13日の日曜日、NHKのプレミアムシアターでコルンゴルトのバイエルン国立劇場の公演が放映された。録画して翌日見たが、その印象記である。(2019年12月1日、6日)
死の都
(すでにDVDで販売)
 「死の都」は懐かしいオペラだ。というのは2014年(3月21日に鑑賞)に新国立劇場での公演を見たからである。おそらく新国立でも初めて、もちろん私も初めてだった。
 コルンゴルトはこの作品を23歳のときに初演したそうで、ウイーンで60回も演奏されたそうだが、コルンゴルトがユダヤ人であることから演奏禁止になり、そのまま忘れられたオペラとなった。コルンゴルトはその後アメリカにわたり、ハリウッドで大成功をする。それゆえ、彼は母国オーストリア(正確にはモラヴィア)よりも、アメリカでの方が有名なのである。しかし戦後「死の都」は復活して、オペラハウスのレパートリーに加わる。

 さて、2014年当時、初めてのオペラだから勉強しなくてはいけないが、そのとき目に飛び込んだのは2010年のフィンランド国立歌劇場の公演のDVDである。

 新国立の公演はこのフィンランドの公演の引っ越し公演のようなものである。歌い手以外はほとんど同一である。早速何日もこのDVD を見続けて、なんとかものにした想い出があるのだ。だから私の頭には、フィンランドの公演がしっかりと刷り込まれている。しかもフィンランドの2010年の公演のパウルはフォークトがそして、マリエッタはカミラ・ニールンドが歌っているという強力バージョンだ。

 だからこのバイエルンの公演を最初聴いたとき、とても違和感があり、なんだこりゃ別の音楽だなあと思ったものだった。しかし気を取り直して、2010年のフィンランドの公演と今回のバイエルンの公演と再度聞き直したのである。そこで少しわかってきたことがある。つまり、音楽つくりの差が、印象の差になっているということである。なおバイエルンの公演ではパウルはカウフマン、そしてマリエッタはマルリス・ペーターゼンが歌っている。指揮はキリル・ペトレンコである。
 フィンランド版を聴くとまず感じるのは、この甘く美しい音楽をストレートに聴かせているということである。(指揮はミッコ・フランク)。このオペラはリヒャルト・シュトラウスとプッチーニを掛け合わせたような音楽だという評価も散見するが、あえて言えばミッコ・フランクはこの音楽のプッチーニ的な部分を強調しているように感じた。しかしそれは2010年の時には全く思ったことではなく、今回のバイエルンの公演を聴いたからこそ感じられたものだ。

例えばこのオペラで最も印象的な歌は1幕のマリエッタの歌「この身にとどまるしあわせよ~」だがフィンランドではニールンドはまるでイタリアオペラのアリアのように、すっくと立ってその部分が切り取られたように歌う。しかしバイエルンのペーターゼンはカラオケマイクを持ち、まるで小唄でも口ずさむように歌う。下の画像がそのシーンだ。
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そうそれは「わがままで、うぬぼれが強く、傲慢だが、常に愛想がよく、情熱的で官能的な気性」そう、それはト書きにあるマリエッタの性格そのもの、それをペーターゼンの歌唱は感じさせる。まるでシュトラウスの楽劇の中のサロメやツエルビネッタが歌うように!そうバイエルン版はシュトラウス色が強いように感じるのだ。

 そして、全体にも例えば歌い手の動きなど、フィンランド版は「静」をバイエルン版は「動」を感じさせる音楽運びなのである。このマリエッタの歌を、パウルが「沈んだ憂いも忍び寄る~」とつなぐがそれもフォークトの方は比較的淡々と歌うに対して、カウフマンはより悲劇性が強い。さらに3幕にもこの旋律が出てくる。「この身にとどまる幸せよ~」とパウルが繰り返すが、ここでも静と動が明かである。達観したようなフォークトとまだ心にもやもやと霧がかかるカウフマン。

 パウルの比較を論じたがマリエッタの比較も面白い。先に述べたようにペーターゼンの造形はト書き通りのマリエッタであるが、ニールンドはそこまで達していない。むしろほのかに匂い立つ気品のようなものを感じる。それはフィンランド版の演出ではマリーを俳優(黙役)が演じており、特に1幕の最後の部分(6場)、マリーの声がバックステージから聞こえる場面での、マリー役の気品のある演技は、いくらパウルがマリエッタの肉体に溺れたとはいえ、無視できないからだと思う。つまりマリーとマリエッタとは一対なのであるからこの舞台のマリーの造形を無視できないということであろう。それがニールンドの歌唱になっているような気がしてならない。とにかくこの黙役は素晴らしく、ほろりとさせられてしまう。


 バイエルン版のマリーとマリエッタは同一人物が演じており(ペーターゼン)、これも1対であるがゆえに、マリーとマリエッタの性格の相似性のようなものを感じさせる。ただしここではマリエッタの性格が優勢になっているのだろう。
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カウフマンとペーターゼン(ここでは髪がなくマリー)バイエルン版

演出や指揮者の音楽つくりが舞台に大きく影響しているのをこのように目の当たりにすると、この2つのバージョンは今後も私の「死の都」像を支配してゆくことだろう。

 さてすこしバイエルン版の各論に入ると歌い手は演出や指揮者に応えている。特にマリエッタの造形はト書きの実現化と云う意味では完璧である。声もそれに呼応している。
 カウフマンのパウルはいつもの弱音でのファルセット的な歌い方があまり出ていなくて、心に深い悲しみを負いながら、肉欲に溺れるパウルを好演している。フォークトとはまるで違うパウルだがこれはこれで説得力がある。ただ時折ファルセットが出るのは気色が悪い。例えば3幕の「この身にとどまる幸せよ~」のなかでLeben trenntと歌う部分はその癖が出ている。しかしこれは例外的だ。全体としてはとても立派だった。
 
 忘れてはいけないのはペトレンコの指揮である。結局彼がこの公演の全体の構造を支配したといっても過言ではない。たとえばパウルが夢想の世界に入り込む第2幕。その冒頭の前奏の部分の激しい音楽は、リヒャルト・シュトラウスの楽劇だといわれても、疑えないほどの激烈なものである。そしていかなる甘美な音楽にも決して酔わずに、ドラマに組み込んでゆく、音楽つくりはこの「死の国」というオペラに新風を吹き込んだといって良いだろう。

 演出のサイモンストーンはこの舞台を20世紀に移している。その時代を感じるのはゴダールやアントニオーニの映画の例えば「気違いピエロ」や「欲望」などのポスターがバックに配されていることか
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からもわかる。これ(↑)はポスターと同じ演技だ。なお、マリエッタの歌の場面でもこのポスターが出てくる。(二幕のマリエッタの居室で。)
 舞台装置は舞台上に直方体の建物があり、それが3分割されて、1幕はパウルの家、2幕はマリエッタの家を描いている。フィンランドに比べるとかなり具象的でわかりやすい。(↓))
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バイエルン版舞台(2幕のマリエッタの家)

 なお、この映像は7月にDVDとして発売される。フィンランド版と合わせてみることをお勧めする。私にはフォークトとニールンドの歌唱が忘れられないからだ。