ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2011年04月

2011年4月16日
於:サントリーホール(17列中央ブロック)

東京交響楽団第588回定期演奏会
指揮:大友直人
クラリネット:ポール・メイエ

シェーンベルク:室内交響曲第一番(オーケストラ版1935年)
モーツァルト:クラリネット協奏曲
ラヴェル:ボレロ

とても素晴らしいモーツァルトを聴いた。この彼が亡くなった年に書いたクラリネット協奏曲は、何年か前、有名なカール・ライスターの演奏を聴いたのが初めてだが、その時は何か平板で面白くないなあと思った。クラリネットが全然冴えなかったのが印象的だった。
 しかし今夜のメイエのクラリネットは音色の変化、音量の変化がめまぐるしく、クラリネットの技巧の限りを尽くしたこの曲の素晴らしさを、初めて味わうことができたような気がした。全体に軽いフットワークで約26分で駆け抜ける。CDのライスター/カラヤン盤は約30分だからその速さはかなりなもんだ。しかし性急感は全くなくむしろ爽快感が残る。しかしそうは言っても2楽章はテンポを落とし、心のこもった演奏で感銘を受けた。また3楽章はものすごい速さで吹ききるが明朗感が充満していて、2楽章の死を予感するような諦めの音楽を吹き飛ばす。弱いところは聴きとれないくらい弱く吹くが、しかしその音はオーケストラに埋没することなく、ホールに沁みとおるのだから不思議だ。そして最強音ではオーケストラと対抗して負けないくらいの音を出す。本当にこの音を聴いているだけでもうわくわくしてしまう。絶えず大友のほうを向き2人で語り合いながら、音楽を作っているようだ。オケが小編成なのも良い。とにかくもうこの曲で今日は帰っても良いと思った。
 アンコールはメイエによる震災に被災者への哀悼のスピーチがあり、この曲の2楽章を演奏した。これもまた一層心に響く演奏だった。
 今年の東響のテーマはシェーンベルクだそうでシーズンの初日は室内交響曲一番だった。今夜はそのオーケストラ版。この曲の初演は室内オーケストラ版で1906年だが今夜のフルオーケストラ版は1935年に初演されている。正直言ってモーツァルトが「音楽」ならこの曲は「音遊」だと私は思う。音で遊んでいるだけで正直全く面白くない。室内版のCD(ラトル/バーミンガム)で予習していったが大体この曲、最後まで聴けたためしがない。いつも最後の楽章で寝てしまう。もう少し勉強しなくてはいけないのだろうか!!!
 ボレロが最後。以前の日本のオーケストラなら、金管が外しまくるような場面も散見されたろうが、流石今のオーケストラはそのようなことはない。しかしこの曲はただ弾ければ良いもんではないだろう。同じ旋律が続くだけの曲なのだから、個々の楽器の音色、技術、全体の統一がうまくないと退屈してしまう、正直今夜は退屈だった。昨年聴いたフィラデルフィアの演奏した火の鳥のような極彩色の音が出せないと、この曲の魅力は半減するだろう。クライマックスもうるさくがなりたてるだけだった。
 今夜はメイエのクラリネットに尽きる。
                                    〆

2011年4月15日
於:東京文化会館(25列中央ブロック9

東京都交響楽団第714回定期演奏会Bシリーズ
指揮:モーシェ・アツモン
ヴァイオリン:竹澤恭子

エルガー:ヴァイオリン協奏曲
ブラームス:交響曲第二番

冒頭、アツモン氏より震災で亡くなられた方への哀悼のスピーチ、印象的だったのは「私はなぜ東京にいるのか?それはこの困難で厳しい状況だからこそいるべきだと思った」というくだりである。多くの海外の演奏家が来日を見合わせたり、又帰ってしまったりした中、日本人の音楽愛好家としてこんなにうれしい言葉はないだろう。

 フィレンツェ歌劇場のメンバーもそそくさと帰ってしまったが、指揮者のズービン・メータは、歌手たち一人ひとりに、こういう時だからこそ、私たちは演奏しなくてはならないと、説得したそうだ。その後メータは再来日してベートーベンの第九を振っている。
 そういう芸術家が存在する中で、最も残念だったのは東響のユベール・スダーンも新日本フィルのアルミンクもキャンセルしてしまったことだ。地震や原発は怖いだろう、私たち日本人だって怖い。だからキャンセルは仕方ないという向きもあるかもしれない。私もそれは理性では理解するのだ。だが彼らが客演指揮者ならまだわかる、しかし彼らはそれぞれの楽団のリーダーではないのか?リーダーが部下を残して帰ってしまうというのは、私には理解できない。例えは悪いが東電の社長が病で倒れた時に同情よりも批判のほうが大きかったのではなかったか?それはリーダーはどんなに苦しくても陣頭に立つべきものだからだ。もしヨーロッパのどこかで原発事故が起きたら彼らはどこに行くのだろう? 彼らの芸術を愛し、尊敬するからこそ今回の行動はいろいろな意味で私はとても残念だし淋しい。

さて、スピーチの後バッハの「G線上のアリア」が演奏され、黙とう。舞台は薄暗いまま。一度演奏者は全員引き揚げ再度登場しプログラムが始まった。
 今夜のブラームスは一言でいえば楷書風だ、特に両端楽章がそうだ。一つ一つの音を一画一画丁寧に表わしてゆくから、建てつけが実に堂々として、いかにもドイツの重厚な音楽を聴いているという気にさせられる。しかし反面チャーミングな2,3楽章が少々武骨に聴こえるのは仕方のないことだろう。
 オーケストラも十分応えて都響の持ち味を出していた。特に金管とティンパニの気迫のこもった音は忘れ難い。
 最初のエルガーのヴァイオリン協奏曲は正直言って少々退屈だった。この曲50分以上もかかる大曲。だから退屈というわけではないが、とにかくしつこいのである。特に両端楽章。私はエルガーの交響曲一番のファンであるが、その曲でも感じるのは、ああここで盛り上がるなあと思っているとすっと肩すかしされていしまうところである。なかなか埒が明かないのだ。3楽章などは終わりそうなそぶりを見せるのだが、すっと引いてしまって元に戻るなんてことを何度もやっている。初演はクライスラーが弾いて大喝さいだったそうだが、イギリス人はこういうのが好きなのだろうか?プログラムに書いてあったがイギリス以外ではあまり演奏されないとのこと。納得。ただこれはおそらく超難曲でヴァイオリストにとってはチャレンジし甲斐のある曲だろう。竹澤のヴァイオリンは1742年製のグァルネリ・デル・ジェス・ヴィエニアフスキーだそうで素晴らしく美しい。違う曲で聴いてみたい。
                                    〆

2011年4月10日
於:新国立劇場(13列中央ブロック)

リヒァルト・シュトラウス「ばらの騎士」
指揮:マンフレッド・マイヤーホーファー
演出:ジョナサン・ミラー
元帥夫人:アンナ=カタリーナ・ベーンケ
オックス男爵:フランツ・ハヴラタ
オクタヴィアン:井坂 恵
ソフィー:安井陽子
ファニナル:小林由樹
マリアンネ:黒澤明子
ヴァルツァッキ:高橋 淳
アンニーナ:加納悦子
警部:長谷川 顕
テノール歌手:水口 聡
演奏:新日本フィルハーモニー交響楽団
合唱:新国立劇場合唱団

震災の影響で指揮者や主役級が大幅に入れ替わりかつてのBキャストのように、日本人中心の公演になってしまった。やむを得ないこととはいえ残念。特にカミラ・ニールントと指揮のアルミンクは楽しみにしていたので残念。今日はオーケストラピットにアルミンクの手勢の新日本フィルが入るのでまさかと思ったが来日できなかった。
 新キャストは短い時間でよくここまでこぎつけたなあと感心した。また強く感じたのは改めて日本人の水準が歌唱も演技も随分上がったなあということである。特にオクタヴィアンの井坂は男役・女役の歌い分けを含めて、この演出で以前聴いたツィトコーワと比べても優るとも劣らないと思った。その他主役級の日本人に穴がないのがこの急ごしらえの公演でも達成できたのは実に喜ばしいことだ。ただここまで来たら更に上を目指して欲しいものだ。日本人たちは声を張り上げるとどうしてもいっぱいいっぱいになってしまって、余裕がなくなってしまう。例えば歌手役の水口は声は綺麗だがピークに余裕がなくはらはらしてしまう。その他の歌手も同じ。
 ハヴラタにしてもベーンケにしてもそんなことはないのだ。ハヴラタは野卑で助べえだが根は小心といった役作りで、特に3幕などはぼこぼこにされるわけだが、声も演技もうまいもので聴衆からブラヴォーを浴びていた。ベーンケは初めて聴くが姿かたちも美しく声も3幕の3重唱で素晴らしい歌唱を聴かせてくれた。
 ジョナサン・ミラーの演出は3度目だがどうしても100年、時代を繰り上げる理由がわからない。ト書きでは18世紀初頭だが、この演出では作曲した時代を舞台にしている。しかし’「いつの時代にも変わらないテーゼ」を呈示するのがホフマンスタール文学の真骨頂’(プログラム32ページ引用)であるならばト書き通りで何ら支障はないのではないだろうか?
 良かったのは3幕だ。大勢の人々が登場しごちゃごちゃする場面であるがうまく整理されていて飽きさせない。最後まで楽しかった。そして女声の三重唱はいつ聴いても感動的だが、今日も「私が誓ったことは、彼を正しい仕方で愛する事でした」と歌いだしたとたん涙腺が緩んでしまった。この曲は昔はあまり良いとは思わなかったがこのごろ年を経るにつれ「時の移ろい」を感じるせいか元帥夫人への感情移入がどんどん強くなってきている。ベーンケは3重唱の最後の部分がちょっときつかったがそれ以外は不満なかった。
 指揮はウィーンのにおい立つような音ではなく、むしろがっしりしたドイツの音楽のようだった。1幕の導入の音楽もたくましい。新日本フィルも最初は弦が少々荒れているなあと思ったがそのうち気にならなくなった。指揮者は如何にも職人風な指揮ぶりしっかりと音楽を作ったように思った。
 終わった後も珍しくスタンディングオベイションもあったがこのような状況で来日した3人の演奏家への感謝の気持ちもあったのかもしれない。
                                    〆

2011年4月9日
於:ウェスレアン・ホーリネス淀橋教会

バッハ「ヨハネ受難曲」
福音史家・テノール:石川洋人
イエス:藤井大輔
ソプラノ:藤井美苗
ペテロ/ピラト:浦野智行
オルガン・チェンバロ:北谷直樹
合唱・管弦楽:ヨハネス・カントーレス
指揮・アルト:青木洋也

ヨハネス・カントーレスは古楽によるバッハなどの宗教曲を得意にしている演奏団体のようで、一部バッハコレギウムのメンバーも入っているとのこと。合唱はアマチュア中心。
バッハは自分にとって最も遠い作曲家であることは何度も記しているが、それでも昨年末のリフシッツによる平均律全曲や、今年2月のブリュッヘン/新日本フィルによるミサ曲ロ短調などを聴いてきて、少しずつ近づいてきた。しかしマタイにしろヨハネにしろ、こてこての宗教曲は、あえて遠ざけてきた。今回ヨハネを聴いたのは友人がヨハネス・カントーレスのメンバーだったということにつきる。
 しかし、予習にリヒター/ミュンヘンバッハによる演奏を何度も聴くうちに、この曲の面白さがだんだんわかってきた。それは決して宗教心からでなくキリストの受難の物語の劇的なことと、音楽の素晴らしさによるものである。受難の物語は映画では「聖衣」、「クォヴァデス」、「キングオブキングス」、「ベン・ハー」、「パッション」など枚挙のいとまがないくらいある。それほどこの話は世界の人々を、例え宗教心がなくても、惹きつけているのだ。危険を恐れずに、また不遜にも無宗教の私にはこのような18世紀の「ヨハネ受難曲」の延長に今日のキリストの映画があるように思う。バッハと同時代の人々でこの曲を聴いた人々は、宗教心+その劇的効果で感動したのではないだろうか?というより驚倒したのではないだろうか?私も今日この曲を聴いて(ライブは初めて)受難の物語に共感するとともに音楽に感動したわけだが、何度もいうようにそれは決して宗教心からではないのである。それくらいこの受難劇とバッハの音楽は普遍性があるのではないのだろうか、と改めて感じた。
 という程度のヨハネ体験なので大したことは書けないが、率直な印象を記しておきたい。
 この淀橋教会はコンクリートむき出しで祭壇もなくオルガンもない殺風景な教会で、しかも天井は無茶苦茶高いので音響はどうかと心配したが、小編成(ヴァイオリンが1,2合わせて6人)でも豊かな響きで安心した。合唱も広い会場(7-800人くらい入るのだろうか)の隅々まで通り美しい。
 まず、合唱だが随所に荒削りなところを見せているがそれが逆にフレッシュさでもある。劇的な場面ではその良さが生きている。端的な例では吃瑤裡拡屬旅臂Г如屮淵競譴離ぅ┘后廚閥ぶところなどは迫力がある。局瑤任魯團薀箸鳩化阿箸里笋蠅箸蠅覆匹發修Δ如∪燭鳳撚茲鮓ているみたいで手に汗を握る。その反面吃瑤裡紅屬離灰蕁璽襦崙鬚里澆海海蹐旅圓錣譴鵑海箸髻ΑΑΑ廚覆匹良分はどうしても単調というかのっぺりしていて面白くない。リヒターのCDではむしろ私にはこれらのコラールが魅力に思えたのに!ただ20番「ペテロ、主の警めを思い出さず・・・」や21番「われらを救いたもうキリストは・・・」の二つは劇的なせいか聴かせる。印象だがバッハが書いた合唱部分は生き生きしているが、そうでない挿入のコラールは何か精彩さを感じなかった。例えば67番の「憩え、やすらけく、聖なる御骸よ・・・」は素晴らしいが65番のコラール「おお,力を与えたまえ・・・」はなぜか平板に感じた。また全体に女声陣は力強さを感じたが男声は人数がかなり少ないせいか少々弱弱しく感じられた。

 独唱ではソプラノの藤崎が声に温かみがあり魅力的、もう少し張りと伸びやかさがあれば言うことなし。バスの藤井は声は出ているのだが声に締まりがないように思った。バスの浦野は落ち着いていて独唱陣のなかでの安定感は第一だと思った。問題は福音史家/テノールだ。福音史家は超難役であることは認めるが、もう少し舞台回しとしての劇的な面の演出と言ったものが欲しかった。例えば30番「バラバは強殺者なりき・・・むちうちに処す」は悲痛の極みであるが声が裏返って次のバスの素晴らしいアリオーソにバトンタッチができない。その他でも19番アリア「ああ、我が念いよ・・・」も苦しげで吃瑤虜埜紊鮠?襯▲螢△砲靴討亙足りなかった。アルトは指揮者の青木が歌っている。ブリュッヘンの時も男性が歌っていたが個人的には女性に歌って欲しい。特に11番「わが身に絡みつく・・・」はそうである。この曲は私にはキリストの絶望の曲としか聴こえない(普通は我々を戒めから解放するという意の曲らしい)がこれは「女声」で母マリアが絶望するキリストを抱擁するように歌って欲しいのである。まあ個人的な願望です。
 しかし58番のアリア「こと果たされぬ!・・・」からの5行の歌は今日のハイライトだろう、青木のこの曲への共感を感じられた。
 音楽全体はきびきびしたテンポで弛緩なくこのキリストの受難の物語を劇的に描いていたと思う。一つだけ個人的な違和感をいうと48番合唱付きアリア「急げや、悩める魂よ・・・」の「いずこへ」は少しテンポが速すぎるように思った。ゆっくりと「いずこへ」と合唱が歌った後バスの独唱が「ゴルゴタへ」と歌ったほうがより劇的効果が出るのではないかと思った。
 管弦楽は少人数の割には良く響き力演、古楽の独奏も魅力的だった、とくにヴィオラダガンバは58番のアルトの独唱に曲をつけるが、とても美しく印象的だった。
 2時間の長尺ものであったが、全く緩みがなくこの曲の面白さを教えてくれた演奏だと思った。
                                     〆

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