ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2009年09月

2009年9月30日
読売日本交響楽団第485回定期演奏会
於:サントリーホール(14列中央ブロック)

モーツァルト:交響曲第41番「ジュピター}
ショスタコーヴィッチ:交響曲第11番「1905年」

指揮:スタニスラフ・スクロヴァチェフスキー


このプログラムからみると当然ショスタコーヴィッチが本日のお目当てだろうから初めて聴く曲ゆえ事前に何度か聴いた。マリス・ヤンソンス/フィラデルフィアの演奏である。ものすごい良い録音でこのCDでこの曲のアウトラインはつかんでコンサートにのぞんだ。

このスクロヴァチェフスキー``は今年の三月の公演でベートーベンの「ミサソレムニス」を振ったがこれがものすごくよく久しぶりに良いベートーベンの演奏を聴いた感があったので今夜もかなり期待をした。

まずモーツァルトだが、演奏時間およそ35分、カラヤンやワルターは30分未満で演奏しているがこれはおそらく省略しているのではないだろうか?ピノックがイングリッシュコンソートを率いて録音したものは約38分だからこれと比べるべきだろう。音楽の節と節がぷつぷつと切れたように聴こえかなりきびきびした演奏という印象。というよりもモーツァルトのもつ典雅さというか流麗さというかこのような要素が微塵も感じられない実に厳しい音楽で感動した。特に一楽章と四楽章の割れたような金管(トランペット)の効果、乾いたティンパニーの炸裂、こんなモーツァルト聴いたことない。四楽章のフガートからコーダの音楽は本当に胸が熱くなった。一方二楽章のアンダンテは決して流麗ではないにしてもきりりとした弦が美しい。またメヌエットは全然メヌエットとは感じられない厳しい音楽に聴こえた。こういうモーツァルトは駄目という人もいようが私は好きだ。

ショスタコーヴィッチの11番は別名1905年というがこれは第一次ロシア革命の発端となった1905年のⅠ月9日の血の日曜日を題材にしている標題音楽である。この惨劇の犠牲者は1000人とも4000人とも言われておりいずれにしろ血なまぐさい事件だったのだ。
第一楽章:宮殿前広場;アダージョ
第二楽章:1月9日;アレグロ
第三楽章:永遠の記憶;アダージョ
第四楽章:警鐘;アレグロ・ノン・トロッポ

一楽章は二楽章の惨劇の序奏のような音楽だ。ティンパニの音が絶えず不気味にドロドロ言っている。トランペットの軍隊のラッパが惨劇の予兆を感じさせる。このラッパのメロディは各楽章で聴くことができる共通主題の様な音楽だ。凄まじいのは第二楽章の惨劇シーン、フルオーケストラの総奏が何分も続き思わず背筋がぞくぞくする。それをスクロヴァチェフスキーは最小限のバトンの動きで表現する、その職人芸の素晴らしさ。オーケストラも決して金切り声にならず透明感を保ちつつ音楽を聴かせる。特に弦がうねるような様は形容しがたい。三楽章はエレジーのような悲しみの音楽。そしてクライマックスは四楽章でまたオーケストラの咆哮が戻る。前後したが二楽章と四楽章のティンパニー他の打楽器の効果が凄い。特にティンパニがまさに炸裂といういう形容がふさわしい。血が騒ぐような音響だ。ただ金管はもう少し余裕があると良かったかなという印象。

そして最後は大音響のまま突然音楽が終わる。凱歌のような金管の叫び、鐘の音、打楽器の連打の中で終わるのだがこれは一見勝利の音楽のように聴こえるがベートーベンの交響曲のように音楽が落ち着くところに落ち着かない。何か空虚な形で終わるのが不気味だった。だから終わった後も爽快感なくもやもやした印象。これはヤンソンス``のCDでもそう感じたから共通のものだろう。例えていえばマーラーの六番みたい。

とにかく音の奔流にのみこまれた一時間であった。疲れました。ロシアの人は平気なんでしょうか?読響のみなさんお疲れ様でした。大熱演でした。なおパンフレットに演奏時間が記載してあったがこれは全くの間違い。ジュピターは31分→実際は35分、1905年は55分→61分。ヤンソンスが63分だから若干速い。練習時間と生との違いと理解した。

スクロヴァチェフスキーは来年三月の定期でブルックナーの定期を振る予定であり大いに期待したい。
                               以上

2009年9月26日
東京交響楽団第570回定期演奏会
於:サントリーホール(19列中央ブロック)

シューマン:ピアノ協奏曲
ラフマニノフ:交響曲第二番

指揮
秋山和慶

ピアノ
小山実稚恵


昨日のウイーンフィルに続いてオーケストラの良い演奏を聴いた。席は昨日の二階と違って一階。やはりこのほうが落ち着くから不思議。

シューマンのピアノ協奏曲は昔よく聴いた。たしかゲザ・アンダというピアニストのレコードを毎日毎日聴いたのを覚えているが、オーケストラはどこだか記憶から欠落している。このCDはもう廃盤かもしれないし、CD化されていないかもしれない。今はツィマーマン/カラヤンの演奏を聴いている。この演奏も良いのだが第一楽章のカデンツァの部分が気に入らない。ここはどうしてもスピードアップしたくなるのだろう。ツィマーマンも同様に速く弾いている。しかしアンダ``はここでテンポをあげずじっくりと弾いているのだ。(ひょっとしたら楽譜上はアンダのほうがおかしいのかもしれないけれど、自分の耳にはこれが良いのだ)そしてそのままの勢いでコーダに向かう。そのタイミングが好きだ。今夜の演奏はやはり多くのピアニストがやっているようにこのカデンツァの部分でテンポを上げている。勢いばりばりと弾くことになりシューマンの詩情が失われるような気がするのである。その後のコーダは良かったが。
 今夜のシューマンで良かったのは三楽章だと思う。ロマンの香りが充溢した演奏だと思った。長いコーダも聴かせた。
 アンコールはトロイメライ。これを聴くと下校時間を思い出す。トロイメライってこんなにゆっくり弾くんだと初めてわかった。

今夜よかったのはラフマニノフのほうだ。シューマンの演奏では管弦楽がちょっと音がきつくなるところ(弦)もありあれれと思ったが、ラフマニノフではまったくそういうことがなく楽しめた。特に三楽章は秋山も思い切り歌わせて素晴らしかった。出だしの木管も郷愁を帯び聴きどころ。この曲にはこの楽章だけではないが随所にロシア民謡のような聴いたことがあるような音楽が散りばめられており、特にこの楽章を聴いて心が動かない人はいないでしょう。ファウスト``ではないが「止まれ、おまえは美しい」と形容したい。それが甘美と感じるかせつなさ、わびしさやいとおしさを感じるかは聴く人の精神状態によるでしょうが! この楽章を聴いていたらマーラーの六番の交響曲のアンダンテの楽章を思い出した(マーラーファンには不謹慎と怒られそうです)。このマーラーのアンダンテもラフマニノフの三楽章同様聴くときはいつも永遠に続いてほしいと思うくらい美しいと思うのである。

最後の四楽章は聴きもの。秋山のドライブ力はすごくコーダの迫力は筆舌尽くしがたい。弦の熱演、金管の咆哮、ティンパニの強打素晴らしいものであった。
                              以上

2009年9月25日
ウイーンフィルハーモニー管弦楽団日本公演
於:サントリーホール(二階LBブロック)

一昨年はアーノンクールの指揮、昨年はウイーン国立歌劇場としてムーティの指揮、そして今年はズービン・メータの指揮でほぼ毎年ウイーンの音を楽しんでいる。日本でこういうことができるのは本当に幸せなことだと思う。

 今夜の公演は実にサービス精神旺盛のプログラムでアンコールを含め終演時間はなんと9時50分でした。オーケストラの公演でこんなに長いのは初めての経験だった。少々くたびれたが満足した夜でした。

プログラム
ハイドン:交響曲104番「ロンドン」
ショパン:ピアノ協奏曲第一番
(アンコール:ショパン、練習曲作品25-1エオリアンハープ)
リヒャルト・シュトラウス:英雄の生涯
(アンコール1:ヨハンシュトラウス、アンネンポルカ
 アンコール2:ヨハンシュトラウス、ポルカ 雷鳴と電光)

指揮:ズービン・メータ
ピアノ:ランラン

まぁ、こんな具合です。日本の定期では考えられないです。ハイドンかショパンのどちらかといったところでしょう。今夜の席は初めての二階でしかも左ブロックということでどういう音になるか期待半分、不安半分でした。一階に比べると直接音が少ないせいか各楽器が少し細くというか繊細というかいつもと違って聞こえました。特に低音楽器が何か抜けが悪く、悪く言えばモゴモゴといった感じ。音楽がはじまればあまり気にならなくなりましたが!

さて、ハイドンです。演奏時間28分で我が家のクイケンより1分遅く、ヨッフムより1分速い演奏でした。一楽章が長めで四楽章がフルスピードといった印象。一楽章の序奏でパーンとティンパニーが響いたあとしばらくして緩やかな部分がくるがここの弦の美しいこと。そして二楽章のアンダンテも持ち味十分の美しい演奏でした。最終楽章はクイケンやヨッフムより速い演奏でしたがせかせかした感じはなく非常に盛り上がった。おそらく今夜の曲の中で私の印象ではこのハイドンが最上のものと感じた。
 余談ではあるがハイドンは今春ブリュッヘンが新日本フィルを振ってハイドンセットを全曲演奏したがこの印象がものすごく強い。ノンビブラートのため音はきりりとしティンパニも小気味よく全体に締まった音楽でこういうハイドンもいいなあと思った次第。しかし今夜の様なゆったりとした流麗なハイドンも好きだ。

次はランランの独奏による、ショパン。どうも今夜のお目当てはランランで終わった後の拍手は凄まじいものだった。しかし演奏はかなり速くてどうも落ち着かない。我が家のツィンマーマンに比べるとなんと二分も速い。緩やかな部分は思いいれたっぷりでゆっくり演奏し聴かせるが速い部分で
は猛スピードでこれほどまでに速くひかなくても良いのではないかと思うほどだった。今夜の席は二階の左だったのでピアノの鍵盤がよく見え、特に右手は真下に見えくるくる独楽鼠のように動くのでそれを見ているうちに終わったという印象。まあもともとショパンのこの曲はつまらない(失礼)曲なんでこんなものかと思えばそれまでだが!
でも、アンコールで弾いた練習曲はとてもよかった。少しテンポを動かしながら演奏していたように感じたが実に心を動かされるショパンだった。わずか数分の曲だが胸が熱くなってしまった。こういうのを聴くとランラン只者ではないと思った。

最後はリヒャルト・シュトラウスの「英雄の生涯」。シュトラウスの交響詩は聴き映えがするので若いころは夢中で聴いた。この英雄の生涯はその中でも愛聴した曲で、昔はLPだったので片面では録音しきれず英雄の戦場のところでB面にひっくり返すわけだがCDで聴いていてもその場面になるとひっくり返さなくては思ってしまうほどよく聴いた。しかし同じ英雄という標題のベートーベンの英雄交響曲との決定的な違いは、ベートーベンでは苦悩や戦いを乗り越えた勝利や新たな創造を第四楽章で表現しているのに対してシュトラウスは結局自分の自慢話かと思わされてしまうところにあるように思われてこの頃はあまり聴かなくなった。
 今夜の演奏、メータの指揮は奇をてらわない立派な演奏。特に英雄の妻の場面はウイーンフィルの美しい弦との相乗でとてもよかった。英雄の戦場の場面もド迫力で、サントリーホールの天井が抜けそうな音楽だったが私は自分の年齢のせいか最後の英雄の引退の音楽は共感を持って聴けた。

アンコールの「アンネンポルカ」と「雷鳴と電光」はご当地ソングみたいなものだから悪いはずはなく大喝さいを浴びていた。ウイーンフィルズービン・メータのサービス精神とスタミナに脱帽の夜だった。

一つ付け加えると海外からの演奏家の公演というと大体高額のパンフレットがつきものであるが今夜は非常にシンプルなものでしかも無料ということで主催者のセンスが感じられた。高額のチケットを購入した上にパンフレットまでが高額では誠に馬鹿にした話だとかねがね思っていたけれども是非これを他の団体でも踏襲してもらいたい。
                               以上

2009年9月23日
新国立劇場公演(16列中央ブロック)
ヴェルディ「オテロ」

演出
マリオ・マルトーネ

指揮
リッカルド・フリッツァ
管弦楽
東京フィルハーモニー交響楽団

オテロ:ステファン・グールド
デスデモーナ:タマール・イヴェーリ
イアーゴ:ルチオ・ガッロ
カシオ:ブラゴイ・ナコスキ
エミーリア:森山京子
ロデリーゴ:内山信吾


新国立劇場公演2009-2010年のシーズンが始まった。今年もいろいろと新演出、再演含めて面白い公演が目白押しで楽しみだ。かず今日の「オテロ」、それから「ヴォツェック」「影のない女」この3演目が注目の新演出。それと再演では「ジークフリート」「神々の黄昏」が楽しみである。

さて、今日の「オテロ」だが実に面白い演出だった。舞台は一幕から四幕まで同じ装置である。中央にあずまやみたいな建物がある。これがバルコニーになったり、デスデモーナの部屋になったりする。この建物を運河のような水が取り囲む。本当に水があるのだ。その運河のようなものに橋のような板をかけ歌手はその上で歌ったり演技をする。舞台左右はイタリアのヴェネチアを思わせるような屋敷が連なり、後景には防波堤が連なる。設定は19世紀だそうだがあまり違和感がない。この演出家は映画の出身だそうだ。それだからかどうかはわからないがかなり細かい演出をしている。たとえば二幕でイアーゴの「クレド」の場面、最後に「死はすなわち無だ」と歌うが中央の建物の壁に泥で十字架を自分で塗りたくり、歌った後にバケツの水でそれを流してしまう。また同じく二幕でデスデモーナと村人のシーンで突然舞台が暗くなったと思ったらデスデモーナが座りながらスカートをまくり素足を出し、恋人らしき男からプレゼントをもらったり抱擁を受けたりする。おかしいじゃないかと思うが実はこれはオテロの妄想を表わしているのだ。もうこの時点でイアーゴの毒牙にかかったオテロの妄想を!
 キーパーツのハンカチをデスデモーナがなくすところも単にエミリアが拾うのではなくオテロがデスデモーナから取り上げたハンカチを運河に投げ込む、それをイアーゴが竿で引っ掛け上げるという手の込んだことをしている。とにかく説明しているときりがないくらいいろいろやっている。でもそれがキースウォーナーのトウキョウリングのように何だかわけがわからないというのではなく必然のように感じるから面白い。四幕の「アヴェマリア」も最初はベッドの中で歌う。おかしいなあと思っていたらそのうちデスデモーナはベッドから抜け出し祈りながら歌う。感動の場面、デスデモーナは死の予感を感じ取ったのをこう演出したのだと思う。ちょっと可哀想だったのは「オテロの死」の場面、オテロは運河の中に飛び込み(といってもくるぶし程度の水かさ)水の中で死ぬ。ここも実に感動的であったがステファン・グールドがびしょぬれになるのではと心配してしまった。とにかく面白い演出だった。新演出は往々にして珍奇なことをやり,注目を集めようとするばかりに,やる必要のないことをやったりする。しかし大事なことはそのドラマにとって必然性があるのかどうかということだと私は思う。そういう意味で今日の演出は無駄なことがなくかなりの部分で合理的かつ必然性を感じた。

音楽である、第一幕冒頭の嵐の場面、すさまじいオーケストラ、雷の効果音、稲光の照明効果が相まって強いインパクトだった。この音はオーディオ装置ではなかなかでないだろう。オテロの登場はこれまた面白く客席から舞台に上がって歌うのだ。ステファン・グールド``は実は昨年バイロイトでジークフリートを歌っているのを聴いている。世界的に数の少ないヘルデンテノールの一人で立派な歌であった。新国立ではフィデリオのフロレスタンを歌っておりこれもなかなか良かった。
 「オテロ」の演奏の難しさは優れたオテロ歌いがいないことではないか?
(以下かなり主観的な感想)自分もそうだが日本人のある年配以上の方はオテロといえばデルモナコなのでどうしてもモナコと比較してしまう。だから評価が厳しくなるのだろう。自分は残念ながらモナコのライブは聴いていない。しかしカラヤン/ウイーンフィルの演奏で61年に録音したものがありこれが自分のオテロのデファクトになっている。もうひとつ1959年のイタリア歌劇団公演でモナコティト・ゴッビが共演した化け物みたいな演奏がCDとDVDで出ておりいずれもモナコのオテロを味わうことができる。自分の愛聴盤はカラヤンのもの。このころのカラヤンは後年のベルリンフィルと共演したイタリアオペラのような大げさな音楽にはしていなくて好きである。余談だがカラヤン``の「ドンカルロ」にしても「蝶々さん」にしてもとても素晴らしいのだが何度も聴くと疲れてしまう。それほど大げさに構えなくても良いのではないかと思うのである。
 もうひとつ1981年のミラノスカラ座公演でクライバーが指揮してドミンゴがオテロを歌ったがこれも素晴らしいものだった。幸いこれはライブを聴いている。ドミンゴは嫌いであるがこの時は入神の演技であった。人間の弱さをあれほど赤裸々に表したオテロは聴いたことがない。すなわちモナコドミンゴの二人のオテロ歌いにかなうものがいるかというところにオテロの演奏の難しさがあるように思う(とても主観的だが)。だから自分にとって他の歌手がオテロを歌うと何か居心地が悪いのである。
 そこで新国立はグールドを持ってきた。狙いはモナコでもドミンゴでもないオテロではないか。グールドはアメリカ人だがドイツのオペラの英雄的テノールでありそういう意味ではあたったと思う。モナコの様な声の輝きはなくドミンゴの様な激情も示さない。そのかわり少し重い声でどっしりしたオテロを演じた。三幕のデスデモーナの不倫をなじるところと「オテロの死」の場面で初めて感情をあらわにしたように感じた。
 デスデモーナ役はノルマ・ファンティーニの代役であったが透明な声でオテロと対比的で哀れな感じを出していたように思う。ファンティーニだと重すぎたかもしれない。ガッロは新国立では御馴染みだ。どうしてもフィガロのように見えてしまってイアーゴのような悪人に見えない(私には)が声はオテロと対比で明るい声なので良いコンビだと思った。「クレド」も立派な歌唱だった。そのほかではカッシォとロデリーゴは冴えなかった。
 二幕ではオテロとイアーゴの幕切れの二重唱が印象的。三幕ではオテロがヴェネチアの使者を迎えて幕切れまでの合唱を交えた演奏は素晴らしかった。
 そして今日もっともよかったのは第四幕である。デスデモーナの「柳の歌」、そして「エミリアさようなら」とデスデモーナがエミリアに抱きつく場面、「アヴェマリア」まで涙なくして見れない。最後の「オテロの死」、オテロの悔恨が凝縮した音楽だった。
 指揮のフリッツァは緩急をつけ好演。東フィルも大熱演ではないか。特に一幕の冒頭の音楽は凄まじかった。金管、ティンパニも強烈だった。
 もうひとつ合唱がよかったことを付け加えたい。一幕の大半を占める合唱部分と三幕の後半は立派でした。
                               以上

2009年9月19日
NHK交響楽団定期公演 Aプロ
於:NHKホール(18列中央)


曲目:オールメンデルスゾーンプログラム

序曲 「フィンガルの洞窟」(ローマ稿)
ヴァイオリン協奏曲 (初稿)
交響曲第三番「スコットランド」

演奏:
指揮:クリストファー・ホグウッド
ヴァイオリン:ダニエル・ホープ

奇しくも7月の読売定期(指揮尾高忠明)と同じプログラムとなった。もう少し調整できないものかと思ってプログラムを見るとさすがホグウッド、稿が違うのだ。フィンガルの洞窟はローマ稿、ヴァイオリン協奏曲は初稿。ただし交響曲三番は最終稿でいずれも私たちが普段耳にしているものと楽譜が違うのだ。

さて、今夜のN響の音は何か違う。N響の音はどちらかというと重厚ながっちりした音だと思うが今夜は細身できりりとした音。古楽の大家ホグウッドがモダンオーケストラをどのように振って音を出すのか興味しんしんだったが期待にたがわず実に今まで聴いたことのないようなメンデルスゾーンを聴かせてくれた。

古楽の大家でモダンオーケストラを指揮したものとしては今春ブリュッヘンハイドンロンドンセット``全曲をトリフォニーホールで聴いた。これも実にきりりとした男性的な演奏であった。原因の一つはビヴラートをかけない奏法にあると思われる。今夜もヴァイオリンはほとんどヴィブラートをかけていないように見えたのでおそらくそうだろう。そういう弦をベースに金管がすさまじい。普段は咆哮であるが今夜は炸裂である。咆哮と炸裂はどう違うかは言葉では難しい。感じ取っていただきたい。それとティンパニのすさまじいこと。特に三番の交響曲の第四楽章の休止のあとのコーダはすさまじい。これは決して柔なメンデルスゾーンではなくほんとうの筋金入りのドイツ音楽なのだということを再認識した。今夜の演奏を聴くとCDで日ごろなじみのアバド/ロンドンの演奏が今一に思えるから不思議だ。

メンデルスゾーンはお金持ちに生まれ、生活に何の不自由もない、音楽家としては珍しい経歴である。だから彼の作品は聴いていて鼓舞・叱咤激励されるようにはなっていない。何か幸せな気分を高揚させる音楽とばかり思っていた。しかし今夜のメンデルスゾーンはちと違う。一つは今述べたようなホグウッドの指揮、もう一つは版である。特に前半の二つは初稿かそれに準ずるものであり肌合いが違う。フィンガルの洞窟にはその中でも驚かされた。いつも聴きなれた曲とはかなり違う。楽譜が読めないので的確には表現できないが始まって四分、八分そして最後の盛り上がりなどでその違いがわかる。現在の版がいかに流麗でなめらかな音楽か!そしてこのローマ稿がなんと荒削りなことか!北の海に浮かぶヘブリデス島の姿がこの稿では浮かび上がって来るように感じた。この曲がこんなに厳しい音楽なんていままで思ってもみなかった。

さて、ヴァイオリン協奏曲は初稿だそうだがこちらはあまり違いがわからなかった。ホープは南ア出身のヴァイオリニスト。超美音とは言えないが非常に素直な音が好ましい。第二楽章やアンコールのラベルなどはフィットしていた。演奏時間は26分強。愛聴しているハイフェッツ/ミュンシュ/ボストンの24分に比べると長いが聴感上はあまり違和感無かった。三楽章もかなり盛り上がった。

そしてスコットランド交響曲である。演奏時間はおよそ40分だからアバドとほぼ同じ。7月の尾高が35分だったから尾高の演奏がいかに忙しいかよくわかる。冒頭述べたように、なんといっても四楽章が圧巻であった。ゆったりした第一楽章、たたみかけるような二楽章いずれも素晴らしい。稀にみる素敵なメンデルスゾーンであった。
                               終わり

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