ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2009年10月

2009年10月25日
サントリーホール(19列中央ブロック)

東京交響楽団第571回定期演奏会
指揮:大友直人
ヴァイオリン:大谷康子


シューマン:劇音楽「マンフレッド」序曲
サンサーンス:ヴァイオリン協奏曲第3番
ベルリオーズ:幻想交響曲


マンフレッド序曲の頭の音楽が鳴ったとたんまず弦の音が耳に入る。東響の弦は嫌な音を出さないのだ。このゲルマンの塊(バイロンの詩が題材なるも)の音楽を堂々と再現。

サンサーンスは東響のコンサートマスターの大谷康子のソロ。冒頭の音楽が太い男性的な音、そしてシャンソン風の2楽章は繊細に、舞曲風の3楽章は華麗に弾きわけて、聴かせる。3楽章の終結部は手に汗握る演奏で楽しみました。アンコールはクライスラーの「レチタティーボとスケルツオ」。

そして幻想、この曲は高校生時代からよく聴いた曲で今はもう殆ど聴くことがなくなった。今日聴いてみて久しぶりに興奮した。
この曲の初体験はレコードでポール・パレー/デトロイトだった。その後バーンスタイン/ニューヨークにはまってしまい、近年ではミュンシュのパリ管のものとボストンのものを聴いてきた。特にボストンはXrcdリマスター版で62年の録音だが実に生生しくまたミュンシュの指揮も豪快そのもので最も気に入っている盤である。演奏時間は49分強である。

さて大友の指揮だが本当に何年振りだろうか?数年前だと思うが東京芸術劇場の当日売りで1列目でマーラーの3番を聴いたが実に感動的であったのを記憶している。今日はそれ以来である。

演奏時間は53分強だがどうも繰り返しが一部あるようでミュンシュと比べて遅いといった印象は全くなかった。気に入ったのは4楽章。オーケストラの熱演もあり久しぶりにサントリーホールが大伽藍と化した。打楽器陣の威勢の良いこと気持ちが良いくらい。又鐘を舞台外、左そでにおいて思い切り鳴らしていて不気味さを出し効果的だった。金管の咆哮もいうことないがもう少しテンション上げても良かったのではないかとないものねだりをしてしまう。弦も競奏になってもキンキンしなくて崩れを見せない。ミュンシュ/ボストンと比較するのは酷ではあるが怒涛の狂乱の域には達していないところはやむなし。

3楽章の「野の風景」はそれに次いで良かった。木管の掛け合いが実に美しく、CDだと寝てしまうところだが聴き惚れてしまった。また最後の雷鳴(打楽器群)も不気味さを感じさせた。
                               終わり
なお先日の日本フィルとはちがい95%の入り。

2009年10月23日
日本フィルハーモニー交響楽団第614回東京定期演奏会
於:サントリーホール(19列中央ブロック)

指揮:アレクサンドル・ラザレフ
ピアノ:田村 響

チャイコフスキー:幻想序曲「ハムレット」
モーツァルト:ピアノ協奏曲27番
プロコフィエフ:交響曲第3番「歌劇炎の天使による」

チャイコフスキーは何か騒々しい。日本フィルの悪いところが出た感じ。途中'''オフェリア'''のテーマをオーボエが奏でる(女性)がとても印象的。終わった後ラザレフが彼女を指揮台まで上げたのにはたまげた。本当にパフォーマンスが好きな人。

ラザレフは指揮棒を持たず小澤征爾のように10本の指で指揮する。個人的にはタコ踊りをしているみたいで好きでない。昔レナード・バーンスタインがデビューした時に指揮棒を持たなかったがお師匠さんのクーゼヴィツキーやミトロプーロスが厳しくたしなめたそうだ。その後バーンスタインも指揮棒を持ったと伝記本にある。

モーツァルトは田村のピアノとても気に入った。彼はロン・ティボー国際コンクールで一位を獲得した(2007年)そうで、なんと20歳のときだそうだ。特に1楽章と3楽章のカデンツァとその後が素晴らしい。本当に気持ちの良いピアノ。なんといっても清潔感があり、うるさくなく、実にピュアな感じを受ける。日本フィルの伴奏も実に美しい。弦も気持ちの良い滑らかな音。こういう弦は好きだ。アンコールもなくますます好きにになった。27番はモーツァルト最後のピアノ協奏曲でよく解説で死を予感した諦観とか最晩年の心境とか書かれている。しかし1791年11月20日に病床につき12月5日に亡くなった35歳の若者がいくら寿命が短い時代とはいえ1791年の3月4日、つまりこの27番を(作曲した年)初演した時点で、晩年だとか、諦観だとか思って作曲するだろうか?天才だからそう思われているのであろうか?といつも思うのである。ただ自分の好きな13番から25番までの協奏曲とはちと違うなあとは感じる。そこには13番の華やかさや20番や24番の1楽章ような凄みや、23番の3楽章のような湧き上がるような音楽とは違った少しさっぱりして何か灰汁が抜けたような音楽があるような気がする。

閑話休題

さて、プロコフィエフである。この3番はオペラから題材をとったそうで前作に比べると全く違って聴きやすい。2番はとにかく機械のような音楽でロボコップを彷彿とする。3番は一楽章冒頭から騒々しい不協和音から始まるがその後の二つのオペラからとった主題はロシア的で凄く印象的。聴きものは3楽章のスケルツオで弦がいくつかのパートに分かれそれがばらばらに同じ旋律を凄まじいスピードで弾いて行き更にそこに金管がからむ不気味な音楽である。日本フィルの弦もここは頑張ったと思う。そして4楽章もスタートから不気味な音楽。そして最後までその音楽が続く。ただうるさい音楽ではなく耳に残る。心地よくはないが!最後はもう音の大洪水であるが突然混沌のまま終わってしまう衝撃的な終わり方。この最後の部分でサントリーホールの天井がぶち抜けるような音楽を聴きたかったがそこまでは達しなかった。鐘の音ももっと凄い音を期待したがあまり冴えなかった。音楽が崩れるからだろうか、セーブしたように感じた。この曲はCDではゲルギエフ/ロンドンで聴くがそれに比べるとラザレフのほうが刺激的。ゲルギエフはかなりスマートに感じる。これはオーディオ装置ではライブの凄まじさが再現できないからかもしれない。

プログラムのせいか入りが悪く80-85%の入り。在京のオーケストラの定期では珍しい。(自分の経験では)拍手も何かさびしく聴こえた。首席指揮者ラザレフも苦戦の印象。

2009年10月19日
読売日本交響楽団第165回東京芸術劇場名曲シリーズ
於:東京芸術劇場(N列左ブロック)


バッハ(レーガー編曲):おお人よ大きな罪を嘆け
ヒンデミット:チェロ協奏曲
メンデルスゾーン:交響曲第二番「賛歌」

指揮:下野竜也
チェロ:ピ-ター・ウィスペルウエイ
ソプラノ:澤畑恵美、国光ともこ
テノール:永田峰雄
合唱:新国立劇場合唱団

今夜のプログラムは自分にとってなじみのない曲ばかり。下野らしい構成。良かったのはメンデルスゾーン。この曲はグーテンベルグの印刷出版の年から400年記念のための機会音楽である。機会音楽というのは大体その機会が終わると忘れ去られてしまうがこの曲もそのせいかあまりオーケストラのプログラムにのったという記憶がない。

全体が二部構成になっていて前半がオーケストラによるシンフォニア、後半がソプラノ、テノールの独唱および合唱付きの壮大なもの。1840年の初演の時は500人で演奏したというからマーラー並み。その後41年に改定しており今は改訂版が一般的になっている。後半の声の部分は全編宗教的(詩編)であり宗教曲の一種と思ってよい。

出だしはトロンボーンですぐ覚えられるような主題が出てくる。悪く言えば間抜けな音楽だが直ぐ口ずさみたくなるようなフレーズでこれがいたるところで出てきて最後もこのフレーズで盛り上がって終わる。これだけでなく全編非常に分かりやすいというかなじみやすいメロディーが充溢しておりはじめて聴いても楽しめる。しかし反面とても明朗で明るくて陰影に乏しいという印象を自分は受けた。唯一第六曲の「死のきずなは、我々を囲み」のところに陰があるがそれとて古今の宗教曲に比べたら少々脳天気な音楽に聴こえる。これがこの曲の物足りなさの原因かもしれない。

下野の指揮はとてもテンポよく小気味よい。アバド/ロンドンの演奏が我が家にあるがこれが74分で今夜の下野の演奏は65分。でもせわしさは全く感じられずむしろさわやかな演奏に感じられた。アバドのスケールの大きい演奏とは対象的だがこれはこれでよいのではないだろうか?芸術劇場で聴くのは久しぶりだが読売の音もなかなかよくとても楽しめた。

合唱はスカラ座風に前列が女声陣、後列が男性陣となっておりこれも充実。

ソプラノの澤畑はさすがに透明な声、感心したのは永田で実に美しくよく通る声でこういう宗教曲にふさわしいように思った。国光は第六曲でオルガンのある場所から歌ったが天使のような効果で良いアイデアだと思った。

ヒンデミットのチェロ協奏曲は彼が21歳の時の作品で作品番号は3である。彼の後年の曲とは趣がちがってなかなか聴きやすい。しかし部分的には良いなあと感じても何か曲全体がつかめないようなもどかしさがあってあまり楽しめなかった。チェロのウィスペルウエイはアンコールにヒンデミットとバッハの無伴奏曲をやって喝さいを浴びていた。いつも思うがこういうサービス精神は蛇足。
                               終わり

2009年10月17日(土)
NHK交響楽団1655回定期演奏会Aプロ
於:NHK交響楽団(18列中央ブロック)

W・リーム:厳粛な歌
ルヒャルト・シュトラウス:歌劇「カプリッチョ」最後の場
リヒャルト・シュトラウス:家庭交響曲

指揮:アンドレプレヴィン
ソプラノ:フェリシティ・ロット


金曜にスペインから帰国し翌土曜17日にゴルフをした後コンサートに臨んだため集中力を欠いてしまった。特にリームの曲は1996年作曲で何だか暗くて眠くてたまらなかった。(申し訳ありません)この曲はブラームスの4つの厳粛な歌から触発されたらしい。サヴァリッシュが強く勧めて作曲したとのことである。

家庭交響曲は1902年の作品、ニューヨークへの演奏旅行の際にこの曲を持参しニューヨーク交響楽団を指揮して初演、大好評だったらしい。
しかしいくらどのような事象でも音楽にできるシュトラウスといえども家庭の一日を音楽にして何が面白いのだろうかと思う。ここまでくるとちょっとやり過ぎではないだろうか?正直中間部は全く退屈で眠たくなってしまった。マゼール、ウイーンフィルの演奏を我が家では聴くが全体にこちらのほうが生き生きしているように思った。特に朝7時からの喧騒の音楽はマゼールの冴えた音楽には度肝を抜かれる。その点プレヴィンはソフトタッチ。逆にそれが功を奏してか音楽はN響にしては(失礼)実に流麗。でも最後の盛り上がりはもう少し盛大にやってほしかった。

今夜最大の聴きものはフェリシティ・ロットがマドレーヌを歌った「カプリッチョ」からの最後の場。このオペラはなんと1941年作曲というからシュトラウス77歳の時の作曲。種本はサリエリのオペラでそれをシュテファン・ツバイクがアイデアを付け加え、結局シュトラウス自身がクレメンス・クラウスのアドバイスを得て完成させた。正直いってドイツ語がわからないとこのオペラの真髄はわからないのではないだろうかと思う。テーマは音楽が先か言葉が先かということだがこれを主人公のマドレーヌの詩人と音楽家との間で揺れ動く気持ちを横糸にして延々と音楽が続く。
この最後の場はしかし実に感動的な音楽が続く。77歳の老人からなんと新鮮な音楽が生み出されたのだろう。最初のホルンの音を聴いただけでもうぞくぞくしてしまう。そして今夜のN響の演奏はなんと美しいのだろう。これがプレヴィンマジックだろうか?19分の短い場面だが本当に楽しめた。そしてロット、なんと立ち姿が美しい人だろう。日本に来て薔薇の騎士の元帥夫人を歌ったそうだが残念ながらみていない。ただクライバーの指揮したDVDは見ている。もう30年ほど活躍しているからかなりの年齢だと思うが実に澄明な美しい声、NHKホールのような馬鹿でかいホールでなく新国立などで聴いたら更に特質が生かせたのではないかと思った。
この「カプリッチョ」はルネ・フレミングがマドレーヌを歌ったパリオペラ座の公演のDVDを聴いている(見ている)がルネ・フレミングの美しさにはロットは負けるがその気品のある姿は甲乙つけがたい。ああ舞台を見てみたい。
今秋、二期会でこのオペラをやるが期待したい。


余談としてのスペイン印象記

10/8から10/16までスペインに行ってきた。訪問した観光地は以下の通り。
マドリッド、トレド、コルドバ、カルモナ、セヴィリア、ロンダ、コスタデルソル(マルベーヤ)、ミハス、グラナダ、バルセロナ、モンセラット

スペインは欧州人にとっても何か掻き立てるものがあるのだろうか「セヴィリアの理髪師」、「カルメン」、「ドンジョバンニ」、「ドンカルロ」など実にたくさん音楽の舞台になっている。そうそう「トロヴァトーレ」もそうだ。大体トロヴァトーレ(吟遊詩人)はイスラムのハーレムの女官達を連れ去ったキリスト教国の王様が彼女たちの歌をもとにして吟遊をはじめたそうだからイスラムの文化の影響はいたるところにあるのだ。スペインにはこのようなイスラムの香りがそれこそいたるところにあるのだ。そうそうあの「パルシファル」だってモンセラットの山からワーグナーが触発されたそうだ。クリングゾルはどうみてもモスレムだ。こう見てゆくとスペインの文化の光と影というか奥行というか、私たち日本人には計り知れないものがありそうだ。これがスペインの最大の魅力だと思う。さらにそれに加えてロマ(ジプシー)のフラメンコがあるのだ。ヨーロッパと言ったってフランスやドイツとは全く違う国なのだ。

もうひとつ忘れてはいけないのはこのような文化の融合だけでなくスペインには民族の融合も長い歴史の中にはあったということだ。もちろん侵略されたわけだからスペイン人はこのことをなかなか認めがたいことかもしれない。しかしこれはBBCのドキュメンタリー番組でベタニーヒューズという歴史家が述べている。スペイン史を見るとレコンキスタというイスラム駆逐の復興運動ばかりが強調されるが実際は多くの都市でイスラム教徒、キリスト教徒そしてユダヤ人も共存していた事実があるのだ。1492年までは。その年イスラム勢力がイベリア半島から駆逐され強力なカソリック国となったスペインはそれ以降イスラムやユダヤ人やカソリック以外の人々などを異端として処刑してきた。そこで異文化・異人種との融合が断ち切られてしまう。1492年は何の年か?そうコロンブスがアメリカを発見した年。そしてアメリカ大陸の人々にとっては不幸の始まり。映画の「アポカリプト」でその不幸の直前のアメリカ大陸が描かれている。そしてジャレド・ダイアモンド著の「銃・鉄・病原菌」にその過程が克明に描かれている。なぜスペイン人に中南米の人々が滅ぼされたのかが。又チャールズCマン著の「1491」という本に1491年以前のアメリカ大陸に優れた文化あったことが描かれているがそれがスペイン人に木端微塵に打ち砕かれたのであった。これは不謹慎ながら余談の余談。

こういう視点で見てゆくと今回最も感動的だったのはコルドバのメスキータ。円柱の森と呼ばれるもともとはイスラム寺院だった。柱が全盛の時は1000本あったという。コルドバは8世紀にイスラムがスペインを征服した際の首都である。映画「アラビアのロレンス」でファイサル王子がロレンスにイギリスのロンドンが寒村だったときにコルドバには街灯があり数十万人の人々が生活していたと語っていたのが印象的。ではそのイスラム国家はなぜその後欧米の植民地になったのだろうか?このコルドバのような世界の文化の中心だったそのイスラム文化がなぜ欧州に負けたのだろう。これはウィリアム・バーンスタイン著の「豊かさの誕生に」詳しく書いてある。一言で言うと豊かさのためには私有財産権、科学的合理主義、資本市場、効率的な通信輸送手段の4つすべてがそろわなくてはいけないという仮説について論じられている。イスラムには私有財産と資本市場がない。すべての文化と富はスルタンのものだからだ。これは中国も同じ。またまた余談の余談。
 さてメスキータだがキリスト教徒がコルドバを奪回してから何をしたのか。まずイスラム寺院は開放的であったのでキリスト教会のようにクローズにしてしまった。今は照明がないと真っ暗。昔はオープンだったので自然の光で明るかったそうだ。そのため柱が150本ほど減らされた。そして建物の一部をキリスト教会の大聖堂風に改装してしまった。入口から入って奥に行くほどイスラム色が薄まってキリスト教会風になってゆくが全体を俯瞰するとイスラムとキリスト教が混然としているのだ。この改装はスペイン王カルロス5世が許可したものだったそうだがあとから彼がメスキータを訪問した時に後悔したという。それほどイスラムの遺産が素晴らしかったとうことだ。そして一部とはいえイスラムの文化を破壊せず残したこと、これは本当に優れたものには手を触れがたいということではないか?しかし一方ではナポレオン軍がスペインを侵略した際にグラナダのアルハンブラのメディナという建物を破壊しつくしたという、またモンセラットという修道院の宝物の大半を持ち去ったというからその野蛮さがよくわかる。大体エジプトのオベリスクを持ち帰るなどということ自体野蛮の極み。欧州の歴史はきれいごとではない。
またまた脱線したが、このコルドバの素晴らしさはこのイスラムとキリスト文化の混然・一体化ではないかと思う。コルドバにはこのメスキータの近くにユダヤ人街がありいろいろな民族が混然と暮らしていたのである。1000年近く前に、そういう歴史があったのになぜ今の世界にその歴史が学習効果として生かせないのだろうか?素晴らしさと同時に疑問も残った。

このような視点で見てゆくとグラナダのアルハンブラ宮殿はメスキータほど感動はしなかった。それは宮殿がかなり復元されイスラムのまま残されていたからだろう。文化の素晴らしさはよくわかるが。ナポレオンの侵略の後荒れ果てたままだった宮殿をワシントン・アーヴィングと言う人がこのアルハンブラを世に知らしめという。なおこのアルハンブラ宮殿の建築物としての素晴らしさはベタニー・ヒューズのBBCの番組に詳しい。グラナダはイスラムのイベリア半島の最後の砦だったがカスティーリャ国と手を結び延命する。ここでもイスラムとキリスト教徒は百年以上も共存したのだ。

その他で素晴らしかったのはプラド美術館(マドリッド)だ。ベラスケスという画家がこのように素晴らしいとは思わなかった。特に有名な「ラス・メニーナス:女官達」は本当にすごい絵。余談だがバルセロナのピカソ美術館にこの絵と全く同じ構図の大作がありピカソもこの作品には大いにインスパイアされたのだ。なんとこの絵に関して40枚以上の部分図が連作になっていた。その他ゴヤ、グレコが多数あり絵画ではルーブルよりすばらしいのではないか?

モンセラット(バルセロナの郊外)という岩石山の頂上にある修道院も良かった。この修道院で録音された宗教曲のCDを購入したがこれが素晴らしい録音。

かの有名なガウディのサグダラファミリア教会や彼の建築物であるカサ・ミラやカサ・バトリョなどはその道に興味がないせいかまったく面白くなかった。(バルセロナ)

バルセロナでフラメンコを鑑賞した。200人くらいの小さなスペースでのパフォーマンス。歌い手が男性2人(バスとテノール)、女性2人(ソプラノとアルト)、踊り手は女性四人、男性二人、ギターが3人という構成。もちろん踊りの素晴らしさは筆舌尽くしがたい。日本で見るフラメンコはダンス(舞踊)でありきれいごとに終わっているように感じた。ギターはさしてうまいとは思わなかったが歌い手が凄い。男性ではバス、出だしは張りがなくあれれと思っていたらそのうちものすごく乗ってきて惹きこまれた。しかし最高だったのはアルト。意味は全く分からないがそのかすれたような地声のような声は誠に物悲しく胸が締め付けられるような歌唱であった。彼女はわずか2曲しか歌わなかったのは残念。

ミハスやカルモナ、コスタデルソル、ロンダなどいわゆる白い村達は観光地化していて蛇足。

スペイン人は陽気で日本人ひいきと聞いていたが現地ではあまりそういう印象は持たなかった。買い物行っても店の店員は無愛想で一昔前の中国の国営店の趣。バルセロナの免税店も同じ。観光国?とは思えない。
                               終わり

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