ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2009年11月

2009年11月29日
於:東京芸術劇場(I列右ブロック)

オールベートーベンプログラム

指揮:エリアフ・インバル
ピアノ:青柳 晋

序曲レオノーレ 第二番
ピアノ協奏曲 第三番
交響曲 第七番

今日を含めてインバルの指揮の都響を3回聴いた。マーラーの四番、ブルックナーの五番、そして今日のオールベートーベンプログラムである。ブルックナーの五番はとりわけ感銘が深かった。インバルはドイツ音楽の大家だなあ改めて感じた。

レオノーレの二番の最初の一撃でもうそれはドイツの、ベートーベンの音なのである。なぜ二番を取り上げたのかさだかではありませんが!

ピアノ協奏曲の三番はベートーベンの5つのピアノ協奏曲のなかでも最も好きなもの。まだ英雄ができる前の若々しいベートーベンの香りが充溢していて好きである。ちょうどブラームスの一番のピアノ協奏曲のようだ。青柳のピアノの音がオーケストラの序奏の後出てくるがこれがちょっと聴きなれたピアノの音と違う。おそらくスタインウエイだと思うのだが!金曜日に内田のピアノを聴いたばかりなので余計違いを感じたのかもしれない。内田の音は深く豊かな音。青柳のベートーベンはまるでフォルテピアノを聴いているような乾いた音、きりりとした音、どれも表現が正しくないような気もするがまあそんな音なのである。わざとそういう音作りをしているのかは疑問だが決して嫌でなくかえってこの音のほうがこの三番の協奏曲に合っているのではないか、と感じた。とてもよかったのは二楽章、まるで夢のような音楽だが特に終結部に近いところでコントラバスを土台にフルートがのりそれにピアノが加わり、更にピアノがきらめくような速い音楽を演奏するところがとても印象的だった。

アンコールもなくよかった。

さて七番の交響曲である。全体でインバルは35分強の演奏だった。大体34-6分程度で大方の指揮者は演奏しているのでまあ普通のテンポと言ってよいかもしれない。1楽章と4楽章は少し遅く中間の2楽章が少々速いというバランス。良かったのは2楽章である。木管と弦の掛け合いがことのほか美しく感動した。3楽章もトリオの部分が壮麗でオーケストラの音を十分味わうことができた。4楽章はゆっくりしたテンポで堂々としたものだ。しかし自分の好みとしてはもっと最後は追い込んでというかオーケストラをかきたてて欲しかった。ここはカラヤンの62年に録音したものが学生のころから聴いているせいか最も好きである。その他ではクライバーフルトベングラーが好きであるがいずれも4楽章の追い込みは圧倒的である。
                                終わり

2009年11月
於:サントリーホール(20列中央ブロック)

内田光子 ピアノリサイタル

プログラムB

モーツァルト:ピアノソナタイ短調K310(8番)

クルターグ:Fisのアンティフォニー(遊び2から)
バッハ:フーガの技法からコントラプンクトゥス1
クルターグ:ころがりっこ(遊び3から)
クルターグ:肖像画(3)(遊び3から)
クルターグ:泣き歌(2)(遊び3から)
クルターグ:クリスティアン・ウォルフを想って(遊び3から)
バッハ:フランス組曲5番 サラバンド
クルターグ:終わりのない遊び(遊び3から)
モーツァルト:ロンドイ短調

        休憩

シューマン:幻想曲 ハ長調

アンコール
シューマン謝肉祭 「告白}
ベートーベンピアノソナタ30番 第一楽章

内田のリサイタルは初めて。彼女の音楽に最初に触れたのはレコード店で衝動買いしたシューベルトのピアノ曲集(8枚セット)でただかなり安いので手が出たという代物。ところがこのCDがとてもよかった。なにより一つ一つの音を非常に丁寧に弾いているという印象を強く持った。録音もエリック・スミスのプロデュースでウイーンのソフィエンザールでの録音で非常に豊かな音で良い。特に気に入っているのは後期の8つの即興曲や17番以降のソナタが素晴らしく買ったばかりのころはほとんど毎日何かを聴いていた。その後に聴いたのはモーツァルトのピアノ協奏曲。ジェフリーテイトとのコンビで13番から27番まで、これもシューベルトと同じで良く聴いた。この協奏曲は友人などは流れないからなあとあまり評価していなかったがそれだからいいんではないかと自分では思っている。
また協奏曲ではザルツブルグで弾き振りしているDVD映像(13番と20番)が印象的。彼女の豊かな表情の弾き振りは強烈なインパクトである。特に13番が素晴らしいと思う。その他モーツァルトのピアノソナタ集(5枚もの)も良く聴いた。
最近録音されたものではクリーブランドを弾き振りしているCD(23&24番)も一層スケールが大きくなったような気がしている。ということで我が家でピアノ曲と言うと70%の確率で内田を聴いている。ただベートーベンはギレリス、バッハはグールドというのは不動である。

今夜のプログラムにはシューベルトが入っていないのが誠に残念。

閑話休題

さて今夜最も良かったのはK310ソナタの2楽章。全体に80年代に録音されたものよりスケールが大きくなっているように思ったが、特に2楽章は心にしみるような音楽を聴かせてくれた。この曲だけで帰っても満足しただろう。

次のクルターグはハンガリーの20世紀の作曲家。数分の曲ばかりをバッハを挟みそして最後はモーツァルトのロンドイ短調という具合に通しで演奏した。よくわからないが何かのストーリーがあるのかもしれない。バッハはフーガの技法のほうが心に残った。ロンドは思い入れが強くちょっと停滞したように感じた。

これで休憩

最後はシューマンの幻想曲。シューマン29歳の時の作品。若さと情熱がまぶしいような音楽で聴いていてあおられてしまう。内田の演奏も情熱的ではあったが前半の情熱的な二つの楽章よりも静かな3楽章のほうが好きだ。

上記のとおりアンコールは2曲

内田のステージマナーはユニークで舞台でのお辞儀は最敬礼である。これは日本だけと思ったら前述のDVDでザルツブルグでもやっていたからどこでもやっているのだろう。こんなに深くお辞儀する人はあまりいない。つまらないことに感心してしまった。

今夜はしわぶき一つない静謐の中での演奏会であった。これだけ静かな演奏会はあまり経験ない。唾を飲むのもはばかられるくらい。残念だったのは時折プログラムを落とす人がいて興をそいだ。

                             終わり

2009年11月24日
於:東京文化会館(11列左ブロック)

東京都交響楽団第689回定期演奏会

ブルックナー:交響曲第五番

指揮:エリアフ・インバル


ブルックナーの五番はかつては難解で遠ざけていた。この曲の良さが少しわかってきたのはギュンター・ヴァント/ベルリンフィルの演奏を聴いてから。特にアダージョの美しさはブルックナー随一だと思う。書棚をチェックしたら6枚のディスクが出てきた。

クナッパーツブッシュ/ウイーンフィル/56/改訂版
ヨッフム/コンセルトヘボウ/64
ヴァント/ベルリンフィル/96/(原典版)
ヴァント/北ドイツ放送/98/ハース版(DVD
ヴァント/ミュンヘン/95年/原典版
ティーレマン/ミュンヘン/04/原典版

学生のころはクナパーツブッシュばかり聴いていたが何かぶっきらぼうで特に一番好きな一楽章の展開部へのブリッジになるフルートの音が滅法速くてなじめずお蔵入りしていた。この曲にのめりこむのはヴァント/ベルリンの出現を待たねばならない。彼の北ドイツ放送響のライブDVDも深い感銘を与えてくれた。そして最近発売されたミュンヘンフィル``を指揮したCDはそれ以上の迫力がある。ヴァントは八番と同様演奏時間76分と長め。ただ長いと言えばティーレマン/ミュンヘンは81分ある。彼のライブはサントリーホールで聴いたが四楽章のすさまじい迫力と巨大さは今でも耳に残っている。

さて今夜の都響はどうか?昨夜のチェコフィルと比べると音色がかなり違うように感じた。チェコフィルの音がミネラルウオーターだとしたら都響は純水だろうか。弦はうるさくなる寸前でピュアーさを保ち、金管や木管も清潔さいっぱい。決してブルックナーサウンド(重厚な分厚い音のイメージ)とは言えまいがこれはこれで全然おかしくない。これにもう少し味がつくと良いのだが、ないものねだりでしょう。分厚さ、重厚さではやはりチェコフィルのほうが魅力があるように思う。

インバルの演奏時間は約73分で大体中庸のテンポである。三楽章のスケルッツオが若干遅く感じられたがその他は全く違和感のない安定したテンポだった。良かったのは二楽章,特に展開部に入ってからの後半頂点に達するまでの各楽器の素晴らしいこと。そして頂点の盛り上がりも巨大なもの。
また三楽章もトリオに入る前の頂点の素晴らしさ、こんなのは初めてだ。一楽章の展開部の入りのフルートも落ち着いたテンポで、自分のイメージ通り。終結部の盛り上がりもぞくぞくするくらい。
四楽章はいつも難解である。なかなか音楽の形が見えなくて、あれよあれよというまに終結部にきて、いろいろな主題がでてきて、最後大きな波に収斂して、圧倒されてノックアウト。この四楽章はまだまだ聴きこみが足りないと反省した。

各楽器とも前記の通りの印象だがティンパニもなかなか小気味よく熱演。ただまだ物足りない。切れ味はよいのだがずしりとくるものが今一つ足りないように思われた。この切れ味を保ちつつ重量感がでれば本当に素晴らしいと思う。
                          
                              終わり
                                            

2009年11月23日
於:サントリーホール(18列中央)

チェコフィルハーモニー管弦楽団日本公演
 
指揮:ヘルベルト・ブロムシュテット

ブルックナー:交響曲第八番(ハース版)


ブルックナーの八番ほど思い入れのある交響曲はないだろう。我が家のCDコレクションでも群を抜いている。

クナッパーツブッシュ/ミュンヘンフィル/63/(改訂版)
シューリヒト/ウイーンフィル/63/1890年版
ショルティ/ウイーンフィル/66/ノヴァーック版
カラヤン/ベルリンフィル/75/ハース版
ヴァント/北ドイツ放送/00、DVD/ハース版
ヴァント/ミュンヘン/00/ハース版
ヴァント/ベルリンフィル/01/ハース版
朝比奈/大阪フィル/01/ハース版
シモーネ・ヤング/ハンブルグフィル/08/第一稿

なんと9枚もある。いろいろ版があってブルックナーはややこしいが、最近の録音はほとんどハース版である。であるからして演奏時間比較は意味がないことだと思うが、ハース版で比較してみるとヴァントが一番長い、ミュンヘンはなんと87分である。朝比奈とカラヤンが大体80分だからずいぶん違う。この中で最初にブルックナーの八番の洗礼をうけたのは、かの有名なクナッパーツブッシュのものである。今聴くと録音がかなりデッドで古びているが、四楽章の巨大な演奏は比肩するものがない。とにかく学生時代から社会人になってもブルックナーの八番はこのレコードしか聴かなかった。

しかし、1974年たまたまシカゴに滞在していたときに、カラヤンがベルリンフィルをアメリカに連れてきてシカゴのオーケストラホールで演奏するのを聴く機会を得た。これは空前絶後、ものすごい演奏だった。それこそ腰が抜けたようになり、足はがくがくして、帰りの車の運転がしばらくできなかったくらいである。カラヤンは毀誉褒貶大いにある指揮者だがやはりライブを聴かないと本質はわからないと、深く感じた。それ以来カラヤン党である。ブルックナーといえばカラヤンばかり聞いていた。

その後上記のようなCDは買い求めたが、わずかにヴァント/ベルリンのものが心に触れるくらいで、今もって八番はカラヤンがベストと思っている。ただ最近でたヴァント/ミュンヘンはとても素晴らしい演奏で、ベルリンを振ったものより迫力があってよかった。来春ティーレマンがミュンヘンと来日してこの八番を演奏するがとても楽しみである。ティーレマンは前回来日時に五番を演奏したが実に巨大な演奏で感動したのは記憶に新しい。

さて今夜のブロムシュテットの演奏はいかに?まず感じたのはチェコフィルの弦のみずみずしいこと。どんなに大きな音を出しても決してきつい音にならず、こんな音を毎日聞けたらどんなに良いだろうと思った。日本のオーケストラでは何故でないのだろうと、友人に話したら風土でしょうと言われてしまった。そういうこともあろうが、先般いままできつい音で不満の大きかった日本フィルがマルティン・ジークハルト``という指揮者によって出した音は、今までの日本フィルとは違う実に滑らかな音だった。曲はベートーベンの交響曲の4.5番である。だからやはり指揮者の力量が随分とオーケストラの音に影響するのではないのかと痛感した。こういう指揮者にトレーニングされたら日本のオーケストラも一皮も二皮もむけるのではないだろうか?

閑話休題

それと金管の輝かしさも素晴らしい。輝かしくても決してやかましくない。木管の美しさも素晴らしい。
ブロムシュテットの演奏時間は75分であるからハース版にしてはえらく早い。特に1,2,4楽章はかなり早く感じた。しかし早いからといって決して落ち着かない音楽ではなかった。一楽章の弦によるひたひたとしたクレッシェンドから音楽の頂上までに達する前進力はオーケストラの威力もあり肌に粟を覚えるほどであった。二楽章も同様きりっとしたテンポでオーケストラをドライブするが決して音は荒っぽくならないのだ。本当に素晴らしい。この楽章もそうだがこの曲はティンパニが大活躍する。このティンパニが実に迫力があった。日本のオーケストラのティンパニはなぜあんなにおとなしいのだろう。先日のN響のブラームスなどは生煮えのティンパニでいらいらさせられた。どうもたたき方が違うような気がしてならない。肩から鉞のように撥をたたきつけるのである。ゲヴァントハウスでもそうだった。日本では見たことがない。それとも楽器の違いなのだろうか?

最も感銘を受けたのは三楽章である。ここではテンポを遅め(26分)にして実にじっくりとブルックナーを聴かせてくれた。二度ほど最強奏があるがこの盛り上がりは今夜最大のものでサントリーホールが大伽藍と化した。そして第四楽章だがまた早めになる。出だしのティンパニの強打はすさまじい。第三主題のフルートとファゴットによる導入も今まで意識しなかったがこんなにきれいな音楽なんだと改めて発見した。そしてコーダに入って最後の一音までの5分くらいの音楽はまさに息をするのを忘れるくらい。

心も生理的にも満ち足りた夜でした。

明日はインバル指揮の東京都響でブルックナーの五番を聴きます。楽しみです。
                                          終わり

2009年11月21日
新国立劇場公演(13列中央9

アルバン・ベルク:ヴォツェック

ヴォツェック:トマス・ヨハネス・マイヤー
鼓手長:エンドリッヒ・ヴォトリッヒ
アンドレス:高野二郎
大尉:フォルカー・フォーゲル
医者:妻屋秀和
マリー:ウルズラ・ヘッセ・フォン・シュタイネン
痴愚者:松浦 健

演出:アンドレアス・クリーゲンブルグ
指揮:ハルトムート・ヘンヒェン
管弦楽:東京フィルハーモニー


昨夜に続いて20世紀のオペラ。このヴォツェックは1925年初演、しかしシュトラウスは1942年初演。随分肌合いが違う。ヴォツェックは原作が19世紀だがその題材と舞台は現代と全く違和感がない。したがってこの貧困が招いた悲劇に当然共感はできるのだがあまりに身近なものだからあまり楽しくはない。たとえばヴェルディのトロヴァトーレなどは実に陰惨な悲劇であるが聴いた感じはあまり生々しくはない。それは一つは時代が何世紀も前であるということとヴェルディの輝かしい音楽によるものだろう。ベルクの音楽は実に直接的かつ刺激的である。そして話が身近過ぎて空恐ろしい。

舞台は二つに分かれている。一つは空中に浮かんだような巨大なボックス、ヴォツェックとマリーの家のようだ。もう一つは水を張った舞台。なんで水を張っているのか。演出家は自然の音(たとえばピチャピチャいう音)と芸術としての音楽との対比と言っているが演じている人は大変だ。何もそこまでやらなくてもと思う。貧困の象徴としてごみがこの舞台に捨てられた時に群衆が群がってそのゴミにとりつくシーンがあるが群衆は水に飛び込む形になりびしょびしょである。

衣装も変わっていて特に二幕の群衆シーンでは皆,背中にこぶがあるようで、また髪も半分刈り上げたようになっていて不気味である。

演出の特徴は昨日の朝日新聞の夕刊にも紹介されていたが子供の役割であろう。子供は幼児ではなく10歳程度でもう親の生きざまを十分感じ取れる設定にしている。この子がト書きにないような場面でも登場し両親を冷たい目でみているように演じている。たとえば一幕の冒頭でヴォツェックが大尉にいたぶられるシーンにも子供が登場してヴォツェックの足にしがみつくなんていうような場面もある。いろいろ理屈があるだろうが私は通常のト書きどおりでも原作の狙いなりプログラムにあるような演出家の狙いは達成できるように思った。どうしてもお芝居出身の演出家は考え過ぎるきらいがある。なぜ聴衆に考えさせないのだろうか?ただその他細かい演出が随所に見られ面白いのは事実。たとえば二幕で痴愚者が血のにおいがすると歌う場面ではヴォツェックの右手に血つけているといった具合。この痴愚者の場面の音楽美しくもあり不気味でもあり胸が締め付けられるよう。

歌手ではヴォツェック役が素晴らしい。CDではディースカウのもの(ベーム指揮、マリーはイヴリン・リアー)を聴いているが優るとも劣らない。役になりきっている。次いで大尉、これもCDではシュトルツェだが決して負けていない。大体このオペラはどう見てもまともな奴はヴォツェックとマリーぐらいで後はみんなおかしい。しかもそのヴォツェックも途中からどんどん壊れていって最後マリーを殺してしまうところまで来てしまう。これは余談。
マリーも良かったが今一つマリーになりきれていなかったような気がする。
アンドレアはハリ・ハロが物足りない。

オーケストラは良かった、昨夜の日生劇場とはちがって新国立は木の音がする。残響が適度にあって良く響く。ベルクのダイナミックレンジの広い音楽に十分対応していたのではないか!

良い音楽を聴いた気はしたが暗澹たる気持ちは残る。
                              終わり

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