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(7月8日、新国立劇場にて)

 新国立劇場のカルメンは2007年から5回、鵜山 仁の演出で楽しませてもらったが、今回は新演出。演出はアレックス・オリエ、指揮は大野和士という、確かあの惨劇の「トゥーランドット」もこのコンビだったはず。結末を変えてしまう演出となると、もうなんでもありで、演出家としては最後の砦であり、攻め寄せたい部分でもあるのだろう。トゥーランドットは未完のオペラでアルファーノが改変しているのだから、オリエ自身が、おれがやったっていいじゃないかと、思うのは演出家の発想であろう。しかし音楽がアルファーノ版を使っていて、歌詞も変わらず、芝居だけ変えると云うのが、どうもしっくりこない。

 今日の新演出も最後までそのことが頭に残った。つまり設定を大幅に変えたが、歌手の歌う歌詞も音楽も変わらない。だからロックシンガーが「ハバネラ」や「セギディリア]を歌う羽目になる。
 ただ、オリエのえらいのは、しっかりとプロダクションノートをのこしていること(公演プログラム11ページ)。彼はこういっているのだ。カルメンはいろいろな芸術で生き伸びてきた「伝説」である。カルメンの行動や思考や悲劇は現在の女性を突き動かすものと同じ、力、喜び、勇気、自由を象徴している。したがってこれは時代を超越する物語なのである。まあこれは読み替え演出家の常套の理屈だがわからないわけはないが、へそ曲がり的に云うと、それだけ普遍的なものならト書き通りやっても現代人に理解できるんじゃないのと云いたいところだ。

 まあそういうことで、このオペラでは、カルメンはショービジネスで生きる女であり、ドラッグと酒で身を滅ぼした、エイミー・ワインハウスをイメージしているそうだ。ここもへそ曲がり的いうと、今日の私を含めた聴衆で、エイミー・ワインハウスと聴いて、ああ、あの歌手ねと思う人はどれくらいいるのだろうか?

 まあ、詮索はやめよう。今日のお客はもしかしたら皆ワインハウスのファンかもしれないのだから!
 カルメンはロックシンガー、フラスキータらはバックコーラス、レメンダートらは山賊ではなく、麻薬のディーラー、ドンホセは警察官、私服を着ているので刑事、その他スニガ、モラレスもみな刑事、兵隊たちは、警官(日本の警官みたいだ)、たばこ工場の女工たちは、ロックシンガーである、カルメンの追っかけとして、読みかえている。蓮っ葉なたばこ女工たちはペンライトを振っている。なお警察の制服は日本のようなので、日本がこのオペラの舞台なのかもしれない。
 1幕の行進する子供たちは、ステージツアーをしている。エスカミリオの職業はよくわからないが、カルメンと同様エンターテインメントの世界の寵児と云った役割のようだ。舞台は現代(コロナ以前)のようだが、ミカエラだけが過去からワープした女性のようだ。舞台を見て見よう。


これは1幕の冒頭の衛兵(警官隊)の場面、このオペラではこのコンサートの警備をしているように見える。左はしが追っかけを排除している警官。
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この場面がこのオペラのハイライト、ハバネラを歌うカルメン。鉄骨で組まれた舞台の上にカルメンとフラスキータらが乗り、歌う。ここでのカルメンの声は音響的に操作されたのかと思うほど、妖艶でセクシーである。i26gLuu3ReyoItsjkaHp7cxulq29r1hY1548Szmj8tdcgMeUiDqkSJJKfz2u1ELs

カルメンハバネラ2
同じくハバネラの場面


2幕のリリャスパスチャの場面。ここはけだるさがでて、なかなかよくできた舞台である。舞台全体は鉄骨で囲まれている。下の写真
カルメン2幕リリャスパスチャ


2幕の幕切れの5重唱
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3幕、カルメンの舞台の楽屋裏、麻薬と酒に身を崩して若死にしたワインハウスをイメージしているのだろう。xBa9UHejarLQHdpZBdGh4pOx0X7RkzpXAZNgZlY4mGmGouAB2IFAER2jGdPPNdlU


4幕は闘牛場の前ではなく、映画祭の様相、手前のレッドカーペットを映画スター(?)たちがポーズを取りながら通る。群衆が写メをとったり、サインを求めたりする。音楽との違和感は最高潮だ。

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4幕、エスカミリオは闘牛士に扮して登場。ここは一貫性がないように感じる。最後で帳尻合わせだろうか?
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 このいくつかの写真を見ただけで大体見当がつくと思う。しかしこの映像で見るほど不自然さはなく、全体にはうまく、アレンジしている。読み替えとしては上等の部類ではあるまいか?特に歌詞を気にしないで(字幕を見ないで)、舞台だけを見ているだけだと、芝居としてはうまく流れているように感じた。
 よかったのは、ハバネラの場面、大きな画面にカルメンが映し出され、手前の舞台はリアルにカルメンが歌っている。そのねっとりとした、少し重め、甘ったるい声はマリリン・モンローのハッピーバースデーみたいに聞こえる。このハバネラは相当なパンチだ。オペラのヒロインの登場シーンとしては効果的である。これを聴いて、ぞくぞくしなけりゃ男じゃない。
 リリャスパスチャの場面も雰囲気がなかなかでていてよかった。ここはロックの舞台との整合性はあまりないように思った。この場面も含めて群衆シーンは総じてうまくさばいていて、わかりやすかった。(1幕、4幕を含めて)

 とはいえ、結局、歌詞と舞台の乖離はどうしても全体の印象としてしっくりこなかった。オリエのプロダクションノートを見ていると不思議なことに音楽の事には全く触れていない。ビゼーと云う言葉が出てこない。おそらくそれがしっくりこなさの原因であろうかと思う。
 つまり、この演出家は音楽(歌)にあまり関心がないように感じた。例えば、必ずカルメンだとオペラコミック版とかギローのグランドオペラ版とか版についての言及があるはずだがそれも無視。(後段の岸氏の解説で、折衷版ということに触れている。)

 さて、音楽だが、まず大野の作る音楽は素晴らしい。それはビゼーの持つ音楽の力がはっきりと聴き手に伝わるからである。よく、歌い手に寄り添う指揮、などと云うことを言われるが、ここではそのレベルではなく歌い手とオーケストラと一体になっているといって良い。いくつかの有名な歌やオーケストラだけの部分、そのどこの部分も、ビゼーに対する共感が息づいていて、これがあったればこそ、この読み替え演出に負けない音楽となったと思う。別な言い方をすれば、ビゼーの音楽は、いかなる舞台に遭遇しようと、われ関せず、ビゼーの音楽はビゼーの音楽で、生半可な演出を蹴散らすほど強烈だということだ。演奏時間は152分。

 ついで、歌い手について触れよう。
 カルメンのステファニー・ドゥストラックはレパートリーを見ると、バロックオペラが多い。このカルメンは初役ではないにしても、メインレパートリーではないのかもしれない。しかしこの少々重めのねっとりとした声は、カルメンの一面を十分表している。何度も述べているように彼女の歌うハバネラは彼女の、そして演出家のイメージしたカルメンに違いあるまい。
 ただ、セギディリアではもう少し高音が伸びるといいなあとも思った。ただし2幕以降は、高音が次第にのびやかになってくるが、逆に次第にねっとり感がなくなって、たとえば、かるたの歌など、だんだん穏やかなカルメンになってきたのは気のせいだろうか?
 最近のオペラ歌手は大変だ、歌はもちろん、芝居もできなくてはだめだし、容姿もそこそこないと舞台が映えない。そういう意味では今日のカルメンは見事にバランスが取れている。とにかく、しつこいようだが、1幕のハバネラがじつに素晴らしく、今まであのようハバネラを聴いた事がない。今日のカルメンはあの1曲に尽きるだろう。

 村上は新国立では代役続きで気の毒だ。今回もミグラン・アカザニアンの代役であった。正直言ってこのドンホセは、私にはやっと歌えているという水準で、聴き手がドンホセに共感するような歌唱になっていないというところが不満である。例えば「花の歌」で彼の気持ちが聴き手に伝わったろうか?3幕の幕切れの未練が聴き手に伝わっただろうか?4幕の最終場の未練たらたらの歌は聴き手に感動をもたらしたかどうか?私はここではいつも、ドンホセに共感し、感動し、時には涙を流すのだが、今日はそういうことはなかったのは残念だった。もしかしたら、この舞台に戸惑っていたのかもしれない。

 ミカエラはもう少し清純な美しさを声で聴かせてほしい。このオペラの演出では唯一異次元な存在なのだから、もうすこし、存在感が欲しい。

 麻薬ディーラー(山賊)の4人組は、まずまずのでき。特にレメンダートとメルセデスが印象に残る。2幕のカルメンをまじえた5重唱は好きなだけに、とてもよかった。

 エスカミリオは2幕の「闘牛士の歌」は少々乱暴ではなかったろうか?勝手に崩して歌っているように聴こえた。ここはきちんと歌ってほしい。3幕のホセとの決闘シーンは良かったが!
 スニガの妻屋は安定した歌唱で安心して聴いていられるが、いつも芝居がうまいと思えないのが不満だ。

 歌だけでいうと、先日聴いた藤原歌劇団の「蝶々夫人」のほうが、全体にバランスがよく、歌手間のむらがなく、完成度が高いように思った。インターナショナルな混合舞台を短期でまとめる難しさ、まったくの新演出をまとめる難しさを感じた。しかしこの制限の中、まったくの新演出にチャレンジした新国立劇場のスタッフのみなさんに、拍手をしたい。