ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2010年07月

2010年7月9日
於:サントリーホール(19列中央ブロック)

日本フィルハーモニー交響楽団第622回定期演奏会

指揮:広上淳一
ピアノ:ファジル・サイ

ベートーベン:ピアノ協奏曲第三番
スクリャービン:交響曲第二番

日本フィルのシーズン最後のプログラムである。昨年も広上だった。昨年のプログラムはハイドン/武満/ストラヴィンスキーというごった煮みたいなプロで
あったが、今年もベートーベンとスクリャービンという組み合わせ。共通点はハ短調という調性だけで、これが広上の選定なのかどうかは別にしてどうも統一感がないような気がしてならない。昨夜のカンブルランはちょっとやり過ぎの様な気もするがあれぐらいプログラムに自己主張があってもよいのではないだろうか?
それはさておき、今夜はベートーベンが快演だった。ファジル・サイのピアノは融通無碍、変幻自在というべきか!体を絶えず動かして、自分が弾かないパートでも、オーケストラに向かって手をひらひらさせたり、まるで自分が指揮しているみたい。激しいパートでは十分に激しく、静かなパートでは繊細、という具合で実に面白く聴いた。特に2楽章の夢のようなオーケストラとの掛け合いは印象的。改まって言うのも変だがベートーベンという人は、ほんとうに凄い音楽家だなあと思った。
広上/日本フィルも絶妙なサポート。広上はアクセントをつけた指揮で、めりはりがあった。昨年のオックスフォードもそうだが、彼の真骨頂はこういう古典音楽ではないだろうか?2楽章のサポートも素晴らしいし、もう1楽章の主題提示からベートーベンの音楽にひきずりこまれる。ティンパニを強調するのも特徴かな?昨年のオックスフォードの4楽章はティンパニをパンパンいわせて痛快の極みだった。
アンコールはサイ自作の「ブラック・アース」、何箇所かでピアノの弦を指で押さえ片手で鍵番をたたいていたがこれがラウテンクラヴィーアみたいでベンベンベンと響いて中東かなにかの音楽みたいだった。そういえばサイはトルコ人だった。
スクリャービンの二番は正直いって音楽が良くつかめぬまま最終楽章まで来てしまったという感じ。最終楽章の凱歌のような盛り上がりが4回ほどあるがこれはしっかりと音楽が耳に入ってきた。当日の資料には1楽章の主題の調を替えたものとあったが、それにしても1楽章では全く印象に残らなかったのはいかなる訳か?事前予習を怠った罰かもしれない。この曲タワーレコードで探したが二番単独でのCDがなかったので聴きそびれてしまった。まあ周囲で寝ている人が結構いたので私と同じ印象をもった方もおられたようだ。
ということで今夜はベートーベンで満足。
                                〆

2010年7月8日
於:サントリーホール(17列右ブロック)

第528回読売日本交響楽団名曲シリーズ

指揮:シルヴァン・カンブルラン
アルト:エカテリーナ・グバノヴァ
テノール:ミヒャエル・ケーニッヒ

ハイドン:オラトリオ「天地創造」から序奏
ヴァレーズ:砂漠
マーラー:交響曲「大地の歌」

カンブルランが常任になって初めての読響の演奏会。たしか3月末にスクロヴァチェフスキーが振ったブルックナーの交響曲八番以来である。あの演奏は今でも忘れられないが今夜はどうか?
天地創造の序奏の最初のフレーズが鳴った途端、随分音がやさしくなったなあと感じた。弦もかなり柔らかいのである。ヴァレーズの曲は面白くもなんとも無いがこれがなんとこの天地創造にサンドイッチにされているのである。つまり冒頭天地創造が鳴りその後ヴァレーズ「砂漠」が鳴り、最後にまた天地創造がなるという按配だ。帰りにサントリーホールの玄関にこのプログラムについてのカンブルランのメッセージが掲示してあったがあまりよくわからなかった。あまり難しいことを考えなくてもいいのではないかなあ。天地・砂漠・大地とつなげたいのだろうが!

しかし、次の「大地の歌」はとても楽しんだ。この曲は1966年にバーンスタイン/ウイーンフィル/キング/ディースカウの演奏がリリースされて初めて聴いたのであったが、それ以来夢中になり一時はほとんど毎日聴いていたのを覚えている。一般にはアルトで歌うところをバリトンが歌っている録音で、入門編としては不適切だったかと思うが(今では)、逆に今、アルトで歌われると物足りなく感じる。特に最後の「告別」はどうみても男の歌ではないだろうか?ということで世間で評判のクレンペラー/フィルハーモニア(アルト:クリスタ・ルートヴィッヒ)には背を向けていたが、このコンサートの予習に聴いてみたらこれがなかなか良かったのである。特に秋に寂しきものや美についてはディースカウより良かったように思う。ディースカウだとちょっと大げさなような気がする。ということで今はバーンスタイン盤(なんとタワーレコードで890円で売っているのである)とクレンペラー盤の2枚でほぼ満足している。というよりも、この年になってこの曲を聴いても、若い時のように感情移入がなかなかできにくくなっていて、通しで聴くのが少々苦痛。あまりに自堕落で退廃的、厭世的な詩句に抵抗が出てきたからだろうか?この曲は若い時に聴くべき(夢中になるべき)というのが持論だ。

さてカンブルランだが非常に透明かつ繊細なマーラーだったと思う。ただバーンスタインの毒に染まったものとしてはちょっと大人しいかな?演奏時間は約59分で少々はやめ。第1楽章の地上の悲哀を歌う酒の歌の冒頭のテノールがあまりに線が細いのでびっくりしたが、これはジェームス・キングに毒されているため(この楽章のジェームス・キングは素晴らしい)で聞き込んでゆくうちに今夜の演奏も素晴らしいことに気がついた。大好きな「空は永遠に青く、大地はいつまでも揺るがず、春には花が咲き乱れる・・・・」のあたりはオーケストラの美しさもあいまって肌に粟を覚えるよう。そして「見下ろしてみるがいい!・・・・」以下の追い込みも素晴らしい。最後に「生は暗く、死もまた暗い」は厭世的ではあるが、充分以上に美しい。
2楽章の秋に寂しきものは、いらいらするくらい女々しい歌だが今夜のアルトは女々しすぎずにとてもきれいに歌うのでマーラーの歌ではないみたい。でも聞きほれる。
3楽章は一幅の水墨画のような歌、テノールはさらりと歌いのける。
4楽章の美については自分は苦手な楽章で、特に歌の部分が、理由がわからないが好きでない。しかしオーケストラのすさまじい強奏は耳をひきつける。うるささは皆無でなおかつ透明、華麗であり読響ではないみたいだ。
5楽章の春に酔えるもののテノールの熱唱は聴くものを感動させたのではないだろうか?この歌は自堕落なもので、もうついてはいけない。
そしてクライマックスの告別。若い時はここが大好きでここばかり何度も何度も聴いてきた。今この曲で共感を持つのは1楽章とこの最終楽章である。今夜のアルトは充分に美しく、深い声でカンブルランに応えていたように感じた。
特に「見よ!銀の小船のように・・・」のあたりの音楽はまるで絵を見ているみたいで美しい。そして「どこへ行くのか? 私が行くのは・・・私は山へさすらおう」ではせつなさで胸がいっぱいになる。いずれも好きな部分だけに感銘は深い。途中オーケストラだけの長い間奏があるがここはオーケストラの聴かせどころ、でとてもよかった。
ただ冒頭ベースが不気味に2回ほどぶんぶんいうが、ここはちょっと凄みにかけた。
今後、カンブルランとのマッチングはどうなるかはわからないが、少なくてもこの大地の歌に限っては高水準のパフォーマンスだったと思う。それくらい今夜の読響は美しかった。これからも期待したい。
                                            〆

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