2021年6月12日(於:日生劇場)
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昨年の11月の「メリー・ウイドウ」以来の日生劇場である。

 今年は6月にパレルモ・マッシモ劇場が来て「ボエーム」を演じるはずだったが、これが来年に延期になり、本日の「ラ・ボーエーム」はとても楽しみな公演だった。

 当日確認のため、ホームページをチェックしたら、あちゃー、日本語公演だった。原語公演と云うのが一般的になってから、まだ1世紀もたっていないので、はるか東の国の1オペラファンが日本語公演についてうんぬんかんのんいっても詮無いことかもしれないが、やはり今日の公演がほとんど原語公演になっている中での日本語公演というのは私には奇異に感じる。
 日本語公演の目的は、オペラになじみにない方々をオペラに惹きつけるための一つの方策らしいが、果たして現実にそうなっているのか?(今回のこの公演は全国6公演の予定)
 例を挙げると、本公演でも日本語で歌いながら、日本語字幕付きである。これはどういうことなのだろうか?要するに日本語で歌っても、すべて聞きとれるわけではないということであろう。私の印象では半分くらいは聞きとれない。レチタティーボやせりふ的な部分はほとんど聞きとれるが、アリアなどはまず何言っているのかさっぱりわからないから字幕を見ることになる。これなら原語で演じても変わらないのではないかと思うのだが、それでも日本語公演にこだわるのは、何か強い信念があるのだろうと推察する。
 細かいところだが日本語に訳す難しさも改めて感じる。イタリア語で書かれた、それもプッチーニが推敲を重ねた台本を、日本語に訳して違和感なく歌わせるのは相当な困難を伴っただろうと拝察する。字幕を見ていてもその苦労がしのばれるが、しかし、たとえばムゼッタが2幕で足のつま先が痛いと訴える場面「AL PIE」と泣きまねをするが、日本語訳が「アンヨ」と云うのにはびっくり。歌手も歌っていて笑ってしまうのではないだろうか?しかし今日は真面目に歌っていたが!

 さて、それはさておき、今日の公演の歌い手はそれぞれ水準の高い歌唱を聴かせてくれて、そういう意味では「ラ・ボエーム」を楽しませてもらったのは間違いない。
ミミ:安藤赴美子、 ロドルフォ:宮里直樹、 ムゼッタ:横前奈緒、マルチェッロ:今井俊輔
ショナール:北川辰彦、 コッリーネ:デニス・ビシュニャ、 ベノア:清水宏樹、 
アルチンドロ:小林由起、パルピニョール:工藤翔陽、いずれも藤原歌劇団や二期会の精鋭である。
(なお、ダブルキャストで東京では2公演のみ)

 最も素晴らしい歌唱と感じたのは、安藤のミミである。彼女は新国立などでも蝶々さんを歌ったりしている、実力者であるが、私には大ホールで歌うと、少し声量が物足りないところがあって、いつも少し不満が残るのだが、今日は器が小さいホールと云うこともあって、そのきめ細やかな感情表現が、歌唱の隅々まで行き届いており聴き応えがあった。特に悲しみをたたえた3幕、4幕の歌唱は心に残る。ただ2幕の最後、階段で歌う2重唱は最後が声が伸び切らず不満を残した。こういうところで、しっかりと声を作れれば、超一流だろう。

 これに対して宮里のロドルフォは屈託のないもの。そののびやかな張りのある声は魅力だ。しかし私のような年寄りには、ここまで大声で歌うことはなかろうと思えてしまう。それゆえ安藤との2幕の2重唱はバランスが悪くかみ合わない。
 さらに、あえて言えば3,4幕のミミの悲しみの歌唱に対して、このロドルフォにとってはこれで一つの恋が終わったという、さっぱり感が感じられ、少々物足りない。

 マルチェッロの今井は「トスカ」のスカルピアが今でも忘れられない。あれほどぬめっとした、いやらしいスカルピアはお目にかかったことがない。マルチェッロはそういう複雑な表現は要求されていない役柄だと思うが、例えば2幕でムゼッタの誘惑に屈する場面、その燃え上がる恋情は決してあけっぴろげにならないところは、いかにも今井らしいが、そこが物足りないところでもある。ここは爆発してほしいところだ。

 その他男声陣ではショナールの北川がその軽妙な歌唱で、ショナールの性格を表現していて印象に残った。コッリーネのビシュニャはウクライナ人で、達者な日本語ばかりが耳に残った。ウクライナ人にとってはイタリア語も、日本語も外国語には違いないが!

 ムゼッタは出だしは少々固かったが、ほぐれてくると、次第にその透明でのびやかな声が聴き手を魅了する。ただこのムゼッタの歌唱は立派だが、はたしてどういう人物像なのか?そこが見えない。コケットなムゼッタ、蓮っ葉なムゼッタ、妖艶なムゼッタ、彼女の表現したいのはどれか?真水のような優等生の歌唱だが、突き抜けて欲しい。

 指揮はもう日生や藤原の座付き指揮者のような園田隆一郎。今日は弦楽部が少ない編成だったのか、木管やらハープやら個々の楽器がやけに目立って聞こえたのが印象的だった。4幕の幕切れでロドルフォが泣き伏して、幕が降りるまでの間がやけに長くて、少々間延びしたのが残念。泣くタイミングを逸してしまった。管弦楽は新日本フィルだった。

 演出は伊香修吾である。1幕の舞台はロドルフォたちの屋根裏部屋、左手には広いガラス窓。正面右奥にはドアがある。中央にはソファベッドのようなものが置いてある。テーブルなどもあり、ト書きに近い舞台装置。違うのはそこにはもうミミが横になっていることだ。そして音楽はにぎやかに始まるのではなく、静かに1幕の幕切れの2重唱の旋律が奏され幕が開く、やがて、本来の音楽が始まる。こういう音楽のいじりはどうも気に入らないが、演出家の趣味なのだろう。更に奇妙なことにミミはずっとこの部屋にいて、ロドルフォやマルチェッロに交じって演技をしている。ロドルフォが仲間を見送ると、もうミミが部屋で待っているという寸法だ。
 4幕も一緒で冒頭からミミはソファに横になっていて、ロドルフォとマルチェッロのやり取りを聴いている。やがてムゼッタも加わるが、ロドルフォたちには見えない。ミミも一緒に踊ったり、乱痴気騒ぎを眺めたりしている。まあそういうところが変わったところ。私のような老人には普通にやればよいのにと、逆に演出家に同情してしまうが!

 つまらないのは2幕3幕である。あのゼッフィレッリのような素晴らしい舞台は期待できない。要するに省エネ舞台装置で、2幕3幕も基本は屋根裏部屋と同じ構造になっている。たとえば2幕はもう群衆シーンなどはなく、屋根裏部屋がカフェモミュスの情景、テーブルがいくつかあるや照明で1幕との違いを出している。群衆の声は左の大きな窓(バックステージ)から聞こえてくる。そしてなんとムゼッタとアルチンドロはその窓から入ってくる。3幕も同様屋根裏部屋である。少々加工はしていて、マルチェッロが働いている居酒屋風にしているが、またまたなんとだが最後は天井から雪が降ってくる。
 しつこいようだが、張りぼてでもよいから、群衆シーンは見たいところだった。

 プッチーニのボエームにしても蝶々さんにしても、最後はいつも泣いてしまうのだが、例えばボエームの3幕の別れの場面、4幕のミミの死の場面。プッチーニの嫌いな人は、たまらなく嫌な場面だろうが、好きな人にはこたえられない場面だ。残念ながら今日は涙腺が緩まなかったのは残念。


 日生劇場はおそらく、在京の劇場ではもっともコロナ対策がきちんとしてるところだろう。動線の工夫や消毒、会場整理などすべてにわたって手抜きをしない。例えばロビーやホール内での会話を慎んでというボードを作って、会場内だけでなく、ロビーの中も巡回する丁寧さ。もっともそのボードの前で堂々としゃべくっているご婦人も散見されので、ちょっとあきれてしまうが?劇場側の緊張感に対して、来場者は少々緩んでいるような印象
 帰路、丸の内の仲通を歩いたが、歩道上のテラスやカフェで多くの人が談笑しており、通常の週末と変わらない光景だったのには、緊急事態宣言下というのはどういうことかと疑問に思った。

 なお、ボエームのおすすめCDは以下の通り
 セラフィン盤(1958年)テバルディ/ベルゴンツィ(おそらく廃盤)
 4988005378972

 カラヤン盤 (1973年)フレーニ/パヴァロッティ
 028942104921

 シャイー盤 (1998年)ゲオルギュー/アラーニャ
 028947834526