2021年10月16日(於:サントリーホール)
第694回・東京交響楽団定期演奏会
指揮:ジョナサン・ノット
ヴァイオリン:神尾真由子(アルバン・ベルク)

ベルク:ヴァイオリン協奏曲「ある天使の思い出に」
ブルックナー:交響曲第四番


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緊急事態宣言が解除され、会場は定員いっぱい予約を募集していたようだ。いままで空席だった1階席の前方席にも観客が入っていた。神尾にノットの組み合わせと云うことで、会場は久しぶりに昔のよう。ただ大きな声を出す人もおらず、マスクはきちんと着用し、観客には緩みはないようだ。

 さて、1曲目のアルバン・ベルク。自分の「音楽鑑賞の世界」には12音階の音楽家の入り込むすきはあまりないが、ベルクはそのなかでも関心が高い方である。それは彼の「ヴォツェック」というオペラによるといってよいだろう。現代の作曲家で聴くオペラはショスタコーヴィチの「ムチェンスク郡のマクベス夫人」、コルンゴルト「死の都」、そして「ヴォツェック」くらいしかない。
 そのなかでヴォツェックと云うオペラが私のような石頭野郎でも聴きやすいのは、その全体の構成が古典的であることと、12音階と云ってもまだ後年のようではなく、旋律になじみやすいものがあるからだ。ただ「ルル」になるとついて行けないのは、わがままだろうか?

 それはさておき、今夜のヴァイオリン協奏曲は彼の亡くなった年に作曲されたものだ。この曲を初めて聴いたのは、イザベル・ファウストとアバドが組んだCDである。
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このCDはベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲とカップリングされており、そのベートーヴェンを聴くために買ったのだが、ベルクがくっついていたというわけだ。
 初めて聴いたときには全くついて行けなくて、そのままお蔵入り。今回この公演で聴くと云うことから、引っ張り出して聴いてみた。もう何年ぶりかだろうか?印象は随分と違って、全編美しく、私には魅力的な音楽に聴こえた。特に2楽章は激烈な部分と、後半のコラール以降の宗教的な部分との対比は聴いていてもスリリングでもあり、面白い。ファウストは美しい音楽を意図して、汚して(例えばポコ・コルレーニョと云う指示のある部分など)演奏して、この音楽の持つ人間の苦しみの普遍的なものを表現していた。

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 神尾の演奏はそういうファウストの演奏とはいささか異なる。ライブのせいもあるだろうがここではヴァイオリンの持つ美しさと激しさを極限まで引き出した演奏のように感じた。1楽章は全体に動きの乏しい楽章だが、一音一音まるでガラス細工を組み上げたような繊細さ。ちょっと触れたら、こわれてしまいそうな儚さが支配していたように感じた。

 第2楽章ではそういう弱さをかなぐり捨てる。前半の激しく、気迫に満ちた演奏は今夜の白眉といえよう。後半のコラールのクラリネット群との協奏は宗教的と云うより、協奏的な面白さ。しかしそのなかから人間の弱さを克服しようとするという道しるべが見えてくるのだ。
 ベートーヴェンの交響曲のような、「苦悩と戦いの後の勝利」と云ったわかりやすい構図とはまた違った、ベルクの解決案を神尾の演奏でも十分感じられた。これは近年聴いたヴァイオリン協奏曲のなかでも随一というべき名演である。ノットの明快な棒も素晴らしい。
 演奏時間は26分、アンコールは無し。

 後半のブルックナーはジョナサン・ノットの明晰なアプローチが光る名演である。現代のブルックナー演奏の一つの頂点と云っても良い。
 ブルックナーの演奏は戦後大きく変わったという。私はカラヤンがそのなかでも大きな流れを作ったと思っているが、要するに現代の指揮者は昔の指揮者と比べると、緩急強弱を大きくつけずに、自然な流れの演奏にしている。したがってごつごつ感や唐突感などは少ない。一言でいえば雑味が少ないのである。この雑味にブルックナーの演奏の面白さがあるという意見もあろうかと思うが、今の演奏はそういう方向にはないようだ。現代ではティーレマンが伝統的な演奏の代表だ。唐突な休止や大見得を切るようなコーダ、急に走り出したり、止まったり。しかしそのティーレマンも最近のブルックナーの八番を聴くと、独特なスケルツオなどは、普通になってしまって、あまり面白くなくなった。

 それはさておき、しかし先鞭をつけたカラヤンでさえ、私の聴いた2回のライブ(四番と八番)ではかなり雑味のある演奏をしていた。たとえば今日の曲目の四番の4楽章の冒頭のまあ雄大なこと、しかしこれはかなり意図的に音楽を運んでいっているような印象で、悪く言えば大見得を切っているようなものだったのだろうが、しかしその時は圧倒的で全く打ちのめされた思いだった。その後聴いた八番も同様で帰りは足が震えて車が運転できないほど興奮させられた。

 ノットの演奏はそういう雑味は全くと云ってない。演奏時間も60分とかなり短いのだ。1楽章の冒頭からして、まるで室内楽のように、清冽である。ホルンと木管の重奏のよう。提示部は1主題は力強いがあっさり、ここでは2主題に焦点を合わせているようで、ヴィオラと第2ヴァイオリンに細かい指示を与えていたのが印象的だ。展開部に入っても例えばコラール主題などはまるで室内合奏のよう。その澄明感は独特である。そしてコーダは決して音楽を煽り立てない。自然と落ち着くという印象で終わる。

 ちょっとそれるが、今日の東響の楽器配置はいつものノットの配置と同様にコントラバスが第1ヴァイオリンの後方、チェロは第1ヴァイオリンの横になる。そしてヴィオラと第2ヴァイオリンとならぶが、ヴィオラとチェロの間には1メートルくらいの空間が開いている。全曲を聴いた印象では「第1ヴァイオリン+チェロ群」と「ヴィオラ+第2ヴァイオリン群」と弦を大きく2つの塊としてとらえ、今日の演奏ではそのなかでも、第2ヴァイオリンとヴィオラへのうるさいくらいの細かい指示が印象に残った。
 その効果が顕著だったのは2楽章、最初の主題が第1群の「チェロと第1ヴァイオリン」が中心、そして次が第2群の「第2ヴァイオリンとヴィオラ」が中心となる。そのときのノットの2群への指示の微にいり細を穿つような指示は注目すべきものだ。そしてさらに大きく云うと2つの弦楽群が交互に主題を演奏しあいながら、音楽は膨れあがり、成長してゆき、クライマックスを迎える。この楽章がこんなに面白いものだと初めて感じたほどだ。クライマックスも大げさにならず、流れを壊さない。

 第3楽章は光きらめく光線のような演奏だ。この10分未満の曲がわずか数分の閃光のように思われる。それは音楽は常にピュアーで切れ味が鋭いからだ。まるで雑味がない。

 第4楽章の冒頭は何かやってみたくなる音楽だが、ノットはここでも流れを壊さない。正直この楽章は手の内がわかってしまったので、特に深い印象は残らない。盛大に盛り上がるコーダも大伽藍にするようにはオーケストラを煽らない。このあたりは一芝居うってもらいたいものだが、これがノット流だ。これは近年まれにみる興味深いブルックナー演奏だった。

 終演後、指揮者は演奏者を立たせるが、今夜はホルンとヴィオラだった。

 東響の演奏はノットに応えていた。特に弦楽部のコンビネーションは素晴らしい。1群と2群そして通奏低音のようなコントラバス、これら弦楽群が今日のブルックナーを支えていたのだ。通常はもっと目立つ金管は、ピラミッドの頂点に立ち、音楽全体のアクセント的にとどまっていて、響きとしては、低重心のブルックナーが再現できたと思われる。

 この公演は録音されるようで、マイクのセッティングを見ていたら、ステージ前方には中央から右のヴィオラ、第2ヴァイオリン中心に4本もたっていたので驚いた。左手前方には神尾用に1本と第1ヴァイオリンに1本のみ。あとは天井からつるしてある4本のマイクが拾うようになっている。後方にも何本かはあるが1階席からでは視認できなかった。どのように録音できるのか興味深い。