ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2010年12月

2010年12月30日

最近見た映画(11)

「マチェーテ」(劇場にて)
タイトルは主人公の名前、英語を話しているが、実際はこてこてのメキシコ映画だ。音楽もそう。しかしこの映画の殺戮シーンは凄まじく、ちょっと度外れていて、人間のやることとは思えない。あまりに凄いのでかえって嘘っぽいのが難点。まあ過ぎたるは及ばざるがごとし、タランティーノの製作となっているから一筋縄ではいかないとは思って見たのだが!
 そういう意味では敵役が皆アメリカ人というのはひとひねりだろうか?スティーヴン・セガールが麻薬王、デニーロがその金を選挙資金にしている悪徳政治家、ドンジョンソンが不法移民を無差別に殺戮する自警団のボスという具合。メキシコ人は大喜びだろう。なかでも笑ってしまうのが世界で最も強いスティーヴン・セガールがダニー・トレホ扮するマチェーテ(元メキシコの警官)にやられてしまうことだ。しかもただ死ぬのではなくて致命傷を受けたセガールは切腹の様な形で死んでしまうというので、やることは手が込んでいる。デニーロの死に方も皮肉だ。いずれにしろ最強民族のアメリカ人たちがメキシコ人にやられてしまうという非現実性が面白さに通じているのだろう。
 またメキシコからの賃金の安い不法移民がテキサス経済を支えていると言わせてみたり、メキシコ国境の移民防止の有刺鉄線は実は麻薬価格の維持につながっていると言わせてみたり、今のアメリカ社会で大きな問題になっている移民や麻薬問題についてそれとなく語らせているのがスパイスみたいで興味深い。
 それにしてもダニー・トレホという主人公は醜い老人としか思えないのだがめちゃくちゃ強くてもてるのも皮肉なのだろうか?

「プレデター」DVD、マチェーテの監督のロベルト・ロドリゲスとダニー・トレホがでるので見たが全編眠気を誘うような緊張感のない映像で時間の浪費だった。大体トレホははじまってすぐ死んでしまう。
 プレデターの第一作は衝撃的な映画だったが、もうネタがわかっているので何をやってもつまらなくなるのだろう。いわゆるサバイバルものだが、誰が死んでだれが生き残るというのがはじめから透けて見える手抜きシナリオは困る。

「黒く濁る村」パク・へイル他(劇場にて)
新興宗教の伝道師らしき人物の死が発端。その息子が父親の死に疑問を持つ。韓国の地方が舞台。その地方の表と裏の支配者であった元刑事と伝道師の隠された過去の恐るべき犯罪。その息子がそれを暴いてゆくという話。この謎解きはなかなか面白く2時間半の長尺ものだが飽きずに見てしまった。過去と現実が唐突に入れ替わるので少々いらいらするし、過去と現在の役を演じる俳優が同じなのだが、そのメークが今一つということもあるが韓国の社会の模様もわかって興味深い映画だった。

「息もできない」ヤン・イクチュン監督・主演(DVD)
今年公開されて評判をとった映画。DVが発端でチンピラ(イクチュン)になった男とその友人のヤクザの子親分、DVで夫から逃げたチンピラの姉とその息子、母がヤクザに殺され、痴呆の父親と暮らしている兄妹、これらの人物が交錯して衝撃のクライマックスへ。映像は全編暴力だ。それは子供の頃のDVの傷で、暴力でしか自己表現ができないチンピラが主人公だからだ。しかし痴呆の父親とパラサイトの兄に悩まされている女子高校生と知り合ってから、徐徐に閉じた心が開いてくる。女子高生が存在感のある演技。この二人の交流と心の変化が感動的だ。
 しかし、見た後、直感的に感じるこのざらりとした肌合いはなんだろう。この作品の特徴だろう。
 チンピラが死んだあと残った人々が彼の存在なんかなかったもののようにたくましく生きて行く姿はヴァイタリティー溢れる今の韓国のようだった。

「レポゼッションマン」ジュード・ロー(DVD)
人工臓器がもう当たり前になった近未来が舞台だ。ローンで臓器を移植して返済できなくなると、臓器回収屋(レポマン)が来て臓器を回収してしまうというのは今のアメリカのバブルがはじけて住宅ローンを返済できなくなってホームレスになってしまうという世相と重ね合わせることができるだろう。そういう意味では舞台は近未来だが本質は今日的だ。
 面白いことは面白いのだが臓器回収シーンにちょっとリアリティーが欠けるのと主人公のレポマン(ジュードロー)がなぜレポマンをやめようとするのかが私には少々弱いように思えた。アメリカらしいのだが!終わりは衝撃的であっと驚く。
 インセプションほどではないが発想のユニークさ(オリジナルは小説)が映像にした時の偽物っぽさを補っている。

「孤高のメス」堤真二(DVD)
これも臓器移植がテーマの一つだがこちらは生体肝移植だ。全く遊びのないまじめな映画だった。地方の病院での禁断の脳死生体肝移植に挑んだ使命感溢れる医師(堤)の物語。原作は小説。
 地方病院の抱えるその内情、手術の模様などリアリティーが一杯だ。柄本明などの脇役陣も充実して手抜きのない作品になった。唯一、堤の敵役になる医師の描き方があまりにもステレオタイプでリアルさに欠ける。そこが傷と言えば傷。

「ソルト」アンジェリーナ・ジョリー(DVD)
ソ連で子供のころからスパイとして育てられた二重スパイのソルト。彼女(ジョリー)だけでなく多くの子供たちがそのように育てられ、アメリカのあらゆる組織に配され、Xデイと称する日に一斉に決起することが、子供たちの頭に埋め込まれている。話はややこしいが面白い。主人公のソルトが二重スパイから三重スパイになった過程が私の脳髄では理解できなかった。
 ただ主人公はどうみても女マッチョにはみえずミスキャストとしか思えない。ソルトを女スパイにする必然はあったのだろうか?アンジェリーナ・ジョリーのために作られた映画としか思えない。時間つぶしにはなる。

「アウトレイジ」ビート・タケシ(DVD)
息もできないと同様、この映画も全編暴力シーンで凄まじさも一級品。ただ息もできないの暴力はあえて言えば必然があった、なぜなら主人公はそれがなければ自己表現ができなかったからだ。しかしこの映画はヤクザの抗争、しかも大組織に翻弄された小組織の末路のような話だから、ちょっと寂しい。組織論からいえば社会性は感じられるがテーマとしては弱いように思った。ビートタケシは何のためにこの映画を作ったのだろう。
 椎名詰平の演じるすこぶるニヒルなタケシの右腕の存在感は秀逸。加瀬亮のインテリやくざも面白い。しかし三浦友和の大組織の若頭はすこぶる似合わない。

「ザ・ロード」ヴィゴ・モーステンセン(DVD)
大きな地殻変動で消滅しつつある地球、その中で生き残ろうとして南の海に向かう一組の親子の物語。近未来映画。2929年のようだが?
 途中人肉を食らう人々に襲われたり、ロバートデュバル演じる老人との交流があったりして海に到達するがもう青い海ではなく灰色の濁った海。更に南下してゆく途中で父親は死んでしまう。一人ぼっちになった少年を救ったのはキリストの様な風貌のガイ・ピアース演じる一人の男。少年はその男とその家族(どうも本当の家族ではないようだ:自信ないが)とともに旅をする所で終わる。まあここでわずかの燭光が見えるわけだ。
 ザ・ウォーカーは最後がアルカトラスという落ちだった、しかしこれも最後の一冊の聖書を運ぶ話で、結局神に救いを求める点では根っこは一緒ではないかと感じた。こういう作りは日本ではできないだろう。

「渚にて」スタンリー・クレーマー、グレゴリー・ペック(テレビ)
1954年の核戦争による地球滅亡を扱った問題作品。久しぶりにみた映画。ロードにしてもウォーカーにしても最後は何かの救いを感じる終わり方だが、この映画は全く救いのない映画だ。半世紀を経た映画だがその訴えるものは色あせていない。多くの人々、核兵器を持っている国の人々には見てもらいたいというか見るべき映画だと思う。

                                〆
 
 
 
 

2010年12月25日
於:東京文化会館(21列中央ブロック)
2010年12月26日
於:サントリーホール(2階3列中央ブロック)

東京都交響楽団スペシャル演奏会
ウェーバー:歌劇「オベロン」序曲
ベートーベン:交響曲第九番・合唱

指揮:ジェームズ・ガフィガン
ソプラノ:エヴェリーナ・ドブラチェヴァ
メゾソプラノ:イリーナ・チスチェコヴァ
テノール:チャールズ・クラーク
バス:ミハイル・ペトレンコ
合唱:二期会合唱団

今年最後のコンサートは2日にわたって聴いた、ベートーベンの第九である。
指揮はアメリカの指揮者でまだ31歳である。昨年はドイツの若いゴローベルクでなかなか面白い演奏を聴かせてくれた。
 印象的には若々しい、清新な第九だなあと感じた。その要因は第一にかなり速いテンポ。両日ともおよそ63分だった。これは今日ではスタンダード的な速さだろう。ジンマンやヤルヴィの演奏に慣れているからあまり抵抗はない。第二はあまりテンポをいじらないこと。各楽章ともほぼ一定のテンポで楽章の中でごちゃごちゃといじらない。この結果出てきた音楽はかなり軽快な第九。しかし妙なことをしていないから自然である。特に3楽章は演奏時間は13分強と速いにもかかわらず違和感がなく、むしろ自分の呼吸と同じようなテンポだったせいかとても気持ち良く音楽に浸れた。25日の演奏は特にそう感じた、感動的なものだった。ただ全体に軽快だったのは否めないので、ドイツの重厚な音楽だったかというとそれはちょっと違った。特に1,2楽章は軽すぎるように感じた。あの厳しい音楽の塊のスケルツオがなにやら舞踊音楽みたいに聞こえたのはちょっと困った。1楽章もスマートに音楽が流れるのはいいがこの曲はそれだけではないような気がする。第4楽章は曲の本来持っている内容は出せた演奏ように思う。
 独唱陣は今年も合唱とオーケストラの間に挟まってホールの隅々まで音が届いているかというとちょっと弱いように感じた。個人的には指揮者の前で歌ったほうが良いように思うのだが、これが今の流行りなのだろうか?よかったのは合唱で25日は特に凝集力があって素晴らしかった。オーケストラも好調だ。特に金管、木管が印象的。低弦は25日はちょっと弱いような気がして重厚感はあまり感じられなかった。高弦はあいかわらずさらさらして気持ち良かった。そういう観点からすると序のオベロンは美しい演奏だった。
 2日間聴くとホールの違いが良くわかる。文化会館は響きよりもむしろ音が直載に聴こえる。都響のみずみずしい音にマッチしてきりりとした音になる。サントリーは響きの勝った音で重厚感もでてオーケストラ音楽を聴く醍醐味が十分感じられる。好みから言うとサントリーだが、議論の分かれるところだろう。

さて今年は80回以上コンサートに行った。おそらく生涯でこれほどの回数聴いたのは初めてだろう。どれも素晴らしく、その中から特に良かった21のコンサートのなかからベストを選んだのが以下の10曲+次点2曲であった。
番外編:「今年聴いたコンサートベストテン」
(ただし順位付けはどうやってもできなかったので10コンサートを列記してみた。)
4/4  ワーグナー「パルシファル」、N響、指揮ウルフ・シルマー
4/27 ストラヴィンスキー「春の祭典、フィラデルフィア、デユトワ指揮
5/29 シュトラウス「影のない女}、新国立劇場、ヴェヒター指揮
6/20 マーラー「交響曲第二番・復活」、都響、インバル指揮
6/29 プロコフィエフ「ロメオとジュリエット」、ロイヤルオペラバレエ
10/1 マスネー「マノン」ロイヤルオペラ、ネトレプコ、パッパーノ指揮
11/6 マーラー「交響曲第六番」、新日本フィル、メッツマッハー指揮
11/14モーツァルト「ピアノ協奏曲23番」内田光子、クリーブランド
11/27ブルックナー「交響曲第八番」東響、スダーン指揮
12/23バッハ「平均律クラーヴィーァ曲集1巻、2巻」リヒシッツ
次点
6/9,10,11
モーツァルト交響曲31番ー41番、南西ドイツフィル、クリストプロス指揮
11/26シベリウスヴァイオリン協奏曲、諏訪内、ゲルギエフ指揮

                                以上

2010年12月23日
於:武蔵野市民文化会館、小ホール(13列左ブロック)

コンスタンチン・リフシッツ、ピアノリサイタル
バッハ「平均律クラヴィーア集、第1巻、第2巻」

毎年年末は東京文化会館の小ホールでベートーベンの後期弦楽四重奏曲(9番から16番まで)を聴いてきたが、今年は日程があわず、さて何にしようかと思っていたらチラシで平均律を2巻まとめて演奏するというコンサートをみつけ、今年はそれにしようということでこの大曲を半日かけて聴くことになった。
 海外ではどうか知らないが日本人はどうも年末にこういう暴挙(失礼)に挑むのが好きらしい。最初は確か岩城宏之がベートーベンの交響曲全曲を大晦日に聴くことから始まったのではないかと思う。今年はなんとマゼールが振るらしい。その後にベートーベンの後期クワルテット。最初は確か12番から始まったような記憶があるが、これでは少し渋すぎると主催者が思ったかどうか知らないが、やはりラズモフスキーを入れようということで、今はラズモフスキーから始まっているようだ。その他ではもう当たり前のようにあちらこちらで第九をやる。そういう私も明後日都響で聴くんだから我ながらミーハーだなあと思う。でもベートーベンにしろバッハにしろ難行苦行みたいにうんうん言いながら聴くのもそう悪くはないと最近は思っている。しかし流石に交響曲全曲はちょっと無理かなあ。でも意外とクワルテットは一年を振り返りながら聴くのにちょうどいいと思っている。音楽のお好きな方お勧めします。

 さて、ぐたぐたと書いたが今年バッハだ。正直言ってバッハは自分にとっては聳え立つ冨士の山のようでかなり閾値が高い。まあ気持ち的にはバッハというと構えてしまって、麓から聳え立つお山を仰ぎ見るような心境になる。しかしこの年になって少し勉強しようと思って最近はCDを買い込んでいる。今取り組んでいるのは宗教曲では「ロ短調ミサ」(来年ブリュッヘンで聴くので)、それと今日の平均律だ。
 この平均律は1巻、2巻でCDが4枚の大曲だ。中には練習曲みたいに同じ旋律がことことことこと進むような退屈な曲(例えば2巻の20番かなあ、失礼、でもこれは本音です)もあって全曲をとおして聴いた記憶がない。いつも途中で止めてしまうので後半の5曲くらいがどうしても聞込みが足りないというのが今日の反省。
 しかし約5時間かけて聴いた印象は、とても疲れたけれど、充実した音楽体験だった。1巻の1番が静かに始まり、静謐な音楽が続くが次第に盛り上がって頂点を迎えるこの前奏曲の部分は、本当に美しく感動的で、思わず肌に粟を覚えたほどだ。この曲は単純な繰り返しだが少しづつ盛り上がって来る様はどきどきするような演奏だった。リフシッツのピアノはとても柔らかく聞こえて、CDで馴染んでいる少々録音の古いグールドとはかなり違うように聴こえた。第1巻の13番などは特にそう感じた。そして各曲がとても新鮮、というよりもあの‘しんねんむっつり’したバッハが自分のほうに降りてきて、妙に親しげに音楽を振りまいているようにすら感じたのである。好みもあるが短調の曲が、特にそう感じる。4番(1,2巻とも)、8番(1,2巻とも)、10番(2巻)、14番(1,2巻)、22番(1,2巻)などがその例である。
 そしてもう一つ発見したのは苦手であったフーガの部分にとても魅かれた。上記の曲もそうだが、そのほかに14,15,17番(1,2巻とも)がその例だ。CDで聴いていると何か平板で面白くないのだが、今日は起伏の大きさが感じ取れて全く飽きることがなく、リフシッツの繰り出す音の渦に巻き込まれてしまうようだった。本当に予想外の音楽体験であった。
 それにしてもこの平均律に500人近い人が静かに5時間近くも身じろぎすることなく聴いているという「現象」はそれこそどういうことだろうと思ってしまう。楽譜を持ってきている方も何人かいらっしゃっていつものコンサートとは違うなあという印象。しかし終わった後の大げさなブラボーは場違いな印象でもあった。
 武蔵野市民会館はキエフオペラでは音楽を聴くホールではないと思ったがあれは大ホール。今日聴いた小ホールは正面にオルガンがあり舞台から天井はすべて木に覆われていてなかなか良い音響効果だった。天井が高いのがとてもきいているように感じた。定員500人、ほぼ満席の奇跡のような音楽会でした。
リフシッツは途中で3時間半の休憩をはさんで最後まで熱演でした。

 なお、今日の演奏は1巻と2巻を別々に演奏したのではなく、初めに1巻の1番、2曲目に2巻の1番というように演奏していた。このスタイルが一般的なのかはわからないが特に違和感がなかった。
                                           〆

2010年12月14日
於:サントリーホール(2階LCブロック)

東京都交響楽団第708回定期演奏会Bシリーズ
指揮:ヤコブ・フルシャ
ソプラノ:アドリアナ・コフートコヴァー
アルト:ヤナ・シーコロヴァー
テノール:リハルト・サメク
バス:マルティン・グーバル
オルガン:小林英之
合唱:晋友会合唱団

ドヴォルザーク:序曲「フス教徒」
スメタナ:交響詩「ブラニーク」
マルティヌー:リディツェへの追悼
ヤナーチェック:グラゴル・ミサ

ヤコブ・フルシャはまだ30歳のチェコ出身の売り出しの新人だそうだ。都響のプリンシパル・コンダクター就任のデビューコンサート。
 それにしてもなかなか考えたプログラムだ。全部チェコの曲ではあったが!
最初の2曲はいずれもフス教徒の聖歌を主題に使っているし、マルティヌーはナチに虐殺された人々の鎮魂歌であるし、ヤナーチェックはミサで、それぞれが宗教やら何かのつながりのある選曲なのである。
 フス教徒もブラニークも若い指揮者らしく勇ましい。緩急の差はとても大きく、緩やかなところは思い切り歌っていて、急の部分はものすごい勢いでオーケストラをドライブし、盛大に盛り上がる。したがって出てきた音楽はとても刺激的。ブラニークは特にそう。久しぶりに聴いたが興奮してしまった。最後に高い城のテーマが出てくると胸が一杯になってしまう。流石ご当地ソングだけあって聴きごたえがあった。
 マルティヌーは一転ゆったりとしたドライブで、悲惨な事件を題材にした、この曲を丁寧に演奏していたように感じた。特に最後の運命の動機が出る場面は特に感動的だった。

 グラゴル・ミサはミサではあるがラテン語の典礼文ではなく古代スラヴ語(これをグラゴルという)で歌われる。だから何を歌っているか全然わからない。プログラムには親切にもラテン語/グラゴル/日本語を併記していた。こういうのはうれしい。この曲はインバル/ベルリンドイツ交響楽団の演奏をCDで聴いているがあまりに壮大な音楽なのでミサとは思えない。ベートーベンやモーツァルトとはかなり違う。先日の戦争レクイエムもかなり独創的なものだがこの曲もそうだ。
 演奏はこれも緩急がはっきりしていてめりはりは十分。特にグロリアやクレドのオーケストラや合唱を激しくドライブするところは聴きごたえがある。しかし宗教的な気分にさせてくれたのはアニュスデイで、ここの歌唱は感動的である。この曲面白いのはアニュスデイの後オルガンの独奏があって、さらにオーケストラによる激しい後奏もあってますますミサらしくはないが聴きごたえはあった。
 歌手は皆チェコから呼んできたもので、ソプラノが声を張り上げるとちょっと絶叫調になったのが気になったくらいで、この曲を楽しむに何の不満もなかった。そしてオーケストラは今夜も好調。特にグラゴル・ミサの弦はさらさらと美しい。バスも地響きを立てるようだ。金管は全く破綻がない。ティンパニの強打は炸裂と言おう。
 盛りだくさんのプログラムでお腹いっぱいになりました。
                                〆

2010年12月10日
於:NHKホール(2階2列中央ブロック)

第1689回NHK交響楽団定期演奏会Cプロ
ブリテン:「戦争レクイエム」

指揮:シャルル・デュトワ
ソプラノ:タチャーナ・パヴロフスカヤ
テノール:ジョン・マーク・エンズリー
バス:ゲルト・グロホウスキー
合唱:東京混声合唱団
   NHK東京児童合唱団

この大曲をライブで聴くのは初めてで今年期待のコンサート。この曲を知ったのは作曲家自身が指揮をした1963年の録音のCDである。歌手はピアーズ、ディースカウ、ヴィシネフスカヤなどブリテンの理想のラインアップで録音されたもの。ジョン・カルショウのプロデュースで素晴らしく鮮明にとれていて50年近く前の録音だが全く色あせていない。このラインアップは初演とほとんど変わらない。ソプラノがロシア政府の圧力で初演には参加できなかったらしい。
 レクイエムの典礼文の間に第1次世界大戦で戦死したオーエンというイギリスの詩人の詩が挿入されている。ユニークな音楽。オーエンの詩は誠に生々しく典礼文の間に挿入すると何か典礼文が空々しいがそれをブリテンの音楽がしっかりとカバーしている。
 
シャルル・デュトワの指揮は全体的にゆったりとして(85分、ブリテンより相当遅い)、抑制的な演奏に思えたがこの編成の巨大な音楽を十分楽しませてくれた。
 特に感銘を受けたのは断然後半の2章である。神の子羊はオーエンの詩をテノールが歌い、典礼文はコーラスが歌う。オーエンの詩の部分が特に素晴らしくこのテノールの柔らかくしなやかな歌いぶりに感動してしまった。
 最後のわれを解き放ちたまえでは怒りの日が再現されるが、これが前半とは全然違って、誠に気合いの入ったのりで、圧倒的な音楽だった。オーケストラにオルガンが加わり、それに合唱が相呼応して素晴らしい音の渦。金管の鋭い音効果的。そしてその後オーエンの詩を男声2人が歌う、ここも感動的だが、最後のさあ、もう眠ろうよは、今夜の演奏の白眉。これを聴いて心が動かされない人はいないだろう。さらにこの歌と典礼の歌(ソプラノ、児童合唱)が混ざり合い静かに曲は終わるがここも実に効果的。
 印象としては前半はちょっと抑制しすぎで、バランス重視の様な気がした。冒頭のレクイエムの合唱の歌いだしも何か気のない歌い方だし、怒りの日も全然恐ろしくない。いと高き天にホザナも盛り上がりに欠けた。大体ティンパニと金管が全く元気がなく冴えないのはなぜだ。ただソプラノによる涙の日は独特の旋律だがソプラノが透明感よりも柔らかさが生きた歌いぶりで心に残る。
今夜は後半にあっぱれ!
                                〆

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