ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2010年09月

2010年9月25日
於:サントリーホール(17列中央ブロック)

第581回東響定期演奏会
指揮:ベンジャミン・シュワルツ
ヴァイオリン:ナイユアン・フー

グリンカ:歌劇「ルスランとリュドミラ」序曲
メンデルスゾーン:ヴァイオリン交響曲二短調
チャイコフスキー:交響曲「マンフレッド」
シュワルツは外見はかなり若い、サンフランシスコユースオーケストラの音楽監督をしているそうだ。若い指揮者は勢いがあって気持ち良い。
序曲も威勢が良いがちょっと空回り感あり。オーケストラが集中していないように感じた。
ヴァイオリン協奏曲はあの有名なホ短調ではない。彼がまだ13歳の時に作曲したもの。弦楽合奏をバックにしたバロック調の協奏曲であったが、正直言ってあまり面白い曲ではない。まあイージーリスニングには良いかもしれないが!ゴルフの疲れもあって眠気が襲ってきた。ナイユアン・フーは台湾のヴァイオリニストで経歴を見るとなかなかの実力者。エッジが立つ音ではなく柔らかいふんわりした気持ちの良い音。アンコールのパガニーニのカプリス21番も全然違う曲を聴いているみたいだった。アンコールはもう一曲あってバッハの無伴奏ソナタ3番からラルゴ。
マンフレッド交響曲は今年の5月20日の都響定期でも大野和士の指揮で演奏された。まさか同じ年に又この曲が聴けるとは思っていなかった。正直言って少しこの曲に慣れたせいか、5月ほどあまり良い曲とは思えなかった。
しかしこの指揮者の音楽の生きのいいこと。特に1楽章の終結部、4楽章の冒頭、中間の盛り上がりそしてオルガンの前の盛り上がりは集中力があって、威勢よくなかなか聴かせた。ホールを揺るがせんばかりだった。なかでも4楽章が感動的で、オルガンを交えた終結部の後、静かに曲を閉じるが、ここも緊張感が緩まずとても良かった。ただ精妙な2楽章の音楽はちょっと元気過ぎて違和感があった。
今日感心したのはあまり好きでない、甘ったるい音楽の塊のような、3楽章でホルンと木管の掛け合いや木管と弦の掛け合いなど聴き惚れてしまった。
会場は東響の定期にしては入りが悪い。曲目のせいか、演奏家のせいか?
しかし今日も面白い指揮者を発見した。これだから定期の会員は楽しい。自分の好きな音楽を好きな演奏家で聴くのはそれはそれで良いが、あまり新しい発見はないように感じるのだ。ところで今日の指揮者、良く見るとラトルみたいなヘアスタイルだった。まあ指揮までは真似していないようでした。
                               〆

2010年9月14日
於:東京文化会館(19列中央ブロック)

ロイヤルオペラハウス日本公演
マスネ「マノン」

指揮:アントニオ・パッパーノ
演出:ロラン・ペリー

マノン・レスコー:アンナ・ネトレプコ
騎士デ・グリュー:マシュー・ポレンザーニ
デ・グリュー伯爵:ニコラ・クルジャル
ギヨー:クリストフ・モルターニュ
ブレティニ:ウイリアム・シメル
レスコー:ラッセル・ブラウン
ブセット:シモナ・ミハイ
ジャヴォット:ルイーゼ・イネス
ロゼット:カイ・リューテル

期待にたがわぬ良い公演だった。その要因の第一はパッパーノの指揮とオーケストラだと思う。実に劇的な表現で興奮を呼ぶ演奏だったように思う。緩急をつけた演奏と言ってしまえばおしまいだがそれ以上の何かがある。それは劇的表現ではないだろうか?歌うところは十分に歌い、たたみかけるところは恐ろしいくらい凄みのある音をオーケストラから引き出していた。デッドな文化会館の音は下手するとオーケストラの音がやせて聴こえるときがあるが、今日はそれがあまり気にならなかった。新国立だったらどんなに良い音がするだろうか?
「マノン」のCDは2セット持っていて、その時の気分で聴き分けている。
一つはルネ・フレミング/アルバレス/ヘスス・コボス、もう一つはゲオルギュー/アラーニャ/パッパーノである。
今日のマノンはネトレプコだ。妖艶なフレミング、女性の自立を感じさせるゲオルギューに比べてネトレプコは享楽を追い求める部分とデ・グリューへの愛を貫く部分と二面をもった、複雑な女性心理を素晴らしく輝かしい・透明な声で表わしていたように感じた。1幕ではまだ少女っぽいマノンだが、3幕ではもう大人の色気むんむんの享楽に走るマノンに成長しておりこの変容も見事。どの場面もよかったが3幕が中でも最高。「私はどんな道でも女王のように歩きます」から「ああ、どんなに誠実な心でも・・・」までの素晴らしいこと。デグリューを口説き落とす歌も素晴らしい。あのように歌われたら誰でも参ってしまうだろう。舞台姿も美しく演技も達者であり本当に素晴らしいソプラノだ。どうかその声を酷使しないで大切にしてほしい。
デ・グリューのポレンザーニは一途で純粋なデ・グリューだった。触れれば壊れてしまうようなアルバレスのデグリュー、もう少し男っぽいアラーニャとはまた一味違った素晴らしいデ・グリューだったと思う。聴かせどころの「ああ!去ってくれ、僕の心に宿る愛しい面影」は心を動かす名唱ではないだろうか?
今日の成功のもう一つの要因はこの二人の歌手の強力な歌唱によるものである。おそらくライブでこのような演奏は当分聴けないのではないだろうか?
その他ではギヨーが面白かった。フレミングのCDではミシェル・セネシャルがコミカル・軽妙洒脱な演技で唯一無二のギヨーと思っていたが、今夜のギヨーはそういう面よりぼこぼこにされながらマノンへの欲望を内面に秘め残忍な性格をむき出しにしていたように思い、これはこれで良かったと思う。

演出はあまり違和感がなかった。いくつか面白いところを上げると3幕でバレーのシーンがあるがこのオペラの時代を背景にしてバレリーナ達が貴族たちの欲望の対象になっているという面を強調した演出をしていた。3幕のサン・シュルピスの場の最後でデ・グリューがマノンの誘惑に負けてベッドに倒れこむシーンは見方によっては刺激的、そして5幕ではマノンが護送されてくるが護送してきた兵士たちに暴行されるシーンがありちょっとドキッとする。

舞台は素っ気ないものでもう少し豪華な舞台を期待したがちょっとがっかり。1幕は何やらミニチュアみたいな家々を背景にしていてちょっと殺風景。2幕は中央に2階建ての小屋みたいのがあってその屋根裏部屋に2人が住んでいる。3幕のセーヌのほとりは舞台にスロープがあるだけ。背景は街灯。第二場の教会は列柱が傾いていてデ・グリューの気持ちを表していた?しかし教会の中にベッドがあるのは少々違和感を感じた。4幕の賭博場は地下室にあって怪しげだがただスロープがあるだけ。5幕はただの道路の路上で2人の別れの二重唱が歌われる。などなど。

それにしても今夜のプログラムの高いこと。3000円である。毎度同じことを言って申し訳ないがプログラムは豪華でなくて良いから最低限の情報が入ったものを無料で配るべきである。プログラムを買わない人はA41枚の配役表のみである。入場料が何万円なのにちょっとひどいではないだろうか?

今日もまわりは「じじばば」ばかり。こんなに高いオペラは若い人には高値の花かもしれない。
                                〆

2010年9月12日
於:サントリーホール(2階4列中央ブロック)

指揮:エドウイン・アウトウォーター
ピアノ:サー・チェン

グリンカ:歌劇「ルスランとリュドミラ」序曲
プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第二番
ムソルグスキー(ラヴェル編):組曲「展覧会の絵」

このアウト・ウォーターという指揮者は初めて、年齢はプログラムではわからないがかなり若い、サンフランシスコ響のティルソン・トーマスのサブをやっている。一曲目の序曲はかなり威勢が良い。この曲は誰がやってもうまくいきそうな気がするが、とはいえ初めてのオーケストラを十分ドライブができて聴きごたえがあった。その前進力は素晴らしいと思った。
展覧会の絵は二階席から聴くと楽器の様子が良くわかるので面白く、またラヴェルの天才を改めて感じた。この曲もこのアウトウォーターという指揮者は、プロムナードから勇ましくぐいぐい進む。古城は一転水墨画を見るよう。ヴィドロの迫力は大したもの。雛の踊りやリモージュの市場では猛スピード。カタコンベのもりもりした低音もオーディオ的に聴いても楽しい。
もちろんバーバーヤガからキエフの大門までも盛り上がりはオーケストラを聴く醍醐味である。もう少し盛大にやってサントリーホールを揺るがして欲しかったが!
おとといNHKホールの2階で聴いて、今日サントリーの2階で聴いたわけだが、もちろん曲が違うしオーケストラも違うので比較する意味がないかもしれないが、そうだとしても、あえていうがサントリーホールの響きの良さには感心してしまう。特に金管。このホールでは金管がホールの響きと合わさって、大きな音を出しても決してうるさくないのである。N響のBプロはサントリーでやるが、ほとんどチケットは売り切れだそうだ。お客は良く知っているのだ。
閑話休題、
オーケストラコンサートにしては珍しくアンコールがあった。ビゼーのアルルの女第2組曲からメヌエットとファランドールで静と動の対比が素晴らしく大喝さいだった。

プロフィエフの二番のピアノ協奏曲はどちらかというと交響曲の二番のようにメカというか金属の塊を感じさせるような音楽で、3楽章冒頭などはロボットの行進のようだ。1楽章の長大なカデンツア、2楽章のすさまじいスピードで駆け抜ける音楽や4楽章の超絶技巧を見せるピアノなど聴かせどころはたくさんあるのだが、同じ協奏曲でもバイオリン協奏曲の1,2番のようには(この二つの緩徐楽章が夢のような音楽だ)簡単に感情移入できなかった。
アンコールはリャードフのミュージックボックス。
                               〆

2010年9月10日
於:NHKホール(2階、2列中央ブロック)

NHK交響楽団第1679回定期演奏会Cプロ

指揮:ネヴィル・マリナー
ヴァイオリン:ミハイル・シモニアン

ベルリオーズ:歌劇「ベアトリスとベネディクト」序曲
シベリウス:ヴァイオリン協奏曲
ベートーベン:交響曲第七番

いよいよ秋の音楽シーズンが始まった。うきうきする気分でNHKホールへ向かった。今秋からはCプロに切り替え、席も2階席とした。

まず、ベートーベン。このようなベートーベンは初めて聴いた。とても立派な演奏で深く感動した。大地にしっかりと足をつけた全く揺るぎのないベートーベンだと思った。昨今の演奏はかなりテンポをいじって緩急をつけるものが多いが、マリナーは素っ気ないほどテンポをいじらない。例えば3楽章の終結部は「ちゃん・ちゃん・ちゃん」とテンポをあげて終わるケースが多いが、マリナーはそんなことはしないのだ。ゆったりしたテンポは楽章の間は揺るがないのだ。そういう意味ではちょっと違うと言われそうだが、カラヤンに似ている。カラヤンもテンポは揺るがないが、彼のは凄まじいスピードで一気呵成に駆け抜ける。マリナーは違う、一歩一歩踏みしめるようなベートーベンだ。
特に良いと感じたのは1楽章の提示部の堂々とした様、2楽章の第1主題の豊かなこと、そして4楽章の再現部からコーダにかけての堂々とした音楽。
N響もとてもよかった。1楽章では少々金管が突出して気になったが、2楽章からはそんなことはなく音のバランスがピラミッド型で、重厚なドイツの音楽を聴いているのを深く感じさせた演奏だったと思う。
最近ヴァントがベルリン・ドイツ交響楽団を振ったものが発売されているが、その中のベートーベンの四番はマリナー同様ゆったりとしたものだが、更に輪をかけて男性的な演奏で、素晴らしく今のお気に入りだ。同時に発売されたシューマンの四番も同じでとても気に入っている。

しかしシベリウスは今一つ共感できなかった。シモニアンというヴァイオリニストはロシアの人でシベリウスコンクールで優勝した経歴の持ち主、まだ20代だそうだ。
1楽章、静かにヴァイオリンが鳴りだすが実に美しくどきっとする。しかしその後が何か冴えない。良く言えばさらっとして抒情的なのだろうが、悪く言うと何かもっさりした演奏なのだ。そう聴こえたのだからしょうがない。切れ味がない。こういう演奏が良いのだろうか?シベリウスの音楽までがつまらなく聴こえる。この曲はもっとスケールが大きく情熱的な部分がたくさんあるはずだがオーケストラを含めてそれを引き出してくれない、もどかしさがある。最もがっくりきたのは3楽章で、この楽章の冒頭は湧き立つようなリズミカルな音楽なはずなのだが全然大人しく盛り上がらない。意図的にこういう音楽にしているのかどうなのか?気のせいかお義理の様なブラボー。アンコールもなかった。
最も私はこの曲はチョン・キョンファに洗脳されているものだから物足りなく感じたのかもしれない。彼女の情熱的なヴァイオリンは好き嫌いがあるかもしれないが魅力的である。ということで今夜はマリナーのベートーベンの夜でした。
それにしてもマリナーは今年86歳であるが全くお元気で颯爽と登場してくる。全然よたよたしていない。小澤征爾もぎっくり腰なんて言ってられない。
何しろマリナーはベートーベンを1-4楽章まで休みなく通して振りきってしまうのだから。それも変な椅子なぞには座らないで立ったままですぞ。

二期会でも感じたがN響の定期会員の高齢化も凄いですなあ。かくいう自分も貢献しているわけだけれども、周りを見渡すとじいさんばあさんばかり。若い人がクラシックから離れているのか、はたまたN響が排他的なのか?よくわかりません。まあN響は切符は良く売れているようだから若者対策なんて面倒なことをしなくても良いのかもしれませんね。
                                 〆

2010年9月7日

今回もインセプション以外はレンタルDVD

「トレーター」ドン・チードル、ガイ・ピアース主演
全く遊びのない、悪く言えば無味乾燥な作品。だが面白くは見た。
狂信的なイスラム・テロリスト集団に潜入した元米軍人(スーダン生まれ、米国籍、父親はスーダンでテロに遭う)が米国内でのバス同時テロを、阻止するという内容。しかし潜入者(ドン・チードル)のほうがテロリストより熱心なイスラム教徒という設定は、ちょっと無理があろうし、何やら政治的意図が感じられる映画だ。つまり一つはイスラム教徒が悪いのではないということ、もう一つはアメリカ政府はこれだけ頑張ってテロリスト対策をやっているんだというプロパガンダが感じられ、砂をかむような後味なるも、面白かったのは嘘ではない。テロリストものでは「ブラックサンデー」や「シリアナ」が好きだ。

「アリス・イン・ワンダーランド」ティム・バートン監督、ジョニーデップ主演。
脇役にクリストファー・リーやマイケル・シーンがとんでもない役で出ている、そういう意外性も含めて楽しみました。子供向けではあろうが、映像の素晴らしさは、新しい時代の映画だ。3Dで見なくてもその良さは味わえる。又成人したアリスの自立を隠し味にしていて、大人の鑑賞にも十分耐えうる映画となった。CGと実写のハイブリッドだが、不自然さがない。メイキング映像を見ると、とても凝った撮影をしており要は手を抜いていないということだ。こういう映像美の極致のような映画は、映画の一つの頂点でもあり、また原点でもあるのだと思う。見た後の爽やかさは、何物にも代えがたいが、では、さてそれ以外に何があるのといわれると、少々希薄であるのはないものねだりだろう。
出演者ではジョニー・デップはもちろん良いが、白の女王役のアン・ハサウエーが超美人なのに妙にすっとボケた演技でおかしかった。


「タイタンの戦い」
とにかく、俳優が豪華である。サム・ウォーシントン、レイフ・ファイン、リーアム・ニーソン、マッド・ミケルセンなど。また初めてだがイオ役のゲッマ・アルタートンという女優は実に魅力的。
ストーリーは子供のころ読んだギリシャ神話で何度も映画化されているはず。記憶しているのは「アルゴス探検隊」とかいうタイトルの映画、子供のころ見た記憶がある。そのころの特撮としては、すごく、びっくりした記憶がある。
しかし今回のこの映像はどうだろう。時代の流れとはいえ、その当時とは比べ物にならないくらい素晴らしい。この映画も、もうほとんど紙芝居状態で、絵を見て楽しめばよろしいのだ。メデューサの映像など驚異的ではないだろうか?

「グッド・バッド・ウイアード」
韓国版西部劇。イビョンホン他2人の俳優が楽しそうに演技している。舞台は日本占領下の満州。殺し屋、強盗、賞金稼ぎの3人が朝鮮から満州に流れてくる。そして満州のどこかに埋められた宝の地図の争奪戦。3人はそれぞれ曰くがあり人間としての陰影も感じられるが、そんなの関係なく全編ドンパチの連続のハチャメチャな映画だ。最近「チェーサー」や「母なる証明」で韓国映画を見直したのに、この映画にはがっくり。資源の浪費だ。冒頭日本人の銀行家で金丸というのが出てきたり、石原大佐がでてきたりドッキリ。韓国人もなかなかウイットに富んでいる。

「戦場でワルツを」イスラエル製のアニメ
原題はWALZ WITH BASHIR.バシールはレバノンの大統領でテロに倒れる。バシールは親イスラエルの大統領であったのでその報復(イスラエルが背後にいたといわれている)としてバシール大統領派がパレスティナ難民に襲いかかるという悲惨なストーリーを下敷きにしている。
20年前イスラエル軍のレバノン侵攻、ベイルートにおけるサプラ・シャティーラの虐殺(パレスティナ人の難民キャンプ)を主題にしている。主人公はその虐殺の現場にいたが、現在はその記憶が欠落している。そのおぞましい記憶を求める過程をアニメにしている。実写でも良いと思うが、あまりにも生々しいので避けたのだろう。何人かの戦友や記者にインタビューする中で、だんだんと自分が虐殺の日にどこにいたのかがわかってくる。
イスラエル(ユダヤ)人はナチに虐殺された歴史をもっているのに、今度は自分がゲットー(パレスティナ難民キャンプ)のパレスティナ人虐殺に加担してしまう、なんという恐ろしいめぐりあわせだろう。しかもその当時のイスラエル人は、自分たちの親達が同じことをナチにされたことを忘れているのだ。否、忘れようとしているのだ。だから主人公の記憶からこの虐殺の記憶が欠落してしまっているのだ。こうして歴史は繰り返されるのだろうか?
多くの人が見て考えるべき映画だろう。
イスラエル人がこの映画を実写にできなかったのがわかるような気がする。

「インセプション」デカプリオ主演
よくもこのような奇想天外な話を考え付くものだと感心してしまった。頭にチップを埋め込んだり、洗脳したりするような話はいろいろあるがこのように夢(潜在意識)の中に入り込んである考えを植え付けるという発想が何より素晴らしい。監督の発案のようだが座布団あげたい。しかもその潜在意識を何層にも潜って植え付けて行くというのだから話はでかい。荒唐無稽に陥るぎりぎりのところで踏みとどまっているのは、少々煩わしいが講釈にリアリティがあるからではないだろうか?(少々難解な部分もある)
それと映像・音響・音楽(ハンス・ジマー)が一体になった映画でCGを多用しているにしてもここでも手を抜いていないところが話に厚みを持たせている。「火天の城」みたいにちゃちな映像だったらこうはいかなかったろう。
デカプリオはこういう役は向いてないかもしれないがよかったし、トム・ベレンジャーやマイケル・ケインなどの脇役陣も充実して娯楽映画としては超一級だろう。
ただ話が輻輳しているので少々疲れた、まあ話を細部にわたって追求するのはやめて気楽に楽しむべきだろうと思った。
珍しくこの映画は新宿ミラノ座で見た。この劇場は大きく軽く1000人以上は収容できる。大音響でも劇場は飽和せず映画を楽しむことができる数少ない劇場だ。しかも指定席などという生意気なことはしない。シネマコンプレックスの200人くらいのちまちました劇場ではもう映画を見に行く気力は、よほどの映画でない限り、湧かない。そくらいなら家でDVDでみたほうがずっと良い。
昔は渋谷のパンテオン、新宿ミラノ座、日比谷の有楽座、東銀座の東劇、京橋のテアトル東京など大劇場があって映画を見に行くのがひとつのイベントであったが今はそのような大劇場も減ってしまってさびしい。

「副王家の一族」イタリア映画
”歴史は単調な繰り返し、人間は変わらない”と最後に主人公がつぶやくこの言葉が妙に心に残った。おそらく「戦場でワルツを」に通じるものがあるからだろうと思う。
ブルボン王家の血をひく副王家の一族の盛衰を、半世紀にわたって描いた大河ドラマ。重厚な映像には圧倒される。日本ではあまりなじみのないイタリア近世史(日本のちょうど明治維新に当たる時代)に焦点が当たって興味深かった。この映画も手抜きのない映画。イタリアのアカデミー賞をとった映画。

「オックスフォード殺人事件」ジョン・ハート、エライヤ・ウッド主演
二転三転してなかなか面白い推理ドラマではあるがイギリス映画にしてはユーモアがとげとげしく、また全く意味のない安っぽいセックスシーンもあって、何やら品のない仕上がりである。主役2人を除いた脇役の演技の稚拙さは少々恥ずかしい。もう少しスマートに作れなかったのか!監督はどうもスペイン人だったようでそのことも関係あるのかもしれない(あてずっぽなので間違えていたらごめんなさい)。

「ミッシング」シガニー・ウイーバー主演
ミッシングというのは邦題で原題は「GIRL IN THE PARK」
3歳の少女が公園で失踪してしまう。16年後、偶然会った不良少女を、シガニー・ウイーバー演じる母親が、失踪した少女だと思い込んでしまうことから招く混乱を描いた話で「チェンジリング」のような恐ろしい事件も起こらない。その不良少女は母親を良い鴨と見ていただけで、ただシガニー・ウイーバーが一人で大騒ぎしているだけ。というのは終わってみてわかったことで、見ている間は、何がおこるかと、はらはらドキドキしていたが、結末はちょっと物足りない。
                               以上




















  

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