2011年5月14日
於:サントリーホール(17列中央ブロック)
東京交響楽団 第589回定期演奏会
指揮:ユベール・スダーン
ヴァイオリン:クリスティアン・テツラフ
ピアノ:アレクサンダー・ロンクィヒに代わって児玉 桃
シェーンベルク:室内交響曲第二番
メンデルスゾーン:ヴァイオリンとピアノのための協奏曲
ベートーベン:交響曲第三番「英雄」
スダーンが帰ってきた。しかし今夜もまた外来演奏家のキャンセルだ。テツラフは来るがロンクィヒは来ない、フェリシティー・ロットは来るが、ムターは来ない。この違いはどこから来ているのだろう。来る来ないは個人の判断だろう。それは認める。しかし神から天賦の才能を与えられた人々は、それなりの「矜持」というものを持つべきだと私は思う。演奏すること、それが芸術家という道を選んだ人々の使命なのだから。アツモンが都響の演奏会の冒頭の挨拶で「こういう時だからこそ自分は東京にいるのだ」と語った。至言であろう。
シェーンベルクは先に大友の指揮で「一番」を聴いたが、「二番」のほうが調性音楽のせいか聴きやすい。でもこの曲何回聴いても頭に入らない(ラトル/バーミンガムのCD)。今夜も同じ。ただ2楽章の後半コントラバスがごりごり弾くところがあるが、ああシェーンベルクも独墺系の作曲家だなあと改めて感じた。
メンデルスゾーンは14歳の時の作品、シューベルトの同じ年代の交響曲と違って、こじんまりとまとまった曲。シューベルトはもうその時シューベルトだった。この曲は初演されたあとお蔵入りしていて、今夜の管楽器、ティンパニ付きで再演されたのは、なんと1999年というのだから驚き。お世辞にも隠れた名曲とは言いにくいと個人的には思います。それにしてもテツラフのヴァイオリンの美しいこと。例えは悪いが我が家のB&Wのスピーカーのように美しい。それとシェーンベルクもそうだが、バックの東響の室内オ-ケストラとしてのバランスの良いこと。それだけでも聴く価値がある。
さて、最後はベートーベンだ。この演奏はスダーンの強烈な一撃だ。彼の演奏でベストの一つに入るのではないだろうか?演奏時間は44分である。私の経験では最速だと思う。そしてこれだけわき目も振らずクライマックスへ直進する英雄も珍しいのではないだろうか?弦楽はノンヴィブラートであるためか全体にすっきり、というよりもむしろキリリと引き締まったという印象だ。これが更にスダーンのベートーベンに力を与えているように思う。英雄はベートーベンが大転換を遂げた曲だが、30歳初め青年が作曲したものだということをお忘れなくとスダーンが言っているようだ。それくらい切れば血の出るようなフレッシュなベートーベンなのである。
1楽章がその典型である。この休みなく進む前進力と直進性は何なんだ!驚きの楽章である。スダーンは一呼吸もおかずコーダに向かう。再現部からコーダにかけての緊張感は肌に粟を覚えるようだ。
2楽章は異様に速い(13分)、しかし荒れ狂うフーガはベートーベンがのたうちまわっているようだ。
3楽章はスケルツオが素晴らしい。この前進力から発するエネルギーの巨大なこと。
そしてクライマックスの第4楽章は中盤からコーダにかけての推進力、そして最後の爆発のための一呼吸の美しいこと。コーダの高揚感は圧倒的だ。
東響の演奏も素晴らしい。高弦はつやつやしてさわやか、微塵もうるさい音を出さない。低弦もどっしりだ。金管もそれに呼応してバランスが良く、しかもパワーは減量していない。木管の美しさも特筆したい。ティンパニも切れる。全体にピラミッド状の音が展開して素晴らしいの一言だ。こういうベートーベンが日本のオーケストラから聴けるとは思わなかった。
このスダーンのベートーベンは私が聴いたどの演奏にも似ていない。スダーンの演奏を聴くと他の指揮者は少しよけいなことをし過ぎているのではないのと思ってしまう。こういうベートーベンもあるのだ。こういうのは駄目という方もおられると思うが、私はこの演奏が好きだ。
今夜はボリュームたっぷりのコンサートでした。終演は八時をはるかに過ぎていました。
〆
於:サントリーホール(17列中央ブロック)
東京交響楽団 第589回定期演奏会
指揮:ユベール・スダーン
ヴァイオリン:クリスティアン・テツラフ
ピアノ:アレクサンダー・ロンクィヒに代わって児玉 桃
シェーンベルク:室内交響曲第二番
メンデルスゾーン:ヴァイオリンとピアノのための協奏曲
ベートーベン:交響曲第三番「英雄」
スダーンが帰ってきた。しかし今夜もまた外来演奏家のキャンセルだ。テツラフは来るがロンクィヒは来ない、フェリシティー・ロットは来るが、ムターは来ない。この違いはどこから来ているのだろう。来る来ないは個人の判断だろう。それは認める。しかし神から天賦の才能を与えられた人々は、それなりの「矜持」というものを持つべきだと私は思う。演奏すること、それが芸術家という道を選んだ人々の使命なのだから。アツモンが都響の演奏会の冒頭の挨拶で「こういう時だからこそ自分は東京にいるのだ」と語った。至言であろう。
シェーンベルクは先に大友の指揮で「一番」を聴いたが、「二番」のほうが調性音楽のせいか聴きやすい。でもこの曲何回聴いても頭に入らない(ラトル/バーミンガムのCD)。今夜も同じ。ただ2楽章の後半コントラバスがごりごり弾くところがあるが、ああシェーンベルクも独墺系の作曲家だなあと改めて感じた。
メンデルスゾーンは14歳の時の作品、シューベルトの同じ年代の交響曲と違って、こじんまりとまとまった曲。シューベルトはもうその時シューベルトだった。この曲は初演されたあとお蔵入りしていて、今夜の管楽器、ティンパニ付きで再演されたのは、なんと1999年というのだから驚き。お世辞にも隠れた名曲とは言いにくいと個人的には思います。それにしてもテツラフのヴァイオリンの美しいこと。例えは悪いが我が家のB&Wのスピーカーのように美しい。それとシェーンベルクもそうだが、バックの東響の室内オ-ケストラとしてのバランスの良いこと。それだけでも聴く価値がある。
さて、最後はベートーベンだ。この演奏はスダーンの強烈な一撃だ。彼の演奏でベストの一つに入るのではないだろうか?演奏時間は44分である。私の経験では最速だと思う。そしてこれだけわき目も振らずクライマックスへ直進する英雄も珍しいのではないだろうか?弦楽はノンヴィブラートであるためか全体にすっきり、というよりもむしろキリリと引き締まったという印象だ。これが更にスダーンのベートーベンに力を与えているように思う。英雄はベートーベンが大転換を遂げた曲だが、30歳初め青年が作曲したものだということをお忘れなくとスダーンが言っているようだ。それくらい切れば血の出るようなフレッシュなベートーベンなのである。
1楽章がその典型である。この休みなく進む前進力と直進性は何なんだ!驚きの楽章である。スダーンは一呼吸もおかずコーダに向かう。再現部からコーダにかけての緊張感は肌に粟を覚えるようだ。
2楽章は異様に速い(13分)、しかし荒れ狂うフーガはベートーベンがのたうちまわっているようだ。
3楽章はスケルツオが素晴らしい。この前進力から発するエネルギーの巨大なこと。
そしてクライマックスの第4楽章は中盤からコーダにかけての推進力、そして最後の爆発のための一呼吸の美しいこと。コーダの高揚感は圧倒的だ。
東響の演奏も素晴らしい。高弦はつやつやしてさわやか、微塵もうるさい音を出さない。低弦もどっしりだ。金管もそれに呼応してバランスが良く、しかもパワーは減量していない。木管の美しさも特筆したい。ティンパニも切れる。全体にピラミッド状の音が展開して素晴らしいの一言だ。こういうベートーベンが日本のオーケストラから聴けるとは思わなかった。
このスダーンのベートーベンは私が聴いたどの演奏にも似ていない。スダーンの演奏を聴くと他の指揮者は少しよけいなことをし過ぎているのではないのと思ってしまう。こういうベートーベンもあるのだ。こういうのは駄目という方もおられると思うが、私はこの演奏が好きだ。
今夜はボリュームたっぷりのコンサートでした。終演は八時をはるかに過ぎていました。
〆