ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

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待望久しいワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の公演である。3月17日、新国立劇場にて聴いた。
  かつてワグネリアンのかたがたと酒席でワーグナーの一押し作品は何かという話題で盛り上がったことがあった。私はそのころ「トリスタンとイゾルデ」への興味が薄れ、むしろリングへの傾倒が激しかったので、リングと云おうと思っていたら、口ではつい「トリスタンとイゾルデ」言ってしまった。

  その時を思い、今日久しぶりにこの楽劇を聴いて改めてこの作品の素晴らしさを痛感した。人間の愛の極限を描いた音楽でこれほどのものはかつてあったろうか?今すぐと云われて思い浮かぶのは「カルメン」くらいしかない。
  この媚薬によって、愛を深められた二人の欲望は死ぬまで激しく続く、その喜びと苦しみ。その苦しみはオランダ人やクンドリーにかけられた呪いに匹敵するものだろう。それを音化したワーグナーの異常な才能は筆舌尽くしがたい。特に2幕の2場の部分の音楽は、いかなる凡百の演奏であろうが、聴き手を異様な世界に引きずり込むのである。
  かくいう私も1幕の前奏曲からその魔手につかまった一人で、大変疲れたが、久しぶりに聴いたこの曲は、多いなる感動をもたらした。

  さて、この新国立劇場のデヴィッド・マクヴィカーのプロダクションの初演は新国立の2011年の1月10日に聴いている。この演出は妙な読み替えがほとんどない。一言でいえば象徴主義と云うべきか?私は見ていないが、写真などを見ていると、バイロイトの戦後の新バイロイト様式にも通じるものがあると思った。
  舞台の中空を移動する赤くなったり白くなったりする太陽、スケルトンのみの帆船、舞台の中央にそびえたつモニュメントなどがセットでは目につくが、それは具体的なものはほとんど語っていないが、音楽や物語の進行手助けになっていることはいえよう。
  最初にこの演出を見たときに、バイロイトや欧州での現代への読み替え演出の難解さに癖癖していた私にとっては干天の慈雨のような舞台だとおもった。

  2008年にパリオペラ座のトリスタンの引っ越し公演の演出でびっくりしたのを皮切りに、トリスタンではないが2008年にバイロイト詣出をして「ニーベルンクの指輪」全曲の舞台に接し、欧州の演出には全くついて行けないと悲憤慷慨したものだったが、このマクヴィカーの演出ではそういう気持ちを落ち着かせてくれたのは間違いあるまい。
  話は変わるが2016年9月18日の二期会の公演の「トリスタンとイゾルデ」はウィリー・デッカーの演出だったが、これもあまり妙な読み替えはなく美しい舞台が印象的だった。特に2幕の小舟の上での愛の語らいは実に幻想的で、これも一種の象徴主義的な演出だったかもしれない。デッカーも多分イギリス人だから、大陸とイギリスとでは演出思想がかなり違うということだろうか?

  さて、マクヴィカーの演出や装置については2011年のブログにも書いたので詳しくは書かない。しかし今回改めてみて2幕の最初のブランゲーネの警告の場面の美しさには圧倒されてしまった。
舞台右手から左手に露台のように軽く登っていて、その中腹に大きなモニュメントがある、これはただの棒のようなものである。それに紐のようなものがちょうど土星の円環のように、まわっている。そしてこのクライマックスになるとそれが明るく輝くのだ。モニュメントの右手にはブランゲーネ、モニュメントの足元の自然のベンチには恋人たち。ため息が出る美しさ。いまのバイロイトではこの陶酔感は全く感じられない演出である。2015年のバイロイトの映像を時々見直すが見るたびに無機的な舞台にがっくり来る。

  もう一つ演出で付け加えるとイゾルデの死の場面である。2015年のバイロイトではイゾルデは連れ去られて終わるが、そのほかの演出でもイゾルデはなんだかわからないが死んでしまう。しかしマクヴィカーの演出では前にも書いたが入水するのだ。
  彼女は愛の死を歌い上げた後、トリスタンを「横目」で見て(後ろ髪をひかれるように)、左手にある大きな円(赤い)に向かって進む。そこは真っ暗な海を暗示している。そこで幕。私の気にいっている幕切れだ。今日見て感じたのはウォータンがブリュンヒルデと別れる場面(ワルキューレ第3幕、幕切れ)に通じる感動だ。

  この演出を12年もお蔵入りしていたのは、音楽監督の責任だろうが、今の新国立ではワーグナーと云えば「タンホイザー」くらいしか思い浮かばないのが残念だ。パルジファルもお蔵入りだし、誠に残念だ。

  さて、演出や恨みつらみはおいておいて、今回最もびっくりしたのは指揮者の大野の造形した音楽の変貌である。
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会場で配られた上演時間は14時に始まって19時25分に終わるというもの。具体的には次のようになる。
1幕:85分、休憩45分、2幕:70分、休憩45分、3幕:80分(演奏時間235分)

  しかし実際は次のようである。
1幕:79分、2幕65分、3幕73分(演奏時間217分)

  そして大野が指揮した2011年の初演の時の演奏時間は以下のとおりである。
1幕、80分、2幕85分、3幕、80分(演奏時間は245分)

  会場の資料との差、2011年との差はとても大きい。2011年との差は28分もあるのだ。
  参考までにいくつかの公演やレコーディングの演奏時間を列記してみよう。
フルトヴェングラー、1952年 253分(スタジオ録音)
ベーム、      1967年 218分(ライブ録音)
クライバー     1980年 227分(スタジオ録音)
バーンスタイン   1981年 265分(演奏会形式録音)
ショルティ     1961年 239分(スタジオ録音)
チョン・ミョン・フン2013年 213分(演奏会景色ライブ、11/23)
カンブルラン    2015年 230分(演奏会形式ライブ、9/13)
ティーレマン    2004年 235分(ウイーンライブ録音)
ティーレマン    2015年 240分(バイロイトライブDVD)
  さて、この時間を比較すると大野の演奏時間の異様さがわかる、12年の間にほぼ最長演奏と最短演奏を行っているのである。ティーレマンのように10年たってもほとんど演奏時間が変わらない指揮者もいるが、果たしていかなる背景でこのような演奏時間時間の変化が起きたのか?

  まあ結果良ければみんなよしだ。2011年のブログで大野の演奏を評価したものの、正直申し上げてその冗長さは、部分的には辛いものがあった。だから大野さんもう少し短く演奏してねと今回は祈ったものだが、どうも私の念じたことが通じたようだ。

  さて、今日のキャストは以下の通り
指揮:大野和士
演出;デイヴィッド・マクヴィカー
トリスタン:ゾルターン・ニャリ(トリステンケールの代役、ブルガリア人)
イゾルデ:リエネ・キンチャ(ラトヴィア人)
マルケ王:ヴィルヘルム・シュヴィングハマー
クルヴェナール:エギリス・シリンス
ブランゲーネ:藤村美穂子
メロート:秋谷直之
牧童:青地英幸
かじ取り:駒田敏章
若い船乗りの声:村上公太

合唱:新国立劇場合唱団
管弦楽:東京都交響楽団

  さて、元に戻そう。1楽章の前奏曲の音楽進行を聴いて、冗長さは全くなく、特に後半部分の畳み込むような、激しい音楽は舞台大いに期待させた。媚薬を飲んだ後から幕切れまでの一気呵成振りは手に汗握る。
  2幕の警告の場面は上記の通り。今日一番の総合的な感動を与えた部分。2幕のトリスタンが自死する前の静かな音楽、歌手の諦観のようなものと、音楽とが一致して素晴らしかった。
  2011年の演奏は今はほとんど覚えていないが、今回の演奏の締まり方は尋常ではなく、これは大野自身の変化と見たい。ただ2011年はトリスタンは今は亡きその当時1級品のステファン・グールードがトリスタンを歌い、イゾルデもバイロイト常連のイレーネ・テオリンが歌っていた。今回はトリスタンはトリステン・ケールの代役、ということで2011年のテンポでは歌手が持たないと思ったのか?大野が非常に丁寧にトリスタンに合わせて音楽を進めていたのが印象的だったので、そのように想像した次第。

  さて、歌い手である、2011年のバイロイト級の歌手と比べて主役の二人は少々軽量である。特にトリスタンはそうだが、しかし彼は私たちが今まで持ってきている、バイロイトやら伝統的なトリスタンとは随分と違う印象を持っていて、それはそれで印象的だった。
  一つはこのトリスタンはおっさんぽくないのがいい。若々しいトリスタン、いいじゃないか!好きな場面は1幕のトリスタンの登場シーン、2幕のマルケのモノローグの後から自死までの歌、良かった。ただ3幕の長大なモノローグになると少々だれてきて、聴き手の集中が続かない(私の事)

  イゾルデのキンチャのほうがワグナー歌いの雰囲気を持っていて、聴いていて彼女がリードしているように感じた。1幕の幕切れや2幕の警告の場面などはそういう面で素晴らしい歌唱だった。ただ肝心の3幕の「愛の死」の場面は今一つ集中力を欠いたような印象だった。ちょっとほっとしたのだろうか?主役の二人にブーイングらしきものが飛んだが、2011年の歌手を思ってのことだろう。気持ちは分かるがブーイングを飛ばすほどではないだろう。

  脇ではシリンスのクルベナールが素晴らしい。このレベルの歌唱になるとワーグナーはこうでなくちゃと思ってしまう。藤村のブランゲーネも同様。臈長けたブランゲーネを好唱。2幕の警告の場面を盛り上げていた。ただ私は2011年のエレーナ・ツィトコーワの小悪魔のような小間使いの方がこの演出にあっていたような気がして、懐かしく思った。
  シリンスと藤村は盛大な拍手とブラボーをもらっていた。

  マルケ王は唯一のドイツ人のようだ。2011年はよたよたの老人役でどうかと思ったが、今回は衣装はそうでも、元気な若い声なので、演出との齟齬を感じた。日本人の脇は皆安定していて安心。

  都響は前奏曲から厚みのあるサウンドで立派なワーグナーだった。前から6番目の席だった。
                                         〆


  

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東フィルの定期、サントリーホールで聴いた(3月15日)
プログラムとキャストは以下の通り。

指揮:アンドレア・バッティストーニ
ソプラノ:ヴィットリアーナ・アミーチス
カウンターテナー:弥勒忠史
バリトン:ミケーレ・パッティ
合唱:新国立劇場合唱団
児童合唱:世田谷ジュニア合唱団

  レスピーギ:リュートのための古風な舞曲とアリア、第二組曲

  オルフ:世俗カンタータ「カルミナ・ブラーナ」

  現代作曲家の2作品、いずれも12音階などの難解なものでなく、耳に優しい、形式としてはバロックやそれ以前の形式を感じる音楽からなるプログラムである。

  レスピーギは初めて聴く曲だ。レスピーギと云うと「ローマ三部作」くらいしか聴かないが、こういう名曲もあるのだと教えられた。聴いているとルネサンス時代の貴族の豪邸で音楽を聴いている気分。ところどころ鋭く響く場面が、20世紀の作品だと知らしめる。バッティストーニは力は全く入らない自然体の音楽進行。実に気持ちの良い音楽だった。

  これに反してオルフのカルミナ・ブラーナは聴き映え、演奏映えがするのか、過去多くのオーケストラで聴いている。
  最近では2019年9月15日のバッティストーニと熊川哲也とのコラボで、この曲は本来バレエとの組み合わせの曲だったらしいが、それを復元、まあとはならず、熊川流のアレンジでちょっとがっかりだが、バレエ版の片りんに接したことは良い体験だった。その時のバッティストーニはどうだったか? 正直バレエの筋を追うのに忙しく、ちょっと気を削がれて音楽まであまりゆかなかった。

  そのほか2010年飯森/東響、2013年3月29日小泉/都響、2021年1月23日ウルパンスキー/東響がこの10年の記録。曲についてや演奏については重複するのでその時のブログを参照願いたいが、いずれも熱演でこの名曲を楽しむのに過不足のない演奏だった。

  ただこの音楽の詩は中世に書かれたもの、貧しい学生や修道士などの書いたもの、それが修道院に埋もれ何百年後に発見された。したがってこの詩の背景を見過ごすことはできないだろう。多分書かれたのは中世であり人々は精神的にはキリスト教に、日常の生活では封建社会の最下層で厳しいを生活しいられていたのに違いあるまい。そのなかでの愛の歌、酒の歌、そして人の運命の流転の歌などが書かれた。
  これは公表できるものではなく、だから埋もれた。この時代、精神的にも、生活面でも、人々は「たが」にはめられていた、しかしこのボイエルン修道院で発見された詩集には、その「たが」がはずされた民衆の姿が描かれている。そうだからおそらく埋もれたのだ。「ばらの名前」のアリストテレスのように。

  オルフはそれに曲をつけたわけだが、今日(こんにち)の演奏ではこの「たが」について意識させる演奏は皆無に近い。「たが」がはずされたその姿がおおらかに描かれる、そういう演奏がほとんどだ。だから指揮者は時に、歌い手や合唱団につまらん小芝居をさせたりするのだろう。

  私の過去のブログを読むとわずかに小泉/都響の演奏がその「たが」感じさせると書いていたが、もうどういう演奏かは何も覚えていない。

  過去のレコーディングで見ると1967年のヨッフム/ベルリンドイツオペラの演奏がこの「たが」を強く感じさせる演奏だ。多くの専門家もこの録音をこの曲のベスト盤と云っているのはそういうところにあるのだろう。
  例えば第1曲目の「おお 運命よ~」に続く「満ち足り欠けたり~」部分の合唱とオーケストラの地を這うような響きにはそういう「たが」を感じることができる。バッティストーニの演奏はそういうドイツ音楽の持つどろんとしたような、悪く言えばいやらしさはなく、健康的な音楽の進行がある。
  バッティストーニ流演奏は、あまたあるが、さて、ヨッフム流と云うと私の聴いた限りでは、ティーレマン/ベルリンドイツオペラの演奏くらいだろう。

  まあ余談ばかりだが、しかしこのバッティストーニの演奏は、このスタイルの中でも燦然と輝く名演奏といえよう。彼の演奏の一つの特徴は歌にある。なかでも合唱の取り扱いだ。今夜の演奏の合唱は70名もいない人数だが、それゆえと云っても良いかもしれないが、透明感が怖ろしく高い、静かな場面ではまるで教会の中で聴いているような気分にさせられる(私は二階席)。
  「15曲のキューピッドは飛び回る」での児童合唱の透明度もすばらしい。
  第1曲や2曲のいわゆるセリアの部分の盛り上がる部分も決してがなり立てることがなく、むしろ鋭くきりもみ状に音楽は突進してくる。またたとえば女性コーラスに独特のイントネーションを与えたり、バッティストーニ流に手を加えているようだ。

  合唱を含めて特に印象に残ったのは、ソプラノが加わった第3部である。ソプラノは「17曲、少女が立っていた」は声がまだとおらずさえなかったが、「21曲、秤にかけてみよう」や「23曲、愛しいあなた」はまるでオペラのアリアのようで、素晴らしい声を聴かせてくれた。そして合唱も加わった22曲から25曲までの充実感、大いに燃え上がった。

  バリトンは私の好みでは少し非力のように感じた。もう少し低音が欲しい。少々芝居っ気が多いのはこれも好みに合わない。弥勒の白鳥「12曲、昔は湖にいたものさ」は以前聴いたときよりずっと見事だ。演技はしているがあまり気にならず、歌は素直に歌われていて、印象は抜群だった。なお彼は修道僧のような服を着て、頭もそういうカットになっている。
  オーケストラの熱演もあり、終演後はブラボーの連発で大いに盛り上がったコンサートだった。
                                         以上

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先日ツタヤからレンタルした「WORTH・命の値段」と云うアメリカ映画を見ていたら、主役の弁護士役のマイケル・キートンが家人の寝静まっている部屋で、ヘッドフォンでオペラを聴いているシーンがあった。彼は9・11の賠償基金の管理委員長であった。重責に心身とも押しつぶされそうな主人公がしずかにヘッドフォンでオペラを聴く。
  なんとも素敵なシーンで、疲れのにじみ出たキートンの全身が、音楽を聴いていると、緩んでゆくように感じられた。彼がイタリアオペラが好きで、現代音楽は苦手と云うのは後に、被害者の一人(スタンリー・トゥッチが演じる)との会話でわかってくる。彼ら二人は友好的ではなかったが、プッチーニ好きということがわかり次第に打ち解けてゆく。
  音楽好きにとってはなんともいい場面で、よし私ヘッドフォンで深夜に音楽を聴いてみようと思い立った。いまの私の部屋は、隣室とも近く、深夜に音楽を聴くことはかなわない。たまににどうしても音楽を聴きたいことがあるのだが、ままならなかった。
  私はかつてかなり高級機のヘッドフォンを持っていたのだが、音が耳にへばりつくのが嫌さに使用を諦めた経緯があった。もう20年くらい前の話。

  そこでもう一度聴いてみようと思い立ったわけだ。世の中ワイヤレスの時代、私のオーディオ装置につなぐには有線でなくてはならないので、制約はあった。例えば私の愛機、B&Wのスピーカーと同じメーカーのヘッドフォンを探したが、カタログで見ても全部ワイヤレスで仕方なく他をあたってみた。AKGなど評判は良さそうだが、手間暇が面倒なので、私は昔使っていたォーディテクニカの中級機に決め打ちして、ATH-A900Z(映像参照)と云う機種にした。ビックカメラで2万円強のお値段。

  さて、早速いろいろ聴いてみた。当然ながら耳に振動板が装着されているようなものだから、音場は耳の周りになるのは仕方がない。ただ正しい装着とボリュームの設定で、音源によっては、眼前に音場が開けるのが体験もできることも分かった。
  例えば、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」ベーム指揮、バイロイトライブ1967年は、最初音量をかなり上げて聴いていたが、耳のそばでトリスタンやイゾルデが叫ぶのでちょっと困ったなと思って、ボリュームを通常のスピーカーで音楽を聴いているボリュームに落とすと、あれほど耳にへばりついていた音がほぐれてほぼ目の前(スピーカーで聴くとは違うが)に音場が広がったではないか?
2幕の2重唱など、最初はトリスタンとイゾルデは離れて歌っていたが、次第に二人は近づいて、舞台中央少々右のベンチ(確かウイーラント・ワーグナーの演出はそうなっていたように記憶している)にすわりクライマックスに向かう。そういう動きが鮮明に聴きとれる。

  また、比較的新しいクルレンティス/ムジカエテルナ盤によるモーツァルトの「コシファントゥッテ」はそうはいかない。音は頭の周りをぐるぐる回るようで慣れないとおかしくなりそうだが、これはこれで面白かった。何よりも古楽のぷちぷち切れるような音がクリアに録音されているのがよくわかるし、歌い手の歌唱もノン・ビブラートということがはっきり聴きとれる。全体に細部まで音楽が聴きとれて、まあ極端に言えば、このオペラを顕微鏡で覗き込んでいるというような音場体験である。これもちょっと音量を落とすと、全体に音楽が落ち着いてきて長時間聴きこめる。

  最近購入した、ブロムシュテットのベートーヴェンの旧盤(ドレスデン盤)で「英雄」を聴いたが、これもルカ教会の雰囲気を味わおうとすると、ボリューム設定にはひと工夫がいるが、程よい音量で聴くとスピーカーで聴く以上の鮮明度でベートーヴェンが迫ってくる(SACD盤)

  ヨッフムのシングルレイヤーの「カルミナブラーナ」もスピーカーで聴くと録音の古さが出て、ヴァイオリンが少々固いが、ヘッドフォンで適正なボリュームで聴くと、弦のしなやかさが気持ちよくなる。

  全体にこのヘッドフォンは、硬さと云うものをほとんど出さない。すべて滑らかにしてしまう。それは多分本来の音源とはちょっと違う加工された音かもしれないが、深夜静かに聴くには何の不足もありやせん。
  ビートルズの最高傑作「アビーロード」のボーカルの明晰さ、ビルエヴァンスのピアノの軽やかさ、いずれも古い音源だが、それをまったく感じさせない。これはまさに私のために深夜用(テクニカさんごめんんさい)に作られたヘッドフォンだ。決め打ち作戦大成功。多分エイジングが進めばもう少し高音の繊細感が出てくるし、低音も充実してくるのではあるまいか?

  なお使用アンプはアキュフェーズC-2810,CDプレーヤーはDP-700
                                        以上
                                          
  

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