。「冬の嵐は去り・・・」などはそうざらには聴けない歌唱ではなかろうか?ただ声を張り上げる場面、例えば父親のウエルゼの名前を何回か呼ぶ場面などはちょっと余裕がないように感じた。これは劇場のスピーカーのせいかもしれない。
 フリッカのブライズとフンディングのケーニッヒはそれぞれ素晴らしく脇をしっかり固めていた。特にブライズは印象的。デボラ・ヴォイトのようにダイエットしたらよいかもしれない。
 ワルキューレたちの歌も立派だった。バイロイトより迫力があった。彼女達が例の板の上にまたがり、その板が上下に動くさまは、まるでうまに乗っているようで効果抜群だった。

 レヴァインの作り出す前進力のある音楽作りには圧倒された。この演奏で特筆すべきところだろう。特に素晴らしかったのは2幕だ。この幕は長大かつ冗長(失礼)な音楽でCDなどで聴いていると飽きてしまって途中をパスすることもあるが、この公演はどの場面も素晴らしく、いささかの弛緩もなかった。ヴォータンとフリッカの修羅場、ブリュンヒルデの死の告知、そして最後の決戦の場など劇的な場面の畳み掛けるような音楽には圧倒されてしまった。演奏時間はティーレマンの2008年バイロイトの演奏と、ベームのバイロイトの演奏のちょうど中間だった。印象としてはかなり緩急をつけたように感じた。

 映画館の音響には余り期待はしていなかったけれどちょっとがっかりした。ほんとうに5・1サラウンドなのだろうか?オーケストラは全く広がりがなく、スクリーン中央に団子状に固まって聴こえるし奥行きや高さもあまり感じられない。声も目を瞑ると大きな口がイメージとして湧いてきてしまう。まあこれは映画用だから仕方がないとは思う。ただ音の芯はしっかりしておりこの名演奏を楽しむのに問題があったわけではない。
 音楽と舞台演出の独創性の両立は難しいのではないかとあきらめていたが、この公演が答えを出してくれたように思った。来シーズンのジークフリートと神々のたそがれが今から待ち遠しい。
                                           〆

2011年6月11日
於:サントリーホール(17列中央ブロック)

東京交響楽団第590回定期演奏会
指揮:クスシュトフ・ウルバンスキー
ヴァイオリン:諏訪内晶子

ルトワスキー:小組曲
シマノフスキー:ヴァイオリン協奏曲第二番
ショスタコーヴィチ:交響曲第10番

ウルバンスキーはまだ28歳のポーランドの新鋭、コンクールの優勝歴もあるようだ。指揮ぶりは若いにもかかわらず力ずくでなく柔軟性のあるスタイルでなかなか印象は良かった。
 ショスタコーヴィチの十番はヤンソンス/フィラデルフィアで聴いているが1楽章は抑圧されたような陰鬱な音楽が続くが2,4楽章などとてもオーケストラの機能性を最大限に追求したような凄まじい音楽で印象的だ。今夜も2楽章の短い(4分くらい)楽章が猛スピードで突っ走る様は痛快で若さの爆発だ。4楽章はアンダンテーアレグロだがアンダンテの部分ではしなやかな演奏を引き出していたし、アレグロ部分の盛大な高揚感は素晴らしい。特に最後の盛り上がりはホールが鳴動するようで手に汗握る名演だと思った。
 シマノフスキーはポーランドの作曲家、ウルバンスキーのご当地ソングだ。リトワスキーも同じ。諏訪内のヴァイオリンは相変わらずの美音で、なおかつ力強い。ホールの隅まで響き渡る。聴きものはカデンツァとそれに続く後半の部分だ。抒情性と音の鮮烈さの両立した素晴らしい演奏だ。オーケストラの伴奏もいうことない。アンコールはバッハの無伴奏ソナタ第3番からアンダンテ。
 ルトワスキーの小組曲は全く初めての曲だったが、ポーランド民謡を素材にしているせいか入りやすい。第一組曲の冒頭ピッコロと4丁(?)のヴァイオリンだけだが実に印象的な音楽で引き込まれる。これだけピッコロが表に出る曲も珍しいのではないか?2楽章にも登場。またショスタコーヴィチで1楽章でピッコロが活躍する。ピッコロのために選曲したわけでもあるまいが!演奏も楽しげで今夜どれが最も良かったかと聞かれたら、迷った挙句リトワスキーと言うかもしれない。
 今夜のプログラムはポーランド・ロシアの20世紀の作品3曲だったので嫌な予感がしたが演奏のせいか全く飽きずに楽しんでしまった。東響も今夜は全く傷がなく、特にショスタコーヴィチは金管、木管、弦すべてのバランスがとれていて完璧に近い演奏だと思った。こういう水準の演奏は滅多に聴けないのではないだろうか?
 冒頭楽団長から川崎ミューザは復旧に2年かかると報告があった。ミューザは音響的に素晴らしいのでとても残念である。
                                    〆
 

2011年6月5日
於:新国立劇場(16列中央ブロック)

モーツァルト、歌劇「コジ・ファン・トゥッテ」

指揮:ミゲル・A・ゴメス=マルティネス#
演出:ダミアーノ・ミキエレット
フィオルディリージ:マリア・ルイジ・ボルシ#
ドラベッラ:ダニエラ・ビーニ
デスピーナ:タリア・オール#
フェルランド:グレゴリー・ウォーレン#
グリエルモ:アドリアン・エレート
ドン・アルフォンソ:ローマン・トレーケル
合唱:新国立劇場合唱団
管弦楽:東京フィルハーモニー管弦楽団
(注:#印は代演)

 何とも殺伐とした終わり方だ。フィオルディリージとグリエルモ、ドラベッラとフェルランドは大喧嘩して別れるし、グリエルモとフェランドの友情も壊れ喧嘩別れというこのオペラブッファを台無しにする結末だ。過去婚約者同志の別れを予感させるような終わり方をしている演出は経験あるが、このような露骨な喧嘩別れは初めてだ。磯山 雅氏の作品ノート(プログラム15ページ):”婚礼の場に続く、出来事の種明かし、修羅場を経ての和解、理性をたたえる合唱”などという発想は全くないのだ。これはもうブッファではなく男女の修羅場そのものの演出だ。とにかくモーツァルトのこの作品をこういうように演出するという感性が信じられない。これはもうダ・ポンテ/モーツァルトの合作による芸術とはまるで違う世界の作品と言わざるを得ない。
 この演出の設定は今世紀だそうだ。しかもキャンプ場の設定(アメリカ?)。2組のペアはキャンプのお客。ドン・アルフォンソはキャンプ場の経営者兼管理人、デスピーナはキャンプ場の売店の売り子だ。セットは1幕がキャンプ場の管理棟、女性のキャンピングカー。裏側が小山になっていてその裾にテーブル。2幕も同じだが小山の裾に池があり歌手はこの中で歌ったり演技したりする。フェルランドとグリエルモはバイク野郎に変装する。とにかく読み替えに頭を絞って必死という印象。しかしこの演出家の読みが如何に皮相かは是非この演出家の演出ノート(プログラム5-6ページ)を読んでいただきたい。そして17ページから20ページまでの磯山氏の実に鋭い分析と比べて欲しい。

 さて、もう演出についてはやめておこう。私は決して懐古趣味ではないが1974年のザルツブルグのベーム/ウイーンの演奏が懐かしい。これはCDでも聴ける。このほうがずっとこの作品の本質に迫っているのではないだろうか?
 音楽はどうか、管弦楽はなぜか元気がない。自信はないが古楽奏法ではないだろうか。ヴァイオリンがいやにすっきりしているのだ。幕間でピットをのぞくとティンパニがバロックティンパニのようだった。まああまりいい加減なことは言うまい。こういう新し物好きの演出なのだから音楽ももう少し羽目を外したらどうかと思うがかなりまともで面白くない。チェンバロも存在感が薄い。
 歌手陣は主役級の3人が代演。だからというわけではないが、歌唱としてはそうひどいとは思わないが、心に響いて聴こえてこない。特にフィオルディリージには個人的には不満が大きい。例えば14曲や25曲はもう少し心に訴えるような歌唱を望みたい。ところどころで絶叫調になるのも興ざめ。ドラベッラは少し脳天気風な役回りを歌唱でも表わしておりまずまず。デスピーナは全くブッファ風ではないのが不満。ベームの時はレリ・グリストだったがその面白さはない。例えば婚約者2人が偽装自殺した時に医者に化けるが、グリストのその歌い方のおかしいこと、また2幕では公証人に化けるが、これも実に愉快な歌唱だ。ザルツブルグはト書き通りの演出だが聴き比べていただきたい、ベームのほうがずっとモーツァルトに近いということがわかるだろう。
 男性陣ではドン・アルフォンソがデスピーナと同じことが言える。2人の婚約者はまずまず。特にグリエルモは柔らかい声が印象的だ。歌が心にしみこまない理由はただ一つ、歌手に過酷な演技を要求しているからであると私は思う。小山から転げ落ちたり、池の中に入って歌ったり、着たり脱いだり、テントを組み立てながら歌ったり、とにかく忙しい。こんな状況では歌手に大きな期待はできないだろう。演出の役割は歌手に歌いやすい環境を作ることではないかと思うが今日の演出は歌手は二の次としか思えない。新国立の今年のトリスタンとイゾルデの公演はまさに歌手が主で演出が従の公演だった。その公演が懐かしい。
 しかし指揮者を含めて4人も主演級の演奏家がキャンセルしたのは全く残念だ。まあ不可抗力だが詐欺的公演と言わざるを得ない。
                                    〆

↑このページのトップヘ