ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2009年06月

2009年6月28日
清水 脩作曲「修禅寺物語」
於;新国立中劇場(14列左ブロック)

出演;
頼家;村上敏明
夜叉王;黒田 博
かつら;小濱妙美
かえで;薗田真木子
春彦;経種廉彦

指揮;外山雄三
演出;坂田藤十郎

管弦楽;東京交響楽団


日本の作曲家によるオペラは初体験。有名な修禅寺物語のオペラ化だからストーリーはわかっているが曲は全く初めての体験。

結論的にいえば特に最終場(第三場)の音楽は実に劇的で感動を誘うものでした。「修禅寺物語」はもともと新歌舞伎のために岡本綺堂が書いた戯曲である。その新歌舞伎は見たことはないが今回坂田藤十郎が演出を若杉芸術監督から委嘱されたのはその原作の香りを出したいという狙いがあったようだ。舞台はまるで歌舞伎座のセットのよう。歌手の動きも歌舞伎ほど様式的ではないにしてもそれを彷彿とさせるように感じられた。特に幕切れで夜叉王の娘かつらが頼家の身代わりになって瀕死の重傷を負って自分の家に帰ってから、夜叉王が自分の彫った能面の死相が現実になったのを知った時、そしてかつらの死に顔を将来のために写生したいからかつらに苦しいだろうが死ぬなと言う一連の場面は音楽と演出が合っていたように思った。またこの音楽は実に劇的である。ただ娘が死にそうなのに夜叉王は写生するまでほとんど娘のかつらの顔を見ないのは少々不自然かと思ったがおそらく演出家の意図で夜叉王が自分の能面製作という世界に没入しているさまを表したかったのではないかと推量する。

全一幕、三場の構成。音楽は西洋のオペラのそれとはだいぶ肌合いが違う。自分の感覚ではショスタコービッチの「ムチェンスク郡のマクベス夫人」を思いおこさせた。解説ではドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」やオネゲルの音楽との類似性をあげていた。一番の違いは音楽は歌手が歌っている間はあまり積極的に動かないということかもしれない。レチタチーボの通奏低音の様と言ったらちょっと語弊があるかもしれないが、その趣である。音楽が動くのは歌と歌の間の間奏曲のような音楽である。たとえば第一場で春彦(夜叉王の二女かえでの許嫁)が大仁まででかけるほんの数分の音楽が実に印象的で美しい。また頼家が夜叉王に面を依頼したのになかなかできあがらないのに業を煮やしして夜叉王に迫る音楽も生き生きしている。ここも迫っている台詞のところは大した音楽ではなくその次の場面までの音楽が実に厳しく感じられるのである。清水脩は意図してそういう音楽を歌詞につけたようである。

だから西洋のオペラを日本語上演した時のような一種独特の照れくささ(自分だけかもしれない)は感じられない。劇団四季の「キャッツ」の公演を見に行ったことがあるが何か居心地が悪かった。もちろんメモリーなど素晴らしい音楽があるのだがそれを日本語に直して歌われると何か気恥ずかしい思いをさせられるのである。でも今日の「修禅寺物語」全くそういうことはなかった。これは清水が日本語のもつ特徴を十分認識した上で作曲したからだと思われる。この経緯はプログラム解説に詳しく書いてある。

さて歌手陣だがやはり黒田博の夜叉王は一番安定していた。その他でかえで役の薗田は実に透明でなおかつ豊かな余裕のある声で魅了された。かつらは正直最初はちょっと違和感があったが三場の劇的な場面では聴かせた。

東響は相変わらず安定しており外山の指揮もあって安心して音楽が楽しめた。ティンパニーは相変わらずだし弦も美しい。中劇場は1200人ほどしかはいらない劇場だからちょっと総奏では飽和したかもしれない。

これで新国立の今シーズンはこれで終わり。今シーズンはいろいろ思いで深い公演がありよかった。ワーグナーのキース・ウォーナー演出の「ラインの黄金」や「ワルキューレ」の再演はいろいろなことを気づかせてくれた。また「ムチェンスク郡のマクベス夫人」には圧倒された。その他「トゥーランドット」、「リゴレット」など定番のオペラも楽しめた。そして「チェネレントラ」のカサロヴァはいろいろ批判はあるにしても今の日本であの水準のロッシーニが聴けるかといったら十分以上の満足を聴衆に与えたのではないか?引っ越し公演で五万も六万もとられて無気力な演奏を聴かされるよりずっとましである。昨年か一昨年のボローニャ歌劇場のアラーニャのマンリーコなどお金を返せと言いたいくらいひどいものだった。

来シーズンは「オテロ」で開幕である。大いに期待したい。
以上

2009年6月19日
日本フィルハーモニー第611回定期演奏会
於;サントリーホール(20列右ブロック)

プログラム
チャイコフスキー;組曲四番「モーツァルティアーナ」
モーツァルト;ヴァイオリン協奏曲第三番
プロコフィエフ;交響曲第二番

演奏
ヴァイオリン;ニコラ・ベネデッティ
指揮;アレクサンドル・ラザレフ

チャイコフスキーの組曲四番は珍しい曲ではないだろうか?でもなかなか面白い曲である。チャイコフスキーは猛烈なモーツァルトの信奉者だったらしい。モーツァルトの小曲をベースにしてチャイコフスキーが手を入れたもの。4つの曲からなっている。二十数分の曲だが半分は第四曲が占めている。良かったのは3曲目、モーツァルトのアヴェ・ヴェルム・コルプスをリストがピアノ編曲したものを更にチャイコフスキーが手を入れたものだからややこしいが、音楽はなかなか素敵だし、日本フィルも好演。何より良いのは高弦が今夜は美しい。そして低弦が音楽をしっかり支えているので音楽に安定感がある。4曲目もなかなか面白い。ヴァイオリンやクラリネットの独奏とオーケストラの絡みが楽しい。

ラザレフは初めてだがなかなかのもの。指揮棒なしで指揮をする。

2曲目はモーツァルトのヴァイオリン協奏曲三番、ニコラ・ベネデッティは若い女性ヴァイオリニスト。名前からするとイタリア人かも。モーツァルトのヴァイオリン協奏曲は5曲あるが彼がまだ19歳の時に書かれておりそれ以降このジャンルのものはない。ピアノ協奏曲は27曲もあるのだが。だからピアノ協奏曲のように年代別の成長は味わえない。フレッシュな音楽に浸るしかないのである。この曲集はムターが弾き振りしたものと、カルミニョーラとアバドの組み合わせと2セット持っている。カルミニョーラが出てからはそれを主に聴いている。この演奏はとにかく鮮烈である。ヴァイオリンもそうだがアバドの指揮もすごいと思う。ギャラントな趣を期待するとのけぞってしまう。おすすめです。

さてベネデッティはどうか?最初オーケストラから入り、しばらくオーケストラが続いたあと、ヴァイオリンが入ってくるが、彼女の音がでたとたんストラディヴァリウス(アール・スペンサーという名称がつけられている)の美音に酔いしれる。四の五の言わないでこの音楽に浸ればよろしい。そして二楽章もますます冴えわたるが、人間て天の邪鬼ですね。こういう音楽が続くと何か物足りなくなってしまうんです。もう少し何か「smomthing new」を期待したい。オーケストラもうまくつけていて非常に安定している。いつものような腰高の音楽にならずに身を任せていられる。今夜もアンコールをやった。イザイの無伴奏ヴァイオリンソナタ第五番の緩徐楽章、初めてだがすさまじい技術が要求されていると思われる。特に後半はすごかった。こういう曲のほうが彼女には良いかもしれない。プロコフィエフのヴァイオリン協奏曲などは彼女にぴったりではないかと思われた。とにかくストラディヴァリを聴けたのはよかったなあ。

最後はプロコフィエフの交響曲第二番、しかし一番のあとなぜこのような曲になるのだろうか?一番は古典交響曲といわれる非常に斬新かつなじみやすい名曲なのにこの二番は正直無機的な音が続き辟易させられる。セルゲイ・ゲルギエフの指揮したロンドンシンフォニーのCDを聴いているがなかなか親しめない曲だ。プロコフィエフの交響曲は1,5,7が親しみがあるが2-4までは彼らしさが感じられない。彼の良さはやはりメロディーだと思う。たとえば「ロメオとジュリエット」などは全編美しいメロディで彩られ、本当に素晴らしい。今夜の二番もところどころそういう場面もでてくるが、一部を除いて工場のなかのオートメーション装置ががなりたてているような、マシンライクな音が続く。まるでターミネーターかロボコップの行進のようだ。

しかし二楽章はちょっと面白い。最初印象的なメロディーが流れ、その後しばらくアラビアのロレンスがラクダに乗って砂漠を行進しているような、ゆらゆらした音楽が続く。その後はまた元に戻り無機的な音が続く。初演はさんざんだったらしい。

ラザレフ/日本フィルの演奏はどうだったか?ゲルギエフより若干遅め、良かったのは高弦が総奏になってもキンキンせず透明感を保ったこと、それと低弦がいつものように軽くなく、しっかり音楽を支えたことでそれにより、音楽が安定して聞こえたことである。こういう演奏を毎回期待したい。

ラザレフはよいしょがうまいのか終わってからさかんにオーケストラをたてていたのはあけっぴろげのロシア人らしい。

そして最近ではめずらしくアンコールを演奏、「三つのオレンジの恋」から行進曲でした。ロメオとジュリエットの騎士の踊りでもやってくれたらよかったのに!
以上

2009年6月16日
新日本フィルハーモニー交響楽団サントリーシリーズ(447回)
於;サントリーホール(18列右ブロック)

プログラム
アルマ・マーラー;歌曲「夜の光」
マーラー;交響曲第九番

指揮;クリシティアン・アルミンク

プログラムの最初はピアノと独唱による歌曲とあるが舞台にはピアノがない、そのうちアルミンクが登場。プログラムミスかと思ったら舞台裏から声が聞こえはじめた。その間オーケストラは静止状態、アルミンクは黙って立っいる。曲が終わると九番が始まるという寸法。まあ策士、策に溺れるですね。こういうあざとい演出は不愉快極まりない。この歌曲はアルマ・マーラーがマーラーと恋に落ちたころに作曲したそうだ。そしてマーラーがこの九番を書き始めたころは夫婦仲があまりよろしくなかったそうな。要はこれを対比したかったのか?余計なことはしないでマーラーの九番だけで勝負してほしかった。全く初めから居心地の悪いコンサートだった。

このマーラーの九番はオーケストラの曲では難曲中の難曲。個人技もオーケストラ全体のパワー、アンサンブルも高度なものが要求される。この曲のライブを初めて聴いたのは今から20年ほど前、自分の上司が若くしてなくなりその形見としていただいたのが若杉弘指揮のN響の演奏会のチケット。この時はマーラー九番だけのプログラムだった。もう古い記憶なのでほとんど覚えていないが、尊敬していた上司が亡くなった後その形見にいただいたチケットのコンサートの曲がマーラーの九番だったなんて今から思えば良くできた話に聞こえるが事実である。四楽章に胸震えたことは覚えている。

そして今夜。実は今日は義理の母の告別式だった。自分にとってこの曲はそれゆえに「死」から切り離しては考えられない。一楽章は死の予感、切り立った断崖からまっさかさまのような、死を予感させる音楽、四楽章は死へのあきらめの音楽、六番のように暗澹とは終わらずに死を受け入れる音楽、そして二,三楽章は死からの逃避、そのもがきの音楽、自分にはそう聞こえるのだ。それなのにああそれなのにアルミンクは遊ぶのか!

この曲は学生時代にワルター指揮のコロンビア交響楽団で擦り切れるほど聞いた。その後カラヤン指揮ベルリンフィル(1982)、バルビローリ指揮ベルリンフィル(1964年)など聴いてきたが、今はバーンスタイン指揮のベルリンフィル(1979年)を聴く。この曲は別の因縁がある。バーンスタインがベルリンフィルを1979年に2回振った(10/4,10/5)わけだがレコーディングは10/4だそうである。実は私の誕生日が翌日の10/5なのである。そういうこともあってこの演奏には思い入れがある。でも「死」にまつわるこの曲は滅多に聴かないが昨日久しぶりに聴いてみた。やはり素晴らしかった。両端楽章と三楽章のロンドブルレスケは特に感動する。

さて、今夜の演奏だが一言で言うとあまり楽しめなかった。その原因は何か?第一はオーケストラだと思う。音楽の友社のこの曲のベスト12にベルリンフィルの演奏したものが4つもはいっているのである。超名技的オーケストラでないと演奏は難しいということである。新日本フィルは熱演ではあるがまず音が汚い、特に総奏で音がきつく耐えられない。始まって3分くらいのところで大波のような音楽が来てそれが崖に一気に落ちるようなすさまじい音楽が続くがうるさくて集中できなかった。ここは聴かせどころなんだけどなあ。弦が弱いためか金管がやけにうるさいし木管までキーキーいっている。ただ低弦はとても深みがあってよかった。先だっての読売の演奏したラフマニノフの交響組曲のような大音量でもうるさくなく透明感のある音をまず出してほしい。先週の東響の演奏したマーラーの六番とはくらべるべくもない。また各楽器の入りがそろわなかったり微妙に全体がそろっていないのが総奏で今一つ凝縮感のない音作りになっているような気がする。

もう一つはアルミンクの大仰な指揮である。本当に感じてあのような振り方をしているとは思えない。何か演技しているような気がしてならない。しかしさすがに第四楽章は身振りも最低限にして落ち着いた指揮をしていたし感動的な演奏を聴かせた。

三つ目はそのテンポである。一,二楽章は違和感なかったが、三楽章と四楽章には少々違和感があった。三楽章11分40秒である。バーンスタインの12分とほぼ同じ。しかしカラヤンの12分45秒よりかなり速い。速いのは別に良いのだ。バーンスタインだってまるで狂気のようなスピードで終わるのだ。しかしアルミンクとの違いはその前の四楽章を予告する音楽の扱い方だ。アルミンクはさらっとやってしまっているのだ。ここはバーンスタインのように感情をこめて丁寧にやってほしかった。あまりにさらさらと終わってしまったのであれれれ、肩すかしを食ったようだった。

そして四楽章、熱演であったが22分は速すぎるのではないか?どうも落ち着かなかった。バーンスタインカラヤンも26分以上かけているのだ。インテンポでぐいぐいゆくのも良いが、じっくりと演奏する時も必要ではないか。先週のマーラーの六番も両端楽章はかなり速かったがアンダンテは思い切り歌わせて感動を呼びこんでいた。やはりめりはりが欲しい。

今年の11月にこの組み合わせで八番を演奏するが期待したい。
                               

                               以上

2009年6月14日
新国立劇場オペラ公演
ロッシーニ:チェネレントラ

演奏者
ドン・ラミーロ;アントニーノ・シラクーザ
ダンディーニ;ロベルト・デ・カンディア
ドン・マニフィコ;ブルーノ・デ・シモーネ
チェネレントラ(アンジェリーナ);ヴェッセリーナ・カサロヴァ
アリドーロ;ギュンター・クロイスベック
クロリンダ;幸田浩子
ティーズペ;清水華澄

演出;ジャン・ピエール・ポネル
指揮;ディヴィッド・サイラス

チェネレントラすなわちシンデレラはロッシーニ25歳の作品、あの有名なセヴィリアの理髪師の翌年に初演された。シンデレラというとおとぎ話ではあるがロッシーニはそれをメルヘンティックにしないで大人が鑑賞するに堪えうるオペラにした。ただしもとねたはグリム童話ではなくペローのほうである。風刺もあり教訓もある。

この曲はシャイー/バリトリ/ボローニャのCDで初めて知った。セヴィリアに比べると魅力的な曲は少ないがアンサンブルや独唱で聴かせる曲がいくつかあり今日の公演を楽しみにしていた。それよりなによりカサロヴァがどのような歌唱を聴かせるかに注目していた。前にも記したが今年来日して演奏会形式でカルメンを歌ったがとてもがっかりしたからである。

さて、今日はどうか!一言でいえばとてもよかった。やはり相性のようなものがあってまさに水を得た魚のよう。舞台映えするし芝居も下手ではなくなにより生き生きしている。特に第二幕のフィナーレの「私の復讐は許すことです」から最後までの歌唱は本当に感動した。まさかシンデレラで目に涙するとは思わなかった。是非ロジーナを聴きたいなあと感じた。

シラクーザのドン・ラミーロ、これも立派な歌唱。彼の実演は初めてだったのでその美声には驚いた。特に二幕でダンディーニに「そなたはもう王子ではない」からアリア「誓って彼女を見つけ出す」は大熱演、大喝さいでラミーロと合唱の部分、アリアの最後だが、をアンコールで繰り返したのでまた大喝さいで拍手は鳴りやまなかった。

そのほかでダンディーニ役がブッファらしくよかった。声も軽妙でカーテンコールでも多くの拍手をもらっていた。マニフィコ役はちょっと声質が違うように思った。シャイーのCDではエツィオ・ダーラが歌っていたがこれが滅法うまく比べるのは可哀想だがそのイメージが耳に残っていたためかもしれない。ただ二幕は全体にしなやか(歌も芝居も)になってきてなかなか楽しめた。日本人女性二人は孤軍奮闘(今回の公演では日本人はこの二人だけ)していた。演技はちょっと恥ずかしいが歌唱は立派で決してひけを取らない。特に幸田の声(ソプラノ)は良く通り感心した。新国立のオペラの配役だが変にバランスを取ろうと無理なキャスティングをすると全体を壊してしまうので今日のように適時適所で組んでほしい。

指揮のサイラスだが彼はカサロヴァのカルメンの時の指揮者。カサロヴァのお気に入りなのだろうか?ただカルメンの時のようにただ合わせているだけ(失礼)でなくこの演奏ではなかなか手だれた指揮を見せた。ロッシーニのオペラの魅力の一つはロッシーニクレッシェンドにあるが冒頭の序曲でも十分楽しませてくれた。お詫びをしなくてはいけない。

演出はかの有名なポネル。非常にシンプルな演出で音楽を生かしていた。一幕の装置もなかなかアイデアいっぱい。マニフィコ男爵の屋敷が舞台だが一階がクロリンデとティスペの部屋を左右に配し、中央はチェネレントラがいつもいる暖炉のある居間のようなもの。二階のクロリンデの部屋の上にあたる部屋がマニフィコ男爵の寝室でその向かいが一応クロゼットといった塩梅。

しかしこのオペラ一幕が90分以上もありちょっと長すぎでした。昔の人は良く我慢しましたね。

カサロヴァの熱唱で今日の公演、幕となったがブラボーの嵐、拍手、スタンディングオベイションと華やかに終わった。今日はカサロヴァシラクーザと各歌手陣の力によるもの、久しぶりに楽しいオペラでした。おそらく今シーズンでもトップクラスの出来ではないかと感じた。東フィルも良かった。チェンバロの小埜寺美樹も目立たないが当意即妙で良かった。
以上

2009年6月13日
第568回東京交響楽団定期演奏会
於:サントリーホール(一階19列中央ブロック)

プログラム
シューマン:チェロ協奏曲
マーラー:交響曲第六番

演奏;
チェロ:ダニエル・ミュラー・ショット
指揮:シュテファン・アントン・レック

シューマンは初めてに近い曲、正直言って、マーラーが待ち遠しくてあまり集中できなかった。シューマンらしいというかドイツらしいというかロマン的というかという印象。チェリストは張り切ったせいかアンコールを2曲も弾いてくれた。ラヴェルのハバネラとブロッホの祈り、どちらもどうでもよい曲(失礼)、前も書いたがどうして協奏曲の後ソリストは独奏をやりたがるのか?協奏曲のような大曲を演奏した後に更に独奏するエネルギーが残っているのなら協奏曲に全部ぶつけて欲しい。心ある演奏者はまずアンコールなんてやらない。本番で勝負。大体今日のような小曲をマーラーを聴きにきている聴衆は望むだろうか? もともとプログラムに無理があるように思う。通常であればマーラー1曲の演奏でも良いはずだが今日はなぜ無理して2曲編成にしたのだろうか?何年か前アーノンクールがウイーンフィルを率いて来日してブルックナーの五番を演奏したが終わったあと70歳ぐらいのご婦人があれあれもう終わりなののと言ったのが記憶に残っている。ブルックナー1曲のプログラムだったのだ。聴衆は案外欲張りで多いほうが良いのかもしれない。だからアンコールをねだる。今夜、もし1曲だけだったらきっとクレームがついたかもしれませんね。

さていよいよマーラーである。この六番はマーラーの中でも自分にとって難物である。なかなか全体像がつかめなかったからである。少しこの曲に近づいたと感じたのはアバドがベルリンフィルを振ったライブ盤(2004年)を聴いてからだ。そしてアバドがルツェルン祝祭オーケストラを引き連れて来日して彼の指揮した六番を聴いてからなおいっそうアバド盤を聴くようになった。それまではバーンスタインがウイーンフィルを振ったこれもライブ盤(1988年)を聴いてきたがこれがものすごく長大で部分的には感動するのだがなかなか全体がつかめない、勢いこの曲から遠ざかっていた。アバドの演奏はバーンスタインに比べ演奏時間も短くかなりすっきりしている。まあスマートな演奏かもしれないが危険を恐れず言えば現代風とも言えるかもしれない。マーラーおたくにはバーンスタインが良いかもしれないが?バーンスタインの指揮はとにかく粘る、歌う、実に感動的でおそらくその波に身を任せてしまえばよいかもしれないのだが!この頃こういう演奏は少々疲れる年になってきたのかなあ。昔はマーラーといえばバーンスタインを聴いていたのに。今はほとんど聴かない。アバドとかショルティなどを聴いている。

今夜の演奏はマーラーが改訂した版を用いているようだ。アンダンテが三楽章にきている。そして四楽章のハンマーも2回だけ。ちなみにアバドは初演と同じにアンダンテを二楽章にもってきている。ハンマーは2回(?)。バースタイン盤はアンダンテを今夜と同じように三楽章にもってきている。ハンマーは2回。どちらが座りが良いかだが自分は三楽章のほうが終幕へのつながりが良いように思う。ベートーベンの第九も二楽章にスケルッツオ、三楽章にアダジオがきているがこれが逆だとちょっと居心地が悪いと思う。たとえはあまりよくありませんが!

今夜の演奏時間は83分、一楽章は22分28秒、二楽章(スケルッツオ)は13分30秒、三楽章(アンダンテ)17分35秒、四楽章は29分30秒である。参考までにアバドは79分、一楽章は22分48秒、二楽章(アンダンテ)は13分57秒、三楽章12分43秒、四楽章29分44秒である。最後に問題のバーンスタインだがなんと88分かかっている。アバドとは9分も長いのだ。同じ楽譜?なのに!。一楽章は23分、二楽章14分15秒、三楽章(アンダンテ)17分20秒、そして四楽章はは33分10秒である。

アバドは全体に速い、あのアンダンテが14分弱なのである。今夜の演奏はアンダンテをのぞけばアバドスタイルである。一楽章が鳴った時にあっ、ちょっと速いなと感じた。そしてきびきびしている。そこが速くてもアバドと違う。アバドは速くてももっとスマート。今夜のアントン・レックはもう少しごつごつしているように感じた。一楽章の半分当たりで軍隊調のマーチがでてくるがこれが何かごつごつしてロボコップの行進みたいで不気味だった。一楽章の終わりはすさまじい迫力。相変わらず東響のティンパニはすごい。

正直言って、二楽章のスケルッツオはいまひとつ感情移入できなかった。六番に近づいたと言ってもこのスケルッツオは難しい。ただ実に不気味な音楽であると思う。今夜の演奏もそれを感じさせた。マーラーの曲では一番の三楽章の葬送行進曲とならんで自分にとっては怖い曲。これはバーンスタインが最初にニューヨークと録音したものが凄い。

そして今夜の極めつけは三楽章のアンダンテである。アントン・レックはここだけバーンスタイン並みに演奏時間が長い。彼はここではバトンを持たずに指揮をしている。実に感動的な名演だと思った。有名なテーマが波のように現れるたびに心が揺さぶられる。最後の盛り上がりでは涙を禁じえなかった。東響の演奏もこの楽章が今夜のベスト。弦は美しく、また木管もちょうど中間あたりでフルートとオーボエがからみそして金管のホルンがからむ場面は息をのむくらい美しかった。どこかのオーケストラとちがって金管も安定していて良かった。

四楽章もよかった。少々管楽器がくたびれたかもしれないが,最後まで頑張った。ハンマーの場面も超とまではいかないが迫力があった。それと全体で最後に感じたのはチェレスタが実に効果的だったことである。今まであまり感じなかったことである。この四楽章は問題の楽章だといつも思う。この六番はリヒャルト・シュトラウスの英雄の生涯の対極の曲といわれているそうな。そうであるとしてもこの終わり方は悲しい。四楽章の2/3くらいのところでマーラーの五番の四楽章のような凱歌が演奏されるが,五番のように終わってくれたほうが自分としては好きである。勝利を目前にバッタリ倒れて「死」を迎えるなんて実に悲しい。この曲の終わりは暗澹とした気持にさせられ,心に残るが,もやもやは晴れない。わずかにアンダンテの主題が顔を出すのが救いである。

東響は今夜も満足させてくれた。アントン・シュレックもなかなかのものだ。アンダンテで思い切り歌っている半面、両端楽章では厳しい音楽を作っており只者ではない。
                               〆

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