ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2010年06月

2010年6月28日
於:東京文化会館

英国ロイヤルバレエ団 2010年日本公演
プロコフィエフ「ロメオとジュリエット」
(マクミラン版)

ジュリエット:リャーン・ベンジャミン
ロミオ:エドワード・ワトソン
マキューシオ:蔵 健太
ベンヴォーリオ:セルゲイ・ポルーニン
ティボルト:ギャリー・エイヴィス
パリス:ヨハネス・ステパク
キャピュレット公:クリストファー・サウンダース
キャピュレット夫人:エリザベス・マクゴリアン
ヴェローナ大公:アラステア・マリオット
ロザライン:ララ・ターク
乳母:ジェネシア・ロサート
僧ロレンス:ベネット・ガートサイド
モンタギュー公:ベネット・ガートサイド
モンタギュー夫人:サイアン・マーフィー
指揮:ボリス・グルージン
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

マクミラン版の「ロメオとジュリエット」に初めて接したのはもう30年以上前のコベント・ガーデンだと思う。その年は仕事でオランダ・ドイツ・イギリスに寄ったが、誠に偶然な事ながら、フランクフルトオペラハウスでも振り付けは違うが、「ロメオとジュリエット」を見る機会を得た。どちらもとても素晴らしいパフォーマンスだったと思うが細部はあまりよく覚えていない。ただどちらかだったかさだかでないがティボルトがロメオに刺された後のキャピュレット夫人の嘆きの踊りがすさまじく、正に肺腑をえぐるような振り付けだったことは良く覚えている。今夜マクミラン版の振り付けを見て、あれはマクミラン版だっと再確認した次第。もちろん今夜のマクゴリアンも素晴らしかった。

このプロコフィエフのバレエはシェークスピアの翻案ものではオテロに勝るとも劣らないものだと、私は思っている。まず音楽が素晴らしい。プロコフィエフはシンデレラなども書いているが比べ物にならない。美しく、力強く、悲しい。有名な舞踏会での二人の遭遇シーンやバルコニーの場、3幕のロメオとジュリエットの別れの場面などはこの世のものとは思えないほど美しい、ティボルトの死を悼む音楽と踊りの痛切さ、そして更にいえば言えば群衆シーンの素晴らしさ、例えば1幕冒頭の市場、舞踏会の騎士の踊り、2幕の冒頭の市場の場面などである。
今夜良かったのはこの群集シーン。特に2幕冒頭の長々と続く市場のシーンは飽きが来るのだが今夜は次々と続く素晴らしい踊りにため息が出るばかり。娼婦達がからむシーンも生き生きしてよかった。圧巻は騎士達の踊り、コベントガーデンで見たパフォーマンスを髣髴とさせるもの。
そしてソロでは何より素晴らしかったのはジュリエット。1幕ではおもちゃで遊ぶ子供らしさの抜けない自由奔放な踊りが、一転3幕ではロメオと分かれた後パリスとの結婚を迫られて、呆然としている様。ベッドの端に座っているジュリエットに照明が当たっているだけで、踊りも何も無い演出だがそれだけに効果的で、胸が締め付けられるよう。何年か前に新国立で同じ版で確か”酒井はな”が同じような呆然とした様を演じたが、そのときを思い出した。そしてその後決然としてロレンス神父の下に駆け出すジュリエットの力強さ。もう子供ではない、意思を持った女の姿。
パリスに結婚を迫られたジュリエットは嫌々パリスと踊らされるが、もうそれはおもちゃと遊ぶ少女の姿ではない。ロメオを強く愛する大人の女である。もちろんバルコニーの場もよかったが案外と3幕のジュリエットとロメオの別れはあまり迫力が無かったように感じた。男性陣もロメオ、ティボルト、マキューシオ役とも良かったが、マキューシオがティボルトに刺されて瀕死の重傷を負ったのに擬態を踊るわけだが苦痛と擬態との対比が少々物足りなかった。ここはマキューシオの見せ場だけに残念。ロメオの良かったのは最終幕の墓場のシーンでジュリエットの死を信じることのできないロメオが死体と踊るシーン。彼の苦悩が手に取るよう。ジュリエットがぐったりしているのでそれを振り回すのが大変だと思う。息が切れていたように見えたのは悲しみの表現か本当に肩で息をしていたのかはさだかではない。
この公演は3セットの組み合わせで演じられるので残りの2セットはなんとも言えないが少なくても今夜はこの私の最も好きなバレエの最良の公演の一つだと思った。とにかく好きなので贔屓もあるかもしれません。
                                   
追記:オーケストラについて、残念ながら東フィルにしてはちょっと冴えない。お天気がぐずついて湿度がものすごく高かったから楽器も鳴らなかったかもしれない。特に失礼ながら金管、木管はサーカスみたいに響いた。指揮者のせいではないと思うが!でも3幕のジュリエットが呆然としている場面などもっと丁寧にやって欲しかったがさーっと処理してしまったのはちょっと物足りない。踊りが無いところはどうでもよいのかなあ?

                                        

2010年6月27日
於:新国立劇場中劇場16列中央ブロック

池辺晋一郎、オペラ「鹿鳴館」

演出・台本:鵜山 仁
指揮:沼尻竜典
景山伯爵:予那城 敬
景山夫人朝子:腰越満美
大徳寺侯爵夫人季子:坂本 朱
その娘顕子:安井陽子
清原永之助:宮本益光
その息子久雄:小原啓楼
女中草乃:大林智子
飛田天骨:早坂直家
管弦楽:東京交響楽団
合唱:新国立劇場合唱団

三島由紀夫の戯曲「鹿鳴館」を池辺がオペラ化したもので24日が初演。
三島の鹿鳴館は文学座20周年を記念して作られ初演したもの。朝子は杉村春子が演じたそうだ。その芝居は見ていないが読んだ印象はとてもインパクトがあった。三島の本は「奔馬」くらいしか読んでいないので印象的だった。この戯曲の主人公は景山伯爵夫人の朝子だと思うが、私が共感したのはむしろ伯爵自身で最終幕の朝子のかつての恋人清原に嫉妬する場面など心をえぐるような台詞の連続である。このオペラ化には若杉 弘がからんだそうだ。三島の作品のオペラ化をするなら戯曲からと池辺に奨めたそうだ。
今日、初めて接したこのオペラだが、後半の2幕が特に素晴らしい。なかでも3幕の景山と草乃とのやり取りあたりから、ドラマは大きく動き出し、音楽も活発になる。景山が朝子をつなぎとめておく陰謀を草乃らに指示、そして4幕の舞踏会、舞踏会の異様な音楽、ワルツのようなワルツでないような、まるでマーラーの交響曲のレントラーみたいだ、朝子が清原をなじる場面、景山の嫉妬、最後はまた異様な舞曲が鳴り響いている中で幕。この間30分くらいだが息をつかせぬ音楽の連続でとても感動した。
ただ前半の1・2幕は正直言って少々冗長。90分はこの内容では長すぎるのではないだろうか?ト書きを見ていないので正確ではないが、鵜山の台本は三島の戯曲をベースにかなり削ったようだ。もともとこの戯曲は台詞がものすごく長い。したがってこれに音楽をつけていっては、何時間かかっても終わらないので、やむを得ない措置だと思う。しかし個人的にはまだまだ削り足りないように思った。三島の戯曲にこだわり過ぎたように感じた。戯曲をもとに作曲されたオペラの最大の成功例はヴェルディの「オテロ」だと思うが、ここではボイートがあのシェークスピアの1幕をはしょっているのである。その効果は絶大で、例えば、それによりあの冒頭のオテロの登場の場面が生まれたのである。これぐらいのことをやらないと芝居のせりふの「歌化」は難しいのではというのが、このオペラを聴いた率直な印象である。
歌手は皆とても良かった、愛の妙薬では少々物足りなかった与那城の伯爵は凛として良かったし、朝子役は容姿も歌もぴったり。沼尻と東響のコンビも特に後半のドラマティックな部分にはいってから生き生きとして楽しめた。
日本語で西洋のスタイルの音楽を歌うのはなかなか難しいなあと思う。実は聴いていてなにやら気恥ずかしいのである。例えば1幕の顕子の歌「悲しい気持ちの人だけが、きれいな景色を眺める資格があるのではなくて?幸福な人には景色なんかいらないんです」、芝居で聴いたらふんふんといった感じだが、これを西洋的な音楽に乗せると、何か違和感があるというか照れくさい。まあ私だけかもしれません。ただ昨シーズンの「修禅寺物語」はそれをうまく処理していたように思う。
                                〆

2010年6月25日
於:サントリーホール(19列中央)

指揮:井上道義
マリンバ:安倍圭子

伊福部昭:マリンバと管弦楽のためのラウダ・コンチェルタータ
ストラヴィンスキー:ハ調の交響曲
         :バレエ組曲「火の鳥」

正直言ってこのプログラム魅力ないなあと思いつつ会場に向かった、会場も入りはあまり良くない。しかし終わった後の印象、なかなかよかった。最大の要因は日本フィル。前回のドヴォルザークは本当に良かったが今夜も負けていない。相変わらず弦はすっきりときついくらいだが音楽のせいか全然気にならない。金管、木管も同様。

伊福部の協奏曲は「春の祭典」にならってシャーマニズム的な宗教儀式を描く音楽として作曲されたのだという。プログラムには伊福部の「春の祭典」と書いてあった。1楽章形式、冒頭静かな祈りの音楽、なかなか印象的。そこにマリンバが入ってくる。木の音色がやさしい独特の音だ。安倍はかなり高齢だそうだが精力的な演奏スタイル。この後マリンバの独奏やらオーケストラとの協奏やらかなり長く続く。全曲で27分である。最後は「春の祭典」のようにマリンバとオーケストラの狂ったような盛り上がり。なかなかの迫力。この曲はなぜか聴いていてとても気持ちがいい。旋律は日本の古い音楽が入っているせいかなつかしく、耳に入りやすい。とっつきにくい現代音楽とはちょっと違った趣。むしろドヴォルザークやシベリウスが自国の音楽と独墺の音楽の融合を図って作り上げた音楽たちの仲間の様な気がした。日本の音楽はほとんど聴かないが独墺系の音楽との融合がうまく図られた見事な作品ではないかと感じた。特に印象的だったのはオーケストラの部分で日本フィルの最高のアンサンブルだったように思う。アンコールは安倍の自作の「日本の太鼓」。

ストラヴィンスキーのハ調の交響曲は新古典主義になってからの曲で、非常にリズミカルでシンプルな音楽。プロコフィエフの「古典」の仲間の音楽の様だ。しかし春の祭典を書いたストラヴィンスキーがなんでこのような音楽に変容するのか、全く面妖な話で私には不勉強なせいかこの手の音楽にはついていけない。ただ聴いた後は爽やかではある。
「火の鳥」は全曲でなく1919年の組曲版。今シーズンに入って2回全曲版を聴いているので何か物足りない。それと特にフィラデルフィアのあの名演を聴いた後だけにちょっと寂しい。フィラデルフィアの音楽は誠に形容しがたく、同じ楽器なのにフィラデルフィアの音には何かが足されてるようにも感じられ、魅力的。今夜の日本フィルもとても良い音楽だし、カッチェイ王の踊りや終曲の盛り上がりも立派なものだが何かが足りない。そこでは同じ音が鳴っているのだが、日本フィルの場合は水彩的、もっと言えば淡彩的な趣。伊福部のような日本の音楽には良いがストラヴィンスキーの音楽にはちょと物足りない。
ということでストラヴィンスキーをキーワードにした今夜の音楽会、いろいろ考えさせられるところもあって面白かった。
しかし、井上はなぜあのような自己陶酔的な指揮をするのだろうか?くねくねと体をさせたり、大きく伸びをしたり、とにかく大げさな身振り手振りが多すぎるような気がする。本当に心の底から湧き出てきた体の動きではないように自分には思える。自分は酔っているのだろうが、自分が酔ってどうするのだろう?音楽に酔いたいのはこちらのほうだと思うのだが?仕方がないのでほとんど目をつむって聴いていました。
                                〆

2010年6月19日
於:サントリーホール(2階LCブロック)

第701回東京都交響楽団定期演奏会Bシリーズ

マーラー:交響曲第2番「復活」
指揮:エリアフ・インバル
ソプラノ:ノエミ・ナーデルマン
メゾソプラノ:イリス・フェルミリオン
合唱:二期会合唱団

実に感動的な演奏だった。今年、このコンビで三番を聴いたがそれも素晴らしいが今夜はそれ以上だと思う。
インバルはこの曲を完全に自分のものにしているように感じるくらい自信を持ってこの曲を振っているようだ。一言でいってしまうと緩急の切り返しが自然で、聴いていて全く違和感がない。無理がない。1楽章の冒頭の低弦の運びは緩やかだが主題はきびきびとして厳しい、しかし緩徐部分になるとよく歌う。本当によく歌うのである。ゆっくりと噛みしめるようだ。とても居心地よい。この交響曲は歌でできているわけで歌わなければマーラーの音楽にならないと思うがインバルはそれを実行している。
2楽章も主題は緩やかだが中間部はとても厳しい。3楽章の中間部もとても厳しく感動的。
そして4楽章の「原光」、フェルミリオンが“小さな赤い薔薇よ”と歌いだすがその声の深く豊かなこと。感動的!
5楽章はもう形容のしようないくらい豊かな音楽で一杯だ。もちろん最後のオルガンを交えた合唱部分は感動的だが、中間で地獄の底から聴こえてくるようなバックステージからのティンパニと金管の不気味さも忘れ難い。全曲終わった後の幸福感は先週の六番とはかなり違う。
都響の演奏はほとんど傷がなく安心して聴いていられる。弦はいつもの澄んだ音だし金管もバランス良く、木管は相変わらず美音だ。今夜はいつもの席より前の席だったが、全くと言って刺激的な音は出さない。本当に良い演奏だったと思う。
合唱、独唱もとてもよかったことは言うまでもない。特にメゾソプラノの声は忘れられない。
参考までにインバル他の演奏時間を記す。ただしインバルは3,4,5を続けて演奏した。

インバル/21:53/11:40/11:30/5:00/31:48/81
バーンスタイン/24/12/11/6/39/93
ショルティ/20:36/11/14/10:22/4:51/33:48/81
テンシュテット/25/11/11/7/35/89
ハイティンク/21/10/11/5/34/82
時間は一部丸めてあるので概算

バーンスタインの93分はちょっと異様である。最近は感動するのだがちょっとここまでやらなくてもいいのではと思うようになっている。特に5楽章の遅さは、危険を恐れずに言えば、ちょっと大げさではないかとまで感じている。インバルとショルティはほぼ同じ時間(81分)だがショルティのほうが速く、ぐいぐい来ているように感じる。インバルのほうがライブのせいもあるが、歌っている分量が多い分、速さは軽減されているのではないだろうか?最近聴いたものでは、ハイティンク/シカゴ/2008のライブCDがとても良かった。録音もシカゴオーケストラホールとは思えないような豊かで柔らかい音。このホールは何度も足を運んだのでよく覚えているがかなりデッドな音響だったと記憶しているのでこの録音はびっくりした。
                                           〆

2010年6月18日
於:サントリーホール(17列中央ブロック)

第579回東京交響楽団定期演奏会

指揮:マーク・ウィグルスワース
ヴァイオリン:庄司紗矢香

ワーグナー:楽劇「パルジファル」第1幕への前奏曲
プロコフィエフ:ヴァイオリン協奏曲 第2番
ブラームス:交響曲第二番

パルジファルは愛餐の動機が鳴ったとたん鳥肌が立ってしまった。聖盃の動機も素晴らしい。10分ほど鳥肌が立ちっぱなしだった。東響の弦は美しく、もうこの一曲で今日は十分だ、と思ったくらい素晴らしい演奏だった。もともと好きだったからかもしれないがその本来持っている魅力を十分以上に引き出してくれたように思った。
プロコフィエフの二番は昨年読響の定期(5/28)に聴いていてその時は2楽章が夢の様で印象的だった。陰鬱な1楽章、夢のような2楽章、舞曲のような3楽章からなっている曲を庄司は非常にさわやか、かつ滑らかな音で楽しませてくれた。楽器はストラディヴァリウス。庄司は昨年のN響定期(6/6)でもプロコフィエフの一番の協奏曲を弾いていたが同じような印象。彼女はプロコフィエフが好きなんだろうか?今夜は夢のような2楽章よりも踊りだすような3楽章がとても躍動的で楽しめた。
アンコールはバッハの無伴奏パルティータからブーレ。
さて、ブラームスの二番は久しぶりに聴いた。我が家ではもう何年も聴いていない。どうも1-3楽章が退屈でいけない。ブラームスはもともと苦手でこれだけでなく予習以外では聴いたことがない。特に最近はそうである。何で嫌いかは自分でもわからないが相性だろう。
今夜の演奏はどうか?1楽章は正直言って東響にしてはバランスが悪くちょっとばらばらなように聴こえたが2楽章以降はかなり楽しんだ。2楽章はゆったりと美しいし、3楽章の緩急も適切。そして最後の4楽章の盛り上がりはさすがである。バランスが良い。金管が大きく奏せられるが、決してうるさくならない。全体のバランスの中で鳴っているのでピラミッド状に音楽が展開して実に気持ちの良いコーダだった。
この曲は簡単なように見えるが今日聴きながら、特に金管などは超難度の技量を要求されているように感じた。
このウイグルワースという指揮者は初めてだが欧州では活躍しているようだ。とにかくこのパルシファルは何でかわからないが、恥ずかしいくらいこの指揮者の演奏に感動してしまった。
                                 〆

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