2009年6月28日
清水 脩作曲「修禅寺物語」
於;新国立中劇場(14列左ブロック)
清水 脩作曲「修禅寺物語」
於;新国立中劇場(14列左ブロック)
出演;
頼家;村上敏明
夜叉王;黒田 博
かつら;小濱妙美
かえで;薗田真木子
春彦;経種廉彦
頼家;村上敏明
夜叉王;黒田 博
かつら;小濱妙美
かえで;薗田真木子
春彦;経種廉彦
指揮;外山雄三
演出;坂田藤十郎
演出;坂田藤十郎
管弦楽;東京交響楽団
日本の作曲家によるオペラは初体験。有名な修禅寺物語のオペラ化だからストーリーはわかっているが曲は全く初めての体験。
結論的にいえば特に最終場(第三場)の音楽は実に劇的で感動を誘うものでした。「修禅寺物語」はもともと新歌舞伎のために岡本綺堂が書いた戯曲である。その新歌舞伎は見たことはないが今回坂田藤十郎が演出を若杉芸術監督から委嘱されたのはその原作の香りを出したいという狙いがあったようだ。舞台はまるで歌舞伎座のセットのよう。歌手の動きも歌舞伎ほど様式的ではないにしてもそれを彷彿とさせるように感じられた。特に幕切れで夜叉王の娘かつらが頼家の身代わりになって瀕死の重傷を負って自分の家に帰ってから、夜叉王が自分の彫った能面の死相が現実になったのを知った時、そしてかつらの死に顔を将来のために写生したいからかつらに苦しいだろうが死ぬなと言う一連の場面は音楽と演出が合っていたように思った。またこの音楽は実に劇的である。ただ娘が死にそうなのに夜叉王は写生するまでほとんど娘のかつらの顔を見ないのは少々不自然かと思ったがおそらく演出家の意図で夜叉王が自分の能面製作という世界に没入しているさまを表したかったのではないかと推量する。
全一幕、三場の構成。音楽は西洋のオペラのそれとはだいぶ肌合いが違う。自分の感覚ではショスタコービッチの「ムチェンスク郡のマクベス夫人」を思いおこさせた。解説ではドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」やオネゲルの音楽との類似性をあげていた。一番の違いは音楽は歌手が歌っている間はあまり積極的に動かないということかもしれない。レチタチーボの通奏低音の様と言ったらちょっと語弊があるかもしれないが、その趣である。音楽が動くのは歌と歌の間の間奏曲のような音楽である。たとえば第一場で春彦(夜叉王の二女かえでの許嫁)が大仁まででかけるほんの数分の音楽が実に印象的で美しい。また頼家が夜叉王に面を依頼したのになかなかできあがらないのに業を煮やしして夜叉王に迫る音楽も生き生きしている。ここも迫っている台詞のところは大した音楽ではなくその次の場面までの音楽が実に厳しく感じられるのである。清水脩は意図してそういう音楽を歌詞につけたようである。
だから西洋のオペラを日本語上演した時のような一種独特の照れくささ(自分だけかもしれない)は感じられない。劇団四季の「キャッツ」の公演を見に行ったことがあるが何か居心地が悪かった。もちろんメモリーなど素晴らしい音楽があるのだがそれを日本語に直して歌われると何か気恥ずかしい思いをさせられるのである。でも今日の「修禅寺物語」全くそういうことはなかった。これは清水が日本語のもつ特徴を十分認識した上で作曲したからだと思われる。この経緯はプログラム解説に詳しく書いてある。
さて歌手陣だがやはり黒田博の夜叉王は一番安定していた。その他でかえで役の薗田は実に透明でなおかつ豊かな余裕のある声で魅了された。かつらは正直最初はちょっと違和感があったが三場の劇的な場面では聴かせた。
東響は相変わらず安定しており外山の指揮もあって安心して音楽が楽しめた。ティンパニーは相変わらずだし弦も美しい。中劇場は1200人ほどしかはいらない劇場だからちょっと総奏では飽和したかもしれない。
これで新国立の今シーズンはこれで終わり。今シーズンはいろいろ思いで深い公演がありよかった。ワーグナーのキース・ウォーナー演出の「ラインの黄金」や「ワルキューレ」の再演はいろいろなことを気づかせてくれた。また「ムチェンスク郡のマクベス夫人」には圧倒された。その他「トゥーランドット」、「リゴレット」など定番のオペラも楽しめた。そして「チェネレントラ」のカサロヴァはいろいろ批判はあるにしても今の日本であの水準のロッシーニが聴けるかといったら十分以上の満足を聴衆に与えたのではないか?引っ越し公演で五万も六万もとられて無気力な演奏を聴かされるよりずっとましである。昨年か一昨年のボローニャ歌劇場のアラーニャのマンリーコなどお金を返せと言いたいくらいひどいものだった。
来シーズンは「オテロ」で開幕である。大いに期待したい。
以上