2022年9月16日(於:サントリーホール)

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少々肩透かしを食らったようなマーラー「交響曲第五番」である。今日はN響定期(ファビオ・ルイージ/オールリヒャルト・シュトラウスプロ)とダブってしまい、迷った末バッティストーニを選んだ。

  今年はマーラーがよく各楽団の定期に掛けられる。先日も東響の公演(ジョナサン・ノット指揮)でマーラーの五番を聴いたばかり。まあこういう世紀末(正確に云うとずれているけど)の不安をはらんだ音楽が今のコロナと云う疫病の不安にさらされている現代の人々にフィットすると思われての選曲かもしれない。しかしその割にはどのマーラーの演奏もそういう不安とか深刻さと云うのとは少々かけ離れた演奏が多いのはいかなる訳だろうか?先日の都響の演奏した九番もそういう演奏だった。

  オペラ指揮者として超一流の仲間入りをしつつあるバッティストーニがシンフォニー指揮者としてはどういう評価を受けているかはわからないが、ベートーヴェンやチャイコフスキーを聴いている限りでは、まだどの曲もオペラのようには自家薬籠中のものにしていないような気がしてならない。
  今夜のマーラーも、もう少し感情を表に出して、緩急強弱をつけた演奏になるかと思ったら案外まともで肩透かしだ。演奏時間もまるでお手本のように70分(実際は1部の後、2部の後はかなり長いインターバルをとっていたので、実質は68分くらい)だった。
  1楽章の葬送行進曲は葬送というには少々表面的だ。第2主題との対比も大人しくて物足りない。2楽章の冒頭など、もっと荒れ狂うかと思ったら案外と大人しい。3楽章の展開部や再現部のおどろおどろしいホルンの響きは美しいが、聴き手の不安を煽ったり、心の中をかき乱したりするところまではいかない。4楽章のアダージェットは美しいというよりも可愛らしい。しかしこの音楽の持つ神秘性のようなものはあまり感じられない。5楽章、この楽章は今夜の中では最もインパクトがあった。いくつも現れては消えるフーガはいろいろな顔を持っており、聴いていて飽きない。再現部の後半のコラールや終結部は見事なもの。終結部の短い変化は聴きものだった。前半もこれぐらい表情をつけたほうがバッティストーニのようで良いと思うのだが!今日は正装をしたようなバッティストーニのマーラーだった。
  さて、いまさら何だと云われそうだが、この演奏で特筆すべきはその美しさとそこから起因する楽しさだろう。それはなにに例えればよいのか?
  私は各楽章のいろいろな主題の切れぎれはマーラーの歌曲からきていることに関係があるのではないかと思う。つまりマーラーの音楽の持つ歌、そして歌だ。今夜のバッティストーニはそれに焦点を当てて演奏したのではあるまいか?先日の河村のシューベルト、ピアノソナタ21番の演奏のように歌に焦点を当てたのではあるまいか?そう思うと今夜の演奏のユニークさは、「正装をしたような」と云う形容で片づけてはいけないのだと思いなおした。やはりバッティストーニはただものではないのだ。

  2曲目のリスト/バッティストーニ編の「巡礼の年」第2年「イタリア」より「ダンテを読んで」はオーケストラの妙技を聴くには良いが、原曲のイメージとはずいぶん違う。inspired by LISZT
と云ったほうが良いかもしれない。
  それにしても今夜の東フィルは美しかった。先日の蝶々さんもよかったが今夜も立派な演奏だった。