ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2011年02月

2011年2月26日
於:トリフォニーホール(18列中央ブロック)

新日本フィルハーモニー交響楽団
第473回定期演奏会
バッハ:「ミサ曲ロ短調」

指揮:フランス・ブリュッヘン
第一ソプラノ:リーサ・ラーション
第二ソプラノ:ヨハネッテ・ゾマー
アルト(カウンターテナー):パトリック・ヴァン・グーテム
テノール:ヤン・コボウ
バス:デイヴィッド・ウィルソン=ジョンソン
管弦楽:新日本フィルハーモニー管弦楽団
合唱:栗友会合唱団

ロ短調ミサは初体験である。カール・リヒター/ミュンヘンバッハ/61年やジョン・バット/ダンディン・コンソート/2009年などのCDで事前に予習をしては行ったが、正直言って寝てしまうかと不安が一杯であった。バッハといえばブランデンブルグや管弦楽組曲、ヴァイオリン協奏曲くらいしか聴かなかったのだから当たり前と言えば当たり前なのだが!しかし昨年末にリフシッツの演奏した平均律1,2巻を通して聴く体験をしてから少しバッハが傍に寄ってきたような気はしていた。
 一言で言うとかなり疲れたがとても充実した音楽を聴いたという印象で一杯である。やはりなんといっても中核になる「グロリア」と「クレド」の素晴らしさは作品もさることながら今夜の演奏は圧倒的であった。特に合唱がとても印象的であった。第4曲「天のいと高き所には神の栄光」、第12曲「聖霊とともに」は速いテンポで危険を恐れずに言えば興奮してしまうほどの迫力。そしてなんといっても白眉は16曲「聖霊によりて」、17曲「十字架につけられ」そして復活の賛歌「聖書にありしごとく」はオペラのようにドラマを感じた。
 独唱陣はブリュッヘンと長年一緒に演奏活動を続けている人々ばかりのようで充実していたように思うが、オペラなどと違った歌唱法のためなのか例えばリーサ・ラーションの歌い方は少々もどかしさを感じた。面白かったのはアルトの代わりにカウンター・テナーを使っていたことでこれが正式なのかあ、と感じ入ってしまった。
 管弦楽は配列がいつもと違う。左奥にトランペットが3本、うち2本がピッコロトランペットでこの音の効果は絶大。その右にバロック・ティンパニで好みとしてはもう少しパンパン叩いて欲しかった。その横にはフルート2本、オーボエ3本、内2本はオーボエ・ダモーレでいずれも独唱者とのからみが美しくこれがミサ曲かと思わせるほど。(例えば9曲はフルート、10曲や19曲はオーボエ・ダモーレと言った具合)その横舞台右奥になるがデスコント・ホルンである。弦は左から第一ヴァイオリン8、第二ヴァイオリン8、ヴィオラ6、チェロ3、コントラバス3、面白いのはチェロとコントラバスの前にファゴット2本がありその横がオルガンという構成。管弦楽は安定していて全く不安が感じられなかった。冒頭キリエでふんわりとした弦の合奏ではじまる、その音を聴いただけでもうバッハの世界に入ったような気がした。木管はどれもみな素晴らしく特にフルートが印象的。重複するがピッコロ・トランペットはバロック音楽を聴いているという同時代感を強く感じさせるものだった。
 ブリュッヘンの指揮は合唱は少しテンポを上げ、独唱は緩やかにおよそ100分の演奏時間は全く時間の経過を忘れるような自然な音楽だった。
                                〆

2011年2月24日

今年に入ってすぐだったろうか?衝撃的なニュースを聞いた。実はウエスギアンプ(U-BROS28,24)について聞きたい事もあり、また昨年末のステレオ・サウンド誌で上杉氏がご病気という記事を読み電話をしたところ上杉氏は昨年末にお亡くなりになったとのこと。愕然とはこのことである。お若いとはいえないにしてもまだそのようなお年ではないだろうと思っていたけれども訃報に接して本当に驚いた。ウエスギアンプの上杉研究所は上杉氏でなりたっているはずだが、今後どうなるのか不安で一杯でもあった。アフターについては今後も続けるとのことだ。今は過渡期にしても今後の方針は研究所としていずれ示されるだろうが、それを期待したい。
 後先になってしまったが上杉先生のご冥福をお祈り申し上げます。

 さて、おととしの暮れに導入したシグネチャー・ダイアモンドだが相変わらず良い音を出している。毎日聴いているわけではないのでエージングにはいましばらくかかるだろうが、正直今の水準でそれほど不満はないのだ。
 しかし人間の欲求というのは限りのないもので、更に良い音になるのではという気持ちは強くなったり弱くなったりするが潜在的には決して消えないというのが、オーディオに嵌った人間の性であろう。そこで手を入れたのがまずラックである。これはいまままでは木製でそれもぐるりと囲んでいて温度の逃げ場があまりないもので、しかもかなり共鳴するのである。結論的にはタオックのLSRというタイプのラックに買い換えたのである。
 それに加えていままでバンデンハルというメーカーのRCAケーブルを使っていたが、これをゾノトーン製(グランディオシリーズの6型、上から3番目のランク)に換えて見たのである。つまりCDプレーヤーからプリ、プリからメインアンプへのケーブルを換えたのである。この効果は驚くべきもので両者の相乗効果であろうがシグネチャーがまた一皮むけた感じだ。一番変わったのは音場である。今まではスピーカーの位置より少し奥に定位していて奥行き感や広がりなど言うことなかったが、いま少しオーケストラの強奏などの時には前に金管などが突出して欲しいと思っていた。このチューニングによって音が前に出てくるようになり更に奥行き感が出てきたのである。次に変わったのは音楽がどっしりしてきたことだ。一番の例はスダーン/東響ライブのシューベルトの交響曲の1-7番までだ。サントリーホールとミューザでのライブ録音だ。これはいままでもふくよかな良い音だったが最強奏に何か力が欠け、低減も少し軽いという印象を持っていたが、これが全体に音がどっしりしてじつに安定感のある音になったのである。
 それと今の話の続きになるがタンノイにくらべるとちょっとたとえが悪いが「ガツン」度が低い。例えばマーラーの交響曲三番の最後の楽章の最後のティンパニの強打が甘いのだ。CDはSACDのマーツァル/チェコフィルでいうと音は出ているが音の実体感が生に比べると弱い。ところがこのチューニングでがツンとくるようになった。
 ピアノがまた素晴らしい。もともと大変美しく内田/ジェフリーテート盤で聴くモーツァルトの音などはころころと実に気持ちよいが、いま少し力が欲しいと思っていた。このチューニングの効果は絶大でピアノばかりかオーケストラまで見違えるように生き生きとして、もともとそれほどひろがり感のない録音と思っていたのが意外にもかなり広がりがあることも再発見した。とにかく今は次から次へCDを聴きまくっている状態。
 タオックとゾノトーンとどっちの影響が強いのかは正直よくわからないがアウトプットは歴然なのだ。次はスピーカーケーブルかなと思っている。
 それとこれが一番悩ましいのだがウエスギアンプは通常タンノイにあうといわれていてB&Wとはちょっと方向が違うのではというのが通説である。しかし今の音は素晴らしい。しかしもしかしたらもっとフィットするアンプがあるのではないかという思いがくすぶっているのである。
 オーディオ店ではジェフローランドやゴールドムンドなどがよいといっているが換えて見てウエスギより悪くなったら泣いてしまう。この苦しみなんとかならぬか?
 シグネチャー・ダイアモンド愛好のかたご愛用のアンプがあればご紹介ください。
                                            〆

2011年2月21日
於:サントリーホール(14列中央ブロック)

新日本フィルハーモニー交響楽団
サントリーホールシリーズ、第472回定期演奏会

フランス・ブリュッヘン、ベートーベンプロジェクト
ベートーベン:第八番
      :第九番「合唱つき」

指揮:フランス・ブリュッヘン
管弦楽:新日本フィルハーモニー交響楽団
ソプラノ:リーサ・ラーション
アルト:ウィルケ・テ・ブルメルストゥルーテ
テノール:ベンジャミン・ヒューレット
バリトン:デイビッド・ウィルソン=ジョンソン
合唱:栗友会合唱団

とにかく、無類の面白い「第九」だった。ブリュッヘンのやりたい放題でこのようなベートーベンは滅多に聞けないだろう。逆にいえば日ごろ聴いている第九とはかなり違う印象を受けたのでベートーベンの作品の懐の深さを再認識させられた。
 演奏時間は64分弱で最近のパーヴォ・ヤルヴィの演奏並みの快速だった。それにしてもブリュッヘンのこのプロジェクトで1,2,3,6,7と聴いてきたのだがそれらの演奏で彼の採ったテンポはそれほど早くも遅くもない中庸のテンポだったが、この第九だけは無闇に早いし、その速さもこの曲に対してもっている自分のイメージとはちょっと違うのだ。
 第1楽章の導入からしてそっけなく速い。ただ全体では14分強だから快速とはいえない。しかし続いての2楽章のスケルツオが異様に遅く面食らう。そしてトリオはこんどは滅法速い。この楽章を14分弱かけている。1,2楽章がほぼ同じ演奏時間というのはあまりないのではないか?たしかノリントンの旧盤が2楽章をとても遅く演奏していたのをうろ覚えながら思い出した。3楽章はこれまた快速である12分強で駆け抜ける。特に変奏の後半部分の速いこと。ちょっとこれはついてゆけないと思った。4楽章はおよそ20分強だからこれはそれほど快速とはいえないが、それでもカラヤンから4分も速いのである。全曲ではフルトベングラーとは10分も違う。問題は聴き手がどうそれを受け止めるかだが、正直言って次々といろいろなことをやってくるので音楽に充分浸れない。ちょうど「英雄」でも感じたようにいろいろやりすぎるので少々煩わしく感じるのである。それだけ演奏としては滅多に聴けない面白さがあったように思ったが、終わった後ベートーベンを聴いたというずっしりしたものを感じたか、というと少し物足りなかった。でもこういうアプローチもあるのだという意味では勉強になった。
 その他でびっくりしたのは4楽章でソロイストが舞台にいないのである。いないまま始まってしまう。これは何かのミスではないか?どきどきしてしまう、と思いきやバリトンの「ああ友よ、そんな調べではだめなのだ?」が突如舞台の右手から聴こえてくる。なんとバリトンが定位置に進みながら歌っている、それもオペラ歌手のように演技をしながらだ。しかしこの時点でまだその他のソロ歌手3人は出てこない。そして出番になるとこんどは左手からさーっと登場するのだ。まあ面白い演出とは思うが心配した分だけ音楽への集中度が欠けるという欠点があるように思った。ちょっとやりすぎだなあ。合唱も含めて歌は表情が豊かでとても立派だった。
 楽器編成は今までとは違って通常のフルオーケストラに近い。弦は古楽奏法というのは変わらない。従って編成が大きくなっても素っ気無くすっきりと聴こえる。第九も他の曲の様に編成を少なくして、合唱も減らして演奏するかと期待したのだがそうはいかなかった。その他ティンパニも通常とは違って軽い音。大太鼓も少し皮がゆるいように感じた。左から奥にコントラバス、手前にヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、第2ヴァイオリンという配置。ティンパニ他打楽器は右手奥に配置。強弱の対比付けは今までの曲とは変わらずダイナミックレンジの広い音楽に聴こえた。
 その前に演奏された八番の交響曲は小編成で演奏された。これはテンポの変動もそれほど大きくなく非常に安心して聴けた。この曲はフォルティッシモが多いがブリュッヘンの繰り出す音はピアノが小さい分フォルティッシモの盛り上がりがすさまじく圧倒された。特に両端楽章は鮮烈のきわみ。今回のティクルスでは二番とならんで感銘を受けた。

2011年2月20日
於:新国立劇場オペラパレス(11列中央ブロック)

ヴェルディ:歌劇「椿姫」

指揮:広上淳一
演出:ルーカ・ロンコーニ
管弦楽:東京交響楽団
合唱:新国立劇場合唱団
ヴィオレッタ:パトリツィア・チョーフィ
アルフレード:ウーキュン・キム
ジェルモン:ルチオ・ガッロ

ここのところ好調の新国立劇場公演も流石に息が切れたか、今日の演奏は決して素晴らしい出来には思えなかった。この演出の公演で聴くのは2回目でセットなどは良く覚えているのだが、さて前回の歌手はどうだったかというとまるで覚えていない。もともとこの曲はあまり好きでなく、家で聴くときはちょっと異端児的なクライバーの演奏を聴いているので、通常の演奏では物足りなくなるのだろう、という言い訳をちょっとしておこう。
 今日の公演を一言でいえばヴェルディの椿姫ではなくチョーフィの椿姫である。さすがに彼女の得意の役だけあって、容姿といい歌唱といい文句ない。きりりとした細身の声ながらこの広い国立劇場を震わすような声をだす。だけでなく劇的表現の素晴らしさには感動してしまう。1幕のアリア「そわかの人か・・」などはヴィオレッタの心の動きが手に取るように分かる素晴らしさ、2幕では特にヴィオレッタのシェーナ、アルフレードとの別れのシーンやジェルモンとの2重唱の最後の悲痛な叫びなど忘れられない。2幕のフィナーレ、アルフレードを愛しているのにそれを告げられない心の中の悲痛な叫びが合唱を切り裂いて聴こえてくる。3幕のフィナーレの歌唱も感動的。などなど立派なヴィオレッタだと思った。
 しかし男声陣は少々違和感があった。まずアルフレード役のキムだが声はなるほど美しく、育ちの良いお坊ちゃん役らしい歌唱とは思うが、しかしヴィオレッタを思う気持ちをもう少し感情をこめて歌って欲しい。何か淡々と歌ってお父さんのいうことを唯唯諾諾と聴く男に思えて、これではヴィオレッタが少し可哀想。こんな男を花柳界の女王が愛するわけないではないか?。2幕のアルフレードのアリアも何か尻切れトンボのようでつまらなかった。まだ若い人らしくこれからだとは思うが、ヴェルディは声がきれいなだけでは駄目だと改めて感じた。
 ガッロはフィガロのイメージが強くてジェルモンはちょっとピンとこなかった。ヴィオレッタとアルフレードを別れさせるために直談判に来るが、ヴィオレッタが財産を投げ出してまでアルフレードを愛していることを知り感動する、しかし心を鬼にして別れ話を出す、というこの苦しい役どころを十分歌えたかというと私にはそうは聴こえなかった。だから2幕の聴きものの2重唱は正直言って退屈だった。これはガッロのせいではなくキャスティングの問題だと思う。この役はブルゾンやヌッチみたいな超ベテランでも私は難役だと思う。
 その他日本人で固めた脇役も冴えない。
 演出は古典的なもので奇をてらったところがなく好ましく思った。やはり新国立劇場はこういう演出を中心にして実験的な演出はどこかよそでやってほしい。
 さて、最後に広上の指揮だが、これは実は大いに期待していたのだが、ちょっとがっかりした。彼の音楽はハイドンやベートーベンでとても感心した記憶があるが、オペラは初めてでどのように音楽を作るか楽しみだった。しかし案外と平凡で、正直言って自分がリードするというより歌唱に合わせていると言った印象しか受けなかった。クライバーのように生きの良い音楽を作って欲しかったがまあチョーフィの椿姫だから無理だったかもしれない。
                                〆

2011年2月19日
於:サントリーホール(17列中央)

第586回東京交響楽団定期演奏会
指揮:クラウス・ペーター・フロール

ハイドン:交響曲第101番「時計」
ブルックナー:交響曲第五番

1ポンドのサーロインステーキを食べたような、お腹にずっしりくる重量級のコンサートだった。このフロールという指揮者はライプチッヒ生まれだそうだ。音もなるほど重量級だった。
 まず、ブルックナー、実に男性的で、女々しさの全くない演奏だと思った。だからといって決して荒々しいわけではない。オーケストラへの指示が細かく行き届いており、ここではどの楽器・旋律を強調しようとしているのか、あそこではどうかなど、手に取るように分かる。例えば2楽章の展開部以降はとにかく手を替え品を替え、美しい音楽の洪水なのだが、フロールはその中で強調したい旋律を浮き彫りにしたうえで、更に音楽が力強くて明快なのだ。
 しかし第1楽章はそのなかで少々平板な感じ。音は十分出ているのだが何かステージにへばりついているようで前に出てこない。ピラミッド型の音にならないのが少々物足りなかった。ただ印象的な導入部の展開から第1主題の展開へ進んでゆく音楽がもりもりとふくれあがってゆく様は圧倒的だった。
 第2楽章は展開部以降が今夜のベストで、ただただ音楽の波に浸るだけ、生理的にも、精神的にも十分満足のゆく音楽を聴かせてくれた。この楽章はもともととても美しいが今夜の演奏はそれだけでない、弱弱しさは皆無なのだ。
 第3楽章は荒々しい限りだ。たくましく圧倒的な音。
 第4楽章はコラール主題から展開部、フーガ、再現部と続く音楽がまるで大伽藍のように聳え立つ。この楽章も圧倒的で以下コーダまで金縛りにあったようになってしまい、先日のN響のマーラーのような高揚感を味わった。演奏時間は74分強でヴァント/ベルリンより数分速い程度。
 東響もすばらしく特に金管群はほとんど破綻を見せず、また最後までフロールの指揮に応え、疲れを見せない力強い演奏だった。ティンパニも豪快にドスンドスンと叩いていていかにもブルックナーらしかった。こうこなくてはいけないのだ。弦は左奥にコントラバス、左から第1ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラ、第2ヴァイオリンの配置。ティンパニは中央、ホルンは左、トランペットとトロンボーンは右に配置。
 さて、ハイドンだがこれも実に男性的な演奏だと思った。特に1楽章は素晴らしく、キリリとしたヴァイオリンなどの高弦、腰を落とした低弦に乗って切り裂くようなトランペットと乾いたようなティンパニの炸裂が相まって凄まじい効果だった。ただそのあとの特に3,4楽章がちょっと粗っぽく感じたのはこちらのせいだろうか?演奏時間27分強はヨッフム/ロンドンより少し遅いくらい。両曲ともテンポ設定には違和感無かった。編成はブリュッヘンのベートーベンプロジェクトとほぼ同じでブルックナーから比べると小編成にしている。配置はブルックナーと同じ。弦は古楽奏法のようにビブラートはあまりかけていない。ティンパニもバロックティンパニのようにパンパンいう音。撥も小さくて固い。ブルックナーとはまるで違う音。トランペットもすっきりした音なのでもしかしたらブルックナーとは違ったトランペットかもしれない。
                                〆
 

↑このページのトップヘ