ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2011年01月

2011年1月14日
於:NHKホール(2階2列中央ブロック)

第1692回NHK交響楽団定期演奏会Cプログラム
指揮:イオン・マリン

ムソルグスキー(リムスキーコルサコフ編):はげ山の一夜
ラヴェル:クープランの墓
ムソルグスキー(ラヴェル編):展覧会の絵

イオン・マリンはルーマニア出身だが国籍はオーストリアらしい。50歳の中堅指揮者だが、今夜はプログラム設定がとてもひねりがあって面白い。3曲とも原曲ではなく管弦楽の編曲の手が加えられている。ラヴェルとムソルグスキーが交錯しているのも楽しい。
 断然「展覧会の絵」がよかった、というよりも、面白かった。これだけ表情豊かな展覧会の絵は初めてだ。いろいろやっているのできりがないが、まずプロムナードの処理が、もちろん原曲がそうだからなんだろうが、それぞれ特徴を明確に出していること。大体これは繋ぎなんで、通常は聴きとばしてしまうのだが、あまりに印象的に音楽を繰り出してくるのでつい耳がいってしまう。例えば「こびと」から「古城」の間、「ヴィドロ」と「卵の殻をつけたひなの踊り」の間、そして「カタコンブ」と「バーバーヤガ」の間(死者とともに)は音楽が深く沈み込み、印象的である。また細かいがトランペットの処理も、指揮者の指示だろうし音楽もそう書かれているのだから当然なのだろうが、冒頭のプロムナードやシュミイレ、そしてキエフの大門の冒頭など妙に弱弱しく吹いているので、プロムナードなどはミスしてんじゃないのかと心配したくらいだったが、私はこれらは意図的に抑えているのだと感じた。だからその後に続く音楽が絵画の遠近法の様に聴こえてくる。
 また「古城」、「ヴィドロ」、「カタコンブ」、「キエフの大門」などとても遅く大丈夫かなあと心配したくらい。特にキエフの大門は印象的。こんなに遅いのはCDでもライブでも初めて、とにかくとても面白かった。(プログラムには演奏時間が33分と書いてあったがこれは誤りだと思う、どうみても38分はあったようだ)N響の木・金管奏者も指揮者に応えていたように思う。全体に音が突出せずピラミッド状のゆったりとした音場に聴こえてN響としては最良の部類。これは1曲目のはげ山でも同様に感じた。ただもう少しホールを揺るがすような音が二階席にも聴こえたらいいなあと思った。
 クープランでは精妙な木管が印象的だったが、弦がはげ山と同じフルだったので少々重々しく感じた。弦は減らしたほうが良いのではないかと思った。
 はげ山はコルサコフ編に原典版をくっつけたようになっていてあまり良いとは思わなかった。終結部だけを原典版にしたようだが、この部分が妙にエキゾチックで居心地が悪かった。
 今夜は展覧会の絵で満足。ただこの演奏、面白いのだがはたして繰り返して聴いたらどうかなあと思った。ちょっと飽きがきてしまうのではないだろうか?あくまでもライブの一発勝負として聴く演奏ではないかと感じた。
                                 〆
追記:
1月15日にCDを聴いてみた。カラヤンの65年の録音盤が昨夜の演奏に似ている。演奏時間はカラヤンのほうが数分速いがそれでもムーティに比べるとかなりゆったりとしたテンポで濃厚な表情づけをしている。まああまり繰り返して聴く気はしない。繰り返して聴くなら断然ムーティだと思う。

2011年1月10日
於:新国立劇場(19列中央ブロック)

新国立劇場新制作公演
ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」

指揮:大野和士
演出:デヴィッド・マクヴィカー

トリスタン:ステファン・グールド
イゾルデ:イレーネ・テオリン
マルケ王:ギド・イェンティンス
クルヴェナール:ユッカ・ラジカイネン
ブランゲーネ:エレナ・ツィトコーワ
メロート:星野 淳
牧童:望月哲也
舵取り:成田博之
若い船乗りの声:吉田浩之
東京フィルハーモニー交響楽団
新国立劇場合唱団

ワーグナーの最高傑作の本作品は学生のころから何回も聴いてきたおなじみの曲なのだが、今もってその作品の真髄に触れ得たかどうか自信がない。最大の難関はその台本の難解さだ。原語ではわからないので訳本を見るわけだが言葉の羅列のような部分もあり本当に難しい。若いころは歌詞よりもその音楽の魔力に取りつかれひたすら聴きまくったが、今はそう単純ではなくその台本に切り込みたいのだが、何度も跳ね返されている。
 この曲を初めて聴いたのはバイロイトのライブ放送だ。それをきっかけに買ったレコードはカール・ベーム指揮のバイロイトライブ録音だ。今はCDで聴いているが結局この演奏が一番好きだ、というよりもベームによるこの演奏は幾度となく聴いているので全くひっかかりがない。
 この演奏以外にはフルトベングラー、ショルティ、カルロス・クライバー、ティーレマンなどを聴いているが結局はベームに帰ってくる。実演は最近ではベルリン国立劇場のバレンボイムのものやパリオペラのものを聴いてきたがいまひとつ心を打つものがなかった。
 さて、今日のこの演奏はどうだろう。実演では初めてこの曲の素晴らしい演奏に出会った印象が強い。その第一はなんといっても歌手だろう。この配役表を見て驚かない人はいないだろう。もうバイロイトと比肩しても勝るとも劣らない役者ぞろいだ。テオリンは昨年のバイロイトでこの役を歌っているし、ラジカイネンも同じ。しかもこのラジカイネンは新国立のキース・ウォーナーのリングでウォータンを歌っている実力者だ。そしてステファン・グールドはバイロイトでジークフリートを歌っている世界でも数少ないヘルデンテノールの一人なのだ。またツィトコーワは新国立常連の実力者だ。日本人による脇もしっかりしていて望月の牧童なんて本当に見事だ。
 歌唱で印象に残ったのは1幕の媚薬を飲んだ後から幕切れまでの素晴らしさ。2幕の「おお、降り来よ、愛の夜」から延々と続く愛の2重唱の素晴らしさ、そしてこれにからむブランゲーネの警告の歌、3幕ではステファン・グールドのモノローグから死までの歌唱の素晴らしさは比類がない。またここでのイェンティンスのマルケ王は友であり甥のトリスタンに裏切られた苦悩がひしひしと感じられた歌唱だった。終演後の拍手も一段と大きかった。また3幕ではラジカイネンのクルヴェナールの歌も印象的だった。イゾルデのテオリンは新国立のリングでブリュンヒルデを歌っていたときにも感じたが、少々声をしゃくりあげるようなわずかな癖があえていえば今日もわずかに残っていた。しかしこれは好みだろう。最後の「愛の死」も大野のゆっくりしたテンポに付いていって徐々にクライマックスに上り詰める歌唱は感動的。ツィトコーワのブランゲーネはろうたけた侍女というよりも、可愛らしい小間使いというような役作り。2幕のマルケの歌の間や3幕のイゾルデの愛の死の間、などの悲嘆の表現がユニークだった。
 第二に上げるべきは大野の指揮とオーケストラだろう。全体に遅いテンポをとっている。1幕80分、2幕85分、3幕80分で各幕ともベームより10分近く遅い。しかし全然弛緩した印象はない。各幕のクライマックスをどこにおいてそこにめがけて音楽が直線的に進んでゆくという、音楽作りの方向性が明確だからだと思う。従って音楽のダイナミズムも各幕のクライマックスをめがけているので弱い音は消えそうに、クライマックスの最強奏はホールに鳴り響くという、誠に効果的な音響バランスに聴こえた。序曲を聴いただけでもそれがよくわかった。大野がオペラの指揮の熟達者であるということを物語っているのではあるまいか?東フィルもしっかりと大野の棒に付いていったのではあるまいか?この日の演奏にはほとんど傷は聞き取れなかった。もう少しの重厚さともう少しの色彩感があれば言うことがないがそれはないものねだりだろう。この演奏で充分満足だ。
 さて、第三に上げるべきは演出と舞台・衣装だろう。昨年のバイロイトのトリスタンは何か気持ち悪くて録画してあるが、見ているとすぐ嫌になってしまって、最後までなかなか到達しない。パリオペラ座の公演も奇をてらったもので受け入れがたい。この新制作の演出はイギリスの演出家のようだが、誠に抵抗のない演出だった。それは歌手の所作に無駄な動きがないということに現れている。要は「初めに音楽」なのだ。音楽をすべてにおいて優先している演出のように感じた。例えば第2幕の愛の二重唱は2人の動きが演出によってとても気になる、例えば昨年のバイロイトのイゾルデの奇妙な動きなどはいらいらして音楽を聴くことを阻害する、がこの演出では2人はほとんど棒立ちでわずかにその立ち位置で微妙な心のあやを表現しているように感じた。こういう演出はつまらないという人も多いかと思うが私は好きだ。何度もいうが所作に不自然さがないということだ。だからとても音楽に集中できる。
 とはいえ、面白いこともあって、例えば1幕で、媚薬を飲んだ途端に抱擁しあうというのはちょっと違和感があったが、しかし歌っているうちにお互いが離れるという場面もあって、何か考えがあるのだろう。第2幕のマルケ王は素晴らしい歌唱だったが杖をついたよぼよぼの爺様というのはちょっと違うように思った。そして3幕のイゾルデの死はト書きでは歌ったあと息を引き取るのだが、何で死んでしまうのかよくわからなかったが、この演出では入水して死ぬということを暗示していて面白かった。演出で唯一わずらわしかったのは1幕の水夫達、2幕のマルケ王の家臣たち、3幕でも同じく家臣達の動きが、意味もなく踊ったりしてこれは不要だと思った。
 装置だが1幕は舞台上に船のスケルトンのようなものがあってその上で話が進む、そしてこの船はわずかに回転をして場面転換をさせている。また舞台上方には太陽なのか赤い丸いものが浮遊している。その丸の下には赤いあいまいな線が横切っているという抽象的なもの。2幕は舞台の中央には広い縁台のようなものがあってその上に円錐上の柱が立っている。柱の上方には何本ものパイプが釣り下がっていて愛の二重唱になるとこのパイプが明るくなる。縁台の右手前には池のようなものがある。愛の二重唱は縁台の手前、池の横で主に歌われる。ブランゲーネの警告の歌は縁台の右端で歌われる。3幕は左手に小高い岩山があり、ここで牧童が笛を吹く。岩山を下った舞台の中央手前には瀕死のトリスタンが横たわるデッキチェアがある。舞台奥は海である。そして水平線上には太陽とおぼしき丸いものが浮遊していてトリスタンの歌にあわせて白くなったり、赤くなったりする。その丸いものの下には1幕と同様あいまいな、しかし今度は白い線が横切っている、というもの。全体に抽象的だが物語に溶け込んでいて、決して音楽の邪魔にはならなかった。また衣装も中世を思わせるようになっており違和感がなかったが、水夫やマルケの家臣の衣装はアラビア人かエジプト人みたいでちょっと奇妙だった。
 終演後のカーテンコールも千秋楽のせいか一段と大きく、また珍しくスタンディングオベーションもあって、聴衆の感動を表していた。
                                           〆

2011年1月6日
於:サントリーホール(17列中央ブロック)

第586回東京交響楽団定期演奏会
指揮:飯森範親
ピアノ:アリス=紗良・オット

リスト:ピアノ協奏曲第一番
マーラー:交響曲第一番「巨人」

とても印象深いコンサートだった。
まず、リスト。リストは縁遠い作曲家で我が家には1枚しかCDがない。それがこのピアノ協奏曲。ツィンマーマン/小澤/ボストンによるもの。しかしライブに勝るものはないとは今夜の演奏のことを言うのではあるまいか?CDでは面白くないこの曲が、この二人の演奏家の手にかかると正に手に汗握る素晴らしい曲になる。オットというピアニストは初めて聴くが、超絶技巧はもちろん、繊細さとダイナミックさと両方を兼ね備えた凄いピアニストだと思った。スケルツオや最終楽章、1楽章の協奏部分などは凄まじい迫力。しかし2楽章やアンコールのショパンの嬰ハ短調夜想曲などは繊細の極み。まだ22歳だ。こういうピアニストが世界にはごろごろいるのだろうか?
 マーラーも面白い演奏だった。この曲は若きマーラーの意欲的な作品だけあってかなりいろいろな面相を持っているように思う。例えばシャイーのライブのように良く歌わすことができる曲だし、バーンスタインの旧盤のように不気味さももっている、ワルターのように青春の溌剌さもある。しかしどれもこの作品の持つ性格だろうがマーラー29歳の等身大の演奏というものはどういうものだろう。と思っていたらホーネック/ピッツバーグというコンビの演奏が出てきた。これは私にとっては等身大のマーラーと思える演奏だ。
 今夜の飯森のアプローチも等身大のマーラーを目指したものではないだろうか。1楽章の終結部は若きマーラーの炸裂だ。オーケストラを思い切り鳴らし衒いがない。しかし今夜の演奏はそこへ行く過程がまだ未消化の様な気がして少々だれる。
2楽章はユニークな演奏。ホーネックのように舞踊音楽になっている。しかも木管を中心にアクセントをつけているので最初の舞踊主題の提示は不気味に聴こえる。しかし中間の緩やかな舞踊は思い切りテンポを落としシャイーの様に歌わせていて、美しさと切なさが一杯だ。木管にアクセントをきつくつけているのは今夜の特徴かもしれない。1楽章のかっこうの主題はその例だと感じた。
 3楽章は案外とまともでバーンスタイン旧盤のような奇怪な音楽にはなっていなくてここも舞踊音楽の趣。4楽章のパワフルな終結部は1楽章と同様。この爆発は飯森の持ち味だが、問題はそこへ行くまでのプロセスが今一つ説得力がないような気がした。この作品は一筋縄にはいかないので彼にとって進行形ではないだろうか?
なお、演奏時間は56分でホーネックにかなり近い。楽器の配置は向かって左にコントラバス、チェロなどの低音弦を配置する方式。気のせいかこのほうが低音が豊かに聴こえる。
 東響は相変わらず熱演だったがスダーンの時と比べると完成度は少々落ちるような気がした。いずれにしろ若い人の思い切りの良い演奏は気持ちが良い。今年最初のコンサートだったが、若い人からお年玉をもらってしまった。
                                〆

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