2021年11月13日(於:サントリーホール)
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ウルパンスキー/東響を聴くのは10年ぶり、前回は2011年6月11日で、今夜と同じシマノフスキー(その時は二番ヴァイオリン協奏曲)とショスタコーヴィチの十番の交響曲と云うヘヴィーな組み合わせ。
 そして今夜(11/13)は同じくシマノフスキーの今度は一番のヴァイオリン協奏曲(ヴァイオリンは弓 新)と「カルミナ・ブラーナ」という、前回と同様ヘヴィーな組み合わせ。むかしカラヤンが人間が一晩に、聴く音楽の時間は限界があるといって、短すぎるコンサートという批判をかわしていたが、今夜のような組み合わせを見ると、さもありなんと思う。私の2つ隣の青年なぞ2曲目で飽きてしまってそわそわしている始末。ポーランド人のウルパンスキーとしてはシマノフスキーは啓蒙のために演奏したいだろうが、ここは「カルミナ・ブラーナ」に集中すべきだったのではないかと思われる。

 だからといって、今夜のウルパンスキーの演奏が凡演だとは思わない。むしろこのコロナ禍と云う制約(特に合唱の人数/男声が22人)などの中、大健闘とはいえよう。

 最近の「カルミナ・ブラーナ」ではバッティストーニ/東フィルがバレエ付きで行った公演が印象的であった。(2019年9月19日)詳細はその時のブログを見ていただきたいが、ストーリーを一部変えての演出だったので、少々面食らったが演奏はバッティストーニの個性が出て楽しんだ。

 カルミナ・ブラーナの詩は1803年にドイツのボイエルン修道院で発見されたものをもとにしている。それは欧州の中世の、風俗や恋愛、政治、宗教など多岐にわたった詩が多いが、それをカール・オルフが「独唱と合唱のための世俗的歌曲」として作曲したのである。
 したがって、この曲の演奏はこの修道士たちが書いた詩をどう解釈するかで分かれると思うのである。この詩の通り中世の民衆はそれほど抑圧されてなぞいなくて、もちろん封建社会と云う制約の中だけれど、飲酒にしたって、風刺にしたって、恋愛にしたってかなり自由じゃないかと思えば、音楽は明るく若々しく、どちらかと云うとスポーティなくらい颯爽とした演奏になる。そこで描かれた風俗は現代に置き換えても違和感がないからだ。

 一方、この詩は6‐700年も修道院に埋もれていた。それはショーン・コネリー主演の映画の「ばらの名前」の中でアリストテレスの図版が禁書になっていたように、もしかしたらこのカルミナ・ブラーナと云う詩も禁書だったかもしれない。だとしたらこれは抑圧された民衆を代表した風刺の詩なのかもしれない。そうなると音楽は抑圧されたどろどろした、重々しい音楽にならざるを得ない。

 現代のカール・オルフの「カルミナ・ブラーナ」を聴くと多くは抑圧のタガをはずしてというイメージで演奏されているケースが多いと思う。わずかにヨッフムの演奏がそれとは真反対とは言わないけれど、少し異なるかじ取りをしている。ヨッフムのCDは大体サウンドが違う。SACD化され一層凄味が出た印象。そういう意味でこの曲はまずヨッフムのCDを聴いたうえで他の演奏を聴くべきだと私は思う(余計なことでした)

 今回ウルパンスキーの演奏は若々しく、軽快なカルミナブラーナの部類である。しかし今回はそれは編成によってそうならざるを得ないということがあったかもしれない。合唱が全部(少年少女含む)でも60名程度がコロナのため密を避けるように、P席、LA席にバラバラに配置しているので、重厚な合唱にはなりにくいということも影響があったかもしれない。オーケストラもそれに合わせたのか、前半の2つのパートはとくにこじんまりとして、サントリーホールの空間を余していたような気がした。例えば1部の最後の10曲「世界が我がものとなるとも」など全く盛り上がらず、物足りない。

 この演奏が最も良かったのは第三部「求愛」からで抑え気味のバリトンの、「町 英和」も活発になり、ソプラノの「盛田真央」とうまくかみ合っていた。このソプラノは素晴らしく、それは声の素晴らしさだけでなく、感情表現の素晴らしさと両方で感心した。21曲の「揺れ動く、わが心」でうたう乙女の性の衝動をこれだけ生々しく歌ったのは聴いた事がない。そして23曲の「私の愛しい人」も声が崩れることなくしっかりと歌い切った。今夜のソロの中では第一等に挙げるべきだと思う。

 出番の多い町(バリトン)は「春に」では抑圧された声が、本当に抑圧されてしまって、なよなよと聴こえるのはいかがなものか?抑圧された中でも芯は外してほしくない。2部の「酒場にて」も早口では口が回らずもどかしい。3部になってソプラノに触発されたのか、本来の実力が出たようだ。

 総じて3部は素晴らしかったが、ただ第22曲で3回音楽がくりかえされるなかで合唱が次第に大きくなってゆく様がほとんど感じ取れないのはちょっと困る。ここがクライマックスだけにちょっと残念だ。

 2部の白鳥を歌った「弥勒忠文」はまずまずのでき。最後に白鳥の悲鳴を甲高く歌うがこれはアドリブだろう。
 ソロの皆さんは代演で気の毒なだったが、十分カバーをしたと思う。ご苦労様と云いたい。
 オーケストラも3部になって、やっとホール全体をぎっしり埋めるだけのパワーが出てきた。特に最後に、繰り返される第1曲は初めてフルオーケストラのフルパワーが聴けた。

 なお、2013年の3月(小泉和裕)の都響定期での公演のようなお芝居はほとんどない。わずかに1部で女声合唱が体を揺らして歌ったり、2部で白鳥役の弥勒が白鳥の人形をもって登場したり、2部で町が「世は大僧正様」では酔っぱらって歌っていたくらいだ。


 もう疲れて、シマノフスキーまで手が回らない。2018年にラトル/ロンドン響が来日してヤンセンと今夜と同じシマノフスキーを演奏した。そのときは素晴らしい曲だと思って、たしかCDを買ったはずだったのだが、今回聴こうと思ったのだが、どうしても見つからない。そこで初見状態で臨んだのだが、「カルミナ・ブラーナ」の期待が大きいためか、2つ隣の青年の出す騒音がうるさくて、集中できなかったためか(人のせいにしてはいけませんね)全く曲はスルーしてしまった。弓氏には申し訳ないことをしたと思う。アンコールはなかった。
 ぜひ東響にはプログラムビルディングについては時間や音楽の質などを考量していただきたい。